2017年11月26日

おもて〈面〉⇔うら〈心〉の應答               原山建郎

二〇一三年、遺傳子檢査を受けた女優のアンジェリーナ・ジョリーに、乳ガンと卵巣ガンの遺傳的リスクが各々八十七パーセント、五十パーセントであることが判明した。彼女の母親は四十九歳で卵巣ガンと診斷され、五九歳のとき乳ガンで亡くなつた。祖母は乳ガン、叔母も卵巣ガンで亡くなつてゐる。
そこで、彼女は豫防的乳房切除(乳房再建)手術を選擇し、二年後には卵巣と卵管も摘出した。この決斷を「勇気ある選擇だ」と賞讚の聲がある一方で、「乳ガンの遺傳子があつても、必ずガンになるとは限らない」といふ意見も多く寄せられた。
なるほど、遺傳的な要因が強く關與して發症する乳ガンや卵巣ガンは、全體の五〜十パーセント程度、殘り九十パーセントは、遺傳子とは関係なく發症しているといふデータもある。それでも、「ガンの遺傳的リスクが八十七パーセント」と告げられれば、誰でも豫防手術の選擇をめぐつて心がゆらぐ。
多くの醫療機關が、遺傳子檢査などの情報を元に、患者個々人に最適化したオーダーメイド醫療を喧傳(けんでん)した。しかし、人間のからだは、機械のリコール(缺陷部品の交換・修理)と同じに考へられるのだらうか。

昨年末、東方醫療振興財團主催の市民公開講座『鍼1本が医療崩壊を救う!』で、「パソコンを見(み)る醫學、つながりを診(み)る醫療」について講演した。パンフレットに、私はかう記した。
〈患者のからだに觸れることもなく、パソコン画面に映る檢査値の變化を重視する醫師がふえてゐる。からだを部分に分けて見る現代醫學は、すぐ隣とのつながりを見落としやすい。かつて、鍼麻酔で無痛抜齒を體驗した私は、部分と全體のつながりを診る鍼灸治療のアドバンテージを、醫療再生への第一歩に生かすべきだと考へる。〉
メインテーマは、「からだのおもて〈面〉⇔うら〈心〉の應答」である。〈面〉の訓は「おもて(外)」だが、〈心〉の古訓に「うら(内)」がある。そして、からだの外(おもて)と内(うら)の接點は、體表を覆ふ皮膚である。鍼灸(東洋醫學)の診察・治療は、すべて掌(たなごころ)、た(手)+な(の)+こころ(心=うら)でふれる皮膚を介して行はれる。まづ脈診や腹診でうら(内)の様子を窺い、おもて(外)の經(つ)穴(ぼ)(交流ポイント)から鍼や灸の刺戟によつて、うら(内)に語りかける。治療後に感じる心地よさは、うら(内)からの應答だ。近年、皮膚への適切な〈快〉刺激が、腦の疲れをとるオキシトシン(癒しのホルモン)の分泌を促すことが明らかになつた。

統合醫療の創始者、アンドルー・ワイルが、『癒す心、治す力』(上野圭一譯、角川書店、一九九五年)で、【治療と治癒とは同じものではない。治療は外からほどこされ、治癒は内から起こつてくる。】といふやうに、皮膚はからだの物理バリアであり、外部をモニターするセンサーなのだ。
また、『思考のすごい力』(ブルース・リプトン著、西尾香苗譯、PHP研究所、二〇〇九年)の中で、革新的な生物學であるエピジェネティクス(遺傳子を超えたコントロール)に着目したリプトンは、遺傳子檢査やオーダーメイド醫療の「遺傳子がすべてを支配する」といふ遺傳子決定主義の考へ方は、すでに時代遲れ遅れだと指摘してゐる。
【エピジェネティクスがこの十年間に解明したところによれば、遺傳子として受け渡されるDNAの設計圖は、誕生のときにはまだ確定してゐないらしい。遺傳子は運命の女神ではないのだ!環境による影響、たとえば榮養分やストレスなどの感情が、基本的な設計に手を加へることはないにしても、遺傳子を變化させることがある。】
(同書一〇九ページ)
〈面(おもて)〉と〈心(うら)〉の應答が拓く、鍼灸の未來。
(武藏野大學非常勤講師『出版ニュース』コラム Book Therapy 2013年))

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2017年11月19日

きゃりこの戀(52) 教育敕語(二) 雁井理香

オスカー:
 前回の最後に教育勅語の全文を載せました。読みと意味を説明したい所ですが、Wikipediaを見れば分かるから、もう説明しません。
 ちょっと重要な漢字と語句だけ、つまんでみませう。
  「惟」は重要な訓(よ)みが二つあります。「ただ(只)」と「おもふ(思)」
  「皇祖(くわうそ)皇宗(くわうそう)」は「天照大神および代々の天皇」
  「肇」は「始める」。ここでは「ちんおもふに、わがくわうそくわうそうくにをはじむることくわうゑんに、とくをたつることしんかうなり」
  二つ目の文の中程は、「よよそのびをなせるは」
きゃりこ:
 「爾」が分からない。
オスカー:
 「なんぢ」。
きゃりこ:
 「なんぢ」は「汝」ぢやないの。
オスカー:
 同じ訓みの漢字がいくつもあるのです。「なんぢ」と讀む漢字の重要なものを竝(並)べておきませう。他にもたくさんあるのですが。
   汝 焉 爾 女 而 若
 そのちょっと後、「一旦緩急」以下は、「いったんかんきふあればぎいうこうにほうじ」
 「緩急(かんきふ)」は「まさかのこと」。何か大事が生じた時には、国の爲に盡しなさい」
きゃりこ:
 私が文法の話しても嗤はないでね。
 「大事が生じたので」ではなく、「生じたならば」の意味なのだから、「緩急あらば」と「未然形+ば」にしないといけなくない?
オスカー:
 おおおおお。きゃりこさんがいいことに気付きましたね。
 そのことは昔から指摘されてゐて、今でも「誤用論」と「擁護論」があつて決着がついてゐません。しかし、僕は、文法的な間違ひではないと思ひます。高校文法では、「未然形+ば」は「〜ならば」で、「已然形+ば」は「〜なので」と言はれてゐますが、「〜のときには・〜の場合には」と輕く云ふ場合には、「已然形+ば」が使はれます。
 擁護説も戦前からあつて、「漢文の『〜なれば則はち』の意味であつて間違ひではない」などと言はれてゐましたが、別に漢文を持ち出さなくても、本来の文語文法でもこの形で正しいのです。
 一番よい例が、有間皇子の辞世、
   「家にあれば笥(け)に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」
 「家にゐれば食器に盛るのに」ですから、「家にあらば」としなければをかしいやうに思ひますが、輕い「家にゐるときには」といふほどの意味なので、完全な仮定にはしてゐないのです。
 この部分の英訳が面白いですよ。明治政府の公式英訳です。
Should emergency arise, offer yourselves courageously to the State; and thus guard and maintain the prosperity of Our Imperial Throne coeval with heaven and earth.
きゃりこ:
 またおバカの私が、不自然な賢さを発揮するよ。
 書き出しは仮定法の倒置。If emergency should arise(非常事態が発生したならば)の意味ですね。その後は、「offerせよ、そしてguardせよ、またmaintainせよ」と命令形が三つ並んでゐるんだね。
オスカー:
 おおお、たいしたもんだ。
きゃりこ:
 違ふよ。私ぢやなくて、雁井さんが言つてゐるんだよ。私はズルなんだ。将棋の公式戦で、スマホの将棋ソフトを見るやうなもの。寧々とは違ふんだよ。くそッ、ぐれてやる。
 ついでに、雁井さんから電波が飛んで來たから、英語を直訳してやるね。
 「非常事態が出來したならば、勇敢に国家の爲に身を捧げよ。そして、天地とともに永続する皇位の繁栄を守護し維持せよ」
 自分で言つたのに、意味が分からないんだけど、「出來したならば」って、何? 「できしたならば」って讀むの、それとも「しゅつらいしたならば」って讀むの。
オスカー:
 「出來」は「しゅったい」。事件などが発生すること。「椿事(ちんじ)出來(しゅつたい)」と言つたら、「とんでもない出来事が持ち上がること」ですから、覚えておいてね。
 あとは、「謬ラス」と「悖(もと)ラス」だけ説明しませう。「謬」は「誤謬」といふやうに、「あやまる」(間違へる)。「悖」は「背(そむく)・違(たがふ)」の意味です。「時代を超越して誤ることなく、また世界にも普及させて違背することがないやうにせよ」です。
きゃりこ:
 そしたら、「謬ラズ」と「悖ラズ」でせう。濁点が抜けてるよ。
オスカー:
 戦前の天皇や政府の公式文書は、「句読点・濁点を打たない」といふ面白いルールがあつたのです。
きゃりこ
 あきれた。無意味なこと!
オスカー:
 最後にもう一つ。一番最後の「庶幾ふ」は何と讀む?
きゃりこ:
 「しょきふ」。なんぢや。
オスカー:
 《音讀み》して、「ショキす」ならいいけど、「ふ」が附いてゐるでしょ。
 「こひねがふ」つて讀むの。「乞ひ願ふ」といふこと。発音は「こいねがう」ではなく、「こいねごう」がいいでせう。
きゃりこ:
 なんで、「庶幾」をそんなふうに讀むの。
オスカー:
 漢文(古典中国語)で「庶幾」がhopeやwishの意味だから。



posted by 國語問題協議會 at 10:29| Comment(0) | 雁井理香

2017年11月10日

數學における言語(18) 西欧精神について[V] 河田直樹

 トマス・アキナスと言へば「スコラ哲學の王」と呼ばれ、「存在それ自體の本質」を體系的に思索し續けた大神學者、彼以後の歐羅巴を決定的に方向付けた大知識人として誰もが知つてゐます。スコラ哲學は、キリスト教が希臘哲學と對抗するために、自らも思辨的、哲學的にならざるをえなかつた宿命から生まれてきてゐますが、その瞠目すべき特徴は、ユークリッド『原論(ストイケイア)』に見るやうな「徹頭徹尾の理性的論證」にあります。
 實際、たとへば「神は存在するか」といふ問ひに對して、トマスは『神學大全』第一部の第2問第3項で「神が存在することは5つの道によつて證明されうる」と述べ、その第2の道の「作出因の根據」にもとづく‘證明’を以下のやうに展開してゐます。前回紹介した『徒然草』の兼好の「言葉」とトマスの「言葉」とを比較していただきたいと思ひます。

 (1)この可感的世界のうちにわれわれは作出因の秩序の存在することを見出す。
 (2)しかしながら何かが自分自身の作出因であることは見出されないし、またそういふことはありえない。なぜなら、その場合には、そのものはそのもの自身よりも先に存在することになるが、それは不可能だからである。
 (3)ところで作出因の系列を追つて無限に進むことはできない。なぜならすべての秩序づけられた作出因のうち、第一のものは中間のものの原因であり、中間のものは最後の原因である。中間のものが複數あるにせよただ一つであるにせよ。しかるに原因が取り去られれば結果も取り去られる。ゆゑに、もし作出因のうち第一のものがないとすれば、最後のものもないであろう。しかるにもし作出因の系列を追つて無限にすすむとすれば、第一の作出因は存在せず、したがつてまた最後に作り出されるもの(結果)も中間の作出因も存在しないことになるであらう。これはあきらかに僞である。
 (4)それゆゑぜひとも何らかの第一作出因が在るとしなければならない。これをすべての人々は神と名づける。
       (世界の名著、『トマス・アキナス』山田晶訳による)

「可感的世界」とは「いろいろなモノやコトを五感によつて觸知できる世界」であり、また「作出因」とは「結果を生ぜしめる原因として、結果との關係において捉へられたもの」といふことで、要するにこの世界のモノやコトを作り出す原因と考へておけばいいのではないかと思はれます。そして、トマスは、作出因を無限の遡及することができない故に、神は存在しなければならない、と主張してゐるのでせう。
 兼好が單なる「ザイン(=ある姿)」を語つてゐるのに對して、トマスは、その裏に形而上的な「戰ひの血のり」の付いた論證によつて「ゾルレン(=あるべき姿)」を語つてゐるやうに思はれます。兼好は「第一の佛はいかなるものか」といふ問ひに對して「空から降つてきたのだらうか、土から沸いたのであらうか」と言つて笑つた「父」の姿を書き留めてゐます。彼の關心は端的に言へば問ひそのものではなく、むしろ彼の父の方にあると言つてもいいのです。變てこなことを問ひ詰める自分の息子のことをいろいろな人に話して打ち興じてゐる父の姿(=ザイン)こそ、實は最終段のテーマです。
 一方、トマスの視線は同じ父でも「他から何ものをも受け取ることのない神性をもつ父」に向けられます。この「父」は決して笑ひません。すなはちそれは「神」です。「第一作出因が在るとしなければならない」といふ當爲の文體は、取りも直さず彼の關心が超越者としての「神」、言葉の眞の意味における「理想」にあることを示してゐます。トマスが「ゾルレン」を語るゆゑんですが、この違ひは決定的です。
                   (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 15:35| Comment(0) | 河田直樹