2016年12月09日

歴史的假名遣事始め (二十四) 市川 浩

クイズで遊ぶ歴史的假名遣(二十四)
先月のクイズ解答
練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。
「グローバル化」には言語の共通化が避けて通れない。嘗ては世界語としてエスペラントが唱えられたが、主として英語圏に於けるコンピュータソフトの開発がグローバル化して、今や英語または中国語が世界語になる趨勢にある。小学校での英語の必修が求められ、そのため国語の授業が減るのも止むを得ない。そんな時代に漢字や仮名遣いにこだわっていては日本が孤立化してしまうのではないか。

この主張に對する反論の一例を擧げます。

この主張は實は既に良心的な知識人や其の家庭がかなりの割合で共有してゐるやうなのです。我が國は多神教の國であり、宗教の多樣性を認める一方、「地球は皆兄弟」と謂はゆるグローバル化への憧れも強いことは事實です。しかしこの世界統一の最大の問題は既存の特定文化への統一が避けられず、其の場合當該文化を有しない民族又は國家が特別の重荷を擔ふ必要があることです。現にグローバル化が進んでゐる金融資本市場やIT分野では、既に其の分野での先進國が壓倒的に有利な竸爭を展開してゐます。「世界共通の言語」といへば耳に聞えはよいが、日本語がそれに當らない現状では寧ろ靜かに國語の洗煉に注力すべきなのです。表記を含め、書き言葉獨立の否定と敬語(特に皇室)の破壞といふ、戰後「國語改革」の傷跡を先づ瘉さなければならないからです。

練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

ルビは漢字の訓みを示す優れた方法であるが、これこそは表音式が相応しいのではないか。古例にこだわつて字音仮名遣いなどでルビを振つたのでは、ルビの用をなさない。今は旧かなの仮名に振つて効果を上げているではないか。
posted by 國語問題協議會 at 12:02| Comment(0) | 市川浩

2016年12月03日

きゃりこの戀(36) いづれのおほんときにか  雁井理香(かりゐりか)

きゃりこ:
 源氏物語の書き出し、覚えてる人がゐたからびつくりしちやつた。
オスカー:
 優ちやんも憶えてますよ。僕も憶えてるけど。
 いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひける中にいとやんごとなききはにはあらぬがすぐれてときめきたまふありけり。
きゃりこ:
 やめてよ。日本人に恥掻かせないで。
オスカー:
 きゃりこさん、日本人だつたの?
きゃりこ:
 英語できないから、アメリカ人でないことは確かなんだけどね。
ところで、「いづれの御時にか」の所に、「か」があるから、文末は「ありけり」でなくて、「ありける」でないとをかしいですよね。
オスカー:
 ひやあ。きゃりこさんが係り結びを知つてゐるとは思はなかつた。
きゃりこ:
 それ以上言ふと暴力に訴へるよ。
オスカー:
 文のつながりだけを取り出して、餘計な副詞節とかを省略すると、「いづれの御時にか、すぐれてときめき給ふありけり」と縮まりますよね。
きゃりこ:
 「ときめく」って、何だらう。先生、私に會へる日は胸がときめくでせう。
オスカー:
 「ときめく」は現代語では「胸が躍る」ですが、語源は心臓の鼓動の音を「トキ」と聞き取った音から來てゐるらしい。現代語の「ドキドキ」みたいなもの。その清音の「トキ」は「時」の語源とも言はれます。心臓の鼓動の音が動詞化して、「ときめく」になつたといふのが有力説。
 異説では、漢語の「動悸(どうき)」が訛つて、「トキ」が出て來たとも言はれます。
 もう一つ、異説があつて、「とし(迅・利)」の連体形「とき」から來てゐるといふのです。言ひ換へれば「速い」といふことですね。
きゃりこ:
 なるほど、ドキドキドキって、心臓の鼓動が速くなるんだものね。
オスカー:
 一方、古語の「ときめく」は、「胸が躍る」と同語源とも言はれますが、「時流に乗る・もてはやされる」の意味。「とき(時)」が含まれてゐるから納得できるでせう。そのことから、宮中で女御や更衣が、「時めく」といふのは、帝の寵愛が甚だしいことを言ふやうになりました。
きゃりこ:
 ぢやあ、「どの天皇の御代でしたらうか、御寵愛の深い方がいらつしやいました」。
オスカー:
 でも「いづれの御時にか」と「か」があるんだから、疑問文になると思ひませんか。
きゃりこ:
 ほんとだ。でも、さうしたら、「どの天皇の御代に、御寵愛の深い方がいらしたのですか」といふ意味になりさうね。
オスカー:
 あるいは反語になつて、「そんな方はいらつしやらなかつた」にもなりますね。
 疑問や反語の場合は、係り結びが生じるのです。
きゃりこ:
 んみゃ、んみゃ、んみゃ。「ありけり」で終ると、「いらっしゃいました」といふ平叙文で、「ありける」なら、「いらしたのですか」といふ疑問文になるの?!
オスカー:
 「ありけり」の場合は、「いづれの御時にかあらむ」といふやうに、省略があつて、そこに係り結びが隠れてゐるから、「ありけり」の所までは、係りの助詞の影響力が及ばないのです。
 「なじかは知らねど心詫びて、昔の伝へはそぞろ身にしむ」つて歌、知つてる?
きゃりこ:
 ローレライだね。歌詞、そこまでしか知らないけど。ライン川の歌だつていふことは知つてる。
オスカー:
 ライン川に住む魔物が美しい女の子の姿をしてゐて、それが船でやつて來る人を誘惑して、川に沈めてしまふといふお話。
きゃりこ:
 ははは、男って、昔から馬鹿だつたんだね。優ちやんも、お母さんと同い年ののりピーの色香に迷つてるし。
 それにしても「なじかは」つて何? ライン川の異名を「ナジ川」といふのかな。あるいは蛙の一種かな。
オスカー:
 「蛙」の一種は「かじか」でせう。
 「なじ」は「なぜ」なのです。
きゃりこ:
 「なぜかは知らねど」。あ、さうか、そんな簡単な意味だつたのか。「なぜか分からないけども、心寂しくなって、昔の伝説がなんとなく身にしみる」といふわけね。
 「昔の伝説」って、---------わ、わかつた。「なぜか分からないけど、心が寂しくなつて、ローレライの伝説が心に浮んでくる」なんだね。「昔の伝へ」って、ローレライの伝説のことなんだ。
オスカー:
 見事な推理ですね。これも、簡単に縮めると、「なじかは知らねど、身にしむ」ですよね。
 さらに、現代語でも、「なぜか身にしみる」と言ひます。「なぜか」だけで、「なぜか知らないけれど」の意味になれますから、ローレライの歌詞も「なじかは身にしむ」といふだけでも通じます。
 そこで、「なじかは身にしむ」といふ文語の問題点なんだけど。
きゃりこ:
 うん。うん。「か」があるのに、係り結びしてないんだ。係り結びしたら、「なじかは身にしむる」になるはずだ。
オスカー:
 ところが、「なじかは身にしむる」といふと意味が違つて來る。
きゃりこ:
 「どうして身にしみるんだろう」といふ疑問。あるいは、「どうして身にしみるはずがあらう。身にしみはしない」という反語になつてしまふね。
 わかつた。源氏物語の冒頭と同じで、「身にしむ」は平叙文、「身にしむる」は疑問文なんだ。
オスカー:
 つまり、「なじかは知らねど」と言つてゐるけど、「なじかは斯のごとき」(なぜこんななのかは知らないけれども/なぜ「心詫びる」かは知らないけれども)の意味で、「か」に対応する結びの連体形は「ごとき」なのです。それが省略されて、係り結びが流れてしまったので、「身にしむ」の所はもう係り結びの影響を受けていないといふわけ。
posted by 國語問題協議會 at 21:04| Comment(0) | 雁井理香

2016年11月27日

数学における言葉(その六)

數學における言語(その6) 希臘数学の独創

 オズヴァルト・シュペングラー(1880〜1936)の『西洋の没落』は、「ゲーテから方法を得、ニーチェから問題を得て」書かれた「文明の形態比較論」ですが、その第1章は「数の意味についての考察」から開始されます。そこで述べられてゐることは、一般的に“普遍的”だと考へられてゐる“数学”にも、各文明圏に応じたさまざまな特徴があって、その代表的なものに「エジプト数学、ギリシア数学、ローマ数学、アラビア数学、インド数学、シナ数学」などがある、といふものです。もちろんこの中には我が国の「和算」も入れていいかと思ひますが、これらの数学の中で、現代の数学に通ずる著しい特徴を持っているのが、前回の最後に述べた「論証としての数学」の濫觴である希臘のそれです。
 『ピタゴラスから電子計算機まで』(板倉聖宣編・国土社)といふ本は私の子供の頃の愛読書でしたが、そこには次のやうな主旨の記述があります。すなわち、3つ辺の長さが(3、4、5)、(5、12、13)、(7、24、25)、(8、15、17)、(12、35、37)のような場合、それが「直角三角形」になることは、エジプト人もバビロニア人も、そしてインド人も大昔から知ってゐた、のみならず、直角三角形の3つの辺(a,b,c)の間にいつも“a^2+b^2=c^2”に違ひない、という結論さへ下してゐた、しかし「ほんたうに、いつもそんなことが言へるのだらうか?確かな証拠があるのだらうか?」といふ疑問を持ち、それに見事にこたへたのがひとりギリシア人であった、といふものです。
 哲学者下村寅太郎(1902〜1995)は、「数学の形而上学的系譜」といふ論文で「支那数学」や「和算」にも触れて次のやうに述べてゐます。

  支那数学や後代の和算においてすら、我々が一般にギリシア的数学以外の文献に見るものは、その問題の高度や秀抜なるにかかはらず、単に具体的な問題とその解法に止まり、問題の解法の一般的な解法に対する省察がない。このことはさらに一般化して言へば、証明方法の純粋に論理的な構造の探究や反省の欠如である。これの欠如するところでは完結した体系的業績は存しない。個々の問題の蒐集が存するのみである。

 まことに示唆に富む指摘で、希臘以外の文化圏の数学は単なる経験から生まれる個々の問題の集積であり、そこには問題の一般化や証明に対する志向性がない、といふわけです。
言論による論証によって“a^2+b^2=c^2”が成り立つ(いわゆる「ピュタゴラスの定理(三平方の定理)」ことを示したのは、希臘人ですが、ここで大切なことは、「どのような直角三角形についても」といふことで、これを言ひ換へれば「すべての直角三角形について、a^2+b^2=c^2が成り立つ」
といふ「全称命題」の証明を問題にしてゐる点です。本連載の「その2」で取り上げた「直径ABの円周上の、A、B以外のどのような点Pをとっても(とはつまり、円周上の“無限個”の点Pに対して)∠APB=90°が成り立つ」といふのも「全称命題」であり、このやうな命題を言論によって明らかにすることが、希臘数学の独創なのです。 
 下村氏は「数学の成立こそは人間の文化の歴史における異常な事件である。まさしく世界史的事件である」と喝破してゐますが、言ふまでもなく、ここで言ふ「数学」とは「論証としての数学」であり、これは決して大袈裟な物言ひではありません。「数へる」「量る」の延長線上に生まれる「単なる技術知としての数学」はおよそいかなる段階のいかなる社会においても存在しましたが、「論証としての数学」を形成したのは、ひとり古代希臘人のみでした。
 ところで、このやうな希臘人の志向性は、いったいどのやうな魂あるいは精神性によるのでせうか。次回は、この点について少し考へてみたいと思ひます。
                    (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 12:03| Comment(0) | 河田直樹