2020年03月11日

數學における言語(55) 伊東靜雄(T)

菅野昭正氏の評論「曠野の歌」の最終部には、「現在のぼくにとつては、『夏花』を經て、そして『春のいそぎ』を通つて、伊東靜雄が赴いた場所にはほとんど關心がもてない」とあり、そしてその理由が「かつて彼が『わがひとに與ふる哀歌』の詩人であつたからだ」と語られます。
なるほど靜雄は、『わがひとに與ふる哀歌』において「かのもの、一者」への上昇を志向する形而上詩人、象徴詩人であり、自身の心の暗部との格鬪から到達不可能な「太陽(超越)」をあくまでも凝視し續けようと人でした。このとき、靜雄はプロティノス同樣、太陽といふ巨大恆星を巡る惑星であり、この二人は最も接近し交叉したのかもしれません。
 では、『わがひとに與ふる哀歌』以降はどうなのか?菅野氏は、「伊東の詩の言葉は硬質の實在感を失ひ、確乎たる形態の世界を築く機能を放棄し、個別的日常の中にやすやすと吸ひ込まれていく」と指摘さてゐます。そして「この轉身はいかにも痛ましい、無慘と言つても過言ではない」といふ感慨を吐露して、評論「曠野の歌」を次のやうに締め括られます−「それはひとり伊東靜雄にとつて痛ましいできごとであつたばかりでなく、ぼくたちの現代詩の歴史全體にとつて、もつとも大きな痛ましいできごとだつたといふ事實を−さらにはその事實がもつ壓倒的な重みを、ぼくたちはいま虚心に熟慮すべきであらう」と。
 菅野氏の主張を、前囘紹介したプロティノス哲學の圖式を借りて素描するなら、要するにそれは「『わがひとに與ふる哀歌』までの靜雄の試作の所作は“かのもの”への上昇志向であつたが、中期、後期ではそれは“質料”への下降志向に轉じられ、そしてこの問題は伊東のみならず現代詩の歴史全體の重大な問題でもある」といふことです。
 私は、伊東以降の現代詩が「その歴史の中に何か大きな問題を孕んでゐた(これについては後で鄙見を述べる)」ことを肯ずることはできますが、伊東個人の轉身が痛ましいとは感じてゐません。實際、詩集『夏花』、『春のいそぎ』そして『反響』および拾遺詩篇の中にも、あの伊東の「高貴なる白き光」は紛れもなく息づいてゐるからです。『わがひとに與ふる哀歌』が出版された翌昭和11年、伊東は「コギト」に「いかにわが誓ひの氣高かなりしよ\太陽の老ゆる日には\再びかの痛かりし場所に囘歸して」(「誓ひ」)と記して、第二詩集『夏花』の準備に取り掛かつてゐます。その詩集には、次のやうな「太陽と光」が息づいてゐます。

・其の野うへに\時明(ときあかり)してさ迷ひ歩き\日の光の求むるは何の花ぞ。(「蜻蛉(あきつ)」)
・運命(さだめ)? さなり、\あゝわれら自ら孤寂なる發光體なり!\白き外部世界なり。(「八月の石にすがりて」)
・六月(ろくぐあつ)の夜と晝のあはひに\萬象のこれは自ら光る明るさの時刻(とき)。(「水中花」)
・門(かど)の外(と)の ひかりまぶしき 高きところに 在りて 一羽\燕(つばめ)ぞ鳴く(「燕」)

 「八月の石」は、烈しい陽光に曝された古代ギリシアの抽象的な鑛物に他ならず、萬象が自ら發狂して光り赫ふそのとき、伊東は「すべてのものは吾にむかひて\死ねといふ、\わが水(み)無月(なづき)のなどかくはうつくしき。」と漏らします。これが「無慘な轉身」でせうか?また、三島由紀夫は「新潮」から愛誦詩を一つだけ擧げる昭和41年のアンケートに對して、「燕」を取り上げて、彼はこの詩を「新古今集以來もつともきらびやかな日本語で書かれた」ものと記してゐます。このやうな言葉の光を發出する伊東の魂の磁場を「傷ましい轉身」と言ふべきでせうか?
「春の雪」(みささぎにふるはるの雪…)の收められてゐる第三詩集『春のいそぎ』も「那智」などが收録されて實に堂々たるものですが、二十二歳の私は「春の雪」について「人々の魂の輪廻轉生の果てに忽如として直面する、不思議な明るさに充ちた『時間のない』彼岸の淺春の風景である」(『夏至の趾』)と書いてゐます。小高根氏が私への返信で言及して下すつたのは、この箇所です。  (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 20:35| Comment(0) | 河田直樹