【今回の要󠄁約󠄁】
@「戰前󠄁の公的󠄁な國語表記ではひらがなが書かれなかった」は噓知識です
A戰前󠄁の學校ヘ育は「カタカナ先習󠄁」でした
Bしかしカタカナを習󠄁った後はひらがなも習󠄁ひ、公的󠄁にも私的󠄁にも廣く使はれました
【主󠄁な漢字の新舊對應表】
國(国) 戰(戦) 學(学) ヘ(教) 舊(旧) 對(対) 應(応) 澤(沢) 辯(弁) 據(拠) 獻(献) 僞(偽) 敕(敕) 實(実) 當(当) 體(体) 讀(読) 圖(図) 單(単) 眞(真) 寫(写) 樣(様) 變(変) 發(発) 氣(気) 亂(乱) 殘(残) 雜(雑) 畫(画) 兩(両) 廳(庁) 會(会) 爲(為) 廣(広)
■「舊かなづかひで漢字ひらがな交じりなのは中途󠄁半󠄁端」と主󠄁張する人がゐる
私達󠄁が歷史的󠄁かなづかひによる文章を書いていると、「中途󠄁半󠄁端な舊かなづかひだ」と非難される事がしばしばあります。
たとへば「舊かなづかひの文章なのに、漢字カタカナ交じりで書かないのは中途󠄁半󠄁端」と言はれたりします。
その種の人によると、「戰前󠄁は國語を漢字カタカナ交じり文で書くもので、漢字ひらがな交じり文は珍しかった」と云ふことです。「いいえ、漢字ひらがな交じり文で書かれた例がこんなに澤山ありますよ」と實例を示すと、「私は公的󠄁な文書の表記の話をしただけで、小說などは例外だ」と急󠄁に苦しい辯解をします。また近󠄁年はAIに質問した回答を根據にこの種の主󠄁張をする事もあります。
また、戰前󠄁の文獻とされるものが漢字ひらがな交じりで書かれてゐると「これは僞物だ」と決めつける人もゐます。
なるほど、明󠄁治憲󠄁法や舊民法、ヘ育敕語など、戰前󠄁の法令や敕語は漢字カタカナ交じり文で書かれたのは事實です。しかし、「戰前󠄁は公的󠄁な表記としては漢字カタカナ交じりで書くものだった」と云ふのは果して本當でせうか。
■誤󠄁解の原因
戰前󠄁の法令や敕語が漢字カタカナ交じり文で書かれたので、民法や刑法や商法などが文語體だった時代に法律の勉強をした人は「戰前󠄁の文章=漢字カタカナ交じり」といふ印象があるかも知れません。
また、學校ヘ科書も漢字カタカナ交じり文が多く揭載されました。國語讀本の最初の文章が「ハナ ハト マメ マス」とか「サイタ サイタ サクラガ サイタ」だったのが知られてゐて、「戰前󠄁の國語とはカタカナで書くものだったのか」と思ひがちです。
明󠄁治〜昭和にかけての文豪達󠄁の作品がヘ科書に揭載されたり文庫本に收錄されたりしますが、口語體の作品の場合、大抵は「現代仮名遣い」に直されてしまひます。同時期󠄁の文語體の文章は漢字以外の表記が直されない事が多いのですが、カタカナで書かれた割󠄀合が口語體よりは高く、これも「歷史的󠄁かなづかひ=文語體=カタカナ」といふ誤󠄁解に拍車を掛けてゐる事が想像できます。
それだけならまだしも、「戰前󠄁は公的󠄁な表記としては漢字カタカナ交じりで書くものだった」と主󠄁張する人があまりにも多く、またAIもその意󠄁見を學習󠄁したのか、同樣の回答をする事があります。
しかし實態はどうだったのか、これから調󠄁べてみませう。
■カタカナ先習󠄁
まづは國語ヘ科書から調󠄁べてみませう。
「国会図書館デジタルコレクション」のウェブサイトには、大正〜昭和にかけての『尋󠄁常小學國語讀本』全󠄁十二卷が無料で公開されてゐます。
卷一卷二卷三卷四卷五卷六卷七卷八卷九卷十卷十一卷十二
卷一や卷二を見ると、確かにカタカナで書かれてゐます。「それ見ろ、戰前󠄁は公的󠄁な表記としては漢字カタカナ交じりで書くものだった!」いいえ、慌󠄁てないで下さい。次󠄁の卷も見てみませう。

卷三の第四章になると「うちの子ねこ」と題して漢字ひらがな交じりの文章が登場します。第八章の最後には、ひらがなの五十音󠄁圖もあります。その後は、漢字カタカナ交じり文の章もあれば漢字ひらがな交じり文の章もあるといった具󠄁合ですが、卷十二に至ってはすべての章が漢字ひらがな交じり文です。
このやうに、戰前󠄁の國語ヘ育は現代とは逆󠄁に「カタカナを先に習󠄁ひ、ひらがなをその後で習󠄁ふ」方式でした。これを「カタカナ先習󠄁」と呼びます。
もう一つ分るのが、戰前󠄁の國語ヘ育では「漢字カタカナ交じり文」と「漢字ひらがな交じり文」の兩方をヘへてゐた事です。戰後は原則として「漢字ひらがな交じり文」だけになってしまひましたが、戰前󠄁は單純にその逆󠄁だったのではなく、もう一つのヴァリエーションがあったのです。
■藤󠄁原定家もひらがなで書いた
「ひらがなは女手と呼ばれてゐたから、昔は男は書かないものだった」と云ふのも誤󠄁解です。

平󠄁安時代、西曆九〇五年の
『古今和歌集』は醍醐天皇の敕撰和歌集でしたが、漢文で書かれた「眞名序」などを別にすれば、漢字ひらがな交じり文で書かれてゐます。

鎌󠄁倉時代の藤󠄁原定家は紫式部の『源氏物語』を寫本しましたが、もちろん漢字ひらがな交じり文で書いてゐます。話は道󠄁に逸れますが、定家は樣々な古典を寫本するにあたり、かなづかひをどうするかの問題が出てきたので、『下官集』の「嫌󠄁文字事(文字を嫌󠄁ふ事)」といふ章にまとめてゐて(語の例は漢字ひらがな交じりで書かれてゐる)、これが後の歷史的󠄁かなづかひの元となりました。

(畫像はェ政元年『被仰渡之御請󠄁書』)
江戶時代の古文書と聞くと、「漢字ひらがな交じり文」「漢字カタカナ交じり文」どちらの印象が強いでせうか。もちろん後者もありましたが、草書の一流派である「御家流(おいへりう)」で書かれた「漢字ひらがな交じり文」もかなり多く、その當時の文書を讀み解く古文書講󠄁座では、頻繁に出てくるひらがなの變體がなをどんどん憶える事が求められます。
■漢字ひらがな交じり文は公的󠄁にも私的󠄁にも
「新聞は? 漢字カタカナ交じりだったのでは?」もしかしたら法令の多く含まれる
官報の事でせうか。官報は法令も多く載りますし、戰前󠄁は漢字カタカナ交じりでした。

しかし一般的󠄁な新聞は、現代と同じく漢字ひらがな交じり文が普通󠄁でした。有名な國際聯盟󠄁脫退󠄁を傳へる記事も「聯盟󠄁ヨサラバ!」ではなく「聯盟󠄁よさらば!」でした。
お役所󠄁の出す文書が絕對に漢字カタカナ交じりだったかと云ふと、さうでもありませんでした。

これは明󠄁治五年の『育子吿諭󠄀』で、漢字ひらがな交じり文です。

文部省の發行した
『國體の本義』といふ本は、題名からして如何にも「日本の魂!」といふ氣迫󠄁が感じられますが、題名も本文も漢字ひらがな交じりでした。

二・二六事件で叛亂兵に吿げるアドバルーンにあった文字も「勅命下ル軍旗ニ手向フナ」ではなく「勅命下る軍旗に手向ふな」であった事が寫眞に殘ってゐます。
民間の讀物では、先に述󠄁べた「カタカナ先習󠄁」もあって幼年向けの讀物はカタカナで書く事が多かったのですが、それ以外の小說や雜誌などはむしろ漢字ひらがな交じりで書かれる事が多く、漢字カタカナ交じりの本は比較的󠄁珍しいものです。

有名な『坊つちやん』は題名からして『坊ツチヤン』ではなく漢字ひらがな交じりです(「赤シャツ」「マドンナ」などの外來語はカタカナ)。

戰前󠄁の漫畫が好きな人なら大抵知ってゐる『のらくろ』も、題名からしてひらがなです。
■一種類に塗り潰したのが戰後の國語改革
このやうに、戰前󠄁は漢字ひらがな交じり文・漢字カタカナ交じり文の兩方が使はれてゐた事が分ります。文字を習󠄁ひたての子供向けの本や、敕語や法令などは大抵後者でしたが、それ以外は前󠄁者を當り前󠄁のやうに見掛けました。しかし戰後の國語改革の頃から、ヘ科書が「ひらがな先習󠄁」の方針になったり、お役所󠄁の文書も漢字ひらがな交じりになった事もあり、漢字カタカナ交じり文はあまり書かれなくなっていきました(ヘ科書が「ひらがな先習󠄁」になった理由については、
文化󠄁廳のウェブサイトにある國語審議會の議事錄を讀むと、土岐善麿󠄁會長(ローマ字論者だった)は「戦後は現実的な文字生活から考えてひらがなから教えることになった」と說明󠄁してゐます。つまり日常生活ではひらがながそれほど一般に使はれてゐた證據です)。ただし「漢字ひらがな交じり文」への統一は、漢字の文字部品や語の構󠄁造󠄁を壞した「当用漢字表」「現代かなづかい」の問題に比べれば極些細な問題だと私は考へます。
つまり、「漢字ひらがな交じり文を止めて、漢字カタカナ交じり文で書く」事は、國語改革以前󠄁の狀態に戾す事にはなりません。どちらで書いても良いのです。そもそも私達󠄁は「漢字カタカナ交じり文でないと正統な國語にならない」なんて一言も言ってゐませんし、「それで書かないと中途󠄁半󠄁端」と云ふのは只の「~話」、「藁人形論法」です。
「戰前󠄁の公的󠄁な國語表記ではひらがなが書かれなかった」のやうな噓知識、歷史改竄を見破る爲にも、廣い樣々なカテゴリの戰前󠄁の文獻に親しんで、當時の表記の傾向をつかんでいきませう。