2016年06月30日

數學における言葉 河田直樹

 長年「數學ヘ師」を‘なりはひ’にしてきた者です。これまで「現代數學社」という出版社から出てゐる數學專門の月刊誌に何度か連載したことがありますが、しかしかういふ月刊誌では‘數學’から大きく逸脱した記事はなかなか書けないもので、こちらの無知蒙昧も手傳つてどうしてもある種の遠慮が働いてしまひます。しかし、この度、せつかくこのやうな場を與へられたのですから、さうした遠慮を思ひ切り取つ拂ひ、夜郎自大的になるかもしれませんが、獨斷と偏見を恐れずに當方の考へてゐること、感じてゐることを自由氣儘にゆつくりと綴つてみようかと考へてゐます。
「數學」を受驗生にヘへてゐて最も氣になるのは、「數學における言葉の問題」です。この言葉にはひと言では言い盡せない筆者のさまざまな思ひが込められてゐます。
たとへば、數學における最も基本的な“コトバ”である「數」とは何か?「點」や「線」といつた言葉は何を意味してゐるのか?「無限」とか「連續」といった言葉が登場する數學といふ言語體系とは一體いかなるものか?また、數學言語による事物認識とは何なのか?またその對象は何なのか?さらに言語で‘數學’を考へる人間の最奥にある最も根源的な衝動あるいは欲求とは何なのか?等々、かうして擧げていけば切りがありません。
 いま、「點」や「線」といふ言葉は一體何を意味してゐるのか、といふことを申し上げましたが、これに關聯してすぐに想起されるは、森鷗外の「かのやうに」という哲學的短編小説で、國史の研究を畢生のテーマとしてゐる秀麿が、學習院の同級生の綾小路に語る次の言葉です。
 
 そこで人間のあらゆる智識、あらゆる學問の根本を調べて見るのだね。一番正確だとしてある數學方面で、點だの線だのと云ふものがある。どんなに細かくぽつんと打つたつて點にはならない。どんなに細くすうつと引いたつて線にはならない。どんなに好く削つた板の縁も線にはなつてゐない。角も點にはなつてゐない。點と線は存在しない。例の意識した嘘だ。併し點と線があるかのやうに考へなくては。幾何學は成り立たない。あるかのやうにだね。コム・シイだね。

 このあと秀麿は「自然科學」方面のことにも言及し、「物質と云ふものでからが存在はしない。(中略)元子も存在はしない」と、いまの私たちから見るとちよつと疑問に思はれることも語るのですが、それはともかく、「數學」については、鷗外の「かのやうに」の哲學は確かに納得できることです。ここには。プラトンの「イデア論」に通底するものがあり、また近世數學が點を實數の組 で認識する以前の問題があります。これについてはいまは深入りせず、いずれ深く考へてみたいと思つてゐますが、このやうなことは數學專門の月刊誌ではなかなか書けないものです。
ところで、私は受驗生の數學に對する心構へとして、唐突な感じがしますが、これまた鷗外の散文詩のような美しい短編「杯」の第八の娘の「MON.VERRE.N’EST.PAS.GRAND.MAIS.JE.BOIS.DANS.MON.VERRE.(わたくしの杯は大きくはございません。それでもわたくしはわたくしの杯で戴きます)」といふ言葉を、しばしば取り上げます。實はこの娘の心意氣こそは、數學という學問と付き合ふ第一歩だと私は考へてゐるのですが、これについては次回、『現代數學への道』の著者中野茂男氏の言葉を取り上げて、お話ししてみたいと思ひます。
                    (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 12:16| Comment(0) | 市川浩

2016年06月27日

 きゃりこの戀(23) 大と太  雁井理香(かりゐりか) 

きゃりこ:
 小倉山嶺の紅葉葉心あらば今一度のみゆき待たなむさだのぶきみ
オスカー:
 「さだのぶきみ」つて何ですか。
きゃりこ:
 作者の名前らしい。漢字で書くと「貞信公」。
オスカー:
 「ていしんこう」と讀んでね。藤原忠平のこと。道長の曽祖父。
平安時代前期には、太政大臣経験者にはみんな「公」のついた名前が死んだ後に贈られたのです。百人一首には、「謙徳公」といふ人もゐますが、これは忠平の子供の伊尹(これただ)。
摂関時代も最後の頃になると、「公」は贈られません。百人一首でも、保元の乱に出てくる藤原良経なんかは、「後京極摂政前太政大臣」といふ肩書きで、「公」はついてゐません。
きゃりこ:
 その「だじやうだいじん」といふのは、一番偉い人なのね。
オスカー:
 「だいじやうだいじん」と讀んで下さいね。
きゃりこ:
 えッ。ちよつと漢和辞典貸してね。----------------ほら、「太」には「タイ・タ」はあるけど、「ダイ」といふ音は出てゐないよ。でも、「ダ」も出てゐないから、どつちも間違ひかも。
オスカー:
 辞書に出てゐなくてもいいんですよ。
きゃりこ:
 アメリカ人のくせに、漢和辞典より俺のはうが正しいって言ふつもり?
オスカー:
 固有名詞は慣用的な讀み方が出來てくるものなのです。さういふふうに、常識では考へられない発音をする所が日本語の魅力だと言つたぢやないですか。
 歴史上、一人だけ「だじやうだいじん」がゐます。明治十八年に、内閣制度が出来る前は、「太政官制度」だつたのですが、そのトップの「太政大臣」は「だじやうだいじん」と讀むことになつてゐました。それに就任したのは、三條実美だけ。この人が、歴史上ただ一人の「だじやうだいじん」。
 ただ、退位した天皇のことは、「太上天皇」、縮めて「上皇」と言ひますが、これは「だじやうてんわう」。もつとも、「だじやうてんわう」でもいいといふことになつてゐます。
きゃりこ:
  「太政大臣」の下が、右大臣とか左大臣ですね。当然、太政大臣・右大臣・左大臣の順ですね。
オスカー:
 違ひます。太政大臣・左大臣・右大臣の順です。
きゃりこ:
 右より左の方が偉いの?
オスカー:
 「天子は南面す」といふ言葉があります。中国の皇帝は、北極星になぞらへられて、いつも北にゐて、南を向いてゐるのです。そして、天子から、南に並んでゐる臣下を見ると、東が左、西が右になります。東は太陽の昇る方向だから、西より偉い。だから、左が右より偉いことになるのです。左大臣の方が右大臣より偉いんですよ。
 ところで、「ダザイフ」つて、漢字で書けますか。
きゃりこ:
 太宰府。
オスカー:
 これは、百人一首の解説で、「菅原道真」の所だけど。ほら、ここ讀んでみて。
きゃりこ:
 なになに。「時平の讒言にあつて失脚し、大宰權帥に貶せられて、九州へ流された」。それがどうしたの。------------あれッ。「大宰權帥」が「太」でなく「大」になつてる。
 分かつた。ダザイフのときは「太」だけど、役人のときは「大」を使ふんだ。
オスカー:
 発想はいいけど、まるつきり違ひます。
きゃりこ:
 また馬鹿にしたね。そのうち、痛い目に遭ふよ。
オスカー:
古い時代には「大宰府」と言つてゐましたが、平安末期頃から「太宰府」も出てきて、その後、時代が経つにつれて、「太宰府」が多くなつたのです。因みに、「ダザイヲサム」は「太宰治」。
「駄目」の「駄」は、正字はウマヘンに、「太」でなく「大」なのです。「駄」は俗字。きゃりこ:
 へええ。俗字の方が画数が多いんですね。
オスカー:
現代中国語で「大」はda、「太」はtai。何か関係があるかも知れません。でも、「沙汰」の「汰」は旁(つくり)が「大」になることはありません。

posted by 國語問題協議會 at 21:46| Comment(0) | 雁井理香

2016年06月20日

がらんとした天井の下に 中谷信男

「がらんがらんと鐘がなる」といつたときのがらんがらんは、からんよりは大きな音を眞似た言葉、いはゆる擬音語です。それと同じ音を使つて「がらんとしてゐる」といつた時のがらんは、日本語由來の言葉ではありません。「僧伽藍」といふ僧が集る寺院建築を意味する梵語名詞が取込まれて、大きな部屋、空間で何もない状態を示す日本語副詞になりました。
日本語の特徴の一つには、擬音(聲)語(オノマトペイ)の多いことが擧げられてゐます。極端な人は、日本語の多くは擬音語から單語が作られたと主張します。それほど日常多用されてゐることは確かです。

音そのものから或るイメイジを生みだすものなので、言葉の論理的な運用とは懸け離れてゐる上に、日本人特有のイメイジによることが多いので、外國人の日本語學習にはかなりな障礙となつてゐます。最近の携帶電話やタブレットにはマニュアルはついてをらず、多くのアイコン・icon があつて、その畫像から類推して作業を進めるやうになつてゐます。擬音のやうに聽覺によるものでなく、 視覺的な擬態語に似てはゐますが、イコンは直觀力を必要とされる點が、擬聲語にとてもよく似てゐます。

つぶつぶと」といふ單語は語源ははつきりとはしないにしても、小さく丸いもののイメイジから擬態語、擬聲語に組入れられてゐて、源氏物語を始めとして同じイメイジで使はれ續けてゐます。「かくつぶつぶと書きたまへるさまの」「つぶつぶとなき給ふ」「つぶつぶとをかしげなる胸をあけて」「つぶつぶと言ひしらする」など、樣々な意味の用法がありますが、いづれも細かい、丸いなどのイメイジから解釋出來るものです。「つぶさに」「つぶら」「つぶやく」など、粒のイメイジから日本人には容易く諒解されませう。

直觀は非論理的であるためからか、多くの「文章讀本」などでは、必ずと言つてよいほど、文章を書くときには擬音語、擬態語を極力使ふなと忠告してゐます。漢語を使へと獎める人もゐますが、その漢語とて、「峨々たる山」「諄々と説く」「爛々と眼を光らせた」などりつぱな擬態語で、漢語の擬聲語擬態語なら認め、和語のものは使ふなといふ意見には納得が行きません。中でも「呵々大笑する」は「カカ」と讀みますが、此の語、「發音の意味の口偏」がついて、じつは「ハハ」だつたのではないかと、素人ながら考へてゐます。地藏菩薩の眞言には「訶訶訶」とあり、これはサンスクリット語では「ハハハ・hahaha」とあつて笑ひ聲の擬聲語であることから類推されます。特に昔の日本人は〔h〕を〔k〕音で發聲してゐましたから、今に至るまで地藏菩薩の眞言は「おん・カカカび・さんまえい・そわか」と讀んでゐます。

印歐語では、〔sl〕には滑るとか傾くといつた意味があると聞いたことがありますが、slip、sleigh橇、sleek滑らか、slickつるつる、slide滑る、slug なめくじ、等々とあげていくと、英語もかなり擬音語的だと思はされます。日本語のすらりとかするするすりぬける等も音だけで意味がとれさうです。
最近耳で確認したことですが、バッハと同世代の音樂家ラモーには蛙を主役としたオペラがあり、その中の合唱に蛙の擬聲語「クワクワ」が出てきました。佛蘭西語に purqoi 何故といふ言葉があり、そのquoiをクワ(コワ)と發音することから使はれてゐたもので、18世紀の佛蘭西でこのやうな、日本の田圃ではなじみの蛙達の合唱をイメイジさせる擬聲語が音樂になつてゐることを大變面白いと思ひました。
日本では、三善晃といふ作曲家が「こどものピアノ小品集」で、ぎざぎざふわふわするするひらひらといつたオノマトペイを題名にして、ピアノの技術と共に、子供の感性をそだてやうとしてゐます。
これもつい最近に知つたことですが、時代の最先端を行くiPS 細胞の培養のことです。人間の體細胞から多能性幹細胞に變化させるその技法については多くの解説がわかりやすく行なはれてゐますが、大いに興味をそそられたのは、その培養過程です。毎日のやうに細胞を觀察し記録してゐる技術者の報告に、擬態語が多く使はれてゐるとか。正確なことばは覺えてゐませんが、個々の細胞もそれなりに個性があるのでせうか、「この細胞は今日はぴりつとしてゐる」とか「くねくねしてゐる」といつたやうな表現をして、成長の樣をかなり的確に言ひ當ててゐるさうです。いかにも日本的と言へる言語感覺だと思へる一方で、視覺と聽覺を結びつけた言語の有用性が見て取れます。たとへば副詞と動詞を一語におさめたアメリカネイティブの「ぴかる」や、主語と動詞を一語にした日本の「あふり・雨降」神社などといつた包合語が、五感プラス意識を結びつける大切な言語機能となるやうに思へます。論理一方の統語法・シンタックスとは對極にある言語事實です。


posted by 國語問題協議會 at 10:45| Comment(0) | 中谷信男