2020年03月29日

數學における言語(57) 伊東靜雄(V)

 ところで、私が『春のいそぎ』をはじめて讀んだのは、桑原武夫・富士正晴編新潮文庫「伊東靜雄詩集」によつてですが、實は後年『定本伊東靜雄全集 全一卷』(人文書院)を入手し、文庫版には收録されてゐなかつた「わがうたさへや」、「那智」、「久住の歌」、「述懷」、「海戰想望」、「つはものの祈」、「大詔」の、いはゆる「戰爭詩」と言はれる作品に接する機會を得ます。たとへば『春のいそぎ』の冒頭には
おほいなる 神のふるきみくにに\いまあらた\大いなる戰ひとうたのとき\酣にして\神讚むる\くにたみの高き諸聲
そのこゑにまじればあはれ\淺茅がもとの蟲の音の\わがうたさへや\あなをかし けふの日の忝なさは({わがうたさへや})

といふ詩が收められてゐます。この詩に初めて接したときの私の感慨は、それまで讀んできた伊東のどの詩からも決して得られないものでした。少々しかつめらしい言ひ方をするなら、ここにはいつの時代にも共通する普遍的な「社會と個人」の問題が詠はれてゐます。「わがうたさへや あなをかし」とは、詩人の含羞のユーモアとも言ふべきでせう。
 また、「那智」の「天地(あめつち)もとどろと響き\神ながらましましにけり\雄叫びの那智の御瀧(みたき)は」や「海戰想望」の「つはものが頬にのぼりし\ゑまひをもみそなはしけむ」などは、古代の萬葉人の勇壯と晴朗とを體現した詩句であり、ある種の懷かしさを呼び覺ましてくれます。
 桑原武夫氏の語るやうに伊東の戰爭詩は決して時局「便乘的なもの」ではないのですが、伊東自身そのやうな詩を「深く恥ぢてゐた」とのことで文庫版への收録は差し控へられたやうです。靜雄は「十五日陛下の御放送を拜した直後」に、日記に「太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照らし、白い雲は靜かに浮び、家々からは炊煙がのぼつてゐる。それなのに、戰は敗れたのだ。何の異變も自然におこらないのが信ぜられない」と記してゐますが、その伊東靜雄が終戰後「戰爭詩」を恥ぢてゐた、とは一體どういふことなのでせうか。私にはこれこそが、菅野氏の語る「無慘な轉身」であり、日本の歴史全體にとつても「もつとも大きな痛ましいできごと」のやうに思へます。
 桶谷秀昭氏は『昭和精神史』(文春文庫)の第二十章「春城草木深し」で、この伊東の日記の「何の異變も自然に起こらない」といふ言葉とともに河上徹太郎の「自然の非情の前に佇んだ時のごとき絶望があり、打ち克ち難き、己が弱小と暗愚を見せつけられた時の如き憤懣がある」といふ文言を取り上げて、伊東の「自然」と河上の言ふ「自然の非情」とは同じであると、と指摘されてゐます。そして玉音放送後の八月十五日のあのシーンとした靜まり返つた一瞬とは何だつたのか、といふ問ひを發し、「われわれはここで、今日なほ納得のいく答へをみいだせない一つの謎に直面する」とお書きになつてゐます。
 さらに、あの『司馬遷』の作者武田泰淳が八月十五日に上海で聞いたであらう「天藾(てんらい)」といふ言葉を取り上げ、太宰治もその天藾を聽いたはずで、『トカトントン』から次のやうな一節が引用されます。

嚴肅とは。あのやうな感じを言ふのでせうか。私はつつ立つたまま、あたりがもやもやと暗くなり、どこからともなく、つめたい風が吹いて來て、さうして私のからだが自然に地の底へ沈んでいくやうに感じました。

 「呆然自失」とも言ふべき状態ですが、伊東は同じ日記に次のやうにも記してゐます−「門屋の廂のラヂオで拜聽する。ポツダム條約受諾のお言葉のやうに拜された。やうにといふのはラヂオ雜音多く、又お言葉が難解であつた。しかし『降伏』であることを知つた瞬間茫然自失、やがて後頭部から胸部にかけてしびれるやうな硬直、そして涙があふれた」と。滂沱の涙。伊東靜雄數へ歳四十。この瞬間、伊東の中で何が起こつたのでせうか。彼は終戰から四年後に肺滲潤と診斷され、「倦んだ病人」として「長い療養生活」の後、昭和二十八年に“かの地”に旅立ちます。法名、文林院靜“光”詩仙居士。   (河田直樹・かはたなほき)
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2020年03月20日

數學における言語(56) 伊東靜雄(U)

 第三詩集『春のいいそぎ』には、「春の雪」のみならず、若い私が愛誦した詩がいくつも入つてゐます。
・去年(こぞ)の朽葉は春の水ふくるる川に浮びて\いまかろき黄金(きん)のごとからむ(「なかぞらのいづこより」)
・おれは書かれたものをまへにして\不意にそれとはまるで異樣な   \一種前生のおもひと\かすかな暈ひをともなふ吐氣とで\蝉をきいてゐた(「庭の蝉」)
・哀しみの\熟れゆくさまは\酸き木の實\甘くかもされて 照るに似たらん\われ秋の太陽に謝す(「百千の」)
・名をいへと汝はせがめど\いかにせむ\ちちは知らざり\すべなしや\わが子よ さなりこは\しろ花 黄い花とぞいふ\そをききて點頭(うなづ)ける\をさなきものの\あはれなるこころ足らひは(「春淺き」)
・そんなことはみなどうでもよいのだつた\ただある壯大なものが徐(しづ)かに傾いてゐるのであつた\そしてときどき吹きつける砂が脚に痛かつた(「夏の終」)
  
 前囘述べたやうに私は、菅野氏の言ふ「轉身後の痛ましい、日常の現實的、個別的なもののなか」に頽落(Verfallen)してゆく中期以降の靜雄詩を「無慘」だなどと感じたことは一度たりともありません。實際、「伊東靜雄私論」で、「少なくとも二十二歳の私にとつては、伊東靜雄は何か重大な意味を持つてゐる」と述べ、さらに「この詩人の詩語は、確實に、無類の美しさと氣品と重みとをちやんと備へてゐるのである。それがよし、平凡な家庭的な詩を書くのに遣はれたにせよ、『春淺き』の如き何とも傷ましい、温かい愛情がその極限に至つて透明な紫水晶に變ずるかのやうな詩になつてゐるのである」と書いてゐます。若い私は、その典雅な詩語に完全にイカレてゐたのです。
 ところで、『定本伊東靜雄全集 全一卷』(人文書院)では、『春のいそぎ』の「自序」を讀むことができて、詩集のタイトルが、伴林光平といふ人の「たが宿の春のいそぎかすみ賣の重荷に添へし梅の一枝」といふ一首に觸發されたことが語られてゐます。さらに「この小集の出版は、桑原武夫・下村寅太郎兩氏の懇な斡旋があつて出來たのである」とあります。唐突ですが、私は思はぬところに「下村寅太郎」の名前を發見して嬉しくなつた記憶があります。彼の『無限論の形成と構造』を讀んで以來、下村氏は私が最も親近感を抱いた數理哲學者であつたからです。
ともあれ、伊東の詩的關心は後期になれば確かに、下降志向が見られます。それは菅野氏の指摘される通りで、昭和二十二年、伊東41歳の最後の詩集『反響』には、「都會の慰め」といふ詩があり、次のやうな詩句がその證左になるかもしれません。「誰にも邪魔されずに暗い映畫館の椅子\じつと畫面に見入つてゐる女學生や受驗生たち(中略)いぢらしい横顏 後姿\からだを資本(もとで)の女達もまたはいつてくる」。
「からだを資本の女達」も登場するこの詩は、戰後の日本の一風景を描冩したもので、伊東の視線は「息苦しい稀薄な曠野」から「映畫館の微温的暗闇」へ移つてゐます。それは、抽象(一般)から具象(個別)への關心の變化ですが、實はこの頃から伊東は體調に異變を覺えるやうになります。それは、彼の身體自體の稀薄化であり、それに伴つて彼の視線は表面的にはより強く現實の具體的個物へ向けられていきます。ちやうどこの頃、清水文雄に書き送つた手紙には「これからは『觀る』生活をつづけようと思ひます。そして詩は譬喩だと思ふやうになりました」(小高根二郎『詩人伊東靜雄』)とありますが、「觀る(theoria)」も「譬喩(analogy)」もプラトンやプロティノスの重要な「哲學的方法」でもありました。伊東もまた病を得て自身の「詩作の方法」を明確に自覺したのであり、私には『反響』の「夕映」は、その結實であるやうに思はれます。さうであれば、詩的對象自體の下降志向をもつて詩精神の下降と斷定するわけにはいかないのです。   (河田直樹・かはたなほき)
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2020年03月11日

數學における言語(55) 伊東靜雄(T)

菅野昭正氏の評論「曠野の歌」の最終部には、「現在のぼくにとつては、『夏花』を經て、そして『春のいそぎ』を通つて、伊東靜雄が赴いた場所にはほとんど關心がもてない」とあり、そしてその理由が「かつて彼が『わがひとに與ふる哀歌』の詩人であつたからだ」と語られます。
なるほど靜雄は、『わがひとに與ふる哀歌』において「かのもの、一者」への上昇を志向する形而上詩人、象徴詩人であり、自身の心の暗部との格鬪から到達不可能な「太陽(超越)」をあくまでも凝視し續けようと人でした。このとき、靜雄はプロティノス同樣、太陽といふ巨大恆星を巡る惑星であり、この二人は最も接近し交叉したのかもしれません。
 では、『わがひとに與ふる哀歌』以降はどうなのか?菅野氏は、「伊東の詩の言葉は硬質の實在感を失ひ、確乎たる形態の世界を築く機能を放棄し、個別的日常の中にやすやすと吸ひ込まれていく」と指摘さてゐます。そして「この轉身はいかにも痛ましい、無慘と言つても過言ではない」といふ感慨を吐露して、評論「曠野の歌」を次のやうに締め括られます−「それはひとり伊東靜雄にとつて痛ましいできごとであつたばかりでなく、ぼくたちの現代詩の歴史全體にとつて、もつとも大きな痛ましいできごとだつたといふ事實を−さらにはその事實がもつ壓倒的な重みを、ぼくたちはいま虚心に熟慮すべきであらう」と。
 菅野氏の主張を、前囘紹介したプロティノス哲學の圖式を借りて素描するなら、要するにそれは「『わがひとに與ふる哀歌』までの靜雄の試作の所作は“かのもの”への上昇志向であつたが、中期、後期ではそれは“質料”への下降志向に轉じられ、そしてこの問題は伊東のみならず現代詩の歴史全體の重大な問題でもある」といふことです。
 私は、伊東以降の現代詩が「その歴史の中に何か大きな問題を孕んでゐた(これについては後で鄙見を述べる)」ことを肯ずることはできますが、伊東個人の轉身が痛ましいとは感じてゐません。實際、詩集『夏花』、『春のいそぎ』そして『反響』および拾遺詩篇の中にも、あの伊東の「高貴なる白き光」は紛れもなく息づいてゐるからです。『わがひとに與ふる哀歌』が出版された翌昭和11年、伊東は「コギト」に「いかにわが誓ひの氣高かなりしよ\太陽の老ゆる日には\再びかの痛かりし場所に囘歸して」(「誓ひ」)と記して、第二詩集『夏花』の準備に取り掛かつてゐます。その詩集には、次のやうな「太陽と光」が息づいてゐます。

・其の野うへに\時明(ときあかり)してさ迷ひ歩き\日の光の求むるは何の花ぞ。(「蜻蛉(あきつ)」)
・運命(さだめ)? さなり、\あゝわれら自ら孤寂なる發光體なり!\白き外部世界なり。(「八月の石にすがりて」)
・六月(ろくぐあつ)の夜と晝のあはひに\萬象のこれは自ら光る明るさの時刻(とき)。(「水中花」)
・門(かど)の外(と)の ひかりまぶしき 高きところに 在りて 一羽\燕(つばめ)ぞ鳴く(「燕」)

 「八月の石」は、烈しい陽光に曝された古代ギリシアの抽象的な鑛物に他ならず、萬象が自ら發狂して光り赫ふそのとき、伊東は「すべてのものは吾にむかひて\死ねといふ、\わが水(み)無月(なづき)のなどかくはうつくしき。」と漏らします。これが「無慘な轉身」でせうか?また、三島由紀夫は「新潮」から愛誦詩を一つだけ擧げる昭和41年のアンケートに對して、「燕」を取り上げて、彼はこの詩を「新古今集以來もつともきらびやかな日本語で書かれた」ものと記してゐます。このやうな言葉の光を發出する伊東の魂の磁場を「傷ましい轉身」と言ふべきでせうか?
「春の雪」(みささぎにふるはるの雪…)の收められてゐる第三詩集『春のいそぎ』も「那智」などが收録されて實に堂々たるものですが、二十二歳の私は「春の雪」について「人々の魂の輪廻轉生の果てに忽如として直面する、不思議な明るさに充ちた『時間のない』彼岸の淺春の風景である」(『夏至の趾』)と書いてゐます。小高根氏が私への返信で言及して下すつたのは、この箇所です。  (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 20:35| Comment(0) | 河田直樹