2018年10月13日

日本語ウォッチング(6) 火事が起きた 織田多宇人

近頃は何でも「起きる」ことになつたやうだ。「火事が起きた」、「事件が起きる」と言つた調子。火事や事件がひとりで「起きる」わけではあるまいに、どうも耳障りである。「起きる」は目を覺ますこと、また横になつてゐる状態から立ち上がることが、もともとの意味で、主語は一般的に「人間か動物」。「起こる」は、病氣や災害などある状態・状況が發生するときに用ゐられて來て、主語は「出來事」。從つて「子供が早く起こる」等とは言へない。しかし、近頃はもともとは「起こる」と言うべき時に「起きる」を使う場合が大變多くなつて來てゐる。、
ただし、いまでも「起こる」しか使えない場合もある。たとえば、「サッカーブームが巻き起こる」や「拍手がわき起こる」などは、「巻き起きる」「わき起きる」とは言えない。また「国が(産業が)おきる」とは言はない。この場合は必ず「おこる(興る)」である。
posted by 國語問題協議會 at 15:35| Comment(0) | 織田多宇人

2018年10月05日

數學における言語(33)(34) 古代希臘の無限思想

古代希臘の無限思想(W)
 前回はパルメニデスと彼の弟子ゼノンについて觸れ、ソクラテスやプラトンがパルメニデスに並々ならぬ敬意を抱いていたことをお話ししましたが、アリストテレスもまたパルメニデスが相當氣になつていたやうで、『形而上學』(出隆譯)第1巻第3章には「すべてを一つであると言つた人々(一元論者)のうちには、誰ひとりとしてあの新たな種類の原因をもあはせ認めるに至つた者はない。ただわづかにその例外ともされさうなのはパルメニデスだけであらう」と述べてゐます。また第5章では、パルメニデスと同じエレア學派のクセノパネス(この人はパルメニデスの師とも言はれてゐる)やメリッソスの考へ方と比較して、「この二人のものは素朴すぎるが、しかしパルメニデスは、ときにいつそう深い洞察をもつて語つてゐるところもあるやうにみえる」とも書いてゐます。
 『形而上學』第1巻第5章の冒頭には、「『ピュタゴラスの徒』は、數學的諸學課の研究に着手した最初の人々であるが、かれらは、この研究をさらに進めるとともに、數學のなかで育つた人々なので、この數學の原理をさらにあらゆる存在の原理であると考へた(傍點河田)」とあり、私のような數學屋にとつてはまことに心躍らされる書き出しです。この章でパルメニデスが特異な哲學者として取り上げられてゐるのはまことに示唆的で、アリストテレスは、上で紹介した文に続いて「けだし數學の諸原理のうちでは、その自然において第一のものは數であり、そしてかれらは、かうした數のうちに、あの火や土や水などよりもいつそう多く存在するものや生成するものどもと類似した點のあるのが認められる、と思つた」と述べてゐます。前回私が「パルメニデスは世界のアルケーを物のレベルから觀念(思惟)のレベルに飛翔させた」と記したのは、このことを意味してゐます。要するに火、土、水といつた「物」から「數」という觀念への飛躍(ジャンプ)です。
 ところで、アリストテレスは『自然學』第3巻第6章でもパルメニデスに觸れ、「パルメニデスの方がメリッソスよりも正しく説いたものと考へねばならない」と述べてゐます。要するにメリッソスを低く見てゐたわけですが、私自身はメリッソスを、「あるまたはあらぬ」の哲學者たち(パルメニデス、ゼノン)と、「原子論」の創始者たち(レウキッポス、デモクリトス)とを繋ぐ結節點に位置する人物だと考へてゐます。
メリッソス(前480年頃〜前400年頃)は、ゼノン同様パルメニデスの弟子でエレア學派の最後の一人ですが、彼は政治家、軍人としても活躍したやうで、紀元前441年ペリクレス率ゐるアテナイの艦隊がサモス島に攻め込んだ折、サモスの海軍を指揮してこれを撃破したといふエピソードも殘してゐます。メリッソスの言論については、例の『斷片集』で「有るものは永遠」、「有る者は無限」、「有るものは不變不動にして、また空虚は存しない」といつた主張を知ることができますが、私が注目してゐるのは、『自然學』第4巻第6章の「メリッソスは、萬有一切が不動であることを證示してゐる。もし、萬有一切が運動するなら、空虚が存在しなくてはならない。だが、空虚はまつたく存在しないゆゑに、萬有一切は不動であるといふのである」というアリストテレスのコメントです。とは言へ、その一方でメリッソスは變轉極まりない現象世界の感覺的認識についても語つてゐて、「われわれには、温かいものが冷たいものになり、冷たいものが温かいものになり、堅いものが軟くなり、軟いものが堅くなるやうに見える。つまり、それら凡てが多様なものになり、かつてあつたものも、現にあるものも何一つとして同様であることはなく、」とも述べてゐます。言葉をかへれば、メリッソスは「萬有一切の運動を是認してもゐる(といふことは空虚の存在を認めることになる)」のです。「空虚」という言葉で何を表してゐるかは、私にはいささか不明ですが、これは明らかにメリッソスの論理的破綻です。しかし、この論理的破綻こそは、「空虚」の存在を積極的に評価したレウキッポスやデモクリトスたちのアトミズムの思想的濫觴になつたのではないか、と私は感じてゐるのです。 

古代希臘の無限思想(X)
 「無限と有限」に關連して「ソクラテス以前」の哲學者で私に強い關心を呼び覺ます人物として、パルメニデス、ゼノン、そしてアナクサゴラスを擧げておきましたが、今回は三人目のアナクサゴラスについて少し述べてみたいと思ひます。
 アナクサゴラスの言説についても『初期ギリシア哲學者斷片集』で知ることができます。彼の名前を聞いて「nous(ヌース、精神あるいは理性)」という言葉を想起する人も多いと思ひますが、「無數の元素(種子)の混合によって萬物が生じ、始原のカオス状態から秩序ある世界を創り出した原動力こそがヌースであると説いた哲學者」といふのが、アナクサゴラスの通俗的イメージではないかと思ひます。
 しかし、ここで少々亂暴なことを言はせてもらふと、私にとっては「ヌース」だか「種子」だかは知りませんが、そんなものは實はどうでもいいのです。實際、私はかういふ言葉をいくら考へてもよく理解できません。ときどき、受驗生や哲學科の學生の中に、かういふ言葉をちやんと暗記してゐて、教科書的に正確に説明できる人を見かけます。惡いとは言ひませんが、かういふ人を見ると、“哲學する”とはいつたい何なのか、自分自身の切實な問題に根ざしてゐるのか、といつた質問をしてみたくなります。私にとつて、アナクサゴラスがなぜ問題になるのか、それは以下のやうな彼の言論のためです。
  「最小なものも最大なものもない」−なぜなら、小さなものに關しては、最小なものといふものはなくて、いつでもそれより小さなものがあるし(といふのは「有るものは有らぬ」といふことは出來ないのであるから)、また大きなものにせき關しても、いつでもそれよりも大きなものがあるからである。
 一讀してお分かりのやうに實に明快かつ素朴な議論ですが、上記の引用の下線部分には、「有るものが分割によって有らぬことはできない」といふ脚注があります。こんにちの私たちは、アナクサゴラスの上の主張をたとへば「數直線」といふものを思ひ描くことで簡單に了解することができます。どんなに大きな數(自然數)を想定しても、それより大きな數を考へることができますし、どんなに小さな數、たとへば、1を百分割して得られる數、さらにそれを百分割して得られる小さい數を作ることもできます。もつとも、アナクサゴラスが“數直線のやうなもの”を考へて上のやうな結論に達したかどうか、むしろ彼はこの世界に「實際に存在するもの」に對して上のやうな思考を働かせてゐたのかもしれません。しかし、「數」にせよ「現實の物」にせよ、「最小のものも最大なものもない」といふ結論の淵源は、どこにあるのでせうか。それは、人間精神(あるいは知性)に備はつた「延長可能といふ属性」(これはデカルトの『精神指導の規則』の問題でもある)によるとも考へられますが、彼が「ヌース」に注目するゆゑんかもしれません。いささか専門的になりますが、彼の上の議論から私は「ある正の整數aを2倍、3倍、・・・としていけば、どんな數よりも大きくすることができる」といふ、全解析學を貫く最も重要な「アルキメデスの公理」を思ひ出します。
 私には、アナクサゴラスの言葉でいま一つ氣になるものがあります。それは「大きなものも小さなものもその部分はその數が等しいのだから、この見方によつても、凡てのものは凡てのもののうちにあることにならう」といふ主張です。「凡てのものは凡てのもののうちにある」とはいつたいどういふことなのでせうか。このアナクサゴラスの主張から私は「二つの集合が共に無限である場合に兩者間の關係として起こり得るきはめて注目すべき特質」の研究を行つた、チェコのベルナルト・ボルツァーノ(1781〜1848)の『無限の逆説』を連想します。この書物は數學者にして宗教哲學者であったボルツァーノ最晩年の作品ですが、私はアナクサゴラスとの非常な親近性を感じます。「無限」の取りもつ“えにし”と言ふべきかもしれません。     
   (河田直樹・かはたなほき)

posted by 國語問題協議會 at 21:58| Comment(0) | 河田直樹

2018年10月01日

庭の千草  

庭の千草庭の千草   作詞 里見義 アイルランド民謠 The Last Rose of Summer
一、 庭の千草も、蟲の音も/ 枯れて 寂しく なりにけり
ああ、しらぎく、嗚呼 白菊/ ひとり 遲れて、咲きにけり。
二、 露にたわむや、菊の花/ 霜に おごるや、きくの花
ああ、あはれあはれ、ああ、白菊/ 人の操も、かくてこそ。

posted by 國語問題協議會 at 11:59| Comment(0) |