2022年02月28日

日本語ウォッチング(49)  織田多宇人

勘忍󠄁どすえ

 京美人から「勘忍󠄁どすえ」と言はれたら、すぐにでも許してしまふでせうね。しかし漢字の間違󠄂ひは許すことは出來ませむ。「堪忍󠄁どすえ」でなければなりませむ。「勘」の音󠄁は「カン」ですが、訓は「かんがえる」であり。「勘忍󠄁」では意󠄁味が通󠄁じない。「勘」は「勘がいい」や「勘違󠄂ひ」に使󠄁はれるだけではなく、「勘辨ししてほしい」の「カン」にも使はれ、「勘辨」と「堪忍󠄁」の意󠄁味が似てゐるので勘違󠄂ひして「堪忍󠄁」を「勘忍󠄁」と書いてしまふのであらう。「堪」の音󠄁は「カン」で訓は「たえる」である。そして、「ならぬ堪忍󠄁するが堪忍󠄁、堪忍󠄁袋の獅ェ切れる」等の諺に用ゐられてゐる。
 「堪」は「その道󠄁に深く通󠄁じていること」の意󠄁味で「堪能(かんのう)」にも用ゐられてゐる。堪能ではないことを「不堪(ふかん)」と言ふ。なほ「滿ち足りた」と言ふ意󠄁味で「堪能(たんのう)」と言ふ言ひ方があるが、「足リヌ」の音󠄁便「タンヌ」の轉訛で、「堪能」は當て字。「堪能(かんのう)」と混同した用法で「堪能(たんのう)」と讀むことがある。
posted by 國語問題協議會 at 07:00| Comment(0) | 織田多宇人

2022年02月20日

かなづかひ名物百珍(16)「石田治部少輔三成󠄁」/ア一カ

[治部少輔三成]
 戰國大名としてあまりに有名。官位の「治部少輔」は習󠄁慣的󠄁に短く「ジブショー」と發音󠄁し、假名遣󠄁は下字の略とみて「ヂブセウ」、また短縮した「ヂブセフ」の二說ある。「大輔」は「タイフ」。

[治部煮]
 治部煮(ぢぶに)は加賀料理の一。鴨肉や鷄肉の汁椀で、名前󠄁の由來はゥ說あるが、石田三成󠄁に直接かかはる可能性は低いだらう。調󠄁理の音󠄁が「ぢぶぢぶ」なのだといふ說もあり、「おじや」が「じやじや」と煮込󠄁む事からといふ語源說を連想する。
posted by 國語問題協議會 at 21:45| Comment(0) | 高崎一郎

2022年02月12日

數學における言語(75) 中世~學論爭と數學への序曲−言葉の問題(U)

 『日本人とユダヤ人』の14番目の章「プールサイダー―ソロバンの民と数式の民」も大變興味深く讀んだ記憶があります。“プールサイダー”とは“プールサイドにいて、人の泳ぎ方を巧みに批評する人々”のことで、これは“山本書店主の造語”ださうです。それはともかく、要󠄁するに“ソロバンの民”とは日本人、“数式の民”とはユダヤ人(ヨーロッパ人)のことで、この章では日本人とヨーロッパ人の“言語思考”の違󠄂ひが論じられてゐるのです。たとへばこんな記述󠄁が見られます。
 数の訓練といえば、日本人はすぐにピンと来るが、言葉の訓練と言っても、さっぱりピンとこないのである。特に会話の訓練を、ソロバンのように的確に徹底的に習熟させる伝統は日本には全くない。従って、正面切った会話を主体とした文学作品は日本にはない。このことは三島由紀夫氏も指摘しているが、プラトンの対話篇のような作品は日本にはなかったし、今後も出ないであろう。

 私自身「日常會話に習󠄁熟する訓練」を受󠄁けた經驗はありませんし、現在「發言力やディベート力」の必要󠄁性が喧傳強調󠄁されてはゐますが、1970年から50年以上經つたこんにちでも、日本人の思考樣式はほとんど變はつてゐないやうに感じられます。日本では“プラトンの對話篇”のやうな作品は、さほど好まれてはゐないやうに思はれますし、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』やトーマス・マンの『魔の山』のやうな“會話を主󠄁體”とした有名な文學作品もすぐには思ひ浮󠄁かびません。『魔の山』は年ハンス・カストルプをめぐる一種の“ヘ養小說”ですが、第6章の“セテニブリーニ氏とナフタ氏との論争”は壯絶を極めたもので、この二人の“言語バトル”の妙味は日本の小說からは決して味はへないものです。さらに、次󠄁のやうな指摘にも、“言葉に對して不器用”だつた數學少年の私は强い共感をもつたものです。
 ラテン語を学んでいたあるお嬢さんが、「ラテン語ってまるで数式のような言葉ですね」と私に言ったことがある。ヨーロッパ人にとって、言葉とは本来そういうものであり、文章とはある意味では言葉の数式だから、これは当然のことであるが、このお嬢さんにとっては、驚異だったのであろう。

 「文章とは言葉の數式」とは言ひ得て妙で、すでに昭和45年には水谷静夫著『言語と数学』(森北出版)のやうな本も出てをり、“言葉と數式”の關係について注󠄁目され始めてゐました。實は、私自身水谷氏の著作に學生時代接していろいろと啓󠄁發されましたが、特に「第3章 短い間奏曲」の以下の記述󠄁は印象に殘つてゐます―「言語を言語行為にほかならないと主張して理論を打ち出した人に時枝(もと)()(1900〜1967)があります。時枝の言語過程説は江戸国学の現代版とも見られますが、それに時枝自身は言語の数理的研究に余り興味を示しませんでしたが、この流れの研究はいろいろな点で現代の数学的な扱い方に載りやすいのです」。言語はエルゴン(作り出されたもの)ではなくエネルゲア(作り出す働き)だと主󠄁張したのは言語學者W.フンボルトですが、“時枝の言語過󠄁程󠄁說”とはこれに他なりません。時枝博士が“言語の數理的󠄁硏究”に餘り興味を示されなかつたことは殘念ですが、近󠄁年では『言語の科学』(岩波講座全11巻)、『新・自然科学としての言語学』、(福井直樹・ちくま学芸文庫)、『新・脳科学基礎論としての生物言語学』(有川康二・三恵社)などのやうな“言語と數學”について論じた本が多數出版されてゐます。福井氏の本には黒田(しげ)(ゆき)氏(1934〜2009)の「数学と生成文法」といふ附錄があり、「構造としての数学とコトバの構造との間に何らかの掛かり合いがあるのであれば、ヒトの進化の上で数学的知識の獲得とコトバの発生のあいだにも何らかの関係があったのかもしれない」とあります。
 かうした專門家の硏究にも關はらず、しかし俳句・短歌あるいは落語・漫談を愛好する多くの日本人が、言葉を數式として扱󠄁つてゐるとは到底考へられません。良し惡しはともかく、現代日本人もやはり“ソロバンの民”と言ふべきなのでせう。  (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 15:30| Comment(0) | 河田直樹