2019年11月04日

日本語ウォッチング(25) 織田多宇人

科學する心
中學生の頃、辯論大會で、同級生が「科學する心」と言ふテーマで話をしたことがある。その時はやゝ抵抗感があつたが新しい言ひ方なのかと思つてゐた。一般に「する」は、動作や行爲や變化を表はす體言に附いて複合動詞を作る。「喧嘩、運動、登山、勉強、貯金、抑壓、消滅、死去、感化」等擧げられる。しかし「優位、二着、評論」などはしつくり來ない。「論評する」とは言へても「評論する」とは言へない氣がする。戰前「科學する心」と言ふ言ひ方が問題にされたことがあつたさうだ。ぎりぎり許容されたのか。もし「科學する」が許容されるなら「文學する」と言へるのだらうか。
posted by 國語問題協議會 at 12:33| Comment(0) | 織田多宇人

2019年10月11日

數學における言語(51)プロティノス(U)

 プロティノスが彼の哲學を「かのもの,太陽,光」と言ふ言葉で繰り返し語つてゐることは前囘少し觸れましたが、たとへば彼は「かのものは、不動のまま(άκίνητον)であつて、氣持ちを動かすことも意志することも、一般に動かされることが全くないのに、その何かが存立するやうになつた」と語ります。勿論「その何か」とは恰も“不動點”のやうな「かのもの」に他なりませんが、さらに彼はその「かのもの」は、「環状放射(περίλαμψις)」を發してゐて、たとへば横溢する「燦然たる」を發する「太陽」がその例であると語ります。また、「かのもの自身は存在ではなく、むしろ存在の産出者なのである」とも指摘し、「かのもの(一者)からいはば流れ出てきた活動を、あたかも太陽から發するかのやうに考へたら、理に適ふことであらう。われわれは、知性的本性(νοητή ψύσις)すべてをも一種のと見ることになる」と述べます。
 プロティノスは、すでに述べたやうに「身體の中で生きてゐることを恥ぢてゐた人(私にはこれは大變重要な點ではないかと思はれる)」で、それゆゑ彼は現實世界を超越した「かのもの(一者)」を渇仰し、その一者から流出した光がまず「知性(ヌース)」を、さらに「靈魂(プシュケー)」を生み出し、その流出の末端には”惡”の分量が最も多い「質料(あるいは身體)」がある、と結論してゐたやうです。そして靈魂と質料の融合物である私たち人間の究極目的は、自己を見失つて「自己の外」に逃げ出すのではなく、人間精神の眞の故郷とも言ふべき「かのもの」への歸郷であると考へてゐました。
 われわれは、かのものの方へ傾くことによつて、それだけ存在の度合ひを高めることになり、われわれのよさ・・(幸福)もまたそこに横たはるのであるが、だが、かのものから遠去かつてゐることは、存在の度合ひを低めることになるのである。(『後期ギリシア哲學者資料集』131頁。)

 ここには「存在の度合ひ」と言ふ奇妙な飜譯語が顏を出してきて、今の私たちはその意味をすんなり了解することが困難ですが、要するにプロティノスは、人間は「環状放射光」の中心(かのもの=一者=太陽)との脱我的合一を希求して生きるべきだ、そしてそれが「幸福(存在?)の度合ひ」の高める生き方だ、と説いてゐるわけです。プロティノスもまた伊東靜雄同樣「太陽が幸福にする\未知の野の彼方を信ぜしめよ」(「冷たい場所で」)と切實に願つてゐたのです。 
 現代人にとつてかうした比喩的言説(あるいはお説教)は、いはゆる”科學的”根據のない繪空事と感じられるかもしれませんが、私如き空想的數學屋には空間における重力・電氣力の分布、氣流速度の分布などを表す「ベクトル場」が想像され、同時に靜雄の「あゝわれら自ら孤(こ)寂(せき)なる發光體なり!\白き外部世界なり」(「八月の石にすがりて」)と言ふ詩句や『反響』の「中心に燃える」と言ふ詩を聯想させてくれます。 
 かうしたプロティノスの「太陽と光」の神祕主義的な發想は、直ちに多くの讀者にプラトンの『國家』第6卷の「太陽の比喩」や第7卷の「洞窟の比喩」などを想起せしめるかもしれません。實際、プロティノスはプラトンから多大の影響を受けた人で、彼が新プラトン主義者(Neo-Platonist)と言はれる所以ですが、プロティノス自身も「自分の思想は皆プラトンの考へであつて何も新しいものはない」と語つてゐたさうです。鹿野治助(1901~1991)は「專門家も彼のプラトンの引用は頗る堂に入つたもので餘程熟讀した者でなければなし得ないとさへ云つてゐる」(筑摩書房『哲學講坐V哲學の歴史』)と記してゐます。しかし、プロティノスの思想はプラトンよりも詩的かつ宗教的で、その純度も高く紫水晶のやうな神祕的な光彩を放つてゐます。彼の思想がキリスト教神學を用意し、17世紀になつてもその影響は衰へずH・モアに代表されるケンブリッジ・プラトン學派を生み出したのも不思議ではありません。ともあれ、私にはプロティノスの「太陽」と伊東靜雄の觀てゐた「太陽」とがほとんど同一のものに思へてくるのです。(河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 07:02| Comment(0) | 河田直樹

2019年09月17日

日本語ウォッチング(24) 織田多宇人

罪に服する
服するとは、納得して從ふことである。『小説宝石』の古い號に、「すべてを申上げて、罪に服したいとおもいます」と言ふ科白が出て來てゐるが、納得して罪に從ふと言ふのはをかしい。恐らく、刑に服するの間違ひであらう。罪の字を活かすのであれば「罪の償をしたいと思ひます」とすればよい。他に「服する」の例としては、「兵役に服する」、「喪に服する」、「勞役に服する」等がある。
posted by 國語問題協議會 at 07:26| Comment(0) | 織田多宇人