2017年08月11日

數學における言語(その15) 無限と絶對 河田直樹(かはたなほき)

 
 長方形をいくら繰り返して2分割しても、正方形を矩形で覆ひ盡くすことは現實的には不可能なこと、そして、その一方でその操作を際限なく續けていけば、いつかは必ず覆ひ盡くすことができるのではないか、といふ‘心理’も私たちの中には存在し、それゆゑ、
          1/2+1/4+1/8+1/16+……=1 
という等式が成り立つのではないかと豫想できることも前回述べました。
ところで、多くの人は、1、2、3、・・・と數へていき、それが非常に大きくなつたもの、あるいは想像を絶するほど限りのなく大きな有限數、そんなものこそ「無限」という認識をお持ちではないか、と思ひます。つまり、「無限」とは、數を順次數へていけば、いづれはそこに到達できる世界であり、有限數の彼方においてそれは無限と曖昧に溶融し、そしてどこかで地續きになつてゐる、と思つてゐるふしがあるのです。
たとへば、平成6年(1994年)に出た井尻千男氏の『劇的なる精神福田恆存』(日本教文社)といふ本のプロローグには「戰後ヒューマニズムといふ人間についての無限肯定論はすでに始まつてゐたのである」といふ言ひ方が見られますが、これは福田恆存が苦々しく思つてゐた「戰後の無條件解放論」の井尻流の表現であり、この場合の「無限」は、「人間の形而下的欲望の際限もない」といふ意味であらうか、と推察されます。
かうした「無限」といふ言葉の遣ひ方には、先ほども述べたやうに「非常に大きな有限」といふ意味合いが込められてゐて、井尻氏の頭の中では「非常に大きな有限」と「無限」といふ言葉がどこかで繋がつてゐると言はざるを得ません。さうでなければ「形而下の有限世界における際限もない欲望肯定」に對して「無限」といふ言葉が使へるはづはありません。少々皮肉を言へば、むしろ言葉の眞の意味における「(形而上的、數学的)無限」を肯定すれば、「ヒューマニズムにおける無條件解放」は自づから停止せざるを得ない、といふのが私の持論です。なぜなら、「無限」は、「形而下世界における無際限の欲望肯定を斷念する」ことによつてはじめて得られるからです。
 すでに、雙子素數の存在について述べたやうに「際限もない形而下的知的欲望」の結果、いくら大きな雙子素數を見つけてもそれは「雙子素數が‘無限’に存在する」といふことを證明したことにはなりません。もし、それが證明されたとすれば、おそらく巨大な雙子素數の存在を具體的に調べるといふことは最早無意味となり、その形而下的探究には終止符が打たれるはづです。數学の形而上的「お終ひの雰圍気」とはそんなものであり、それが數学の絶對的「無限」なのです。
「濱の眞砂は盡きぬとも」と言ひますが、アルキメデス(前287頃〜前212)がゲロン王に捧げた「砂粒を算へるもの」で述べてゐるやうに、その數も所詮は有限に過ぎないわけで、「無限」と連續しているわけではありません。數学における「無限」と「有限」とは決して連續するものではなく、實は截然と區別されてゐるのです。ここに「絶對」の意味があり、このことは、幾ら強調しても強調し過ぎることはない、と私は思つてゐます。無限と有限とは全く別次元の物なのです。
 ここまで、私は何について語つてきたのか、實は、「數学」についてではなく、福田恆存の語る「西歐精神について」なのです。恆存は「私たち日本人には、絶對性といふ觀念がない」と語り、「西歐精神について」の中で次のやうに述べます――「絶對といふのは、その相對の世界にあらざるもの、すべてであり、永遠であるもの、つまり、この世には在りえないものであります」と。「無限」といふものは、絶對に「この世に在りありえないもの」であり、それは經驗科學がそもそも關知しえない原理です。恆存は「理想人間像について」では、また次のやうにも書いてゐます―「ぼくたちは自然的、物質的、肉體的な個體の生活原理とは異る、それと次元を異にする原理といふものを必要としないであらうか」。この「次元を異にする原理」こそ「無限」の原理に他なりません。(河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 22:13| Comment(0) | 河田直樹