2019年03月23日

日本語ウォッチング(14) 国際交流を助長する 織田多宇人

「助長する」と言ふ言葉は、最近では「国際交流を助長する」と言ふ風に「 力を添えて、ある物事の成長や発展を助ける」と言ふ意味に用ゐることが多い。しかし「助長」はもともと『孟子』から出た言葉で、「苗を早く生長させやうと思つた宋の人が苗を引き抜いて枯らしてしまつた」と言ふ故事から「不必要な力添えをして、かえって害すること」を意味し、惡い意味にしか使へない。
しかし、現在では良い意味に使ふ場合が壓倒的に多い。おそらく文化廳の國語調査で取上げれば、「良い意味」に○をする人が90%以上になるだらう。ただ、出來ることなら「今日のやうな中途半端な性教育は性犯罪を助長することになる」と言ふ風に使つて貰ひたいものだ。

posted by 國語問題協議會 at 20:24| Comment(0) | 織田多宇人

2019年03月16日

郷土のかなづかひ(二)     あはき・あをき(檍)    高崎一郎

漢字には「國訓」といって本來の字義とは異るものが少なくない。特に動植物など比較同定は難しく、また社會に定着したものは今さら否定できない。「鮎」が「なまづ」であって「あゆ」ではない事など有名であらうか。

多田南嶺の『南嶺子』は、河豚中毒の患者が「自分が食べたのは鮭≠セ」と言ひ張った愚をあげて「正字せんさく」を戒めてゐる。插話としては一寸とでき過ぎで、文意に添った創作かもしれないが、少くとも江戸中期には認識の不一致が意識されてゐた事になる。

横濱市青木町に洲崎大神といふ古社があり、戰災に罹る前は境内に神木の「檍(あはき)」が茂ってゐた。そもそも「あはき」とは何か。記紀によると伊弉諾尊が「阿波岐原」あるいは「檍原」で黄泉國の穢れを祓ひ、住吉の神が産れたとある。おそらくは「檍」の生ひ茂る場所であったかと思はれるが、具體的にそれが何なのか文獻ごとに矛盾があり、植物學的に全く推定できないらしい。

平安時代には既に「檍」の正體はわからなかったらしく、『和名抄』の記述にはためらひが見られる。中世には「青木」との混同が始まり、洲崎大神の鎭坐する「青木町」もその類らしい。宮崎市には今も「阿波岐原町」の町名があり、また鹿兒島縣囎唹市にも「阿波岐原」の比定地がある。兩地とも「檍神社」や「檍小學校」がありいづれも「あをき」と讀む。能「高砂」にも「西の海 檍が原の波間より あらはれ出でし住吉の神」とあるが、これまた「あをき」である。

「檍」はJIS第二水準漢字でもあり、近年の辭書にはよく收載されるやうになった。如上の複雜な經緯を端的に解説するのはなかなかに難事であるが、
・種名未詳の「アワキ(あはき)」
・學名Aucuba japonicaの「アオキ(あをき)」
・漢籍にある「檍(ヨク)」
の三項目に分けて理解するのがよいやうに思はれる。ちなみに洲崎大神の「檍(あはき)」は樫の大木であったらしく、これは「檍(ヨク)」の解釋に沿ったものといへる。
posted by 國語問題協議會 at 20:50| Comment(0) | 高崎一郎

2019年03月08日

數學における言語(43) 魂・無限と肉・有限(U) 河田直樹


 下村寅太郎は「我々は、有限な存在でありながら常に有限性を超えた欲求を持つ。これは人間にとつて根本的な事實である。このことが『心』を持つことに外ならないない」と述べてゐますが、海邊の砂濱で水平線を眺めやるとき、子供はその水平線の彼方を無想し、山國の少年は常に山の彼方の國を想はずにはゐられません。「死すべき有限な存在」だと自覺して私たちの「心」は、自分が生きてゐるこの限られた世界を飛び越えて滿天の星空の彼方にある別世界に憧れます。私は、人間のこの根本的な事實の不思議を思わずにはいられません。西行が「風になびく富士の煙の空に消えて行方もしらぬわが思ひかな」とうたつたその「わが思ひ」の終の果てを思はずにはゐられません。
 前回私は、「有限と無限の問題は、時と場所とを問はず、どの人間にとつても普遍的なテーマだ」と述べましたが、卑近な言ひ方をすれば人生のすべての問題は「願ひ(魂)」と「現實(肉)」との、その亀裂の問題に収束していくと考へてゐます。このギャップが国家レベルで引き起こされることもあり、それがあの大東亜戦争における我が國の敗北でした。
 特攻作戰も空しく、「なぜ神風が吹かなかつたのか」といふ問ひは、現代日本人からすればほとんど滑稽な茶番でせうが、しかしこの問ひの根底には「すべての手段を奪はれ、すべての肉を削ぎ落とされた無限の魂」の最終、最後の形而上學的な問ひがあります。
 三島由紀夫に『海と夕焼』といふ、軟外風の文體で書かれた短編小説があります。これは少年時代、「聖地エルサレムを奪ひ返すのはお前だ、たくさんの同士を集めてマルセイユへ行けば、地中海の水が二つに分かれてお前たちを聖地に導くだらう」と豫言する基督の幻影を見たアンリの回想譚ですが、三島由紀夫は自作解題で次のやうに述べてゐます。
  『海と夕燒け』は、奇蹟の到來を信じながらそれが來なかつたといふ不思議、いや奇蹟自体よりもさらにふしぎな不思議といふ主題を、凝縮して示さうと思つたものである。(中略)人はもちろんただちに、「何故神風が吹かなかつたか」といふ大東亜戰爭のもつとも怖ろしい詩的絶望を想起するであらう。なぜ神助がなかつたか、といふことは、神を信ずる者にとつて終局的決定的な問ひかけなのである。
 さらに彼は、この短編小説は自分の戰爭體驗のそのままの寓話化ではなく、むしろ戰爭體驗は「奇跡待望が不可避なことと、同時にそれが不可能なこと」の問題性を明らかにしてくれた、といふ意味のことも記してゐます。殉教的特攻隊の現實がなんであれ、そこには上で述べたやうな「魂・無限」と「肉・有限」の普遍的な問題が内包されてゐます。
 高校生の頃、この自作解題を讀んで私がすぐに連想したのは、「双曲線とその漸近線」で、双曲線が漸近線に限りなく接近していくことは“不可避”ですが、しかし到達するのは“不可能”といふ幾何學的構造です。これはまた“非ユークリッド幾何”の構造でもあります。數學少年であつた私にとりその構造は實に不思議で、おまけに高校生の頃この構造をテーマにして「果てしない情欲は/無限に許容され/無限に拒絶されねばならない/漸近線の彌果て彌果てを漂ふ/連續への呪詛のやうに」などと西脇順三郎風の下手糞な詩を書いてゐます。この詩は、詩人山本太郎が選者をしてゐた「螢雪時代」といふヤクザな雜誌に掲載されましたが、ほとんど“觀念語”だけで書かれたその詩を選者は「器だけでは詩は書けない」と評してくれました。私は濕潤過多の日本の詩人の多くを嫌つてゐましたので、「詩は器がすべてではないか」と反感を持つたものです。
ともあれ、「魂・無限」と「肉・有限」の関係には、數學における無限と連続の問題からエロティシズムの問題まで、人間の多種多様な普遍的テーマが潜んでゐます。“エロチィシズム”と言へば唐突に感じられる方もいらつしやると思ひますが、その本質は九鬼周造(1888〜1941)が語つたやうに「異性間の二元的、動的可能性が可能性のままに絶對化されたもの」(『いきの構造』)で、それは「不可避と不可能」が同時に成立する場所ではじめて生まれるのです。  (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 12:13| Comment(0) | 河田直樹