2021年04月03日

かなづかひ名物百珍(7)「松浦佐用姬」/ア一カ

佐用姫a
佐用姫b
 戀仲であった大伴󠄁狹手彦が、新羅に出征する悲しみのあまり石と化󠄁した傳說が萬葉集や風土記に見える。唐󠄁津市嚴木(きうらぎ)がその舞臺とされ、少々山奧のやうであるが、最後に見送󠄁った領巾振山(ひれふりやま)はもう玄界灘に近󠄁い。

 中世以降、能や御伽草子などでさまざまに語られてきた物語については別の機會に讓るとして、そもそもなぜ「さようひめ」ではないのだらう。一言で表現すれば、上代の日本人は「母音󠄁の連續は發音󠄁はできなかった」といふ事だらう。「アイ(愛)」だの「ヤマタイ」だのは、漢字音󠄁の輸󠄁入以降なのである。『魏志倭人傳』に登場する地名や人名もさうで、むしろ「邪󠄂馬臺」が例外的󠄁といへる。ちなみに「松浦」が「末盧(マツロ)國」であるに相違󠄂ないと衆目は一致する。

 じつは兵庫縣佐用郡佐用町も「さよ」と讀む。ここは佐用姬が彷徨ってたどりついた地であるともいふが、傳說の事とて眞僞の程󠄁はわからない。『日本書紀』には「狹夜郡」とあり長らく「さよ」であったところ、昭和三十年に「さよう」へと變更してしまった。

佐用姫c蜜柑
佐用姫d菓子
 唐󠄁津の方では佐用姬を「町おこし」的󠄁に利用してゐるやうで、蜜柑や菓子など「さよ姬」がしっかり生きてゐる。唐󠄁津市の「嚴木(きうらぎ)」は「Cら木」の轉であり、また北九州市の京良城(きゃうらぎ)町や甲州街道󠄁のヘ來石(けうらいし)宿なども同趣の由來と言はれてゐる。
posted by 國語問題協議會 at 09:00| Comment(0) | 高崎一郎