2015年09月27日

【☆はがき一枚の国語】 年齢の異稱と賀壽の年齢 大喜多俊一

論語の爲政編に次のやうに書かれてゐる。
「吾十有五而志干學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命。六十而耳順。七十而從己所欲不超矩。」この孔子の言辭がもとになつたのが、十五歳を志學、三十歳を而立、四十歳を不惑、五十歳を知命、六十歳を耳順といふ異稱として廣く知られてゐる。二十歳のことを弱冠といふのは出所は別で、禮記「二十日弱、冠」_(二十を弱といひ、冠す_)による。
また、中國では、昔から五十歳になれば家の内で杖を突いてよいとされ、六十歳になると故郷で可とされ、七十歳では國ぢゆうで是認され、八十歳を超えれば同じ朝廷が續くかぎり杖を突いていてよいといふこと
から、それぞれ、杖家(じょうか)、杖郷、杖國、杖朝といふ。

賀壽の年齢は次に示すとほり。
七十歳の異稱は論語からは見られない。七十の賀の古稀は詩人杜甫の「曲江詞」の「人生七十古來稀なり」による。杖家のはなしといひ、昔は「人生五十年」の時代であった。

賀壽の稱は、還暦が數へて六十一歳。七十が古稀、七十七が喜壽、八十が傘壽、八十八が米壽、九十が卒壽、九十九が白壽、百が上壽である。喜・傘・米、白はみんな漢字(もじりも含め)の字劃から來てゐる。還暦はだれもが數へ年六十一歳の元日に迎へる祝賀の年。同じ干支の二回目をいふ。語釋を間違へた辭書(滿六十歳とする)が少なくない。

posted by 國語問題協議會 at 10:15| Comment(0) | 大喜多俊一

2015年09月21日

屋下に屋を架す     中谷信男               

屋下に屋を架す
この中國の家訓をなぜか日本では「屋上に屋を架す」と上下をかへて使ひ慣れ、屋根の上にさらに屋根をかさねて作るなど何と無駄なことを、と嗤つてゐる言葉にしてゐます。「無駄な」の一語ですむものを、建物といふ具體的な物のイメイジをかりてわかり易くした譬へです。
因みに日本には「鞘堂」といふ建物があつて、例へば中尊寺の金色堂全體を保護するために、屋根の上に屋根だけだけではなく、鞘が刀を包み込むやうに、建物を丸ごと掩つてしまふ御堂を指します。
これに似た「これでもか、これでもか」と疉みかけてゆく表現は隨分と多いものです。望ましい意味のことばをあげてみませう。

鬼に金棒
鬼といふと惡の權化のやうに思はれ勝ちで、角が生へ、口が裂け、牙のある怪物が大きな鐵の棍棒をもつてゐるやうで、恐ろしい存在といふイメイジが思ひ浮びます。しかし、「鬼才」といふと、人間とは思はれぬほどの才能豐かな人物をさし、それが金棒を持ては更に強力な存在になるといふことになります。

負んぶに抱つこ
人に負んぶするのは、その人に頼るわけで、それだけですでに負擔を掛けてゐるのに、その上だつこまでしてもらふのだから、してもらふ方にとつては得がたく有難いことになります。(負んぶし抱つこする身には、骨が折れて大變なのですが)

飴で餠を食ふ
餠だけでも旨いのに、それに飴をつけて食するのだから、文字通りうまいものづくめ、よいことづくめの意味になります。尤もこれは江戸時代のことばなので、今の人に通用するかどうか。

網も破らず魚も洩らさず
漁師が網で漁をし、大きな魚を大量に獲ることに成功し、その際に網が破れる被害も無かつたことを言ひます。よいことづくめの一例です。
海にかかはる重なりの表現としては「順風滿帆(じゆんぷうまんぱん)」「得手に帆を揚げる」「渡りに船」などがあります。

割れ鍋に綴ぢ蓋
修理するなら買ひ替へるといつた風潮の今どき、このやうな料理道具を持つてゐる人がゐるなどとは考へられませんが、割れてひびの入つた鍋に繕ひなほした蓋がかぶせてある、といふのは、片方が破れ鍋のやうな不細工な男でも、それに似合ふ毀れた蓋のやうな女性が必ずゐるものだといふ意味で、どんな人でも相應な配偶者がゐることのたとへです。圍爐裡にそのやうな鍋がかかつてゐて夫婦がむつまじくくらしてゐる和合の樣が目にうかぶ、好ましい成句ではないでせうか。

しかし、この「これでもか、これでもか」表現には一段と惡くなるといつた意味の語が多いものです。「泣きつ面に蜂」「一難去つてまた一難」「踏んだり蹴つたり」「弱り目に祟り目」「盜つ人に追錢」など、よく使はれることばです。
人生「苦あれば樂あり、樂あれば苦あり」と呑氣に構へられるかどうか。


posted by 國語問題協議會 at 12:44| Comment(0) | 中谷信男

2015年09月10日

きやりこの戀(12)  一ケ百八円  雁井理香(かりゐりか)

きやりこ:
 「一ケ百八円」とかいふぢやないですか。あの「ケ」つて何ですか。「一個」つて意味でせうけど。
オスカー:
 「一箇」とも書くでせう。「個」と「箇」は、発音は全く同じなんだけど、一応使ひ分けがあるんです。でも、今では中国でもどつちを使つてもよくなつてゐます。簡体字では、どちらも「个」でいいのです。「
きやりこ:
 「个」つて、辞書にないのによく見るから不思議だと思つてゐたんだけど、中国の略字だつたのか。
オスカー:
 「箇」の部首は何でせう。
きやりこ:
 「竹」が上についてゐるから、「タケヘン」ですね。
オスカー:
 左についてゐれば、「扁(ヘン)」ですが、上についてゐるときは「冠」なの。
きやりこ:
 えッ。「タケカンムリ」つて言ふの? んみゃッ。
オスカー:
 「竹」の字の片方だけだと、何かカタカナに似てゐるでせう。
きやりこ:
 「ケ」に似てますね。まッ、まッ、まさか。「箇」の「竹」を取つて、そのまた片方だけを取って、「ケ」つて言葉が出来たの?
オスカー:
 そのとほりです。でも、片假名の「ケ」ぢやなくて、「箇」の略字だから、「コ」つて讀んでね。
きやりこ:
 「一ケ」つて書いて、「イッケ」ぢやなくて、「イッコ」つて讀むんですか。
オスカー:
 日本語に「助数詞」といふのがありますね。
きやりこ:
 イチ、ニ、サン、シ、ゴのことね。
オスカー:
 それは「数詞」。
きやりこ:
 ぢやあ、ヒトツ、フタツ、ミッツのことだ。
オスカー:
 それも「数詞」。一、二、三、四、五は音讀みすると、「イチ、ニ、サン、シ、ゴ」、訓讀みすると「ヒト、フタ、ミ、ヨ、イツ」。
きやりこ:
 どうして、「ヒトツ、フタツ、ミッツ」つて、「ツ」を付けないの。
オスカー:
 だつて人間の時は、「ツ」ぢやなくて、「リ」を付けて、「ヒトリ、フタリ、ミタリ」つて言ふし、箪笥(たんす)数えるときは「ヒトサヲ、フタサヲ、ミサヲ」つて言ふでせう。そしたら、数詞の部分は、「ヒト、フタ、ミ、ヨ、イツ」の所だと思はない?
きやりこ:
 なるほどね。ぢやあ、その「ツ」「リ」「サヲ」の品詞は何なのですか。
オスカー:
 今、言つたぢやない。
きやりこ:
 さうか。それが「助数詞」なんだ。
オスカー:
 英語ではどうでせう。
きやりこ:
「助数詞」なんて、聞いたことないよ。私が知らないだけかな。
オスカー:
 英語にはないんですよ。
きやりこ:
 うん。それは不思議ぢやないね。たとへば、「冠詞」は、逆に、英語にはあるけど、日本語にはないんだから。
オスカー:
 中国語ではどうでせう。
きやりこ:
 中国語なんてもつと分からないよ。-------------わ、わかつた! 「箇」や「個」が助数詞なんだ。
オスカー:
 さすがに、きやりこさんは勘がいいですね。ねねさんより。
きやりこ:
 頭はおねえちやんの方がいいつて言ひたいんだね。頭と腕力はおねえちやんの勝。勘と顔と性格は私の勝。ひよつとして、顔もおねえちやんの勝だと思つてない?
オスカー:
 I said nothing whatever. ところで、日本語では助数詞だけど、中国語では「量詞」つて言ふんですよ。
きやりこ:
 助数詞つて言へばいいぢやない。
オスカー:
 おおおお。賢い。僕も前からさう思つてゐたんですよ。中国語にも、前置詞にそつくりのものがあるんだけど、「介詞(かいし)」つて言ふの。でも、日本人が中国語を学ぶときには、前置詞つて言へばいいと思ふんですよ。それなのに、中国語の教科書はみんな「介詞」つて書いてるの。わざわざ面倒なことしてますね。「量詞」も「助数詞」でいいんですよ。
きやりこ:
 日本人が英語勉強するときにも、「プレポなんとか」なんて言はないで、「前置詞」つて言ふんですものね。
オスカー:
 やあ、また感心した。英文法の話してゐるとき、よつぽど気障(きざ)な人でなければ、prepositionなんて言はないものね。
きやりこ:
 アメリカ人は気障だからprepositionつて言ふけどね。
オスカー:
 アメリカ人が言ふ時は、気障とはちよつと違ふと思ひますけど。そこで、助数詞の話なんだけど、中国では「一人の人間」は「一個人」つて言ふんです。ふたりのときは、「二個人」でなくて、「両個人」つて言ふんですけどね。ふつう、「二」だけは、「二」と言はずに「両」を使ふの。
きやりこ:
 へえ。「箇」は?
オスカー:
 「箇」は広く使はれて、面倒な量詞を思ひ付かない場合は、みんな「箇」で代用できるの。たとへば、「商店」(日本語と同じ意味)の量詞は「家」だから、「三軒の商店」は「三家商店」と言ひますが、それを「三箇商店」(三个商店)と言つてもいいのです。 「山」の助数詞は「塊」。「四つの山」は「四塊山」。「本」のことは「書」と言ふのですが、その量詞が「本」。
きやりこ:
 なんてややこしい。ぢやあ、「一本書」が「一冊の本」なのね。でも、「冊」つて字があるんだから、「一冊書」でもよささうなのに。
オスカー:
 さすがだネ、きやりこさん。
きやりこ:
 さすがだねねさん、つて言ひかけなかつた?
オスカー:
 さすがだね、つて感心して、その後に、きやりこさんつて付けただけ。「冊」の字は叢書や選書の中の一冊のやうな特殊な場合だけに使はれます。
きやりこ:
 私の想像ですが、「一本書」の「書」を省いてゐるうちに、独立して、「本」といふ名詞が出来たのかな。
オスカー:
 日本語の「本」はさうやつてできたんでせうね。中国でも、ノートの類に宛てることがあつて、「本子」と言へば、「ノート」や「証明書類」のこと。
 中国語の助数詞(量詞)には、英語のpairみたいな使ひ方をするものもありますよ。a pair of shoesのことを「一双鞋」と言ひます。「群」も似た使ひ方。
きやりこ:
 a herd of horsesを「一群馬」つて言ふんぢやない?
オスカー:
 まさしくそのとほりです。
posted by 國語問題協議會 at 10:58| Comment(0) | 雁井理香