2021年06月25日

日本語ウォッチング(42) 織田多宇人

臆劫だった

 氣が進󠄁まない、氣乘りがしないことを「おつくふ」と言ふが「臆劫」と書いてあるのを見る事があるが、これは「億劫」でなければならない。「臆」も「億」も音󠄁は「オク」だが、訓は「臆」が「おしはかる、むね」であるのに對して「億」には特に訓はなく、普通󠄁「萬の一萬倍」を表す數の名として使はれる。また「劫」は音󠄁が「こふ、ごふ、けふ」で、訓は「おびやかす」だが、「劫」には「極めて長い時間」と言ふ意󠄁があるので「億劫」の元の意󠄁味は億と言ふ長い時間と言ふことになる。「氣が進󠄁まない」のも無理はないのである。なほ「おつくふ」は「おくこふ」の轉音󠄁である。因みに、圍碁では一目を雙方で交互に取り返󠄁せる形を「劫」と言ふ。決着が盡くまで長時間かゝるからである。そこで他の急󠄁所󠄁に打つてからでないと取り返󠄁せないルールがある。
posted by 國語問題協議會 at 07:00| Comment(0) | 織田多宇人

2021年06月20日

かなづかひ名物百珍(9)「をちこち」/ア一カ

[遠近]
[遠近]
[遠近]

 名古屋の老舖、兩口屋是C製造󠄁の銘菓。

 「をちこち」とは「あちらこちら」「將來と現在」などの意󠄁味の古語で、漢字は「遠󠄁近󠄁・彼方此方」を宛てる。「遠󠄁」は漢音󠄁ヱン吳音󠄁ヲンであり、「近󠄁」は漢音󠄁キン吳音󠄁コンであるから、如何にも「遠󠄁近󠄁」の音󠄁讀みであるやうな印象だが、どうやら純然たる和語のやうだ。「-ン」と「-チ」は漢字音󠄁としてじつは近󠄁く、たとへば「斡・乾幹翰」「逸・免挽晩勉」「辣・懶」「蝨・訊迅󠄁」「咽・因恩」「割󠄀・憲󠄁」「訐・干刊」「薩・產彦」「撒・散」「閼」「妲・但旦」「榲膃・温」のやうに結構󠄁交替するのである。

 蕪村の「遠󠄁近󠄁(をちこち)ををちこちと打つ砧(きぬた)かな」は擬音󠄁語をうまく使った句として知られる。漢字音󠄁としての「遠󠄁近󠄁(ヱンキン)」も、偶然とは思へないほどよく似たリズム感を感じる。
posted by 國語問題協議會 at 11:35| Comment(0) | 高崎一郎

2021年06月11日

數學における言語(68) 中世~學論爭と數學への序曲−宗ヘは必要󠄁か(U)

 ラッセルは@の證明法について「もしあらゆるものが原因を持たなければならないとするならば、そのときは、~にも原因がなければなりません」と述󠄁べ、さらに「世界には初めがあつたのだと想像する理由はないし、そして初めがなければならないといふ考へは我々の想像力の貧困によるもの」と斷定して、その證明法を棄却してゐます。
 A〜Dの證明法についてもラッセルは、それを誤󠄁謬だとして棄ててゐるのですが、その要󠄁點を少し脚色して簡單にまとめると、以下のやうになります。
A:自然法則が~の存在の證しだとすると、~自身も法則に從はなければならないので、この證明は矛盾で誤󠄁りである。
B:この世は~の意󠄁向によつて創出された最善の世界で、それが~の存在の證しだとしても、現實を觀察すると承服󠄁し難い。
C:善惡が~の存在の證しだとしても、善惡自體は~の命令とは別問題であると考へられるので、この證明は誤󠄁りである。
D:~の存在はこの世に社會的󠄁正義を齎すために必要󠄁といふ主󠄁張はこの世の不公平󠄁を考へると滑稽であり、認󠄁め難い。

 これはラッセルの講󠄁演「なぜ私はキリストヘ徒ではないか」で語られた內容で、1927年にロンドンのワッツ出版社より刋行されました。ラッセルはこの講󠄁演の最後に「キリストヘの宗ヘ、ヘ會、あらゆる古いヘへに反對して、(近󠄁代になつて)のし上がつてきた科學の助けによつて、それらの事(古いヘへ)を少しは支配し始めることができるやうになつた」と語り、さらに次󠄁のやうなことも述󠄁べてゐます。
~といふ槪念のすべては、古代東洋の專制主󠄁義から出た槪念です。それはまつたく自由人には相應しくない槪念です。ヘ會で人々が自ら謙󠄁り、自分たちは慘めな罪人であるとか、さういつたやうなことを言ふのを聞くとき、それは輕蔑すべきもので、自尊󠄁心ある人間には値しないやうに見えます。

 いかにも“自由人”に相應しい、ラッセルのアッケラカンとした物言ひですが、要󠄁するにラッセルは、宗ヘ自體の內包󠄁する“迷󠄁妄󠄁”をC掃󠄁否定して“科學的󠄁な自由な知性”を案內役として人生を步むべきだ、と講󠄁演を締めくくつてゐるのです。いまの私なら、「ラッセル先生、大丈夫ですか?」と皮肉の一つも言つてやれるが、これを讀んだ當時の私は實はかなり困惑してゐました。といふのも、若い頃“基督幼稚園”に勤務してゐた母の影響もあつて、私は「宗ヘは必要󠄁」とぼんやり感じてゐて、さらに當時ラッセルの『數理哲學序說』に心醉してゐたからです。
 恥を承知で言ふと、この本の餘白に少年は「今のぼくは錯乱している。1969・8・25」と記してゐます。私は、翌󠄁月、原子力科學者ダグラス・クラーク著『再び宗ヘは必要󠄁か』(荒󠄁地出版社、相川高秋譯)を讀んで、少しはその“錯亂”を鎭めることができましたが、その後長い間、ラッセルといふ“知識人”に蟠りと不信感を抱󠄁いてゐました。このラッセルに對する懷疑を完全󠄁に拂拭できたと感じたのは、sc恆存の「自由と平󠄁和−ラッセル批判󠄁」といふ昭和37年に發表された論文(『sc恆存全󠄁集第五卷』)を讀んだときです。恆存は次󠄁のやうに述󠄁べてゐます。
ラッセルの哲學は論理學に還󠄁元され、彼の論理學は數學的󠄁論理學に還󠄁元され、さらに、それは物理學的󠄁論理學に、といふよりは物理學そのものに還󠄁元されてしまふ。それは論理的󠄁・物理的󠄁にのみ完結しようとして、その完結を脅す行動の世界にみづから近󠄁附かうともしなければ、それを寄せ附けようともしない。

 まつたくその通󠄁りで、ラッセルは社會的󠄁、政治的󠄁問題をすべて數學的󠄁論理に還󠄁元しようとして、そこに還󠄁元できない“人間の問題”は打ち捨󠄁ててしまつてゐます。そして、ラッセルの轉落は「自由そのものを外在化󠄁し、生そのものを目的󠄁化󠄁して、價値そのものを否定した」ところに始まつてゐました。「價値そのものの否定」は言ふまでもなく、彼の「宗ヘの否定」のシノニムでもありました。   (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 13:30| Comment(0) | 河田直樹