2018年07月21日

「つたへること・つたはるもの」28 原山建郎

小池都知事のカタカナ語、日本語にしてみました。(2016年10月11日)

豊洲市場の移轉延期・盛り土問題、東京五輪の開催費用檢證・會場施設見直しなど、都政改革本部の調査チームを立ち上げた小池百合子都知事は、毎週末金曜日の定例記者會見、九月二八日の初都議會における所信表明演説などを通じて、豊洲市場の環境汚染懸念、ゼネコンとの官製談合疑惑、JOC(日本オリンピつク委員)の放漫運營體質にチェックを入れてゐる。
――と、ここまでは誰もが拍手喝采なのだが、小池都知事が多用するカタカナ語は「意味がよく分からない」と困惑する人が多くゐて、はなはだ評判が悪いのだ。これらのカタカナ語を日本語にしたらどうなるか。
☆都議會での「所信表明演説」/★毎週末金曜日の「定例記者會見」で用ゐられたカタカナ語を抜き出して、小池都知事が大好きなカタカナ語(英語の綴り:日本語翻訳:同義語・類語などの意譯)を見てみよう。
いづれも拙い日本語私譯なので、萬が一、誤譯・迷譯があつたらごめんなさい。

☆常に目的は、「都民ファースト(first:第一優先)」の都政の構築にあります。/☆「ワイズ・スペンディング(wise spending:賢い支出:賢いお金の使ひ方)」といふ言葉がありますが、豊かな税收を背景に、税金の有効活用の觀點が損なはれることがあつてはなりません。/☆日本の成長のエンジン(engine:原動機:原動力)として世界の中でも輝き續けるサステイナブル(sustainable:存續・持續・成長可能な)、持續可能な首都・東京を創り上げることであります。そのためにも、「セーフシティ(safe city:安全な都市)」「ダイバーシティ(diversity:多樣性:多樣性を受容する社會)」「スマートシティ(smart city:環境に配慮する都市)」の三つのシティ(city:都市 ※ただし、diversityはdi+verse+tyが語源で発音は同じだが、都市の意であるcityではない)を實現し、東京の課題解決と成長創出に取り組んでまゐります。/☆二〇二〇年の大會は單なる一九六四アゲイン(again:再現:夢よもう一度)ではなく、成熟都市であり、世界の最先端都市である「TOKYO」を世界にアピールする大會にしなければなりません。/☆ハード(hardware:設備・施設)面のレガシー(legacy:遺産:物理的な遺産)だけでなく、ソフト(software:規則・運用)面のレガシー(legacy:遺産:技術的・文化的な遺産)を構築いたします。/☆たとへば、フィンテック(fintech:情報通信技術を使つた新たな金融サービス)分野をはじめとする海外の金融系企業を誘致するため/★片仮名ばかり並べて申し訳ないのですが、企業で言ふところのコンプライアンス(compliance:法令順守:法律や倫理に則つた企業活動)です。といふことで、だから内部統制(從業員や會社の資産の管理統制)であるとかガバナンス(governance:統治:経営の管理統制)、誰が管理をして、誰が決定をして、【※これは「企業(corporate)で言ふところ」に續く文脈なので、「内部統制であるとかガバナンス」は、コーポレートガバナンス(經營の管理統制)・内部統制(從業員や會社の資産の管理統制)をいふ】/★手が下がりつつあつて、もうウイズドロウ(withdraw:手を引つ込める)してしまつてゐる/★先ほど私が、ホイッスルブロワー(whistle-blower:警笛を吹く人:不正行爲の内部通報者)の話をさせていただいわけでございまして、匿名、實名を問はず……。

カタカナ語が埋め込まれた「前後の文脈」から難解な經營英語を私譯したのだが、もしかすると、これはカタカナ語を多用して記者の質問を「煙に巻く(to create a smokescreen)」政治的手法なのかもしれない。英語はもとより、アラビア語にも堪能な小池都知事は、「頭がよい」を意味する英語、スマート(smart:頭のよさ・小利口)、クレバー(clever:頭が切れる・聡明)、ワイズ(wise:知的な賢さ・博識)でいへば、スマート&クレバーだが、「都民ファースト」を目指す語彙力はまだワイズの域まで到達してゐない。

まど・みちをの詩、『がいらいごじてん』は當意即妙の「ひらがな語」譯で、ユーモアがある。◆ファッション=はつくしょん/ア ラ モード=あら どうも/ミニ スカート=目に すかつと/ピックルス=びつくり酢/マロン グラッセ=まるう おまつせ/トイレ=はいれ/ボクシング=ぼく しんど。
それでは小池都知事の新造語、ライフ・ワーク・バランス(life-work-balance:生活と人生の調和)を「ひらがな語」にしてみる。◆ライフ・ワーク・バランス=あーした 天気に なあれ
おあとがよろしいようで……。
(武藏野大學非常勤講師『ゴム報知新聞』電子版コラム (2016年10月11日)


posted by 國語問題協議會 at 12:06| Comment(0) | 原山建郎

2018年07月14日

日本語ウォッチング(4)  会議を持つ 織田多宇人

「會議を持つ」という言ひ方は英語の直譯から來た表現であらう。國語では、會議は「開く」ものである。言葉と言ふものは時代によつて動いて行くものだし、古くは漢文の訓讀によつて特殊な言ひ囘しなども固定した例があるから英語の翻譯によつて變つた表現が作られ、それが新鮮に感じられたりして次第に用ゐられるやうになるのだ、と言へばそれまでのことである。
しかし、素晴らしい翻譯文に會ふと嬉しくなる。米原万里氏の『不実な美女か貞淑な醜女か』にこんな文章があつた。「來年度の日本のGNP成長率は四%前後になります」と言ふ發言に對して、「Oh, it’s too optimistic!」と言ふ反應があつた場合、田中さんは決してこれを「それは、餘りに樂觀的過ぎます」なんてこなれない日本語に置き換へたりせずに、「讀みが甘過ぎませんか」と譯してくれるのだから、舌を卷く。
posted by 國語問題協議會 at 17:01| Comment(0) | 織田多宇人

2018年07月05日

數學における言語(27)(28) 日本語と哲學[V][W] 河田直樹

 前回紹介した中村元著『日本人の思惟方法』の第4章は、少年時代から「日本にはなぜ數學や數理哲學(和算は除く)の歴史がないのか」と訝り續けてゐた私には、その一字一句が心に沁みわたつてくるもので、できればその全文を紹介したい衝動にも驅られます。以下、「論理や言葉」に關連する個所を思ひつくままにいくつか紹介してみませう。
・日本語本來の和語は、(中略)感性的あるいは感情的な精神作用を示す語彙には豊富であるが、理知的・推理的な能動的思惟の作用を示す語彙が非常にとぼしい。和語の単語は多く具象的・直觀的であるのが常であつて、抽象名詞の形成が十分でない。抽象的概念を和語をもつてすべて表現することは、きはめて困難である。
・西洋の哲學思想がさかんに行はれるやうになつた今日においても、使用される語彙は、多くは漢語二字ずつを適当に構成して、西洋の伝統的概念にあてはめたものである。(略)純粹の和語はついに哲學的概念を表示するものとはなりえなかつた。
・そうじて論理的自覺なるものは、特殊者と普遍者との自覺にはじまるのであるが、日本人は一般にこの關係を十分に意識してゐなかつた。ひとつの概念を個別的な事例から切り離して理解するといふことに拙劣であつた。(なお、‘證明’とは普遍命題から特殊命題の導出にほかならない)。
・日本の因明(佛教の論理學)は、數學や自然科學とはまつたく無關係であつた。和算にさへも影響の跡を見せてゐない。日本人のあひだでは、單に論理的思索が不徹底であつたばかりではなく、精密論理の意義が正しく理解されてゐなかつた。
・日本人が論理學に適しないといふことはほとんど宿命的なやうである。
 この他にも、中村元の批判は、道元、徂徠、篤胤などにも及び、さらに『シナ人の思惟方法』では、「シナ民族の非論理的傾向は、シナ的佛教である禪宗の場合には、とくに顯著である」といふ言説もみられます。日本文化が、古來シナ文化に大きな影響を受けてきたことを思へば、「日本人が論理學に適しないのは宿命である」といふ中村元の指摘には、もはや言葉もありません。私たちは「日本語の哲學」を考へる前に、「日本文化の宿命」に思ひを致すべきかもしれません。
 そもそも「哲學」といふものがどういふものであるかは、いまは措くとして、しかし私が接してきた哲學書には「漢語二字ずつを適當に構成」してつくつた「悟性、思惟、觀念、表象」といつた言葉(粗製亂造された言葉といつてもよいが)が多く登場し、それはそれで無意味ではありませんが、その定義の曖昧さと不正確さとには閉口したものです。
前回、「理」という言葉に少し触れましたが、「理とはすなわちratio」という文化傳統を缺いてゐる私たちは、「理性、理知、合理、哲理」といつた言葉に含まれた「理」に一體どんな意味をみるのでせうか。「知(理)に働けば角が立つ」程度のナイーブな情緒的認識からは、「絶對的な眞を求めるための徹底的な論證文化」は生まれようがありません。「1+1=2」は「眞」であり、それ以外のなにものでもないのです。
 「日本語」と「哲學を含む西洋文化」との關係については、これまで多くの識者たちが發言してゐますが、西田幾多郎の畏友であつたあの鈴木大拙(1870〜1966)も『日本的靈性』の緒言で次のやうに述べてゐます。すなはち「日本では元來の大和言葉のうへに漢文字があり、そのうへに歐米からはいつて來た言葉に、多くの場合、漢文的譯字を付したので、今日の日本語なるものは複雜怪奇を極めてゐると言つてよい。(略)明治の初頭から、歐米の文化が狂亂怒濤のやうに押しかけて來たので、何でもかんでも文字を組み合はせて、それらを自分の頭にしまひ込に、維(こ)れ日も足らずといふ次第であつた。これは今日まで盛んに行はれてゐる實況である」。論旨は中村元の批判とほぼ同じで、いまの日本を生きてゐる私には耳の痛くなる指摘です。しかし、實は私はそんなに悲觀してはゐません。           

日本語と哲學[W](28)
 ここまで數回に亘つて、「日本語と哲學」の問題を考へてきましたが、要するに私の長年の不滿は「日本語で書かれた哲學書の言葉が難解で意味不明確」といふ點でした。しかしそれも西洋由來の哲學的概念を漢語(これもまた外國語)の適當な組合せによつて受容せざるを得なかつたことを考へると致し方のないことかもしれなくて、むしろ日本人のその涙ぐましい努力と知恵とを壽ぐべきかもしれません。これまでの生硬な哲學用語も、時間とともに私たちの言語空間の中で變容し、成熟し、そして定着していくのではないかとも思はれます。
たとへば、こんにちごく當たり前に使つてゐる「自然」といふ言葉もさうで、かつてはこの言葉は科學的認識の對象ではありませんでした。日本思想史家の源了圓は「日本人の自然觀」といふ論文で、次のやうに述べてゐます。―「われわれの直面する第一の問題は『自然』といふ言葉が二重の意味で飜譯語であるといふことである。中國の『自然』に當たることばは古代のやまとことばには存しなかつたし、西歐のnaturaやnatureといふことばに、16〜17世紀(天主教)、ならびに18〜19世紀(蘭學ないし洋學)に觸れた時もそれに相當することばをもたなかつた。(略)第二は、「自然」といふ概念が複雜で多岐にわたるのに、過去の日本人は、自然といふことを古代ギリシャ以來の西歐人たちや、中國人の思想家たちがなしたやうに、古代から自覺的に哲學的問題として思惟の對象とすることがなかつたことである」。
 源了圓の指摘は尤もですが、明治以後の150年で日本人の「自然」に對する對し方の決定的變化は、「自然科學」といふ言葉があるやうに、それが「學問的認識の對象」になつたことで、しかもその根源的原動力が「數學」だといふことです。いふまでもなく、體系化され組織化された數學による認識方法は、古代希臘以来の西歐の傳統で、殘念ながら我が日本文化の傳統ではありませんでした。ガリレオ・ガリレイは「宇宙は數學言語で書かれた書物である」と述べましたが、和辻哲郎が『風土』で指摘したやうに、「ヨーロッパ人は夙に、自然の中に合理(=數理)を見てゐた」のです。和辻は書いてゐます。

  わが國においては人工的と合理的とが結びつきヨーロッパにおいて
は自然的と合理的とが結びつくといふことも言ひ得られる。

 この指摘はさすがで、「自然の中に合理(=數理=ratio)が在る」といふ「信仰」こそ、「自然科學、あるいはmathesis univeralis(普遍學)」を生む濫觴だつたと言へます。日本人の場合、汎神論的な自然崇拝といふ形をとつた「信仰」はありますが、その信仰の意味は全く異なつてゐて、むしろ私たちは「自然=非合理(非數理的)、人工=合理」といふ認識をいまだに共有してゐます。ちなみに、スピノザの汎神論哲學と私たち東洋人の多神教的汎神論の類似性がときどき指摘されたりしますが、私は全く別物だと考へてゐます。あのスピノザの『エチカ』のユークリッド幾何的論證の眞髄は、「1+1⇒(ならば)2」といふ、その「ならば(⇒)」の絶體的正しさに對する極めて平明素直な信仰に基づいてゐて、さうであればこそ、スピノザはニーチェに先立つて「善悪の彼岸」を透徹した眼差しで見ることができたのではないのでせうか。
 ともあれ、日本語の哲學用語は難解でいささか虚假威し的側面がないわけではありませんが、日本人の美感と智慧とは、50年後、100年後には西洋傳來の哲學を見事に自家薬籠中の物にするのでは、と私は樂天的に信じてゐます。田中美知太郎氏の著作を讀み始めたのは30代の初めでしたが、氏の文章に心酔し、これこそが「日本語の哲學だ」と思つた記憶があります。氏が1985年に死去されたとき「當代随一の文章家」といふオマージュを捧げたのは山本夏彦氏であつたと記憶してゐますが、私たちはすでに立派な哲學の文章を有してゐて、「日本語は生きのびるか」と心配する必要などないのです。    (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 11:41| Comment(0) | 河田直樹