畫龍󠄁點晴
正しくは「畫龍點睛」だが見出しのやうに「睛」を「晴」と書いてしまふ人がゐる。また「畫龍」は「がりゆう」ではなく「がりよう」と讀むのが普通󠄁である。「リ」も「睛」も音󠄁は「セイ」だが、訓は「リ」が「はれる」で「睛」は「ひとみ」である。殆ど完成󠄁してゐるが肝腎なものが缺けてゐる時に「畫龍點睛を缺く」と言ふ。龍を描いて最後に瞳を入れたら、たちまち龍が天にのぼつたと言ふ故事から出た諺であるから、「瞳」を「晴」と書いたのでは全󠄁く意󠄁味が分らなくなつてしまふ。
2021年10月31日
日本語ウォッチング(46) 織田多宇人
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| 織田多宇人
2021年10月26日
かなづかひ名物百珍(13)「カタハベニヒバ(Neoptilota asplenioides)」/ア一カ


海髮(イギス)目の海藻。差別用語との批判󠄁により和名「カタワベニヒバ」を「カタハベニヒバ」や「カタバベニヒバ」へと變更󠄁する提案がなされてゐるさうだ。それぞれ檢索してみると、現在この三種類の表記は拮抗してゐる事がわかる。それにしても「カタハ」が「カタワ」の歷史的󠄁假名遣󠄁である事を承知した意󠄁見なのだらうか。
カタハベニヒバの漢字は「片端紅檜葉」かと思はれるが、「カタバベニヒバ」ならどう書くつもりなのだらう。大野晉編󠄁『岩波古語辭典』には「カタは不完全󠄁の意󠄁。ハは物の端の意󠄁」とあり、また「カタ(片)はマ(眞)の對義語」などといった解說も見かける。
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| 高崎一郎
2021年10月17日
數學における言語(72) 中世~學論爭と數學への序曲−日本ヘ(U)
前󠄁囘は,ラッセルとの對比において、日本の“科學的󠄁合理主󠄁義者”とも言ふべきハビアンといふ人物を取り上げました。山本七平󠄁氏は、彼を「~・佛・儒・基」を「破」して現代の日本人にも通󠄁ずる“日本ヘ”の嚆矢とされてゐて、たとへば「日本の神話に“科学的”なメスを入れた最初の日本人はおそらくハビアンである(破文の思想)」と記されてゐます。では、その“日本ヘ”に至り着くまでのハビアンの“方法”とはいかなるものか、これについて、山本氏は次󠄁のやうに述󠄁べられてゐます。
要󠄁するに、その“方法”とは、自分の傳統的󠄁な言葉遣󠄁ひで、“輸󠄁入した新しい思想・宗ヘ”を客觀的󠄁に解釋し理解し直して、その結果得られた“知識”がすでに存在する自分の內なる基準に合致すればそれを認󠄁め、さうでなければ破棄する、といふものです。ここで、注󠄁目すべきことは“自分の基準に合致しなければ破棄する”といふ點です。ハビアンの「破文」とはその破棄の證文であり、彼には新思想や新宗ヘに對する鬪爭の姿󠄁勢はまつたく見られません。それゆゑハビアンには“何らかの囘心に基づく轉向”はありませんでした。山本氏は、これを日本固有の“グノーシス現象”と捉へ、そこに“日本ヘ”誕󠄁生の祕密を見てゐます。
では、“グノーシス現象”とは何か? 言ふまでもなく“グノーシス(γνώσις、gnosis)”とは、希臘語で「知識、認󠄁識」を意󠄁味しますが、古川晴風編󠄁著『ギリシャ語辞典』(大学書林)には、「@知ろうとすること、取り調べ。A知ること、知、知識;認識、確認;知り合いであること、交際。B知られること;名声、評判。」とあります。私が面白いと思ふのは、Aの“交際”といふ箇所󠄁で、山本氏は“グノーシス現象”を、「一つの伝統文化が他文化に接したときに起こるほぼ共通した型の文化交流(交際)現象」と定義されてゐます。そして、この交流は最終󠄁的󠄁には“相互作用”になると述󠄁べられ、その例として「キリシタン思想のローマ・カトリックへの強い影響」を舉げられて、「キリシタン思想は、異端として排撃され、激烈な闘争を起こす」と語られてゐます。
しかし、ハビアンの“日本ヘ”の場合は、この現象(激烈な鬪爭)は起󠄁きないのです。山本氏はこれを「一種の消去法による自己の思想の表明」に過󠄁ぎないと指摘され、次󠄁のやうに結論されてゐます。
そして、さらに山本氏は「それでいてこの状態を日本人は、“科学的”と考え、その意味ではハビアンは、まことに“科学的”で、現代の日本人、特に進歩的文化人とそっくりだが、実をいえば、この状態ぐらい非科学的な状態はないのである」と續けられてゐます。まことに銳い的󠄁確な指摘で、かういふくだりを讀むと、なるほど日本には“數理哲學の歷史󠄁”がなかつたのも宣なるかな、と納󠄁得させられます。
もし、文化󠄁を自らの思想を論理的󠄁・體系的󠄁に明󠄁示する凸型と、さうではない凹型に分類するならば、日本文化󠄁は明らかに後者であり、徹頭徹尾“女性的󠄁”と言ふべきです。30歲の三島由紀夫は『小說家の休暇』のなかで日本文化󠄁の特徵を「あたかも女の肉體と拐~とが、分かれ目のはつきりせぬままに、同じ次󠄁元でつながつてゐるやうに、美が思想を補ひ、思想が生活を補ひ、また生活が美を補ひつつ」、ためにゴシック拐~も合理主󠄁義も「かつて實を結んだことがなかつた」と述󠄁べてゐます。では、ハビアンは「內なる自らの基準」について一切語らなかつたのか?これについては次󠄁囘觸れていくことにします。(河田直樹・かはたなほき)
おそらく彼自身は常に変らず、日本の伝統的な考え方を、さまざまな宗教に仮託して「客体化」し、それによって形成された内なる基準に基づいて、客体化できない部分を「破文」で破棄していっただけであろう。
要󠄁するに、その“方法”とは、自分の傳統的󠄁な言葉遣󠄁ひで、“輸󠄁入した新しい思想・宗ヘ”を客觀的󠄁に解釋し理解し直して、その結果得られた“知識”がすでに存在する自分の內なる基準に合致すればそれを認󠄁め、さうでなければ破棄する、といふものです。ここで、注󠄁目すべきことは“自分の基準に合致しなければ破棄する”といふ點です。ハビアンの「破文」とはその破棄の證文であり、彼には新思想や新宗ヘに對する鬪爭の姿󠄁勢はまつたく見られません。それゆゑハビアンには“何らかの囘心に基づく轉向”はありませんでした。山本氏は、これを日本固有の“グノーシス現象”と捉へ、そこに“日本ヘ”誕󠄁生の祕密を見てゐます。
では、“グノーシス現象”とは何か? 言ふまでもなく“グノーシス(γνώσις、gnosis)”とは、希臘語で「知識、認󠄁識」を意󠄁味しますが、古川晴風編󠄁著『ギリシャ語辞典』(大学書林)には、「@知ろうとすること、取り調べ。A知ること、知、知識;認識、確認;知り合いであること、交際。B知られること;名声、評判。」とあります。私が面白いと思ふのは、Aの“交際”といふ箇所󠄁で、山本氏は“グノーシス現象”を、「一つの伝統文化が他文化に接したときに起こるほぼ共通した型の文化交流(交際)現象」と定義されてゐます。そして、この交流は最終󠄁的󠄁には“相互作用”になると述󠄁べられ、その例として「キリシタン思想のローマ・カトリックへの強い影響」を舉げられて、「キリシタン思想は、異端として排撃され、激烈な闘争を起こす」と語られてゐます。
しかし、ハビアンの“日本ヘ”の場合は、この現象(激烈な鬪爭)は起󠄁きないのです。山本氏はこれを「一種の消去法による自己の思想の表明」に過󠄁ぎないと指摘され、次󠄁のやうに結論されてゐます。
彼(ハビアン)は常に、その「破棄した部分」しか口にせず、その「内なる自らの基準」は明示していないのである。これは(中略)今の日本人も同じであって、「反論」はできるが、その反論の基準となっている自らの思想を論理的・体系的に明示せよと要求すると、できなくなってしまう。従って日本人には論争は不可能である。
そして、さらに山本氏は「それでいてこの状態を日本人は、“科学的”と考え、その意味ではハビアンは、まことに“科学的”で、現代の日本人、特に進歩的文化人とそっくりだが、実をいえば、この状態ぐらい非科学的な状態はないのである」と續けられてゐます。まことに銳い的󠄁確な指摘で、かういふくだりを讀むと、なるほど日本には“數理哲學の歷史󠄁”がなかつたのも宣なるかな、と納󠄁得させられます。
もし、文化󠄁を自らの思想を論理的󠄁・體系的󠄁に明󠄁示する凸型と、さうではない凹型に分類するならば、日本文化󠄁は明らかに後者であり、徹頭徹尾“女性的󠄁”と言ふべきです。30歲の三島由紀夫は『小說家の休暇』のなかで日本文化󠄁の特徵を「あたかも女の肉體と拐~とが、分かれ目のはつきりせぬままに、同じ次󠄁元でつながつてゐるやうに、美が思想を補ひ、思想が生活を補ひ、また生活が美を補ひつつ」、ためにゴシック拐~も合理主󠄁義も「かつて實を結んだことがなかつた」と述󠄁べてゐます。では、ハビアンは「內なる自らの基準」について一切語らなかつたのか?これについては次󠄁囘觸れていくことにします。(河田直樹・かはたなほき)
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| 河田直樹