2017年04月09日

數學における言語(その11) 數學を取り巻く外觀圖 河田直樹

 昨年(2016年)11月に、「日本ライプニッツ協會第8回大會」が東大の本郷キャンパスで行はれ、實は私も「ライプニッツの普遍數學と私の數學觀−言葉・無限・連續」といふう演題で講演を行ひました。
2010年に私は少年時代から強い關心を持つてゐたライプニッツについて『ライプニッツ普遍數學の旅』(現代數學社)といふ本を上梓しました。そのお陰で、私はライプニッツ協会の名ばかりの会員になつてしまひ、「數學の話ならば何でもよい」といふことで、これまで講演を幾度か依頼されてゐたのですが、今回は逃げ果すことができなくて、およそアカデミズムの缺片もない與太話(本人にとつては結構深刻なテーマなのですが)を、哲學の専門家を前に披瀝することになつた次第なのです。
 それはともかく、これから數回に亘つて、そのときの滑稽な與太話にお付き合ひ願ひたいと思ひますが、結論を先に申し上げれば「私にとつて、數學を學ぶのは數學それ自體のためではなく、人間精神研究のため」であり、そして「もし人間の精神(?)が絶對的、超越的『無限』を認めなければ、全解析學(微分積分方面の數學)は崩壊し、すべて失はてしまう」といふものです。結論は實に簡單なことですが、この私の主張の眞意を理解してもらふためには、やはり少し準備が必要です。
おそらく、世の中のほとんどの人の數學への關心は「役に立つ」といふ一點にあり、多くの數學教師や數學者も含めて、「數學?そりゃ、この高度に進んだ科學技術の時代だもの、いろんなところで日々役に立つてゐるに決まつてゐるさ」といつた認識をお持ちではないかと思ひます。もちろん、中には「數學至上主義者」と言はれる人もゐて、純粹數學をそれ自身のために研究し、その中に「美とか詩とか」と言はれる、そんな藝術的側面を発見して、密やかな悦びを見出してゐる數學者もゐます。
私もこのやうな考へを認めるのに吝かではありませんが、私自身の數學への関心は「實用」でもなければ「藝術」でもありません。このあたりの事情に薄々氣付いてゆくのは、高校生の頃ですが、話を急ぐのはやめて、まず下の図式を眺めて下さい。

mateshi0409.jpg
 
上図は、「數學あるいは普遍數學(これについての解説は今は措く)」と私たちの世界の樣々な事物との關はりを示した概觀圖で、左上に「自然」と書かれてゐますが、その内容は言ふまでもなく「自然科學」と言はてゐる「物理學、化學、生物學、地學、天文學、・・・」などを包括する學問群を指し、一方その下に書かれてゐる「社會」は「法學、政治學、經濟學、歴史學、・・・」などの「社會科學」を指してゐます。また、「自然・社會・人間」と書かれてあるところには、「統計、工學、人工知能、宗教、倫理學、醫學、文學、言語學、藝術、建築・・・」など、自然・社会と人間とが鬩ぎ合ふところに生まれた學問領域を指してゐます。
 ともあれ、私は上の圖式を提示して、開口一番話したことは「私は、實は數學と自然科學、社会科學、あるいは工學や人工知能との關はりにはほとんど興味がない」といふことでした。では、なぜ數學を學ぶのか?それは「人間精神を研究するため」と、來聽者のほとんどの人たちを裏切る、中世の‘非科學的’な神學者のやうなことを口にしたものだから、實はそれで大いに笑ひを取ることができました。おまけに、私は數學の核心は「非合理だ」などとも言つてしまひました。
                   (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 11:34| Comment(0) | 河田直樹

2017年04月05日

歴史的假名遣事始め (二十八) 市川 浩

クイズで遊ぶ歴史的假名遣(二十八)

先月のクイズ解答
問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

歴史的仮名遣と現代人
歴史的仮名遣を守ったひとたちは、大きく二のタイプに分けられる。一つは、染み付いてしまった習慣をいまさら変えられないというひとたちである。(中略)
もう一つは、現代仮名遣よりも歴史的仮名遣のほうが優れていると確信しているひとたち、あるいはなんとなくそう思っているひとたちである。(中略)かれらの確信の最大の根拠は何かといえば、それは学問的合理性である。(以下略)
学問的合理性は規範の必要条件か
「歴史的仮名遣には学問的合理性があった」と言うのは、わたしではない。歴史的仮名遣のほうが現代仮名遣より優れていると信しているひとたちが、そう言うのである。
はたして、そうだろうか。
(「かなづかい入門」10〜11頁)

この主張に對する反論の一例を擧げます。

「かなづかい入門」の著者は文部科學省主任教科書調査官であり、同省の基本的考へ方を示すものとして暫く之を題材に考察したいと思ひます。
議論には論理的に整合性が必要なことは言ふまでもありませんが、そこで扱ふ「概念」に就いて正確な定義を共有することが先づ大切です。茲で問題になるのは最初に「歴史的假名遣を守つた人」と日本人を歴史的假名遣を支持する人(以下正かな派)と現代假名遣を支持する人(以下新かな派)とに分類してゐることです。分類の基本となる定義も判然としない儘正かな派を二種の分類に進んでゐますが、その一つは「染み付いてしまった習慣をいまさら変えられないというひとたち」と新かな派にも當嵌まる定義で、「絶滅寸前」と斬り捨て、もう一つの類は「歴史的仮名遣には学問的合理性あったと言つてゐる」と最初から結論ありきの定義で論を出發させてゐます。「學問的合理性」に就いては次囘に敍べたいと思ひますが、事實として例へば、福田恆存先生の「私の國語教室」を讀んで正かな派となつたと言ふ方を私は多く知つてゐます。現代假名遣を主張するなら、先づ同書のいふ正かな論への批判から出發すべきなのに、本書では參考文獻にもその書名は見當りません。
私たちの新かな批判に於ても、「新かな派」などの最初の概念定義には十分注意しなければなりません。

練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

歴史的仮名遣が学問の成果に拠っていることは(中略)認めるにやぶさかではない。だが歴的仮名遣いじたいが学問的合理的であるか(中略)は別問題であろう。換言すれば、現代仮名遣いにも学問的合理性を認める余地があるということである。
それになにより、仮名遣いを議論するときに、その優劣の判定に学問的合理性が必要なのか(中略)。誤解をおそれずにいえば、わたしは仮字遣に限らず、「規範」というものに学問的合理性や正確性は必ずしも必要とは考えない。(「かなづかい入門」11頁)
posted by 國語問題協議會 at 20:43| Comment(0) | 市川浩