2017年01月23日

「米百俵」から「八重の櫻」、「原發供養」まで。 原山建郎


先月末、宇都宮市での講演で「歴史に學ぶ日本人の生き方」といふテーマで話をした。
副題を「米百俵≠ゥら八重の櫻≠ワで」として、幕末から明治初期にかけての戊辰戰爭、なかでも苛烈な戰ひで知られる北越戰爭(長岡藩)、會津戰爭(會津藩)を紹介した。講演の後半では、二年前の福島第一原發事故での政府・東電による犯罪的情報操作と、十分な檢證なしに虚僞情報を流した新聞・テレビなど大マスコミの報道に、若干の私見を披瀝した。

この演題に決まつたのは、招聘元の「米百俵≠ノまつはる歴史の話が聞きたい」というリクエストがきつかけだつた。
おそらく、栃木市出身の作家・山本有三が昭和十八(一九四三)年『主婦之友』新年号、二月号に連載し、のちに新潮文庫に収められた戲曲『米百俵』があるので、郷土つながりといふ面、それがひとつだらう。
また、平成十三(二〇〇一)年、小泉純一郎首相(當時)の「今の痛みに耐へて明日を良くしようといふ米百俵≠フ精神こそ」といふ發言を取り上げた拙著『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社、二〇〇一年)があるのだが、その「米百俵」ブームを覚えてゐたらしい。

北越戊辰戰爭では、新政府軍と舊幕府軍の間で長岡城陷落・奪回・再陷落を繰り返すはげしい戰ひがあり、生き殘つた長岡藩士たちは會津藩領内に敗走する。そこから先、ことしのNHK大河ドラマ『八重の桜』では、會津・鶴ヶ城での一カ月あまりの籠城抗戰(東北戊辰戰爭)に、綾瀬はるか演じる山本八重が斷髮して男装し、小銃片手に參戰することになる。

戰いの終息(新政府への歸順)後、長岡藩はお取りつぶしは免れたが七萬四千石から二萬万四千石に減知され、支藩から届いた救援米を藩の大參事・小林虎三郎が學校建設資金とした『米百俵』の故事を生む。
會津藩も二十八萬石から三萬石に減知され、下北半島の斗(と)南(なみ)に流刑同然の國替へとなる。
鳥羽・伏見の戰ひから始まつた戊辰戰爭は、この二つの戰ひいだけでなく、彰義隊が東叡山に立て籠もつた上野戰爭、舊幕臣らによる市川・船橋戰爭、新撰組の土方歳三らによる宇都宮城の戰ひ、そして翌年、箱館・五稜郭の開城で幕を閉ぢる。


「錦の御旗」を押し立てる新政府軍、逆らへば「朝敵」となる舊幕府軍といふ、戊辰戰爭の政略的二極構造は、二〇一一年に起つた福島第一原發事故においても、虚僞を眞實と言ひ張る政府・東電の「官製タッグ」に逆らはず、政府發表を垂れ流した全國紙・テレビ陣營、ゲリラ的取材で「大本營發表」に疑問を投げかけた一部の週刊誌・月刊誌陣営、この報道姿勢の質的な違ひにも重なる。
講演では『呪いの時代』(内田樹著、新潮社、二〇一一年)の「原発供養」を取り上げた。
四十年間、耐用年数を十年過ぎてまで酷使され、あげくに地震と津波で機能不全に陷つた原發に對して、日本中がまるで「原子怪獸」のやうに嫌惡するのではなく、誰かが「四十年間働いてくれて、ありがたう」と言はなければ、原發だつて浮かばれない、といふのである。
いま日本人がなすべきは「原發供養」であるといふ内田さんの提言は、かつて長岡で、會津で、郷土の誇りを守るために戊辰戰爭で花の命を散らした戰没者の「供養」にも通じる。

その後の懇親会では、「米百俵」(長岡・栃倉酒造)、「ならぬことはならぬものです」(會
津喜多方・ほまれ酒造)、「四季櫻 花(か)寶(ほう)」(宇都宮酒造)、小林虎三郎の師・佐久間象山(しょうざん)ゆかりの「松代城」(松代・宮坂酒造)、で、戊辰戰爭の戰没者、東日本大震災の死者・行方不明者、そして福島第一原發に向かつて、獻杯をした。
(武藏野大學非常勤講師 『出版ニュース』誌のコラム Book Therapy no.15)
posted by 國語問題協議會 at 18:54| Comment(0) | 原山建郎

2017年01月18日

數學における言葉(その八) タルホ的ブンガクの欠如

 数学者たちの執拗な「証明」への根源的衝動に関連して、前回はタルホの『弥勒』の言葉を紹介しましたが、タルホはまた『白昼見』といふ小説でも、「お終いの雰囲気」を玩具にして「サつケリーの仮設だのルジャンドルの定理だの、くその役にもたたぬ道楽にその日その日を送つてきた」と告白してゐます。
「白昼見(Tagesansicht)」とは、精神物理学者フェヒナー(1801〜887)が初めて用ゐた言葉で、これは色も香もない、自然科学的、機械論的な夜の見方(Nachtansicht)と対立するもので、要するにありのままが真であるとする昼の見方を言つてゐます。また、「サつケリー(1667〜1733)」は、イタリアのエスイつタ派の僧侶にして、パビア大学の数学教授で、非ユークリつド幾何学の画期的な先駆者、「ルジャンドル(1752〜1833)」も、整数論、物理数学などで大きな足跡を残したフランスの数学者です。
タルホの小説には、しばしば数学者や物理学者(リーマン、ロバチェフスキー、アインシュタイン、ミンコフスキー等)が登場してきますが、これはタルホの本質的玩具である「最終気分」と緊密に繋がつてゐる、と私は見てゐます。なぜなら、数学における「定理」とは、常にすべてを尽くし、すべてを見通さうとする命題であり、いつも「最終(無限、超越、普遍)」を志向してゐる言説だからです。
 すでに述べたことですが、数学における命題は、「点Pがどのやうな位置にあつても」とか「どのやうな偶数に対しても」とか、あるいは「リーマンのゼータ関数の零点はすべて」とか、そんな形で述べられます。 
ところで、日本文学には「タルホ的ブンガク」がそもそも存在するのでせうか?たとへば、横光利一の『旅愁』には、帝大で数学を学んでゐる槇三が「日本に昔、幾何学はあつたのですか」と、彼の姉千鶴子の恋人矢代に尋ねる場面が出てきます。矢代の答は「ありましたとも、日本の古い祠の本体は幣帛ですからね。弊帛といふ一枚の白紙は、幾ら切つていつても無限に切れて下へ下へと降りていく幾何学ですよ。同時にあれは日本人の平和な祈りですね」などと答へさせてゐます。
 私には「下へ下へと無限に降りていく弊帛」が、どうして「幾何学」なのかよく理解できませんが、利一は‘三角関数と双曲線関数’で与へられる「ヘリコイド」のやうな螺線曲面をイメージしてゐたのでせうか? 矢代の答に比べれば、以下のやうな記述の方が、「幾何学」の何たるかを、よほど明確に語つてゐるやうに思はれます。

 古代エジプト人やバビロニア人、インド人は、このやうな、図形や数の間の面白い関係をたくさん見つけてゐました。そこには、まだ確かな証拠はなかつたけれども、それで別に困ることはなかつた。これらの国の数学者たちは、自分の長い経験から「これは確かだ」と確信が持てればよかつたのだ。ところが、間もなくして、エジプト人やバビロニア人たちから、こういふ面白い数学の知識を教はつた人々の中に、とても面倒なことを言う人たちが現はれてきた。「そんないい加減なことでは駄目だ!」といふのだ。それはギリシアの数学者たちで、その代表がターレスとピタゴラスであつた。

 これは、私が小学生の頃愛読してゐた『ピタゴラスから電子計算機まで』といふ本の第4章「すべての人が納得する真理<幾何学>」からの抜粋ですが、「幾何学」の何であるかを易しく語つて余りあります。矢代は「日本には幾何学はなかつた」と答へるべきであつたし、横光利一は「和算と古代希臘の論証精神(経験から言語への離陸)の違ひ」を、小説のなかで徹底的に探究してみるべきでした。
日本には何故「タルホ的ブンガク」が、なかつたのか?実は、これは今も私にとつて大きな問題なのです。
                   (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 16:59| Comment(0) | 河田直樹

2017年01月12日

きゃりこの戀(39) 侍従長  雁井理香(かりゐりか) 

きゃりこ:
 この前、昭和天皇と本庄侍従武官長の話を伺ひました。「侍従武官」つて、天皇の側に隨ふ軍人のことですよね。さうすると、ふつうの「侍従」は文官なのですね。戦後は「侍従長」がゐるけど、戦前も「侍従武官長」の外に文官の「侍従長」もゐたのですか。
オスカー:
 ゐましたよ。ただし、昭和に入つてからは、「侍従武官長」だけでなく、「侍従長」も軍人であることが多くなりました。有名なのが、昭和の初めの鈴木貫太郎侍従長。
きゃりこ:
 終戦の時の総理大臣ですね。
オスカー:
 読者の皆様に、雁井さんからお報せです。おばかキャラのきゃりこさんが、終戦のときの総理大臣を知つてゐるはずがないといふ苦情が來さうですが、知つてゐないと話が続かないので、仕方ないと思つて下さい。納得の行かない方は、本当はねねさんが話してゐるのだとお思ひ下さい、とのことです。
きゃりこ:
 むかつく。
オスカー:
 鈴木貫太郎は昭和四年から昭和十一年まで侍従長を務めたのですが、この人は海軍大将。その前は軍令部総長(海軍の作戦面のトップ)だつたのですが、昭和天皇の信任に應じて、ずつと格下の侍従長になることを承諾しました。二二六事件で負傷して、辞任しますが、この期間は、侍従長は海軍の軍人、侍従武官長は陸軍の軍人でした。
 「満洲某重大事件」が起つたのもこの時期。陸軍の陰謀で、満洲の匪賊である張作霖を爆殺してしまつたのですが、時の田中義一首相は、天皇に責任者の処罰を約束しておきながら、履行しませんでした。(この爆殺事件は、蘇聯(ソ連)崩壊後に流出した極秘書類を検討した結果、蘇聯の仕業だつたといふ有力説が出されてゐます)
 拝謁したとき、天皇は激怒なさつて、「この前の話と違ふではないか。もうおまへの話は聞きたくない」とまでおつしやいました。
 恐縮して退出した田中は、翌日また参内して、鈴木貫太郎侍従長に、拝謁を願ひ出ました。
 そのときの鈴木の返事が、「たつてのこととあれば、お取次ぎは致しますが、おかみは會ふとはおほせられますまい」
きゃりこ:
 なるほど、侍従長つて、さういふ仕事をしてゐたのか。
オスカー:
 田中は断念して帰り、翌日辞表を出しました。そして、翌年、蟄居したまま病死したのですが、自殺説もあります。
きゃりこ:
 戦前の軍人や政治家が天皇に嫌はれたら、どうしやうもなかつたでせうね。
オスカー:
 この鈴木貫太郎は、昭和十一年の二二六事件で陸軍の叛乱部隊に襲撃されました。拳銃を三発打ち込まれて倒れました。指揮官が軍刀を抜いてとどめを刺さうとすると、鈴木の夫人が、それまで、部屋の隅で、軍人たちに抑へ付けられてゐたのですが、「どうせ死ぬのですから、とどめは刺さないで下さい。必要ならば、私に刺させて下さい」と氣丈なことを言つたので、指揮官の安藤輝三(この人はクーデター参加者の中で一番の人格者だと言はれてゐたのですが)は断念してそれ以上の危害は加へませんでした。
 鈴木は甦つて、昭和二十年に総理大臣に任ぜられ、終戦に漕ぎ付けたのです。
きゃりこ:
 ふうん。偉い奥さんだね。貫太郎は、その後一生、浮気はできなかつたでせうね。
オスカー:
 この奥さんは若い頃に歴史に登場するのです。
きゃりこ:
 へええ。若い女が歴史に出て来るといふのは、よほど美人か、さうでなければ親が偉い人だつたんだね。
オスカー:
 美人でもあり、親もある程度偉い人でしたが、さういふことではないのです。
 昭和天皇が子供の頃の保母だつたのです。
きゃりこ:
 保母? 乳母ぢやなくて。
オスカー:
 未婚だから乳母にはなれませんよ。養育係りですね。東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)附属幼稚園の保母だつたのを皇室が引き抜いたのです。結婚前の名前は「足立たか」。鈴木貫太郎の後妻として結婚したのですが、昭和天皇はこの人を慕つてゐて、鈴木の侍従長時代も首相時代も、ことあるたびに、「たかはどうしてをる」「たかのことは母のやうに思つてゐる」とおつしやつてゐたさうです。戦後も、記者会見で、昔の思ひ出を語つて、「たかは私にとつて母親のやうなものだつた」とおつしやつたことがあります。
 二二六事件で、天皇が烈火の如くにお怒りになつたのは、母のやうに思つてゐた女性の夫が重傷を負はされたことに逆上なさつたのではないかとも言はれてゐます。
きゃりこ:
 天皇の憧れの女性なんだ。ロマンティックなお話ですね。
オスカー:
 今回は日本語の話ぢやなくて、歴史だけの話になつてしまひました。
きゃりこ:
 でも、言葉と歴史は密接につながつてゐるんだから、一回くらゐは、「日本語のあやとり」を管理してゐる怖い先生も許して下さるでせう。


posted by 國語問題協議會 at 10:53| Comment(0) | 雁井理香