2021年03月27日

數學における言語(66) 戰後と私の心象風景(Y)

 今年令和二年(2020年)は戰後75年、三島自決後50年の節目の時です。三島はあの行爲によつて、「戰後日本とそこから利得を得てのうのうと暮らして來た自分」を、苛烈な形で斷罪してみせたのでせうが、いまだに彼が訴へた憲󠄁法改正の兆しは見られず、皮肉なことに、日本は彼の願つた方向とは全󠄁く逆󠄁向きに進󠄁んでゐるやうに感じられます。
 最近󠄁では、昭和45年7月にサンケイ新聞の夕刊に揭載された「果たし得てゐない約󠄁束−私の中の二十五年」の、「このまま行つたら日本はなくなつてしまひ、無機的󠄁な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、拔け目がない經濟大國になる」といふ言葉が、識者たちによつてしばしば取り上げられ、三島を「百年先を見てゐた現代の豫言者」として、持て囃す風潮もあります。しかし私自身は、かうした社會現象を苦々しく感じてゐます。「ミシマ」は、現在もなほ、メディアにとつては、“金”を生み出す“商品”としてしか扱󠄁はれてゐないと思ふからです。
 「良知が、中齋においては『赤子の心』と等置される」とは、豐澤一氏の指摘ですが、憲󠄁法の論理的󠄁矛盾は「赤子の心」でさへ了解できることで、「自らを否定するもの(憲󠄁法)を守るとは、何たる論理的󠄁矛盾であらう」といふ三島の主󠄁張は、難解なものではなく、實に單純明快な赤心の叫びでした。しかし、にもかかはらず、あの行爲に對して、いまの私は、三島が伊東靜雄の詩に對して吐いた言葉―「それでちつとも俺たちの不愉󠄁快は救はれはしないのだ」と言つてみたくなります。
 憲󠄁法問題を考へ始めると、「天皇と日本文化󠄁」の問題を論じたあの『文化󠄁防衞論』(昭和43年)にまで踏み込󠄁む必要󠄁がありさうですが、勿論私にはそんな力量はありません。三島は「天皇陛下萬歲」を三唱して割󠄀腹したと言はれますが、それは59囘目で觸れたあの太宰治のそれと、恰もメービウスの帶のやうに繫がつてゐるやうな氣もします。それにしても三島以上に不思議なのは、「今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは」といふ美しい辭世を殘して自決した森田必勝󠄁です。おそらく、私にとつては、彼の方が三島以上に永遠󠄁の謎です。
 “幕間”が少しながくなつてしまひましたが、最後に私の最近󠄁(少し古くなりますが)の心象風景を紹介する意󠄁味で、2012年4月に雜誌『正論』に投稿した拙文󠄁の拔粹を載せておきます。
 世間では「論理的󠄁思考力」の重要󠄁性を說いた本が多く出囘つてゐるが、さうした本で「我が國自體の存立基盤の論理的󠄁破綻」を指摘したものは皆無で、「何が論理的󠄁な思考だ」と皮肉の一つも言つてやりたくなる。これは誠󠄁に滑稽な話で、現在の日本は憲󠄁法學者や法の專門家たちが如何に强辯しようと、素人目には「論理的󠄁(といふことは倫理的󠄁にも)に破綻」してゐる。私は脫原發に反對であるが、「核武裝」への覺悟のない「原發」は、これまた滑稽である。かつて東海村での原發は「核の平󠄁和利用」などと日本人の僞善的󠄁な平󠄁和志向を强調󠄁するために大いに喧傳されたが、これも「核」のいいとこ取りの、しかし「脂下がり平󠄁和主󠄁義」である。

 この投稿に對して、「編集者から」で、次󠄁のやうなコメントを頂戴しました。「長年にわたる自民党の覚悟のない誤魔化しの政治によって、わが国では『脂下がり平和主義』が蔓延してしまいました。どうすればこれを克服できるのか。『生命よりも価値あるものがある』という価値観を広めていく以外に道はないように思います」と。
 小堀桂一カ氏はその著『「國家理性」考』(錦正社)の第7章で「現在の日本の國は憲󠄁法上實に驚くに堪へたる異常事態下置かれてゐる」と述󠄁べられ、さらにこのまま行けば「大東亞戰爭の敗北どころではない最終󠄁的󠄁な亡󠄁國の惡夢が眼前󠄁に髣髴としてくる」と語られてゐますが、以つて至言と言ふベキでせう。
 8月15日以後、日本人が「新憲󠄁法や新かな遣󠄁ひ」をやすやすと受󠄁け入れたのは、いつたいいかなる“論理”によつてなのでせうか?それこそ私には永遠󠄁の謎といふほかありません。(河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 00:20| Comment(0) | 河田直樹

2021年03月20日

日本語ウォッチング(38)  織田多宇人

意󠄁固地、依怙地、どちらを書いてゐますか

 「当用漢字」にないからと言ふ理由で別の漢字にしてしまひ、いつのまにかそちらの方が主󠄁流になつてしまふことがままある。「意󠄁固地」などもその例だらう。「依怙地」の「怙」が「当用漢字」にないため、新聞紙上では「意󠄁固地」となり、いつの間にかこれが主󠄁流になつてしまつた感がある。今の辭書には「意󠄁固地」が載つてゐるが、昭和三十五年發行の『廣辭苑』(第一版)には「依怙地」とあるだけで「意󠄁固地」など出てゐない。『新潮󠄀國語辭典』(昭和四十年發行)、『角川國語中辭典』(昭和四十八年發行)も全󠄁く同じである。「当用漢字」を尊󠄁重する立場にある新聞社として「依怙地」と書けないなら、依怙地(いこじ)または依怙地(いこじ)とするか、平󠄁假名で書くか、あるいは全󠄁く別の言いまわしを使󠄁ふかすべきであらう。
posted by 國語問題協議會 at 00:00| Comment(0) | 織田多宇人

2021年03月14日

國語のこゝろ(5)「令和の現代の『舊字・舊かな』でひとりごつ」/押井コ馬

【今回の要󠄁約󠄁】
@傳統的󠄁な漢字やかなづかひで書くのは、懷古趣味を含め樣々な動機の人がゐますが
A「古風な書き方」が動機ではなく「現代語として活用したい人」や「より良い國語表記で書きたい人」もゐます
B「どうせお前󠄁は讀めないに決まってる」ではなく「きっとあなたも讀めるはず」と期待したいものです

【主󠄁な漢字の新舊對應表】
舊(旧) 傳(伝) 懷(懐) 樣(様) 國(国) 讀(読) 對(対) 應(応) 學(学) 實(実) 獻(献) 圍(囲) 氣(気) 獨(独) 藝(芸) 數(数) 專(専) 會(会) 來(来) 萬(万) 戰(戦) 當(当) 隨(随) 覽(覧) 經(経) 轉(転) 參(参) 續(続) 從(従) 惡(悪) 單(単) 齒(歯) 發(発) 擧(挙) 覺(覚) 與(与) 贊(賛) 兩(両) 變(変) 體(体) 眞(真) 豐(豊) 關(関) 腦(脳) 殘(残) 檢(検) 卽(即) 禮(礼) 讓(譲)

■樣々な動機がある
 第二回では、傳統的󠄁な漢字やかなづかひが今でも生き延びてゐる分野について說明しました。
 現代の學校ヘ育では學ばない、學ぶとしても讀み方だけで書き方は學ばない、そんな書き方で何故書くのか。理由は色々あります。たとへば……

1.原文のなるべく忠實な引用・覆刻のため(昔の文獻の硏究、昔の本の覆刻等)
2.古風な雰圍氣を出すため(懷古趣味的󠄁な作品)
3.「常用漢字」や「現代仮名遣い」にない獨特の味が出るのが好きなので(懷古趣味的󠄁な作品、短歌や俳句を含め文藝全󠄁般)
4.限られた文字數に情󠄁報量を詰め込󠄁むため(短歌や俳句を含め詩歌)
5.古典專用とは思はないし、現代語としても活用したいので(ジャンルに限らず)
6.よりまともな原理原則の國語表記で書きたいので(ジャンルに限らず)

 1〜3は說明するまでもないでせう。
 4ですが、「出ず」の例がよく引合ひに出されます。現代仮名遣いでは「出ず」と書くと「でず」と讀むのか「いず」と讀むのかわかりませんが、歷史的󠄁かなづかひでは「出ず」は必ず「でず」、「出づ」は必ず「いづ」と讀みます。文部省唱歌「故ク(ふるさと)」の歌詞に「如何にいます父母」とありますが、現代仮名遣いで「います」と書くと「居ます」「坐(いま)す」(いらっしゃる、の意󠄁)のどちらなのかわかりません。歷史的󠄁かなづかひでは「居ます」は「ゐます」、「坐す」は「います」と書き分けますから、言葉が一つに決まります。同じく「兔󠄀(うさぎ)追󠄁ひし彼(か)の山」も「美味し→おいし」「追󠄁ひし→おひし」と書き分けます。この種の言葉にたまたま出會った時に、歷史的󠄁かなづかひのメリットを感じる事があります。突っ込󠄁みの來る前󠄁に一往󠄁書いておきますが、勿論これは萬能ではありません。、歷史的󠄁かなづかひでも現代仮名遣いと同じく見分けの付かない場合や、逆󠄁に現代仮名遣いから歷史的󠄁かなづかひにすると見分けの付きにくくなる言葉もあります(例:きづく=氣付く/築󠄁く)。

■現代語として活用する
 中學・高校の古文の授󠄁業では、しばしば「歷史的󠄁かなづかひ」と「古語」、「現代仮名遣い」と「現代語」を混同してヘへる風潮󠄀があります(ヘ科書からしてさうです)。そのためか、歷史的󠄁かなづかひで文章を書くと「昔の人になりきる遊󠄁び」だとしばしば誤󠄁解されます。もちろん、平󠄁安時代や江戶時代や大正時代の人になりきって書くのも、時には面白いものです。しかし、傳統的󠄁な國語表記で書く事は、必ずしも「昔の言葉として書く事」ではありません。
 戰前󠄁の作家、たとへば漱石や太宰や芥川も、漢字やかなづかひが傳統的󠄁な表記といふだけで、中身は私達󠄁の普段使ふ言葉にかなり近󠄁いものです。
 昭和21(1946)年に「当用漢字表」「現代かなづかい」が內閣吿示され、翌󠄁年度から學校󠄁ヘ科書もその表記になりましたが、それでも傳統的󠄁な漢字やかなづかひで書く作家は絶滅しませんでした。「國語問題協議會四十五年史」pp19-20には、昭和34(1959)年當時の資󠄁料として、同人誌「風報隨筆」で、歷史的󠄁かなづかひ/現代かなづかいでそれぞれ書く作者の一覽を載せてゐますが、十年以上經っても「現代かなづかい」に轉向しなかった人が約󠄁半󠄁數ゐた事がわかります(「參考資󠄁料1」を參照)。sc恆存、三島由紀夫、丸谷才一、內田百閨A恂{邦雄、阿川弘之など、戰後でも歷史的󠄁かなづかひで――場合によっては漢字も傳統的󠄁なもので――書き續けた作家の事をご存じの方もいらっしゃるでせう。中には、一旦新表記で書くやうになったものの、後に考へ直して元の傳統的󠄁な表記に戾った人までゐました。これらの作家は、「舊字や舊かなは過󠄁去の言葉のための表記であり、現代の言葉を書くためのものではない」と決めつけるのではなく、その表記で現代の作品を新たに生み出してきました。「昔の人になりきる遊󠄁び」だったわけではありません。
 短歌や俳句の世界では、現代でも歷史的󠄁かなづかひで詠む人が少なくありません。この分野でも、「舊かなは過󠄁去の言葉のための表記であり、現代の言葉を書くためのものではない」と決めつける事なく(少なくとも短歌や俳句に限っては)、それで新たな現代の作品が生み出されてゐます。

■より良い國語表記として
 戰前󠄁の國語ヘ育を受󠄁けた人の中には、戰後の國語改革以降、新漢字・新かなづかいに轉向した人もゐましたが、從來の表記を通󠄁した人も少なからずゐました。「これまでの習󠄁慣を何となく守る」といふ人もゐたでせうが、中には「新表記はどうしても受󠄁け入れるわけにはいかない」といふ強い信念を持つ人もゐました。一言で言ふなら「新表記は氣持ち惡い」。これは單なる「自分の慣れてゐる書き方と違󠄂ふから」とか「新參者の表記のくせに偉さうな顏をするな」といふ「漠然とした生理的嫌󠄁惡感」ではなく、もっとはっきりとした理由がありました。
 皆さんは「こんにちわ」「こんばんわ」「やむおえず」といふ言葉を見て、どう思ひますか。「処方せん」「破たん」といふ書き方はいかがですか。齒に衣着せず「氣持ち惡い」と言ひ切る人も少なくないと思ひます。「それでは、その理由を擧げてください」と聞かれると「言葉の成󠄁り立ちを無視した書き方なのでは。『こんにちわ』『こんばんわ』『やむおえず』で一語なのではなく、中に助詞の『は』『を』があるのに」とか「折角意󠄁味のある漢字があるのに、一部だけそれを避󠄁けて發音󠄁だけ書くなんて」と、きちんと理窟で說明できる人も多いでせう。
 實は、先に擧げた「新表記は氣持ち惡い」とは、これに似た感覺なのです。「いね+つま=いなづま」や「つめ+つく=つまづく」ではなく、「いなずま」「つまずく」で一語とみなすのは、語の構󠄁造󠄁を無視した書き方で氣持ち惡い。新漢字の背後の拐~は「使用可能な漢字數を制限し、その中でやりくりする」といふもので、その漢字表からはみ出た言葉を排除したり、醜い交ぜ書きに改竄すると、言葉が貧しくなる。新漢字で採󠄁用された略字についても、「略字を正式な字に格上げする」のは問題があると考へる人は少なからずゐました。
新字新かなの問題點
 それ以前󠄁から使はれてきた漢字やかなづかひに全󠄁く問題がないわけではありません。それでも、「根本的󠄁な原理原則に問題のある新表記に比べれば、從來の表記の方が相對的󠄁に良いし、むしろ從來の表記の方が優れた部分もある」と、從來の表記を積極的󠄁に擁護する人もゐました。特にsc恆存の著した「私の國語ヘ室」は、「歷史的󠄁かなづかひは決して不合理な書き方ではなく、合理的󠄁な部分もある」事を說きました。歷史的󠄁かなづかひで書く現代の若い世代に「どの本の影響を受󠄁けましたか」と聞くと、必ずと言って良いほどこの本の名前󠄁が出る程󠄁、大きな影響を與へた本です。
(補足:當り前󠄁のことですが、誰かが新表記で書くことそのものを責めるつもりは一切ありませんし、私も新表記で書く人と普通󠄁に仲良く文章をやりとりし、必要󠄁に應じて私も新表記で書きます。主󠄁に責任があるのは、それを「正しい言葉」に決めてしまったお上であり、私はそれに對して憤りを感じてゐます。)

■きっとあなたも讀めるはず
 「ひとりごちる」といふ言葉についての意󠄁見とその反響(主󠄁に反論)がツイッターで話題になってゐます。古來からある(「ひとりごと」を動詞化󠄁した)四段活用の「ひとりごつ」ではなく、上一段活用の「ひとりごちる」を使ふ事への贊否兩論(「足る→足りる」のやうな變化󠄁といふ說も)はあるでせうが、それはさておき、この話題を切り出した人の書いた、「古風な言葉は讀者を『語彙力が無い』と落ち込󠄁ませたり、インテリ氣取りに見られる」「その文體を眞似したいなら好きにすればいいが、讀者の何割󠄀かを切り捨󠄁てる覺悟をしろ」といふ趣旨の意󠄁見には、意󠄁外な事に反論が多く見られます。「自分が知らない言葉を讀めないのを作者のせゐにするな」「難しい言葉との出會ひが語彙を豐かにする」といつた具󠄁合です。
 「意󠄁外な事に」と書きましたが、こんな事は私も滅多に見ません。「ひとりごちる」といふ言葉は知ってゐる人が多かったためか、今回何故か擁護されましたが、その一方で、傳統的󠄁な漢字とかなづかひは、普段かうはいきません。それを「現代の日常語」として書くと、「言葉はコミュニケーションの道󠄁具󠄁なのに、讀みにくい書き方で書くのは相手に讀ませる氣がない」だの「インテリ氣取りが鼻󠄁につく」だの「書きたければ好きにすればいいが、大半󠄁の讀者に讀まれない覺悟をしろ」だのと、心ない言葉を當り前󠄁のやうに浴びせられるのは日常茶事です。一般庶民だけならともかく、國語の專門家でさへも、漢字とかなづかひについてはこのやうな事を言ふ人が一部にゐます。そんな專門家の作った「当用漢字表」「現代かなづかい」(現在の「常用漢字表」「現代仮名遣い」)の背後にある拐~も「難しい言葉は覺えられるはずがないし、相手が讀めるはずがないから、レヴェルを落して簡易にしよう」です。
 しかし私は、漢字とかなづかひをはじめとした國語表記についても「一見難しく見える言葉との出會ひが、國語を豐かにする」と信じます。中學・高校で「平󠄁安文學」といふ難關ルートで歷史的󠄁かなづかひを一生懸命學んできた「歷戰の勇者達󠄁」なら、歷史的󠄁かなづかひによる現代口語文はなほさら讀めるはず、と期󠄁待します。傳統的󠄁な漢字は一見難關に見えますが、「若者に昔の書き方がわかるはずがない」ではなく「柔軟な頭腦を持つ若者こそ、そして年上世代以上に表外字(傳統的󠄁な形の部品が多い)を當り前󠄁に使ひ慣れた若者こそ、一旦機會が訪れればきっとすぐ順應できる」と思ひます。
 それでも「今すぐには讀めない」言葉があるかもしれません。しかし、讀者を過󠄁保護にすることなく、「謎」をあへて殘すのも表現のうちです。幸ひ、現代はネット檢索で知らない言葉を卽座に調󠄁べることができます。「こんな言葉も讀めないなんて、ヘ養󠄁がなくて恥づかしい」とは私は決して思ひません。「『今知らない言葉をこれから知る樂しみ』を殘してあった」なんて、素敵なことではありませんか。逆󠄁に「インテリ氣取りで讀みづらく書く方が惡い」かのやうに責任轉嫁して「自分が知らないことを誇る」方がよっぽど恥づかしいです。
 そして私は「今現在の讀者だけでなく、數年後の讀者にも宛てて書いて」ゐます。つまり、今讀んでよくわからなくても、數年後に突然目が開けてすんなり理解できる、なんて事も、しばしばあるものです。
 「私は齒が丈夫だから堅い物を何でも食べられるけど、みんなが同じとは限らないから、他のみんなにはおかゆを出してあげるのが親切ですよ」と、言はれてもゐないのに最初から勝󠄁手に決めつけるのは失禮です。それと同じことで、相手に言はれてもゐないのに先回りして「私は知識があるから讀めるけど、一般の人に難しい漢字やかなづかひが讀めるわけがないから、讓步してやりなさい」と言はんばかりの態度も相手に失禮ではないでせうか。

■參考資󠄁料1(「國語問題協議會四十五年史」pp19-20)
「風報隨筆」による
歷史的󠄁かなづかひの使用者
阿川弘之 柳瑞穗 淺野晃 圓地文子 sc恆存 吳C源 濱本浩 逸見廣 火野葦平󠄁 平󠄁林たい子 廣津和カ 井伏鱒二 井上 石田波ク 石口敏カ 石川達󠄁三 石恬F二 角川源義 龜井勝󠄁一カ 上林曉 川田順 河上徹太カ 川崎長太カ 菊地重三カ 木津善五カ 木山捷平󠄁 小松芳喬 今東光 窪田章一カ 窪田空穗 邱永漢 武者小路實篤 丸岡明 水野成󠄁夫 室生犀生 中川一政 中山義秀 成󠄁P無極 丹瀦カ雄 小沼丹 大場美夜子 大賀知圓 大岡昇平󠄁 尾崎一雄 佐多稻子 澤野久雄 志賀直哉 下田實花󠄁 新庄嘉章 鈴木貫介 鈴木十カ 鈴鹿俊子 高橋義孝 高見順 瀧井孝作 田宮虎彦 谷川徹三 谷崎遠 外村繁 キ築󠄁省吾 梅崎春生 山口邨 山本健吉 結城信一 吉野秀雄

現代かなづかいによる人
網󠄁野菊 野季吉 荒󠄁正人 有馬ョ義 淺見淵 江戶川亂步 遠󠄁藤󠄁周󠄀作 深田久彌 藤󠄁枝靜男 古谷綱武 源氏鷄太 長谷川四カ 秀の山勝󠄁一 平󠄁野謙󠄁 堀田春子 細田民雄 池田篤記 稻垣達󠄁カ 井上友一カ 石坂洋二カ 加藤󠄁次󠄁カ 河盛󠄁好藏 今日出海 草野心平󠄁 前󠄁田陳爾 丸山栫@三好十カ 森山啓󠄁 村松梢󠄁風 林島浣地 中村地平󠄁 中村一枝 中村芝鶴 なかのしげはる 中野好夫 中務保二 永井龍󠄁男 南雲今朝󠄁雄 岡村二一 大木實 大山康リ 尾崎鮎雄 尾崎士カ 坂口安吾 榊山潤 三遊󠄁亭金馬 P沼茂樹 向井俊明 高川格 高木健夫 武田泰淳 田邊茂一 土岐善麿󠄁 コ川夢聲 坪󠄁田讓治 內山順 和田傳 大和勇三 矢部堯一 山崎剛平󠄁 山本禮三カ 吉行淳之介
posted by 國語問題協議會 at 13:40| Comment(0) | 押井コ馬