2017年09月22日

ブックセラピー(その16) いのち愛(め)づる姫君、二人の桂子(けいこ)さん。 原山建郎


「桂子」といふ名前の生命科學者が二人。一人は遺傳學者でJT生命誌研究館館長の中村桂子さん、もう一人は発生學者で歌人の柳澤桂子さんである。
生命科學とは、「生命現象の不思議」をさぐる學問だが、中村桂子さんは『生命科學者ノート』(岩波現代文庫、二〇〇〇年)に、ライフ(サイエンス)といふ言葉で説明してゐる。
【ライフは、日本にはどうしても譯せない意味を持つてゐる。日本語で表現せざるを得ない時には、生命科學といふが、生命ではライフといふ言葉のもつ内容すべてを含むことはできない。(中略)ライフといふ短い言葉のなかには、生命が誕生し、さまざまな生活を營み、その一生を終へるといふ一つのドラマが含まれてゐるのだ。】
(同書二二ページ)
同じ中村さんが編集した『愛づるの話。』(JT生命誌研究館、二〇〇四年)では、哲學者の今道(いまみち)友(とも)信(のぶ)さんとの対談で、大和言葉の「愛でる」ではなく、「愛づる」にこだわつてゐる。
【中村 「蟲愛づる姫君(『堤中納言物語』)の「愛づる」ですが、日本人の生きものへの気持ちをとてもよく表現した言葉だと思ふのです。「愛でる」ではなく「愛づる」。(中略)
今道 「蟲愛づる姫」は虫ゆゑに可愛がるのではなく、虫自身の中に潜んでゐる不思議な力。それを與へた佛様か、自然か、神様か、さういふものに對する賛嘆のやうなものがどこかに潜んでゐるのでせう。】
(同書一七、一八ページ)
いづれも、「めづ(感・愛・賞)」の下二段活用だが、「めづる」には強く心を動かされる自他一體感があり、「めでる」にはそのすぐれたさま(他)を讃嘆する主體(自)がある。
中村さんはその對談で、人間(の生命科學)が人間中心になるのは当然だとしても、その一方では、生きもの全般に對して「本質を客観的に見ることによつて生まれてくる愛」があるのだと思ふ、と述べてゐる。

一九六〇年代、分子生物學の勃興期に立ち會ひ、三菱化成生命科學研究所主任研究員として活躍した柳澤桂子さんは、三十歳代に原因不明の病に襲はれ、一度は死を覺悟した病床から、たくさんの短歌や科學エッセイを發信してゐる。四十歳代半ばの神秘體験を經て、柳澤さんの生命科學は、宇宙と人體の成り立ち、始まりも終はりもない「生死(しょうじ)一如(いちにょ)」へと向かふ。

『いのちと放射能』(ちくま文庫、二〇〇七年)には、「お星さまのかけら」が登場する。
【このやうな星が爆發すると、水素や炭素やヘリウムが星間(せいかん)物質(ぶつしつ)として宇宙に飛び散り、やがてできてくる新しい星の芽となります。(中略)地球上にある、水素、酸素、炭素、窒素などに稻妻や紫外線が働いて、くつついたり、離れたりしてゐるうちに、いのちのもとになる分子が偶然にできあがつたと考へられてゐます。
私たちはお星さまのかけらでできてゐるのです。】
(同書一六ページ)
『生きて死ぬ智慧』(小學館、二〇〇四年)は、柳澤さんによる般若心經の「心譯」である。
【ひとはなぜ苦しむのでせう……/ほんたうは/野の花のやうに/わたしたちも生きられるのです
もし あなたが/目も見えず/耳も聞こえず/味はうこともできず/觸覺もなかつたら/あなたは 自分の存在を/どのやうに感じるでせうか。
これが「空」の感覚です】
(同書一ページ)
『いのちの日記』(柳澤桂子著、小學館、二〇〇五年)の一首に、「生死一如」を觀る。
【生まれかはり死にかはりつつわが内に積む星屑(ほしくず)にいのち華(はな)やぐ】
(武藏野大學非常勤講師『出版ニュース』コラム Book Therapy no.59)


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2017年09月14日

日本語あやとり(16) 「西欧精神」について[T] 河田直樹・かはたなほき

 私は第10回目の最後に「西洋文化の普遍的精神とその淵源を眞に了解してゐた我が国の例外的知識人は、福田恆存ただ一人ではなかつたか」と書きました。
數學ができないくせに「歐米の『數學的精神』ばかりに強い興味と關心とを抱いてゐた數學少年」の私にとつて、奇妙な話ではありますが、福田恆存は劇作家でも飜譯家でも文學者でもなく、なによりもまづ、その「數學的精神の秘密」を明快に解き明かしてくれた人として登場してきました。彼の「西歐精神について」や「絶對者の役割」を初めて讀んだのは、もう40年以上も前のことですが、その文章ははじめから何の抵抗感もなく私の心にすうつと入つてきて、私はそれまでに讀んでゐた我が国の名立たる知識人たちの文章からは決して味はへない喜びを與へられました。それ以來、「福田恆存」は私にとつて我が国の知識人の中で「例外的な存在」になりました。
 「西歐精神について」は、昭和32年に発表されたエッセイですが、第二節の「封建性といふこと」の冒頭では、「今日、大抵の社會科學者が、また大抵の『進歩的文化人』が、なにかといふと、日本の『前近代性』とか『封建性』とかいふ。かれらにとつて、なにかおもしろくない現象があると、みんな『封建性』のせゐにしてしまひます」と語られます。「進歩的文化人」といふ言葉はもはや死語に近いのでせうが、しかしその心根は今日でもしぶとく生き延びてゐて、なにかと言へば「日本は遅れてゐる、前近代的だ、封建的だ」といつた言葉をしばしば耳にします。福田恆存はそのあたりの事情を「人々は日本の近代が西歐流の近代になりそこねてゐることばかり氣をとられて、罪をすべて日本の封建時代に歸さうとしてゐる」と述べ、さらに日本と西歐の近代の違ひを中世の在り方に見て、「その中世のちがひの根底は、宗教といふことにあります」と喝破してゐます。まことに的確な指摘で、さらに恆存は第三節「絶對への要求」で次のやうに述べます。

  私たち日本人には、絶對性といふ観念がない。したがつて、絶對神など、馬鹿馬鹿しいと思ふ。神だの絶對性などといふことは、照れくさくて口にだせないのです。超自然といふのもお化け以外にはありはしない。そのお化けも、實は大いに實在的です。私たちが超自然といふときは、ひやかすときとか、うさんくさいといふときにかぎります。(中略)日本人は五感で觸知しうるもの以外の存在を認めないのです。

 上の引用の冒頭は前回の最後でも紹介した言葉ですが、福田恆存は一方で、「絶對主義」といふ言葉を悪い意味、誤つて用ゐる事例に觸れ、「天皇崇拜とか、戰爭前の國家主義とか、あるいはまたスターリン主義とか、さういふものに適用します。もちろん、惡い意味です。日本人にもともと絶對といふ觀念のないところへもつてきて、右のやうに惡い意味で絶對主義といふ言葉を用ゐるものですから、ますます『絶對』の人気が悪くなる」と述べています。この事情は現在でほとんど同じですが、さらに恆存は「超自然の『超』もろくな意味に用ゐらない」とも指摘して、「超自然にしても絶對にしても、なぜさういふ誤用が起るのか、また、誤用ではないにしても、ごく部分的な転用しかおこなはれないのか」と問ひます。恆存はその問ひに對して、「いふまでもなく、私たちに、超自然、絶対の觀念がないからです」とこたへ、「超自然といふのは、文字どほり自然を超えるものであつて、この五感で觸知しうる自然界には存在しないものです。ですから、善かれ惡しかれ『度が過ぎてゐる』といふような程度の差ではありません」と、語ります。この指摘は大變重要で、前回私が述べた「數學における無限と有限とは決して連續するものではない」といふことに繋がつていきます。「度が過ぎてゐる有限」が、すなはち「無限」ではないのです。
                   (河田直樹・かはたなほき)
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2017年09月10日

歴史的假名遣事始め (三十三) 市川 浩

クイズで遊ぶ歴史的假名遣(三十三)

先月のクイズ解答
問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

若い新仮名遣世代がふるい仮名遣の文章に違和感をもつことが、そんなに不都合なことなのだろうか。違和感をもつことこそが、自分たちの文化を相対化する第一歩ではないのか。そもそも文化とは違和感をもつことができる感性の持ち主によつて創造され、そして受け継がれてきた。定家は仮名表記の乱れに違和感を覚えた。契冲も万葉集の字面を見詰めているうち、従来の認識に違和感を覚えた。いづれも鈍感な人間のおよぶところではない。これを洒落たことばになおせば、インスピレーションという。古典学を支える思想、それは「現代と古代とは違う、われわれはいにしえ人とは断絶しているのだ」という強烈な発見から始り、またそういった発見におわるものではないだろうか。(「かなづかい入門」166頁)
出題者(注)本文は同書第七章國語審議會が昭和五十八年全委員に行つたアンケートの囘答中、「現代かなづかい」の得失の内、失として「一、「現代かなづかい」世代に舊假名遣で書かれた古典や戰前の文章に大きな違和感をもつやうになつた(同書162頁)」に對する著者の反論である。

この主張に對する反論の一例を擧げます。

ここでは出題者(注)に書きましたやうに、「現代かなづかい」による「失」を主張する論と、「得」を主張する著者との「違和感」の内容がかみ合つてゐないことが問題です。「失」とする論者は、「現代かなづかい」のみで育つた世代は、馴染のない歴史的假名遣で書いてある古典がまるで外國の書物であるかのやうに感じて、到底先祖の貽した貴重な文化遺産だとは感じられない、その感じを「違和感」と表現してゐるのに對して、後段で著者のいふ「違和感」は、古典研究に通じた定家、契冲が感じたであらう、當時世上一般の文字遣はこれでよいのだらうかといふ批判的な感懷を「違和感」としてゐます。後者の「違和感」で一貫させると、若い人が歴史的假名遣に接して、通行の「現代かなづかい」に疑問を感じたことになり、著者の主張とは正反對になりますが論理的には一貫します。前者の「違和感」とすると、定家、契冲の感じたそれではなくなり、「インスピレーション」論は論理的に破綻します。著者は無意識的に「違和感」の意味を別々のものとしたのでせうか。
なほ、著者は更に進んで
「「現代と古代とは違う、われわれはいにしえ人とは断絶しているのだ」という強烈な発見」こそが必要だと述べてゐます。これは戰後の教育を規定して來た教育基本法の「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」を忠實に表現してゐるのですが、此の法文は平成十八年(2006)年の改正により、「伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育」と、文化の世界一極化から文化の多樣性尊重を前提とすることになりました。本書の初版は2008年、即ち既に改正後です。原稿執筆が恐らく改正前であつたのでせう。しかし、現役の主任教科書調査官の著書としては改正を踏へる義務がありませう。

練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

現代仮名遣いでなければ口語文でないとか、歴史的仮名遣でなければ文語文とはいわない、というようなものではない。(中略)おなじ理屈で、文語文が現代仮名遣いで書かれたとしても、どこにも不都合はない。(中略)むしろ、われわれは文語文を現代音で読んでいるのだから、現代仮名遣いで表記する方が裡に理なっているかもしれない。(中略)
そもそも万葉集の歌には,仮名で表記できない音節があつた。仮名の誕生前に消滅した音節である。奈良時代の万葉集を歴史的仮名遣で表記するということは、平安時代初期の「
現代仮名遣い」で書いていることを意味する。ならば、二〇世紀の現代仮名遣をつかって万葉集を書いて、どこが間違っているというのか。(「かなづかい入門」1182〜183頁)
posted by 國語問題協議會 at 14:35| Comment(0) | 市川浩