2016年12月25日

數學における言葉(その七) 論証としての数学の根源にあるもの 河田直樹

論証としての数学の根源にあるもの
 「数論」と言はれる分野に、小学生でもその問題の意味が理解できる未解決問題があります。「双子素数(twin prime number)」についてのもので、たとへば、(3,5)、(5,7)、(11、13)、(「17、19」、(29、31)のやうに、隣り合ふ2つの奇数がともに素数であるとき、その2数を双子素数と言ひますが、この「双子素数が無限に存在するか否か」は、現在でも分かつてゐません。2001年における最大の双子素数は、
    〖318032361×2〗^107001±1
で、これはおよそ3万2千桁の数です。素数自身が無限個存在することは、すでに2000年以上も前にユークリッドの『原論』第9巻命題20できちんと示されてゐますが、たとえ3万桁以上の「双子素数」が見つかつたとしても、傲岸不遜な数学者は「たかが3万桁」と思つてゐます。
 いまひとつ、誰にでもその意味が分かる有名問題に「ゴールドバッハの問題(Goldbach’s problem)」と言はれてゐるものがあります。これは「6以上のすべての偶数は2つの奇素数(奇数の素数)の和である」という予想で、たとへば「6=3+3、8=3+5、10=3+7、12=5+7、14=3+11」といつた具合に、です。もちろん、和の形は「10=5+5」と表すこともできて、2数の和の形は唯一通りに定まるわけではありませんが、とにかく2つの奇素数の和になる、と主張してゐるのです。
この問題は、1742年にゴールドバッハといふ人が、レオンハルト・オイラーへの手紙の中で述べた予想です。私が小学生の頃は6から10万までの偶数については確認されてゐましたが、それから40年後の2001 年には、およそ400兆までの全ての偶数について確かめられてゐます。しかし、これについてもいささか極端なことを言へば、数学者たちは「10万」も「400兆」も大差ないと感じてゐます。なぜなら、「すべての自然数」についての“最終結論”ではないからです。
数学以外の“自然科学”であれば、3万桁あるいは400兆まで調べれば、そこから躊躇ふことなくある結論を導き出すに違ひありません。数学以外の科学では、実験や調査などから得られる膨大なデータこそが何よりも大切で、それに依拠してある判断を下してゐます。しかし、数学ではそのやうなことは一切許されません。それが、確実な証明を追ひ求める古代希臘数学の精髄であり、その魂と精神とを受繼ぐ現代数学の有り様なのです。ハムレットの「言葉、言葉、言葉」ではありませんが、「証明、証明、証明」なのです。 
 では、その執拗な「証明への衝動」は、いつたいどこから生まれてきてゐるのでせうか。私自身は、この証明への衝動を決して「理性的」な態度とは思つてゐません(もつとも「理性的」といふ言葉の定義は曖昧ですが)が、ともあれ、さうした衝動の根源にあるものはいつたい何なのでせうか。唐突ですが、この問題に関連して私がいつも思ひ出すのは、稲垣足穂(1900〜1977)の『弥勒』のテーマである「お終いの雰囲気」です。ここには以下のやうな記述が見られます。

  彼は何であっても、「物事のお終い」が大好きであったからだ。すなわちそこにある、どこか遠方へ出発する前夜のような、それとも取り片づけを終へて何かを待つばかりになつたとでも言ふやうな、静かな一刻に憧れてゐたからだ。(中略)あの真鍮の砲弾が普通の世紀末ではないのと同じ意味で、「わが終末論」については、いつかは人々に説明できることであらう。今のところ江美留は、―何事であれ、自分はお終ひの気分が大好きなのだ、と言つておくより他はない。

 足穂の語る「お終いの気分」については、次回でもう少し突つ込んで述べてみたいと思ひますが、ともかくこの「お終いの気分」と「証明への衝動」とが深く繋がつてゐるといふ直観を、私はいまもつて捨てることができません。          (河田直樹・かはた なほき)
posted by 國語問題協議會 at 11:04| Comment(0) | 河田直樹

2016年12月18日

きゃりこの戀(38) 書いた読んだ  雁井理香(かりゐりか)

きゃりこ:
 「投げた」とか「話した」とかいふときの「た」は《過去の助動詞》なんですよね。
オスカー:
 学校ではさう教へてますけどね。語源的には「投げたり」の「り」が落ちたのですよ。
きゃりこ:
 ぢやあ、「た」は「たり」のなれの果なんですか。でも、「たり」は過去ぢやなくて、完了ぢやありませんか。
オスカー:
 そしたら、口語の「た」も完了だと考へたらいいぢやありませんか。
きゃりこ:
 なるほど、先生の「発想の転換」には感心しますね。
オスカー:
 「宿題終へたら、遊びに行つていいよ」を考へてみませう。「たら」は「た」の未然形ですが、これ、絶対、過去のことぢやないでせう。
きゃりこ:
 うん。明らかに未来のことですよね。それにしても、「たら」も「た」なんですか。
オスカー:
 文語の「たり」は「たら・たり・たり・たる・たれ・たれ」といふ変化。
 口語の「た」は「たら・たり・た・た・(たれ)・(たれ)」。
きゃりこ:
 「宿題終へたら」といふときは、未然形が裸のままで使はれてゐますね。
オスカー:
 「宿題終へたらば」の「ば」が脱落したんですよ。もともと完了ですから、「終へてしまつたならば」といふ完了のニュアンスが隠れていたのです。
 英語にすると分かりやすい。
If you have finished homework, you can go out and play.
 ほら、このhave finishedの完了形も同じです。「終へてしまつたら」のニュアンスなの。
 未来完了の意味だから、If you will have finished homeworkとなるべきところなんだけど、英語では「時や条件を表す副詞節の中では、未来のことも現在で表す」といふルールがあるから、will haveがhaveになつたのです。
 英語では過去と現在完了ははつきり区別しますが、ドイツ語なんかでは、現在完了が過去の代用をすることが非常に多いのです。日本語もそれと同じだと思つたらいい。
 ところで、「食べる」の過去(一応過去といふことにしておきますが)は「食べた」。「書く」の過去は「書いた」。
きゃりこ:
 あれ、「書きた」ぢやなくて、「書いた」なんだね。歴史的仮名遣では、「書ひた」かな。それとも「書ゐた」なのかな。
オスカー:
 音便したのです。もともとは「書きたり」。「たり」が「り」になり、さらに、「き」が《イ音便》して「い」になりました。kakitariのkとriが落ちたのです。
 「書いた」の「い」はkiのkが脱落したのですから、iになつたことになります。だから、「ひ」でも「ゐ」でもなく「い」なんですよ。
きゃりこ:
 なるほど、歴史的仮名遣つて、理窟に合つてゐるんだね。
オスカー:
 では、「読む」の過去は何ですか。
きゃりこ:
 「読んだ」。あれッ。「た」ぢやなくて「だ」になつちやつた。
オスカー:
 《撥音便》が起こると、「た」が「だ」に変るのです。
きゃりこ:
 「ん」に変るのが《撥音便》ですね。小さい「っ」になるのは何でしたつけ。
オスカー:
 《促音便》。「ありたり」が「あつた」、「食ひたり」が「食つた」になるのがそれですね。
きゃりこ:
 小さい「っ」ぢやないぢやない。大きい「つ」ぢやない。
オスカー:
 歴史的仮名遣では、小書きはしないのです。
きゃりこ:
 ふうん。「っ」とか「ゃゅょ」とか小さい字を使ふのを《小書き》といふのね。戦後になつて発明したの?
オスカー:
 昔から、促音(っ)や拗音(ゃゅょ)であることをはつきりさせたい場合には、小書きをしてゐましたが、正書法とは認められてゐませんでした。小書きしなければいけないといふ規則は、戦後に出来たのです。
 僕は小書きは嫌ひです。特に縦書きのときは、小書き部分が右に寄つて、文が曲がって見えますからね。
きゃりこ:
 どういふときに、《イ音便》《促音便》《撥音便》が起るのですか。
オスカー:
 まづ、このタイプの音便は、動詞の四段活用の連用形の場合にしか起りません。《イ音便》は「カ行」「ガ行」の四段活用の場合だけ。《撥音便》は「バ行」「マ行」だけ。《促音便》は「ハ行」「ラ行」だけです。
きゃりこ:
 さういふ言ひ方、よく分からない。私がおばかだといふことをわきまへて喋つてね。
オスカー:
 そんなこと、自慢げに言はないで下さいね。
 「思ふ」は「ハ行四段活用」だから、《促音便》を起して、連用形に、たとへば「た」をつけると、「思ひた」ではなく、「思つた」になるといふことです。
きゃりこ:
 「思う」つて、「アワ行五段活用」ぢやないんですか。
オスカー:
 もう歴史的假名遣を教へてから隨分になるのに、まだそんなこと言つてゐるの?
 「アワ行活用」とか「五段活用」とかは、戦後に国語審議会が捏造した嘘なんですよ。
きゃりこ:
 えッ。先生、そんな質の悪い団体に入つてゐるの?
オスカー:
 僕が入つてゐるのは「國語問題協議會」。こつちは正義の味方なの。
 正義を潰さうとしてゐるのが「国語審議会」。
 もつとも国語審議会はもう潰れて、文部省の一部局になつてしまひました。
きゃりこ:
 でも、国語審議会に、國語問題協議會の紐付きの人も入つてゐたんでせう。
オスカー:
 そりやあ、中に入つて戰はないといけないからね。だんだん漢字をふやして行つたのは、國語問題協議會の紐付きの人たちが頑張つたからですよ。
 でも、国語審議会が潰れる前に、國語問題協議會は審議会から脱退したのです。
きゃりこ:
  それにしても、「四段活用」つて、をかしくない? 「書かナイ」「書きマス」「書く」「書くトキ」「書けバ」「書け」「書こウ」だ から、「かきくくけけこ」つて五段に亙つて活用してるよ。やつぱり「五段活用」ぢやない。
オスカー:
 歴史的仮名遣では「書こう」ではなく、「書かう」と書きます。「書こ」といふ活用形はないから、四段なの。
きゃりこ:
 さう言はれれば、「書かう」と書けば、自然に「カコウ」つて読めるものね。四段活用といふ方が論理的だといふのはよく分かるよ。
 ところで、「ある」の連用形でも、「あります」の時は「あり」で音便しないのに、「あつた」の時は促音便が起るのは整合性に欠けるのではありませんか。
オスカー:
 それは違ひます。後ろにtが来ると、強い破裂音なので、促音便が起るのです。ariの後にtaが来ると、taのtに引かれてariがatに変るのです。撥音便の場合も同じやうにきちんとした規則があるのですが、話が長くなるので、そのことはまたいづれ。
 ところで、「きゃりこの戀」は、正漢字と新漢字が混じつてゐて、統一が取れてないといふお叱りがあるんだけど、インターネットの画面では、画数の多い正漢字は読みにくいとか、いろんな事情があつて、わざとさうしてゐます。
きゃりこ:
 ちよつと信念を曲げてない?
posted by 國語問題協議會 at 18:50| Comment(0) | 雁井理香

2016年12月11日

辞書の「前書き」が、おもしろい。 原山建郎

いつも手許に置いて愛用する辞書といへば、縦組みの『広辞苑』(新村出編、岩波書店、第三版第八刷、一九八九年、二六六九ページ)と『字通』(白川静著、平凡社、初版第一刷、一九九六年、二〇九六ページ)、横組みの『類語大辞典』(講談社、柴田武・山田進編、第1刷、二〇〇二年、一四九五ページ)の三冊である。いづれも中型の国語辞典だが、使い勝手のよさと信憑性をあわせ持つすばらしい辞書である。しかし、そのコンテンツ以上に魅力的なのが、編者や著者が記した「前書き」である。

『広辞苑』の前書きでは、編者・新村(しんむら)出(いずる)と清刷りのナラティブ(物語)が語られる。明治九年生まれの国語学者である新村は、先達の学恩に感謝しつつ、なによりも「辞典を編む愉しさ」から筆を起こしてゐる。
【いまさら辞典懐古の自叙でもないが、明治の下半期に、国語学言語学を修めた私は、現在もひきつづいて恩沢を被りつつある先進諸家の大辞書を利用し受益したことを忘れぬし、大学に進入したころには、恩師上田万年(※東京帝国大学国語研究室の初代主任教授)先生をはじめ、藤岡勝二・上田敏両先進の、辞書編集法およびその沿革についての論文等を読んで、つとに啓発されたのであつた。柳村上田(※上田敏の雅号)からは新英大辞典の偉業の紹介を「帝国文学」の誌上で示され、海彼にあこがれた。われらもいかにしてか、理想的な大中小はともかくも、あんなに整つた辞典を編んでみたいものだと、たのしい夢を見たのであつた。】
(『広辞苑』「自序[第一版]」1ページ)
昭和一〇年、新村はすでに『辞苑』(博文館)を世に問うてゐたが、【すぐさま改訂の業を起し、或は簡約し、或は増訂し、同時に業を進めて、大戦の末期に入り、改訂版の原稿が災厄(※空襲で数千ページ分の銅版が被災)に帰した】ことから、もはや万事休すかと思はれた。しかし、万が一に備へて分散保管していた清刷りをもとに、戦後間もない昭和二三年、『辞苑』の書名を変へて引き継いだ『広辞苑』(岩波書店)編集室での改訂作業が再開されたといふ。
同書の初版は昭和三〇年五月。その後、およそ十年ごとの改訂を重ねて、現在の『広辞苑』は第六版(平成二〇年)、同時にDVD−ROM版も出てゐる。

『字通』の前書きは、『字統』(漢和辞典)、『字訓』(古語辞典)につづく「字書」三部作の完成、白川ワールド(漢字学の宇宙)への扉を開いた、白川静によるキックオフ宣言である。
【〔字統〕〔字訓〕の二書につづいて、ここに〔字通〕を刊行する運びとなつた。三部作として、かねてその完成を期してゐたが、着手して十三年余にして、やうやく初志を達することができた。この間を通じて、私の関心は、主として国語の将来と、漢字の関係といふ問題にあった。漢字は難解であり、新しい時代の言語生活に適合しないといふ考へかたが、一部に根強くある。しかしわが国の文化は、漢字に支へられてゐるところが多い。ことに知的な営みの世界から漢字を除くことは、ほとんど不可能といつてよい。わが国の文化的集積の大部分が、その上に築かれてゐるからである。
漢字は、わが国では音訓をあはせ用ゐるといふ方法によつて、完全に国語表記の方法となつた。他の民族の、他の語系に属する文字を、このやうに自国の言語、その言語の表記の用ゐるといふ例は、他にないものである。(中略)
この音訓を兼ね用ゐる方法によって、われわれは、中国の文献を、そのまま国語の文脈になほして、読むことができた。すぐれた思想や歴史記述、また多くの詩文なども、自國の文献のやうに読むことができた。そこには、語法的な組織力とあはせて、知的な訓練をも獲得するといふ意味があつた。そのやうな基礎的な体験があつて、わが国の文化は、どのやうな外的刺激にも対応することができた。私はこの〔字通〕において、そのやうな知的教養の世界を回復したいと思う。】
(『字通』「序」3ページ)
前書きにつづく「字通の編集について」には、東洋文化への回帰、古典への教養のみちを開かんとする白川の決意がみなぎつてゐる。

『類語大辞典』の前書きには、禅の公案でいふ「一即多、多即一」にも似たダイナミック(動的)な「ことば」が示されてゐる。
【出発点として選んだ語は、和語で単純語(複合語・派生語ではない語)の動詞・形容詞であつた。これらは、日常の言語活動において普通に用ゐられるものであり、基本的な語とみなせる。(中略)
名詞の多くが動詞・形容詞を元にして作られ、副詞が主に動詞を元にして作られるといふ事情もある。(中略)
 「副詞」の扱いは難しかつた。「がっかりする・どっきりする」の類は動詞の部に、「あたふたする・ひっそりする」の類は副詞の部に置いた。前者ではこの形でしか使はないのに対し、後者は「あたふた(と)・ひっそり(と)」の形で「する」以外の動詞と結び付くといふ違ひがある。この場合、「と/する」などは添へ字とした】
(『類語大辞典』「この辞書の成り立ち」3〜4ページ)
同書で注目したのは、動詞や形容詞ではなく、和語の源流ともいうべきオノマトペ(擬音語、擬態語)そのもの、ひらがな表記の副詞の面白さである。
これは「前書き」ではないが、たとへば、「ぼやく(動詞)」を引くと、副詞の類語がおもしろい。つべこべ、ぐずぐず、ぐじぐじ、ぐちぐち、ぶつぶつ、ぶつくさ、ぶうぶう、がたがたなど、にぎやかな擬音語・擬態語たちのオンパレードだ。
武蔵野大学非常勤講師 原山建郎
『出版ニュース』コラム Book Therapy no.12
posted by 國語問題協議會 at 16:26| Comment(0) | 原山建郎