2016年08月29日

きゃりこの戀(29) 疑問と反語   雁井理香(かりゐりか)

オスカー:
 「あなたはパーマンです」つて、英語で言つてみて。
きゃりこ:
 I am a perman. あれッ、ホンネが出ちゃった。You are a perman.
オスカー:
 それを疑問文にして、「あなたはパーマンですか」はどうなりますか。
きゃりこ:
 疑問文って、引っ繰り返せばいいんだよね。Are you a perman?
オスカー:
 日本語と英語とどっちが簡単ですか。
きゃりこ:
 英語の方が、引つ繰り返せばいいだけだから簡単かな。でも、日本語も「か」を付けるだけだから、簡単だね。
オスカー:
 文語で言ふとどうなるだらう。
きゃりこ:
 むむむ。そんな難しいこと、あたしに訊くの?----------------あら、不思議。雁井さんのおかげで分かつた。「汝、パーマンなりや」。
オスカー:
 感心、感心。でも、「汝やパーマンなる」といふ言ひ方も可能です。「や」が前にあるのと後ろにあるのとでは、ちょっとニュアンスが違ふかも知れない。「汝、パーマンなりや」は「あなたはパーマンですか」。それに對して、「汝やパーマンなる」は「あなたがパーマンですか」に近いんぢやないかと僕は思つてゐるんですがね。「は」と「が」の違ひも、そのうちにやるつもりです。
きゃりこ:
 なんで「パーマンなる」なの? 文語だから「パーマンなり」でせう。
オスカー:
 係り結びですよ。前に「や」があるから、連體形で結んだの。
 ところで、「誰が鯨を食べるのですか」と英語で言つてみて。現在形でいいですからね。
きゃりこ:
 Who does eat a whale?
オスカー:
 第一の問題点は、「疑問詞が主語の疑問文は‥‥‥」。……「疑問詞が主語」って、意味分かる?
きゃりこ:
Whoが文の主語になつてゐるといふことでせう。
オスカー:
 「疑問詞が主語の疑問文は、平叙文の語順になる」といふ規則があります。
 「きゃりこは鯨を食べる」と言つて下さい。
きゃりこ:
 きゃりこは鯨を食べる。
オスカー:
 英語で言つて下さいといふつもりだつたんだけど。そんなこと、言はなきゃ分からないかね。
きゃりこ:
 日本人は馬鹿なんだよ。あんまり馬鹿にすると、また真珠湾だよ。
 Kyariko eats a whale. これでいいかね。
オスカー:
 そして、「疑問詞が主語の疑問文は、平叙文の語順になる」といふのは、疑問文になつても語順が変はらないといふことです。つまり、主語を疑問詞に入れ替へるだけ。
きゃりこ:
 ぢやあ、Who eats a whale?となるんだね。
オスカー:
 文の形としてはよくなつて來ました。でも、逆に、Who eats a whale?を日本語に訳すと、「誰が、まるまる一頭鯨を食べるのですか」になつてしまひます。
きゃりこ:
 さうか。a whaleだと「一頭の鯨」だもんね。ぢやあ、whaleを不可算名詞にして、Who eats whale?とすればいいんだ。ひやあ、あたし「不可算名詞」なんて知つてゐたんだ。
オスカー:
 僕も驚きました。
 chickenの場合はそれでいいのです。「庭に雛鳥が一羽ゐます」はThere is a chicken in the garden.ですが、「私は雛鳥を食べたい」はI want to eat chicken.で、不可算名詞のchickenが「雛鳥の肉」になります。でも、鯨の場合は、whale meatと言ひます。
きゃりこ:
 なるほど、「誰が鯨を食べるのですか」はWho eats whale meat?となるわけか。
オスカー:
 今度はそれを文語にして下さい。
きゃりこ:
 真珠湾爆撃の発表は文語文だつたんだよ。あれッ。そのことは、オスカー先生から教はつたんだ。
オスカー:
 大本営海軍部発表、「帝国海軍は本八日未明、布哇(ハワイ)方面の米国艦隊並びに航空兵力に對し、決死的大空襲を敢行せり」。
きゃりこ:
 かっこいい。いつか、イケメン白人に土下座させてやる。
オスカー:
 はい、はい。
きゃりこ:
 文語にすると、「だれ、鯨を食ふか」でいいんですか。
オスカー:
 「誰」は「だれ」でなく、「たれ」と讀んで下さい。「どこ」は「いづこ」、「どっち」は「いづこ」、「どれ」は「いづれ」。古代の日本語は濁音で始まる言葉がなかつたのです。そして、現代語の疑問詞は濁音で始まるのが多いから、疑問詞は古語・文語ではたいてい形が変はります。
 そして、疑問詞の「か」や「や」は、文末から前に出て、疑問の対象になつてゐる重要な單語の直後に移すことができます。ここでは、疑問詞の直後ですね。
きゃりこ:
 「誰か鯨を食ふ」と言へるんですね。
オスカー:
 今度は、中國語で考へてみませう。
 一般疑問文(Yes-No疑問文)の場合は、語尾にma(文字化けするからローマ字にしますが、漢字ではクチヘンに「馬」)を付ければいいのです。
 「きゃりこは鯨を食べる」と言つて下さい。
きゃりこ:
 「きゃりこ」つて、中國語でどう言つたらいい?
オスカー:
 小芭香(シャオバーシアんXiaobaxiang)。読者は深く考へないで下さい。
きゃりこ:
 ええッ?!! 「きゃりこ」つて單語があるの。
オスカー:
 ありますよ。有名人なんだから。
きゃりこ:
 「小芭香」つて、綺麗な字だね。氣に入つた。
 「食べる」は「食」でいいの?
オスカー:
 「食べる」は「喫」。でも、簡体字の「吃」を使ふことが多いですね。「chi(チー)」といふ發音。
きゃりこ:
 ぢやあ、「小芭香吃鯨」だ。
オスカー:
 「鯨」は英語の場合と同じ理窟で「鯨肉」となります。「ジんロウjingrou」といふ發音。
きゃりこ:
 「小芭香吃鯨肉」。
オスカー:
 さう。さう。では、「きゃりこは鯨を食べますか」。
きゃりこ:
 今度はおばかでも分つたよ。「小芭香吃鯨肉ma?」。
オスカー:
 正解です。ただ、このmaは一般疑問文だけで使ひます。
 疑問詞疑問文は何も付けません。だから、「誰が鯨肉を食べますか」はどうなる?
きゃりこ:
 「誰吃鯨肉?」。maは要らないんだね。
オスカー:
 正解です。
 ところで、僕の単独説なのですが、一般疑問文のmaが古代日本語に影響を与へたやうに思へるのです。古代中國語では、maといふ形ではありませんでしたが、やはり文末に、同類の疑問詞を付けました。そこで、日本語も、もともとは、「きゃりこや鯨を食ふ?」の形だつたのに、中國語の真似で文末に飛んで、「きゃりこ、鯨を食ふや」になつたと思ふのです。疑問詞疑問文の場合には、maを使はないので、当てはまりませんが、一般疑問文からの類推で、「誰か鯨を食ふ」でも、「誰鯨を食ふか」のどちらも可能になつたのだと推定されます。(「や」と「か」は交換可能である場合が多いのですが、疑問詞の直後では「か」が普通です)
posted by 國語問題協議會 at 10:25| Comment(0) | 雁井理香

2016年08月22日

ブックセラピー(1) 胎内進化のつづき、母語、ひらがな。     原山建カ


NHKの番組、クローズアップ現代(平成二十五年六月一一日)で「オノマトペ」特集が放送された。同番組では、コンビニ商品の「おいしいを感じる言葉」ランキングで、説明調の「コシ(腰)のある」「舌触りのよい」に代はり、短く直感的に伝はる「もちもち」「もつちり」など、オノマトペ(擬音語、擬声語、擬態語)たちが急上昇し、商品の売上が五倍も伸びてゐることが紹介されてゐた。
これまで「幼児ことば」、「舌つ足らず」と揶揄され、軽視されてきたオノマトペのマーケティング手法による復権だが、注目すべきは、これらがすべて「ひらがな(カタカナ)」で表記されてゐることである。

上古代の日本人は、中国の漢字が朝鮮半島を経由して伝はる五世紀まで、文字をもたななかつた。いや、書かれた文字よりも、豊かなオノマトペによつて彩られた「口承文化」が美しいことばを紡いでゐた。それが「やまとことば」と呼ばれる原日本語(和語)である。
最古の歌集である万葉集には、漢字の音を借りて表記された万葉仮名が登場する。「やまとことば(万葉仮名)」はその後の千三百年あまりを「変体仮名(江戸かな)」として生きつづけ、明治三十三年、一字一音の「ひらがな」に統一されたあとも、なほ日本人の心性をあらはすことばとして輝いてゐる。
よく、「(ものの)あはれ」の『源氏物語』、「をかし」の『枕草子』といふが、これを漢字で書いたら、哀れ(憐れ)で可笑しなことになつてしまふ。

ここ半年ほど、「ひらがなのちから」を研究してゐるが、先日、風の谷保育園(川副孝夫園長)で、保護者対象の「ひらがな育児」講座と、その前日に保育スタッフ対象の「ひらがな保育」研修を行ふ機会があつた。
前日に研修を行つたのは、講座を受講する保護者を上回るレベルでの予習であり、当日は講座に出られない託児担当のスタッフも参加してもらふ、そして何よりも、「ひらがなのちから(育児・保育)」を保護者と保育者が共感・共有しながら、子どもたちの「楽しいからだ」「うれしいからだ」を育ててほしいと思つたからである。

「ひらがな育児」講座では、「胎内進化」と「母語」といふ二つのキーワードを用ゐた。
「胎内進化」とは、受胎から出産まで約二八〇日の妊娠期間に、ヒトの胎児は母胎といふ「いのちの揺り籠」のなかで、生命誕生三十五億年の進化の過程を〈魚類・両生類・爬虫類・哺乳類・ヒト〉といふ系統発生の順序で体験することをいふ。
とくに受胎後三十二〜三十八日目には、海中でエラ呼吸してゐた魚類が陸上で肺呼吸する両生類に進化する過程での胎児の苦労を、母親は「つはり」といふかたちで体験を共有する。
さらに、ヒトは未熟児で生まれ、約二歳の幼児までは「胎内進化」のつづきであるといふことを紹介した。
ある母親は「つはりはいやなものと思つてゐたが、お腹の子も苦労してゐると考へて、いつしよに頑張らうと思つた」と述懐した。〇歳児を担当する保育士は「小さな赤ん坊を預かつてゐるといふ意識から、まだ胎内進化のつづきだといふ認識に変はつた」と語つてくれた。

「母語」とは、幼少期から自然に習得することば、つまり人生の最初に出会ふことば。たとへば、妊婦が心から「ありがたう」と言うと、「ありがたう」の音声の母胎振動と、母胎の満ち足りた気持ちのバイタルサイン(呼吸や脈拍の回数や強弱の変化、母胎に送り込まれる血液などの変化)を、胎児は文字どほり全身で感じとる。
母親の「ありがたう」といふ発音体感は母胎共鳴を介して、漢字の「有難う」ではなく、ひらがなの「ありがたう」として胎児に届く。 以上

『出版ニュース』誌のコラム「Book Therapy」no.20(2013年8月)
<文字遣ひは歴史的假名遣に直し、漢字は雜誌揭載(新字體)のままとしてゐます>

posted by 國語問題協議會 at 10:34| Comment(0) | 原山建郎

2016年08月16日

數學における言葉(3) ソクラテス以前の哲学者 河田直樹

 哲学思想史家のブライアン・マギーは、その著『知の歴史(The story of philosophy)』(中川純男監修・BL出版)の冒頭「ソクラテス以前の哲学者たち・論理的な思考のはじまり」で次のやうに述べてゐます。

 最初に登場した哲学者たちは、ふたつの点で過去と決別しました。まづひとつは、宗教や権威や伝統とは関係のない、みづからの論理で現実を理解しようとしたこと、これは人類の精神史において画期的な試みでした。そしてもう一つは、他の人びとにも自分の力で考へるやうに説いたことです。たとへ弟子の立場にあつても、師の教へをそのまま受け入れる必要はないといふのです。彼らは、知識を純粋かつ不動なものとして弟子に押しつけず、議論や討論を奨励し、自分自身の考へを堂々と述べるのがよいと教へた最初の教師でした。

 この精神の最初の体現者はミレトス派のタレス(624?〜546?B.C.)と言はれてゐますが、人間生活において「宗教や権威や伝統」を一概に否定、無視してよいかどうかはもちろん疑問で、「言葉が過去からやつてくる」とすれば、それらは当然尊重されてしかるべきでせう。上で引用したやうな言葉を言質にとつて、何に対してもすぐに「アンチ」を唱へ、権威や伝統に抗ふことが恰も生者の特権のやうに思ひなす人たちもいますが、論理的思考と根源的自己批判を欠いたその種の振る舞ひは、醜いというほかはありません。これはこれで、近現代人の問題として考へてみたいテーマですが、いまは措いておくことにします。
 上で語られてゐる「教師の言ふことを鵜呑みにしないで自分自身で論理的に考へてみよ」といふ教えは、確かに「人類の精神史において画期的な試み」だつたといふべきです。そして、この精神が最も生き生きとした形で動き出すのが、実は「数学」の世界と言つてもよいのです。数学の言葉は、常に論理といふ厳しい自己批判に曝されてゐて、原則として思考の誤謬や混乱は必ず自分自身に鋭く跳ね返つてきます。
 スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセつト(1883〜1955)は、『個人と社会』の第2章で「2たす2が4と繰り返すことができるが、それは人がさういふのを何度も聞いたからにほかならない。しかしほんたうに『2たす2が4であつて、3でもなければ5でもない』と自分で考へること――つまりそれが真実であることの確証を得ること――それは、私が、私ひとりが自分のためにしなければならないことである」と述べてゐます。まさに数学における論理思考は、最終的にはオルテガが述べるやうな孤独な形で行はれるほかはありません。論理的に考へていくことは、ある意味では「超越者とのごまかしの許されない対話」とも言ふべきで、きはめて孤独な作業です。
 ところでタレスは、こんにちでも私たちが中学の幾何で学ぶ「対頂角は等しい、円の直径に立つ円周角は直角である(前回触れた図を参照のこと)」といつた命題を“証明”し、紀元前585年の日食を予言、さらに大変優秀な土木技術者であり、ピラミつドの高さを測つてアマシス王を驚かせたなど、様々なエピソードが残されてゐます。
しかし、タレスを最も悩ました問題は「万物は何でできてゐるのか、物事の根本、世界の根源とは何か」といふものでした。かうした問ひを「神話」からではなく現実に即して“論理的”に考へてみること、これこそはタレスの「画期的な試み」であり、そしてこの問ひに寄り添ふやうに“論証としての数学”が誕生してきました。学問、あるいは哲学(=智への希求、あるいはエロース)とは、要するに世界の根源を“論理的”に考へてみる(思ふ、想ふではない)ことであり、不謹慎なことを言へばこれほど面白いことはありません。なぜなら、世界が存在すること、自分がいまここに在ることは、誰にとつても驚き(thaumazein)だからです。次回はこの問題と数学について少し考へてみたいと思ひます。
                   (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 13:02| Comment(0) | 河田直樹