2016年05月24日

 きゃりこの戀(23) 大と太  雁井理香(かりゐりか)

きゃりこ:
 小倉山嶺の紅葉葉心あらば今一度のみゆき待たなむさだのぶきみ
オスカー:
 「さだのぶきみ」つて何ですか。
きゃりこ:
 作者の名前らしい。漢字で書くと「貞信公」。
オスカー:
 「ていしんこう」と讀んでね。藤原忠平のこと。道長の曽祖父。
平安時代前期には、太政大臣経験者にはみんな「公」のついた名前が死んだ後に贈られたのです。百人一首には、「謙徳公」といふ人もゐますが、これは忠平の子供の伊尹(これただ)。
摂関時代も最後の頃になると、「公」は贈られません。百人一首でも、保元の乱に出てくる藤原良経なんかは、「後京極摂政前太政大臣」といふ肩書きで、「公」はついてゐません。
きゃりこ:
 その「だじやうだいじん」といふのは、一番偉い人なのね。
オスカー:
 「だいじやうだいじん」と讀んで下さいね。
きゃりこ:
 えッ。ちよつと漢和辞典貸してね。----------------ほら、「太」には「タイ・タ」はあるけど、「ダイ」といふ音は出てゐないよ。でも、「ダ」も出てゐないから、どつちも間違ひかも。
オスカー:
 辞書に出てゐなくてもいいんですよ。
きゃりこ:
 アメリカ人のくせに、漢和辞典より俺のはうが正しいって言ふつもり?
オスカー:
 固有名詞は慣用的な讀み方が出來てくるものなのです。さういふふうに、常識では考へられない発音をする所が日本語の魅力だと言つたぢやないですか。
 歴史上、一人だけ「だじやうだいじん」がゐます。明治十八年に、内閣制度が出来る前は、「太政官制度」だつたのですが、そのトップの「太政大臣」は「だじやうだいじん」と讀むことになつてゐました。それに就任したのは、三條実美だけ。この人が、歴史上ただ一人の「だじやうだいじん」。
 ただ、退位した天皇のことは、「太上天皇」、縮めて「上皇」と言ひますが、これは「だじやうてんわう」。もつとも、「だじやうてんわう」でもいいといふことになつてゐます。
きゃりこ:
  「太政大臣」の下が、右大臣とか左大臣ですね。当然、太政大臣・右大臣・左大臣の順ですね。
オスカー:
 違ひます。太政大臣・左大臣・右大臣の順です。
きゃりこ:
 右より左の方が偉いの?
オスカー:
 「天子は南面す」といふ言葉があります。中国の皇帝は、北極星になぞらへられて、いつも北にゐて、南を向いてゐるのです。そして、天子から、南に並んでゐる臣下を見ると、東が左、西が右になります。東は太陽の昇る方向だから、西より偉い。だから、左が右より偉いことになるのです。左大臣の方が右大臣より偉いんですよ。
 ところで、「ダザイフ」つて、漢字で書けますか。
きゃりこ:
 太宰府。
オスカー:
 これは、百人一首の解説で、「菅原道真」の所だけど。ほら、ここ讀んでみて。
きゃりこ:
 なになに。「時平の讒言にあつて失脚し、大宰權帥に貶せられて、九州へ流された」。それがどうしたの。------------あれッ。「大宰權帥」が「太」でなく「大」になつてる。
 分かつた。ダザイフのときは「太」だけど、役人のときは「大」を使ふんだ。
オスカー:
 発想はいいけど、まるつきり違ひます。
きゃりこ:
 また馬鹿にしたね。そのうち、痛い目に遭ふよ。
オスカー:
古い時代には「大宰府」と言つてゐましたが、平安末期頃から「太宰府」も出てきて、その後、時代が経つにつれて、「太宰府」が多くなつたのです。因みに、「ダザイヲサム」は「太宰治」。
「駄目」の「駄」は、正字はウマヘンに、「太」でなく「大」なのです。「駄」は俗字。
きゃりこ:
 へええ。俗字の方が画数が多いんですね。
オスカー:
現代中国語で「大」はda、「太」はtai。何か関係があるかも知れません。でも、「沙汰」の「汰」は旁(つくり)が「大」になることはありません。
次回は大宰府のお話をしませう。
posted by 國語問題協議會 at 12:51| Comment(0) | 雁井理香

2016年05月16日

【☆はがき一枚の國語】 泉鏡花  大喜多俊一

京都市圖書館讀書友の會二月(平成十一年)例會は泉鏡花作『高野聖』が課題圖書。
當作の講述に備へて百年前の文章を五度十度と讀むうちに、違和感は失せ、逆にその巧みな表現にしばし感じ入る。鏡花の評價は好惡相半ばするといはれるが、研究家村松定孝氏は、鏡花は言葉の錬金術師と言つていいほどに表現の彫琢に類ひ稀な才を発揮し、思ひを獨特の文體に託して多くの優れた作品を創作したと言つてゐる。
『高野聖』の主題は「魔性の美女に魅せられた凡夫修行者の苦惱と見たが、更に他の著名な作品によつて鏡花を深讀みすれば、そのロマンと幻想の深淵に格段に多くの人が引き込まれるのではないかと思はれた。美しくこよなく優しい女性への憧憬とお化けを信ずる心向きは超自然と神秘の世界へ讀者を誘ふのである。
廣く讀まれてゐる漱石・藤村・龍之介などと同様に鏡花はもつとよく知られてもよいのではないかといふ思ひを新たにする。今日、若い作家の現代的感覺に學びつつも明治大正の文學を讀み直すおもしろさもまた盡きることはないものと確信する。

☆ 情景は一落の別天地、陰々として深山の気が籠つて來たところ。
生ぬるい風のやうな気勢がすると思ふと、左の肩から片膚を脱いだが、右の手を脱して、前へ廻し、ふくらんだ胸のあたりで着てゐたその単衣(ひとえ)を円(まろ)げて持ち、霞も絡(まと)はぬ姿になつた。
『高野聖』のクライマックスに近い件(くだり)。女の描寫の妙を讀む。☆
posted by 國語問題協議會 at 18:39| Comment(0) | 大喜多俊一

2016年05月07日

きゃりこの戀(22)   絶対敬語  雁井理香(かりゐりか) 

オスカー:
 僕が日本へ來る前のことなんだけど、田中真紀子外務大臣といふ人がゐましたね。
きゃりこ:
 あたしが赤ん坊の頃の話だから覚えてゐないけど、ものすごい人気だつたのでせう。「総理大臣にしたい人」のアンケートで一番になつたつて聞いたことある。
オスカー:
 あの人がちよつとした問題を起したことがあります。
きゃりこ:
 問題ばかり起してゐた人なんでせう。
オスカー:
 天皇陛下に内奏をして帰つて來た当日のことなんだけど。
きゃりこ:
 「内奏」つて何?
オスカー:
 大日本帝国では、臣下が正式に天皇に御報告を申し上げるのを「上奏」と言ひました。
きゃりこ:
 「奏上」ぢやないの?
オスカー:
 おお、賢い。賢い。漢語では「奏上」なんだけど、大日本帝国では「上奏」を使ひました。そして、上奏の前に、内々に御報告しておくのを「内奏」と言つたのです。
きゃりこ:
 今でも、その制度はあるのですか。
オスカー:
 戦後は、天皇は政治に関与してはいけないといふことで、廃止になつたのですが、その後、「ご報告するだけなら問題はないだらう」といふことで、内奏だけは復活しました。戦前の内奏は臣下に廣く使つたのですが、現在は国務大臣の行為に限つて使ふやうです。「上奏」の方は、実態もなくなり、言葉もなくなりました。
きゃりこ:
 その内奏のときに、真紀子さんが問題を起したのですか。
オスカー:
 内奏の後ですけどね。国会内で、他の議員や新聞記者のゐる前で、「陛下がこんなふうにおつしやつたのよ」とペラペラ話し出しました。
きゃりこ:
 話しちやいけないことになつてゐるのね。天皇は神聖だから。
オスカー:
 戦前はさういふ理由でしたが、戦後は、天皇が政治的な発言をしたことを漏らしては、政治関与の問題になるからといふ理由です。
 そこで、傍にゐた一人の議員が、あはてて、「やめろ。クビになるぞ」と怒鳴りました。すると、真紀子さんが不思議さうな顔で、「どうして?」と言つたといふのです。真紀子さん、凄い人気だつたので、マスコミも、何を言つても叩けなかつたので、問題になりませんでした。
きゃりこ:
 人気があるとマスコミも非難できないの?
オスカー:
 非難すると、発行部数や視聴率が落ちるから。
きゃりこ:
 でも、真紀子さんを怒鳴りつけた議員つて、凄い根性があつたのね。
 ところで、天皇陛下のおつしやつたことを人に告げる時つて、おつしやつたとほりに言ふのかしら。
オスカー:
 「枕草子」や「大鏡」なんかを讀むと、天皇は自分の行為に敬語を付けてゐますね。
きゃりこ:
 「絶対敬語」ですね。天皇は一番上にゐる人だから、自分の行為にも敬語を付けたのでせう。
オスカー:
 昔はさう解釈されてゐたのですが、實はさうではなかつたらしい。天皇は、自分の行為には敬語を付けずに話されるのですが、それを記録に書き写す人が、いくら御自分でおつしやつたことだからと言つて、敬語なしは恐れ多いといふことで、敬語を付けてしまつたのです。これが、「絶対敬語」の実態だと言はれてゐます。
 ところで、二二六事件のときに、本庄侍従武官長が、叛乱部隊の将校を弁護して、「彼らのやつたことは弁解の余地はないにしても、その国を思ふ心情はお汲み取り下さい」と言ひました。すると、昭和天皇は、「それはただ、私利私欲に出づるにあらずと言へるのみ」とおつしやいました。
きゃりこ:
 なるほど。私利私欲のためでなければ何でも許されるといつたら、チンピラが町で、面白くないからと言つて人殴るのは、金のためぢやないから、悪いことぢやない、といふやうなものですものね。昭和天皇は人生を見る目をお持ちだつたのね。
 でも、日常会話でも、「あらずと言へるのみ」なんて、文語をお使ひになつてゐたのかしら。
オスカー:
 そこが、僕の言ひたいことだつたのですけれどもね。
きゃりこ:
 --------------------------わ、わかつた! 天皇は、ふつうに口語でお話しになつたのに、侍従武官長が、そのまま伝へるのは恐れ多いからと思つて、文語にしてしまつたのね。
オスカー:
 さうなんですよ。本当はどんなふうにお話しになつたのか興味を唆られる所なんですけどね。
 ところで、この二二六事件のときの、昭和天皇は、人に聞かれた記録としては、一生に一度しかお使ひにならなかつた一人称代名詞を口になさつてゐます。
きゃりこ:
 まさか、「俺」とおつしやつたとか。
オスカー:
 それなんですよ。叛乱部隊に対して、政府は弱腰で、彼らの要求を聞いてやらうといふ態度だつたのですが、昭和天皇が一人で反対なさつて、鎮圧に決つたのです。
 このとき、天皇は、侍従武官長に向つて、ご自分の側近たちが殺されてしまつたことに憤りの色をお見せになつて、「俺のまはりの者たちを、こんなふうに、--------------」とおつしやつたといふのです。まあ、小学校のときからの御学友もゐるのですから、日常生活では、「俺」を使つたことも多かつたとは思ふのですけれどもね。
きゃりこ:
 ふだんは何とおつしやつてゐたのかしら。「朕」かな?
オスカー:
 「朕」は余程公的なときだけ。ふだんは「自分」とおつしやることが多かつたらしい。
 まだ皇太子で十代だつたとき、ヨーロッパへいらしたことがありました。当時だから、軍艦で軍人たちと一緒に生活しながら、半年くらゐかけて旅行なさつたのです。
 このとき、軍人たちは皇太子が自分のことを何とおつしやるのか、興味津々でした。まだ天皇ではないのだから、「朕」とはおつしやらないだらうとは思ふんだけど、ぢやあ、何だらうといふことになつたのです。みんなの想像では、「マロ」とおつしやるだらうといふ意見が多かつたというのです。
 さて、乗り込んでいらした皇太子のお言葉を聞いて、軍人たちはずつこけてしまひました。
きゃりこ:
 「俺」でないとすると、ふつうに「私」かな。軍隊でなら、「自分」かな。
オスカー:
 「僕」とおつしやつたのです。
posted by 國語問題協議會 at 13:02| Comment(0) | 雁井理香