おほいなる 神のふるきみくにに\いまあらた\大いなる戰ひとうたのとき\酣にして\神讚むる\くにたみの高き諸聲
そのこゑにまじればあはれ\淺茅がもとの蟲の音の\わがうたさへや\あなをかし けふの日の忝なさは({わがうたさへや})
といふ詩が收められてゐます。この詩に初めて接したときの私の感慨は、それまで讀んできた伊東のどの詩からも決して得られないものでした。少々しかつめらしい言ひ方をするなら、ここにはいつの時代にも共通する普遍的な「社會と個人」の問題が詠はれてゐます。「わがうたさへや あなをかし」とは、詩人の含羞のユーモアとも言ふべきでせう。
また、「那智」の「天地(あめつち)もとどろと響き\神ながらましましにけり\雄叫びの那智の御瀧(みたき)は」や「海戰想望」の「つはものが頬にのぼりし\ゑまひをもみそなはしけむ」などは、古代の萬葉人の勇壯と晴朗とを體現した詩句であり、ある種の懷かしさを呼び覺ましてくれます。
桑原武夫氏の語るやうに伊東の戰爭詩は決して時局「便乘的なもの」ではないのですが、伊東自身そのやうな詩を「深く恥ぢてゐた」とのことで文庫版への收録は差し控へられたやうです。靜雄は「十五日陛下の御放送を拜した直後」に、日記に「太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照らし、白い雲は靜かに浮び、家々からは炊煙がのぼつてゐる。それなのに、戰は敗れたのだ。何の異變も自然におこらないのが信ぜられない」と記してゐますが、その伊東靜雄が終戰後「戰爭詩」を恥ぢてゐた、とは一體どういふことなのでせうか。私にはこれこそが、菅野氏の語る「無慘な轉身」であり、日本の歴史全體にとつても「もつとも大きな痛ましいできごと」のやうに思へます。
桶谷秀昭氏は『昭和精神史』(文春文庫)の第二十章「春城草木深し」で、この伊東の日記の「何の異變も自然に起こらない」といふ言葉とともに河上徹太郎の「自然の非情の前に佇んだ時のごとき絶望があり、打ち克ち難き、己が弱小と暗愚を見せつけられた時の如き憤懣がある」といふ文言を取り上げて、伊東の「自然」と河上の言ふ「自然の非情」とは同じであると、と指摘されてゐます。そして玉音放送後の八月十五日のあのシーンとした靜まり返つた一瞬とは何だつたのか、といふ問ひを發し、「われわれはここで、今日なほ納得のいく答へをみいだせない一つの謎に直面する」とお書きになつてゐます。
さらに、あの『司馬遷』の作者武田泰淳が八月十五日に上海で聞いたであらう「天藾(てんらい)」といふ言葉を取り上げ、太宰治もその天藾を聽いたはずで、『トカトントン』から次のやうな一節が引用されます。
嚴肅とは。あのやうな感じを言ふのでせうか。私はつつ立つたまま、あたりがもやもやと暗くなり、どこからともなく、つめたい風が吹いて來て、さうして私のからだが自然に地の底へ沈んでいくやうに感じました。
「呆然自失」とも言ふべき状態ですが、伊東は同じ日記に次のやうにも記してゐます−「門屋の廂のラヂオで拜聽する。ポツダム條約受諾のお言葉のやうに拜された。やうにといふのはラヂオ雜音多く、又お言葉が難解であつた。しかし『降伏』であることを知つた瞬間茫然自失、やがて後頭部から胸部にかけてしびれるやうな硬直、そして涙があふれた」と。滂沱の涙。伊東靜雄數へ歳四十。この瞬間、伊東の中で何が起こつたのでせうか。彼は終戰から四年後に肺滲潤と診斷され、「倦んだ病人」として「長い療養生活」の後、昭和二十八年に“かの地”に旅立ちます。法名、文林院靜“光”詩仙居士。 (河田直樹・かはたなほき)