2017年11月19日

きゃりこの戀(52) 教育敕語(二) 雁井理香

オスカー:
 前回の最後に教育勅語の全文を載せました。読みと意味を説明したい所ですが、Wikipediaを見れば分かるから、もう説明しません。
 ちょっと重要な漢字と語句だけ、つまんでみませう。
  「惟」は重要な訓(よ)みが二つあります。「ただ(只)」と「おもふ(思)」
  「皇祖(くわうそ)皇宗(くわうそう)」は「天照大神および代々の天皇」
  「肇」は「始める」。ここでは「ちんおもふに、わがくわうそくわうそうくにをはじむることくわうゑんに、とくをたつることしんかうなり」
  二つ目の文の中程は、「よよそのびをなせるは」
きゃりこ:
 「爾」が分からない。
オスカー:
 「なんぢ」。
きゃりこ:
 「なんぢ」は「汝」ぢやないの。
オスカー:
 同じ訓みの漢字がいくつもあるのです。「なんぢ」と讀む漢字の重要なものを竝(並)べておきませう。他にもたくさんあるのですが。
   汝 焉 爾 女 而 若
 そのちょっと後、「一旦緩急」以下は、「いったんかんきふあればぎいうこうにほうじ」
 「緩急(かんきふ)」は「まさかのこと」。何か大事が生じた時には、国の爲に盡しなさい」
きゃりこ:
 私が文法の話しても嗤はないでね。
 「大事が生じたので」ではなく、「生じたならば」の意味なのだから、「緩急あらば」と「未然形+ば」にしないといけなくない?
オスカー:
 おおおおお。きゃりこさんがいいことに気付きましたね。
 そのことは昔から指摘されてゐて、今でも「誤用論」と「擁護論」があつて決着がついてゐません。しかし、僕は、文法的な間違ひではないと思ひます。高校文法では、「未然形+ば」は「〜ならば」で、「已然形+ば」は「〜なので」と言はれてゐますが、「〜のときには・〜の場合には」と輕く云ふ場合には、「已然形+ば」が使はれます。
 擁護説も戦前からあつて、「漢文の『〜なれば則はち』の意味であつて間違ひではない」などと言はれてゐましたが、別に漢文を持ち出さなくても、本来の文語文法でもこの形で正しいのです。
 一番よい例が、有間皇子の辞世、
   「家にあれば笥(け)に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」
 「家にゐれば食器に盛るのに」ですから、「家にあらば」としなければをかしいやうに思ひますが、輕い「家にゐるときには」といふほどの意味なので、完全な仮定にはしてゐないのです。
 この部分の英訳が面白いですよ。明治政府の公式英訳です。
Should emergency arise, offer yourselves courageously to the State; and thus guard and maintain the prosperity of Our Imperial Throne coeval with heaven and earth.
きゃりこ:
 またおバカの私が、不自然な賢さを発揮するよ。
 書き出しは仮定法の倒置。If emergency should arise(非常事態が発生したならば)の意味ですね。その後は、「offerせよ、そしてguardせよ、またmaintainせよ」と命令形が三つ並んでゐるんだね。
オスカー:
 おおお、たいしたもんだ。
きゃりこ:
 違ふよ。私ぢやなくて、雁井さんが言つてゐるんだよ。私はズルなんだ。将棋の公式戦で、スマホの将棋ソフトを見るやうなもの。寧々とは違ふんだよ。くそッ、ぐれてやる。
 ついでに、雁井さんから電波が飛んで來たから、英語を直訳してやるね。
 「非常事態が出來したならば、勇敢に国家の爲に身を捧げよ。そして、天地とともに永続する皇位の繁栄を守護し維持せよ」
 自分で言つたのに、意味が分からないんだけど、「出來したならば」って、何? 「できしたならば」って讀むの、それとも「しゅつらいしたならば」って讀むの。
オスカー:
 「出來」は「しゅったい」。事件などが発生すること。「椿事(ちんじ)出來(しゅつたい)」と言つたら、「とんでもない出来事が持ち上がること」ですから、覚えておいてね。
 あとは、「謬ラス」と「悖(もと)ラス」だけ説明しませう。「謬」は「誤謬」といふやうに、「あやまる」(間違へる)。「悖」は「背(そむく)・違(たがふ)」の意味です。「時代を超越して誤ることなく、また世界にも普及させて違背することがないやうにせよ」です。
きゃりこ:
 そしたら、「謬ラズ」と「悖ラズ」でせう。濁点が抜けてるよ。
オスカー:
 戦前の天皇や政府の公式文書は、「句読点・濁点を打たない」といふ面白いルールがあつたのです。
きゃりこ
 あきれた。無意味なこと!
オスカー:
 最後にもう一つ。一番最後の「庶幾ふ」は何と讀む?
きゃりこ:
 「しょきふ」。なんぢや。
オスカー:
 《音讀み》して、「ショキす」ならいいけど、「ふ」が附いてゐるでしょ。
 「こひねがふ」つて讀むの。「乞ひ願ふ」といふこと。発音は「こいねがう」ではなく、「こいねごう」がいいでせう。
きゃりこ:
 なんで、「庶幾」をそんなふうに讀むの。
オスカー:
 漢文(古典中国語)で「庶幾」がhopeやwishの意味だから。



posted by 國語問題協議會 at 10:29| Comment(0) | 雁井理香

2017年11月10日

數學における言語(18) 西欧精神について[V] 河田直樹

 トマス・アキナスと言へば「スコラ哲學の王」と呼ばれ、「存在それ自體の本質」を體系的に思索し續けた大神學者、彼以後の歐羅巴を決定的に方向付けた大知識人として誰もが知つてゐます。スコラ哲學は、キリスト教が希臘哲學と對抗するために、自らも思辨的、哲學的にならざるをえなかつた宿命から生まれてきてゐますが、その瞠目すべき特徴は、ユークリッド『原論(ストイケイア)』に見るやうな「徹頭徹尾の理性的論證」にあります。
 實際、たとへば「神は存在するか」といふ問ひに對して、トマスは『神學大全』第一部の第2問第3項で「神が存在することは5つの道によつて證明されうる」と述べ、その第2の道の「作出因の根據」にもとづく‘證明’を以下のやうに展開してゐます。前回紹介した『徒然草』の兼好の「言葉」とトマスの「言葉」とを比較していただきたいと思ひます。

 (1)この可感的世界のうちにわれわれは作出因の秩序の存在することを見出す。
 (2)しかしながら何かが自分自身の作出因であることは見出されないし、またそういふことはありえない。なぜなら、その場合には、そのものはそのもの自身よりも先に存在することになるが、それは不可能だからである。
 (3)ところで作出因の系列を追つて無限に進むことはできない。なぜならすべての秩序づけられた作出因のうち、第一のものは中間のものの原因であり、中間のものは最後の原因である。中間のものが複數あるにせよただ一つであるにせよ。しかるに原因が取り去られれば結果も取り去られる。ゆゑに、もし作出因のうち第一のものがないとすれば、最後のものもないであろう。しかるにもし作出因の系列を追つて無限にすすむとすれば、第一の作出因は存在せず、したがつてまた最後に作り出されるもの(結果)も中間の作出因も存在しないことになるであらう。これはあきらかに僞である。
 (4)それゆゑぜひとも何らかの第一作出因が在るとしなければならない。これをすべての人々は神と名づける。
       (世界の名著、『トマス・アキナス』山田晶訳による)

「可感的世界」とは「いろいろなモノやコトを五感によつて觸知できる世界」であり、また「作出因」とは「結果を生ぜしめる原因として、結果との關係において捉へられたもの」といふことで、要するにこの世界のモノやコトを作り出す原因と考へておけばいいのではないかと思はれます。そして、トマスは、作出因を無限の遡及することができない故に、神は存在しなければならない、と主張してゐるのでせう。
 兼好が單なる「ザイン(=ある姿)」を語つてゐるのに對して、トマスは、その裏に形而上的な「戰ひの血のり」の付いた論證によつて「ゾルレン(=あるべき姿)」を語つてゐるやうに思はれます。兼好は「第一の佛はいかなるものか」といふ問ひに對して「空から降つてきたのだらうか、土から沸いたのであらうか」と言つて笑つた「父」の姿を書き留めてゐます。彼の關心は端的に言へば問ひそのものではなく、むしろ彼の父の方にあると言つてもいいのです。變てこなことを問ひ詰める自分の息子のことをいろいろな人に話して打ち興じてゐる父の姿(=ザイン)こそ、實は最終段のテーマです。
 一方、トマスの視線は同じ父でも「他から何ものをも受け取ることのない神性をもつ父」に向けられます。この「父」は決して笑ひません。すなはちそれは「神」です。「第一作出因が在るとしなければならない」といふ當爲の文體は、取りも直さず彼の關心が超越者としての「神」、言葉の眞の意味における「理想」にあることを示してゐます。トマスが「ゾルレン」を語るゆゑんですが、この違ひは決定的です。
                   (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 15:35| Comment(0) | 河田直樹

2017年11月03日

歴史的假名遣事始め (三十五) 市川 浩

クイズで遊ぶ歴史的假名遣(三十五)

先月のクイズ解答
問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

歴史的仮名遣も現代仮名遣も時間の経過とともに、個々の語のレベルで規則をすこしずつ変えざるをえないという宿命を持っている。一方は学問研究の進展を因とし、一方は発音と語源意識の変化を因とする。そして、前者の変更は、タイムマシンにでも乗らないかぎり、現代語の運用者であるわれわれが、この目とこの耳で正解を確認できない。それに対し、後者は、現代語の運用者であるわれわれが身近に正解を感得できる変更である。現代人の言語生活において、どちらが合理的な(すなわち科学的な)表記法であるかは、もはや言うまでもないであろう。(「かなづかい入門」213頁)

この主張に對する反論の一例を擧げます。

「正解を確認又は感得できるか」どうかで優劣を決めるのであれば、最近の物理學など確認、感得どころか理解さへ、それこそ「タイムマシンにでも乘らない限り」困難な現象の研究にノーベル賞が贈られてゐることをどう御考へなのでせうか。
それはさて措き假名遣の「個々の語のレベルでの」變更は、歴史的假名遣の場合は、契冲以後今日まで續いてゐますが、その數は年と共に減少してゐます。これは「依據する過去の文獻の數が有限」であるといふ基本原則によるもので、理念的にはゼロに收斂する筈です。一方現代假名遣は「現代の」發音に依據するので、今後どのやうな發音變化が起るか全く豫想が不可能です。從つて「變更」は未來永劫續き、やがては過去の表記體系が忘れ去られ、民族の古典が消滅する可能性も無しとしません。
「いや歴史的假名遣はさうした發音變化との乖離が大きくなれば自滅するしかない」と言ふかも知れません。しかし表記の發音からの獨立は逆に發音の變化を抑制する錨の役割を果すとも考へられます。「はは(母)」がハ行點呼で「はわ」となつても「はは」の表記が殘つて發音も再び「はは」となつた例などでは、日常目にする「はは」の表記が「ハワ」以上の發音變化(例へば「わわ」「あわ」など)を防止、且つ復元までしたと言へませう。
練習問題
本年一月から十一囘かけて白石良夫著「かなづかい入門」の批判を行つて來ました。全體を通しての感想、批判を纏めてみて下さい。
posted by 國語問題協議會 at 11:29| Comment(0) | 市川浩