2018年06月21日

きゃりこの戀(55) 連と聯

聯と連

きゃりこ:
 オスカー先生。日本人で誰が好き。歴史上の人物で。
オスカー:
 斷然、山本五十六がいいですね。
きやりこ:
 誰、それ。
オスカー:
 大東亞戰爭のときの聯合艦隊司令長官。
きやりこ:
 またまた、大東亞戰爭だなんて。
オスカー:
 「聯合」つて、何と何が聯合してるの。
きやりこ:
 そんなことあたしでも知ってるよ。太平洋戰爭のときなんだから、日本とドイツとイタリアでしょ。
オスカー:
 ぢやあ、三國同盟の聯合軍のトップに日本人がゐたわけ?
きやりこ:
 さう言はれれば何かへんだね。
オスカー:
 聯合艦隊は帝國海軍の最大の戰鬪單位だったの。まあ、第一艦隊とか第二艦隊とは、小さな艦隊を聯合させたものだと思つて下さい。
きやりこ:
 なんで「連合」でなく「聯合」なの?
オスカー:
 戰前はさう書いたの。
きやりこ:
 さうか。「聯」が正字で、「連」が略字なんだ。
オスカー:
 正字と略字にしちやあ、字形が違ひ過ぎませんか。
 「聯」と「連」は別字なの。ある先生の説によると、「聯」は平面的(二次元的)に四方八方から寄せ集め
ること。「連」は直線的(一次元的)に繋げることだと言ひます。
 「れんぞく」はまっすぐに繫がるから「連續」。「れんがふ艦隊」は日本中の艦隊を四方八方から集めるでしょ。だから、「聯合」なの。
 ぢやあ、「れん體形は?」
きやりこ:
 「體言」につらなる、といふ意味なんだから、「連體形」
オスカー:
 うんうん。流石はきやりこさんだ。
きやりこ:
 ふん。オスカー先生の好きなねねみたいに賢くはないんだよ。お世辭言ふな。
オスカー:
 ぢやあ、「れん想」は?
きやりこ:
 これも四方八方から集めるんだ。だから、「聯想」だ。それって、日本だけなの。それとも中國でもさうなつてゐるの?
オスカー:
 昔の中國でも、今の中國でも、「聯想」を使ひます。
 この前、中國人の女の子を紹介されたから、「看見你、聯想楊貴妃(リェンシアんダオ、ヤんグェフェイ)」と言つたら喜んでくれました。
きやりこ:
 なんとなく分かる。お世辭言つたの。
オスカー:
 漢文訓讀調で讀むと、「你(なんぢ)を見るに聯想して楊貴妃に到る」。
きやりこ:
 はいはい。御馳走さま。
posted by 國語問題協議會 at 22:37| Comment(0) | 市川浩

2018年06月11日

日本語ウォッチング(3)  織田多宇人

処方せん
常用漢字にないために平假名で書くため、をかしな表示が少くない。「處方せん」もその類だらう。「処方箋」と書くべきだが、2010年の改訂で「箋」の字は既に「常用漢字」になつてゐるが、藥局の看板は未だに「處方せん」のまゝになつてゐるのが大半だ。笑ひ事ではないが、これでは「処方しません」と言ふ意味になつてしまふ。2001年に「肢」は「常用漢字」になつたが、「上し」、「下し」と書かれてゐたこと長かつた。これでは全く意味が分からない。
「上肢・下肢」でなくてはならない。
「拏捕」も、「拏」が未だ「常用漢字」にはなつてゐないのだらう、「だ捕」と書かれてゐる場合が多い。本會のFB倶樂部で「被ばく事故から一年・日本原子力研究開發機構」のテロップに腹が立つとかいてゐる人がゐました。
昔のやうに極力漢字にして、ルビを振つた方が良い。昔の子供達はルビを振つた新聞や本を讀んで、自然に漢字を憶えて行つた。良い事は今からでも實施して欲しいものだ。
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posted by 國語問題協議會 at 10:03| Comment(0) | 織田多宇人

2018年06月04日

數學における言語(26) 日本語と哲学[U] 河田直樹

林秀彦氏は、平成11年に出版された『憎國心のすすめ』(成甲書房)といふ本で「かつて和辻哲郎も『日本語をもつて思索する哲学者よ、生まれいでよ』と、ほぼ絶叫に近い文體で書いた」と記されてゐますが、翌年出た長谷川三千子氏の『日本語の哲学へ』(ちくま新書)も、同じ言葉の引用から始まつてゐます。奇しくも、ほとんど同じ時期に全く接點のない二人の人物が同じやうなことを考へてゐたといふことですが、本連載のタイトルにもなつてゐる「日本語と數學」は少年時代から私の大きな關心事であり、哲學(philologia)と數學(mathematica)とは緊密に 境界線を接してゐると考へてゐる私にとつては、それは「日本語と哲學」の問題でもありました。
 長谷川氏の本は、多くの文獻からの博引傍證によつて詳細を極めたもので、特に後半の「ものとことの意味」の考察はまことに刺激的で、蒙を啓かれる思ひがします。しかし、私のやうな‘數學屋’にとつては、「日本語の哲学を目指す」こと自體が、そもそもよく理解できないことであり、なにか白々しく思はれ、和辻氏や林氏、それに長谷川氏のやうにそこまで力まずともよいのでは、とも考へてしまひます。といふのも、現代の日本の數學はやはり「古代希臘に始まつた西洋數學の受容によつて誕生してゐる」からで、これは否定しようもない嚴然たる事實です。
私にとつての「日本語と哲學の問題」は、もつと單純で素朴なものです。それは、日本語で書かれた(あるいは飜譯された)哲學書の言葉がときに意味不明で難しい、といふことです。勿論、私自身の語彙力の不足が一番の問題であり、哲學自體が元來、難解なのかもしれません。
しかしたとへば戰前の若者によつてよく讀まれたといふ西田幾多郎の『善の研究』を、高校1年の秋に讀み始めた私は、まづその冒頭部分の「經驗するといふのは事實其儘に知るの意である」といふところで躓いてしまいました。なぜなら、「知る」といふ言葉と「純粹經驗」とがそもそも矛盾するものに感じられ、西田がいつたいどういふ意味で「知る」を用ゐてゐるのか分らなかつたからです。また彼は第2章の終りの部分で「經驗は時間、空間、個人を知るが故に時間、空間、個人以上である」とも書いてゐますが、この場合の「知る」とはいつたいどういふ意味なのでせうか。また、私たちはしばしば「さうした方が合理的だ」とか「それは餘りに觀念的過ぎる」といつた言ひ方をしますが、實は私にはその「合理的」や「觀念的」といふ言葉の使ひ方もよく理解できません。「合理」はそもそもなにかと比較される概念なのでせうか。數學では「理」は「ratio(=比)」であり、「有理數(rational number)」といへば「整數比で表はされる數」、「無理數(irratinal number)」といへば「有理數でない數」と明快に定義されてゐて、「その數の方が有理的だ」といつた言ひ方はしません。また、「觀念」が「過ぎる」とは一體どういふことなのでせうか。私はどんなに觀念的であつても「觀念的過ぎる」ことはあり得ないし、それが惡いことだとも思つてゐません。私たちは「合理主義」と「便宜主義」とを、また「觀念的」と「空想的」とを混同してゐるのかもしれません。『日本人の思惟方法』(春秋社)の著者中村元は「第4章 非合理主義的傾向」の第1節を以下のやうに締め括つてゐます。「よく『日本人は紙上計畫のみで抽象論を述べるので困る』といふやうな批評が、日本人自身のなかからあらはれてゐる。しかしこのやうな批評は、じつは抽象性と空想性(非現實性)とを混同してゐるのであつて、このやうな批評の行はれること自體が、日本人のあいだに抽象的思惟といふものについて反省のないことを示してゐるのである」。
 まことに溜飲の下がる思ひのする的確な批判ですが、私たちはソクラテスがパイドロスに語つたやうに「ものの本性についての、空論にちかいまでの詳細な論議と、現實遊離と言はれるくらゐの廣遠な思索」とを懼れてはならないのではないのでせうか。「觀念的である」ことと「現實的である」こととは實は決して矛盾するものではないのです。
                   (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 15:05| Comment(0) | 河田直樹