2015年12月26日

三年八年 中谷信男


桃栗三年柿八年
首振り三年コロ八年
獨逸語三年 佛蘭西語五年 英語七年
桃や栗は芽が出て三年で實がなるが、柿は八年はかかると言ひ慣らはされて來た。そこから尺八は首を振り振りまともな音が出せるのに三年かかるが、さらにその上の妙なる音、コーロ・コロコロコロといふ音がでるやうになるにはさらに八年はかかるといひます。
以前、獨逸語習得には三年、佛蘭西語には五年、英語にかなり精通するには七年はかかるとされたものです。この桃栗三年柿八年のパターンを受けたものでせう。
では一體日本語はどうか。或るユダヤ人は八ケ月あれば一應の使ものになると廣言してゐましたが、日本語はそこからが大變だといふ外國人も多く、特に漢字に躓くやうです。

三人寄れば人中(ひとなか)
三人寄れば文珠の智慧
三人旅の一人乞食
三人が集ればそこは人中、公の場となつて、そこで言つたことは祕密にはできないといふ意味です。智慧を出しあふのもそのゆゑでせう。ところがその三人で旅をすると、その中の一人が窮乏するとか、仲間外れになることが起り勝ちだともいひます。二對一となつてそこに對立關係が生れ、一人が彈きだされることが多いものです。
鼎談(ていだん)といふのは、主として食物の煮炊き用に用ゐられの青銅器鼎(かなへ)が三本足をしてゐるので、三人向ひあつて座談することを言ひます。若くしてなくなつた遠藤浩一さんは、三島由紀夫は鼎談に向いてゐたが福田恆存さんは對談(二人で向合つての座談)が秀逸だつたと言つてゐました。福田先生に「對談集」の多いのはそのゆゑで、プラトン的ともいへる思考パターンがよくわかります。

八細工七貧乏
八細工とは器用なことをさします。何でもこなす多藝で多才な人は、結局どれも大成せず、貧乏することが多い。

十年一日
「十年」も過ぎたのに「一日」しか經つてゐないかの如く、全く變化がないこと。
しかし良い意味では、一つの仕事を根氣よく續けることを意味します。

百になるまでは十代
百歳までは十代の若さだ、つまり百歳までは九十代であつても十代がつくことからさう氣張つて言つてゐることをさし、「四十五十は洟垂れ小僧、六十七十は働き盛り、九十になつて迎へが來たら百まで待てと追ひ返せ」と同じやうな意味です。この後の格言は澁澤榮一が言つたとされてゐますが、御本人は九十一歳で亡くなつてゐますので、百歳までは待つてもらへなかつたことになります。いづれにせよ、今の高齡化社會では常識化したやうなことばになつて來ました。

百發百中
一發必中
「中」は當るといふ意味ですから、「一發必中」は、彈の一發一發が必ず命中することです。東郷元帥は「百發百中の砲一門は、百發一中の砲百門に匹敵する」と言つて、訓練の大切さを教へました。
posted by 國語問題協議會 at 10:34| Comment(0) | 中谷信男