2016年10月30日

きゃりこの戀(34) 「崇」と「祟」   雁井理香(かりゐりか)  


きゃりこ:
 あたし、「すうはい」の「スウ」と「たたる」と同じ字だと思つてた。反対語に近いのに、同じ漢字ってヘンだなあとは思つてゐたんだけど。
オスカー:
 「すうはい」の「スウ」は部首は「山」で、「山」の下に「宗」と書きます。人の名で、この字を「たかし」と読むことがありますが、「高い」「高くする」「あがめる」「たつとぶ」などの意味。「をへる(終)」の意味もあつて、「崇朝」といへば「夜明けから朝食までの間」の時間を指します。「終朝」と言つても同じ。
きゃりこ:
 朝食の時間がもう朝の終りなの?
オスカー:
 昔は夜早く寝るから、起床も早かつたのです。そして、朝食は九時頃。一日二食だつたから、朝食は遅くなります。九時にもなると、もう朝とは思はなかつたのですね。
 一方、「たたる」は部首は「示」で、「出」の下に「示」と書きます。
きゃりこ:
 へええ。「宗」といふパーツがないんだね。「出」の下の山の左右の縱棒を下にずらせば「宗」が出て來るんだけど。
オスカー:
 だからこそ、間違へて「宗」が含まれてゐるやうに誤解されてゐるのでせう。
きゃりこ:
 字音は何ですか。あら、あたし、生意気に字音なんて言つちやつた。音読のこと、字音つて言つて間違ひぢやないですよね。
オスカー:
 その使ひ方は正しいですよ。「祟」の字音は「スイ」です。
きゃりこ:
 「スヰ」ぢやないの?
オスカー:
 おおお。だいぶ意識が高くなつて來ましたね。 
前にも話したことがあるかも知れないけれども、戦前の字音假名遣ひを、平安時代初期の發音に遡つて修正した假名遣があるのです。昔からあつたんだけど、最近研究が進んで來ました。岩波文庫の「日本書紀」はこの假名遣ひを使つてゐます。たとへば「危険な狂犬」は戦前の假名遣ひでは「きけんなきやうけん」ですが、平安初期の假名遣ひでは「くゐけむなくゐやうくゑん」になります。國語問題協議會の高崎一郎先生の「平成疑問假名遣」を讀むとその全貌が分かります。「墜」「水」「唯」などの字音は、戦前は「ツヰ」「スヰ」「ユヰ」だつたのですが、平安初期には「ツイ」「スイ」「ユイ」だつたので、これに戻さうといふのが、國語問題協議會の中の一部の人たちの主張です。そんな馬鹿馬鹿しいことはやめろといふ會員の先生もいらつしやいますが。
きゃりこ:
 いづれにしても、「崇」は「スウ・あがめる」で、「祟」は「スイ・たたる」なんですね。
オスカー:
 前々回から引き続いて、三回連続で、天皇の諡号の話になりますが、「徳」の字と同様に、「崇」の字も不幸な死に方をした天皇に贈る習慣があつたやうです。歴代の天皇の中では御三方しかいらつしやいませんが、崇神天皇と崇峻天皇と崇徳天皇。
きゃりこ:
 崇徳天皇は知つてゐる。保元の乱で負けて、讃岐に流されて亡くなつた方でせう。崇峻天皇つて誰だつたつけ。
オスカー:
 古代の天皇です。日本最初の女帝・推古天皇の弟で、蘇我馬子に暗殺されました。その後、姉の推古天皇が即位したのです。
きゃりこ:
 なるほど、どちらも不幸な死に方の代表みたいですね。「徳」との使ひ分けはないのかしら。
オスカー:
 はつきりした区別はないやうですが、暗殺されたとか、クーデターの直後に亡くなつたとか、不幸が直接に死に結びついてゐる場合は「崇」を使ふやうです。「崇」の字は「祟」に似てゐるので、祟りを抑へる意味もあるといふ説もあります。
きゃりこ:
 崇徳天皇の場合は、「崇」と「徳」と両方を使つてゐますね。
オスカー:
 讃岐に流されて、鬼になつたと言はれますから、とくに祟りが怖かつたのでせう。
きゃりこ:
 崇神天皇つて、聞いたことないけど。
オスカー:
 第十代ですから、神話時代の人。懿徳天皇と同じで、そんなに昔の天皇の場合は、不幸な死に方とか祟りとかには関係なく、「仁」や「崇」を使つたみたいです。
 ところで、崇光(すくわう)天皇といふ方がいらつしやいました。歴代の天皇ではなくて、北朝第三代の天皇なので、右の御三方の中に入れなかつたのですが。この方も、南朝に捉まつて幽閉されて廃位され、崩御の後は弟の系統に皇位を奪はれたりした不幸な方です。もつとも、曾孫が皇位を取り戻して、現在の皇室の直接の祖先に当たります。
 他に、「崇」の字の付く「追尊天皇」が御二方いらつしやいます。
きゃりこ:
 「追尊天皇」? 聞いたことない。
オスカー:
 そりやあ、きゃりこさんは聞いたことないでせうよ。
きゃりこ:
 むかつく。
オスカー:
皇位には即かなかつたのに、亡くなつた後に天皇または皇帝の尊称を与へられた方々です。崇道盡敬(すだうじんきやう)皇帝(「盡」は「尽」の正字)と崇道天皇のこと。
 崇道盡敬皇帝とは、日本書紀を編纂した舎人(とねり)親王のこと。天武天皇の皇子なんだけど、息子の大炊(おほひ)王が淳仁天皇として即位したので、崇道盡敬皇帝と追号されました。「皇帝」とか「天皇」と呼ばれても、歴代の天皇ではない場合も多いのです。
きゃりこ:
 この人も不幸な死に方をしたの?
オスカー:
 この人に「崇」がついてゐる理由は分からない。息子の淳仁天皇は、孝謙・称徳天皇(女帝・重祚)に嫌はれて淡路に流されて崩御してゐますし、子孫もあまり榮えなかつたことが関係があるかも知れませんが、不思議なことに、崇道盡敬皇帝という追号をもらつたのは、淳仁天皇が即位したとき(舎人親王本人は亡くなつてゐた)なので、祟りを怕れる理由はなかつたと思ひます。
 強ひて不幸といへば、天武天皇の有力な皇子だつたのに、即位できなかつたことでせうか。持統天皇が、自分の子孫以外は皇位に即かせないといふ固い決意を持つてゐたからと言はれます。
きゃりこ:
 「崇道盡敬皇帝」の外に「崇道天皇」もいらつしやるのね。聞いたことのない方ですね。
オスカー:
 そりやあ、きゃりこさんは--------------------。
きゃりこ:
 むむむ。
オスカー:
 この人は、光仁天皇の皇子の早良(さはら)親王です。桓武天皇の同母弟。桓武天皇が即位したときに、皇太子に立てられたのですが、桓武が自分の皇子(後の平城天皇)を皇嗣にしたくて、追ひ落しました。
 具体的には、七八五年の藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に関与したとして、淡路に流し、親王は食を絶つて死にました。そのあと、さまざまな祟りがあつたために、「崇道天皇」と追号されたのです。
きゃりこ:
 なるほど、天皇になつても不幸になつた人。天皇になりそこなつて不幸になつた人。いろいろゐるんだね。
posted by 國語問題協議會 at 19:05| Comment(0) | 雁井理香

2016年10月24日

數學における言葉(その5)ソクラテスの論理 河田直樹

 ソクラテスは徹頭徹尾「論理の人」である、と前回述べましたが、ソクラテスの「論理」を具体的に知るには、プラトンの初期の対話篇『エウテュプロン―敬虔について』(今林万里子訳・岩波書店)を読んでみるのが一番です。ここでは、ソクラテスとエウテュプロンの対話の論理に関するエッセンスだけを、以下に簡単に紹介しておきます。
 ソクラテスは、エウテュプロンとの対話で、ある詩人の「恐れあるところまた敬いもある」という詩句を取り上げ、この言い方は論理的に正しくない、なぜなら、「恐れの対象の範囲」は「敬いの対象の範囲」より広いからで、したがって「敬いのあるところまた恐れもある」とすべきだ、と指摘するのです。そして、これはちょうど「奇数(=敬いの対象)が自然数(=恐れの対象)の一部である」のと同じことだ、と数論の喩えを持ち出して説明するのです。
すなわち、詩人の詩句は「Xが自然数(=恐れの対象)であれば、Xは奇数(=敬いの対象)である」と誤った判断を述べていて、正しくは「Xが奇数(=敬い)ならば、Xは自然数(=恐れ)である」という判断をすべきだ、とソクラテスは述べているのです。
ここで、自然数とは1、2、3、4、5、・・・のような数であり、奇数とは言うまでもなく2で割り切れない数、すなわち1、3、5、・・・のような数です。ソクラテスが問題にしているのは、「Xが自然数であれば、そのXは必ず奇数と判断してよいか」という問題で、ソクラテスはこのような判断は誤りだ、と述べているのです。実際、Xが自然数4であるとき、その数は奇数とは言えません。しかし、Xが奇数3であれば、それは必ず自然数である、と断定することはできます。
このような論理的思考の背景にあるのは、モノゴトの集まり(集合)の包含関係ですが、上で述べてきたことを分かりやすく図示すると、以下のようになります。

kahada05.jpg
言うまでもなく、恐れや敬いの対象の集まりを、自然数や奇数の集合のように厳密に規定することは難しいことかもしれませんが、ソクラテスの上のような数論との対比的な指摘は、やはり驚くべきことです。
 なお、ソクラテスは論理の極北を目指した人でしたが、またそれゆえに彼は論理の“あや”の生み出す真のユーモアを解する人物でもありました。ここで、話を脱線してこのソクラテスの“ユーモア”について縷々語ってみたいのですが、またの機会にゆずりたいと思います。
プラトンによって伝えられたソクラテスのこのような論理が、やがてアリストテレス(384〜322B.C)の「オルガノン(=道具)」と呼ばれる、論理学に関する一連の著作に結実していくことはよく知られています。「全称肯定(すべてのXはFである)」とか「特称否定(あるXはFでない)」といった概念を確立したのはアリストテレスで、彼の論理分析は詳細をきわめ、カントが『純粋理性批判』の序文で「論理学はアリストテレス以来、一歩の進歩も一歩の退歩もなかった」と評しているのは有名な話です。とは言え、これはいささか極端な話で、クリシッポス(281〜205B.C)、ガレヌス(129〜199)、ボエティウス(480〜524)、アベラール(1079〜1142)、オッカム(1295〜1340)といった人たちがアリストテレス以来の論理学の発展に寄与してきたこともよく知られています。
ともあれ、古代希臘において論理学が確立されたことは間違いないことで、それと相俟ってユークリッド(330?〜275B.C)の『原論( ・ストイケイア)』が書かれることになるのです。それは人類史における奇跡的な「論証としての数学」の誕生でもありました。
                   (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 13:26| Comment(0) | 河田直樹

2016年10月18日

変体仮名を読む、和本リテラシー。 原山建郎(はらやま たつらう)

「六十の手習い」を英語でいうと、“Never too old to learn.”(学ぶのに年を取り過ぎているということはない)となる。老年期にもなお学ぶ意欲を失わぬ「晩学」を奨励するものだが、還暦を六つ過ぎて始めた「変体仮名」の手習いはそんな殊勝な動機からではない。

六十歳で非常勤講師となった私は、学生たちに一所懸命、日本語の危機を訴えてきた。
「旧字体(旧漢字)、旧仮名遣いが理解できないと、日本の古典は読めなくなります。『枕草子』の原文に書かれた〈をかし(面白い、美しい)〉や〈あはれ(しみじみとした情趣のある)〉を、現代語の〈おかし(可笑しい)〉や〈あわれ(可哀そう)〉に置き換えて読むような知的劣化≠ェおこったら、日本の古典はその時点で外国語≠ノなってしまいます」
しかし、『武蔵野大学司書課程・司書教諭たより』十五号(平成24年4月30日発行)に載っていた「江戸かな(変体仮名)」研究家・吉田豊さんの論考「江戸の草子を楽しむ」のなかに、この私自身が見落としていた日本語の「ほんとうの」危機が潜んでいたのである。

【英語は読めるが、百年前まで使われていた和本は読めない、これが日本の現実の姿です。恐ろしいことに、国文学者も国史学者も活字化された資料によって活動している状況を、江戸文学者で文化功労者の中野三敏氏は次のように嘆いています。
(変体仮名や草書体漢字)の文字を、少なくとも江戸の一般人と同様のスピードを以て読む能力を備えた読書人というものが、今や絶滅危惧種化している。(中略)「和本のすすめ(岩波新書)」】
(「江戸の草子を楽しむ」)

これまで、私が読んできた教科書(抄録)や単行本の『枕草子』は、旧かな遣い(漢字は新漢字)と現代文の対訳つきで、当然のことながら「旧かな」は活字化された紙の本の印刷文字のみである。さも偉そうに「日本語の危機」を説いていた私には、日本の古典文学を原文で自在に読みこなす能力、和本リテラシーが欠落していた。
もちろん、変体仮名が漢字のくずし字であることは知っていた。そのルーツは、中国から伝来した漢字の音や意味を、それまで文字を用いなかった和語の音節に利用(仮借)した万葉仮名だということも知っていた。しかし、それは私が「知っていた」だけにすぎない。
吉田さんが「江戸かな」と呼ぶ江戸時代の変体仮名は、十八世紀半ばに約八割という識字率を可能にした寺子屋教育で庶民の「読み・書き」能力を高めた最大最高の功労者である。

善は急げ。吉田さんの「江戸かな」入門書を数冊、市川市中央図書館から借りてくる。
「小倉百人一首」の絵札を、巻末の「主要江戸かな一覧」と引き比べながら読む。最初はたどたどしく、やがて少しわかるようになる。
明治33年の「一音一字の平仮名字体」で統一される以前の書物には、「江戸かな」が使われていた。吉田さんの『寺子屋式古文書手習い』(柏書房)には、まだ「江戸かな」で書かれた『學問のすゝめ』の初版本(明治5年)の誌面が載っている。

【天ハ人の上◎人を造ら▲゛人の下◎人を造ら▲゛と以へりさ■バ天より人を生する◎ハ萬人ハ萬人皆同じ位◎して生■ながら貴賤上下の差別なく萬物の靈た▽身と心との働を以て……】
(『學問のすゝめ』)

◎=に(尓)、▲=す(春)、■=れ(連)、▽=る(累)が江戸かな。和文リテラシーは、「江戸かな」に親しむ心の中で呼吸している。
武蔵野大学非常勤講師 原山建郎
『出版ニュース』コラム Book Therapy no.9
posted by 國語問題協議會 at 16:43| Comment(0) | 原山建郎