2022年04月25日

日本語ウォッチング(50)  織田多宇人

完壁
 間違󠄂へる人が多いのが、「完璧」と書くべきところを「完壁」と書く例。「壁」も「璧」も音󠄁は「ヘキ」だが、「壁」の訓は「かべ」で「璧」の訓は「たま」。「璧」と言ふ字の存在を知らない方もゐる。磨󠄁いて傷のない玉を「完璧」と言ひ、「完全󠄁で缺點のないこと」を意󠄁味する。「璧」のその他の熟語としては、「雙璧」がある。「一對の寶玉」、或は「優劣無く、すぐれてゐる二つのもの」を意󠄁味する。これを「雙壁」と書いたら解釋に苦しむ。
 「壁」を含む熟語は多いが、特徵のある用ゐ方をしてゐるのは、「鐵壁」、「壁畫」、「城壁」あたりが思ひつく。
posted by 國語問題協議會 at 23:45| Comment(0) | 織田多宇人

2022年04月16日

かなづかひ名物百珍(17)「惟任日向守光秀」/ア一カ

[惟任光秀]

 「惟任(これたふ)」は明智光秀へ朝󠄁廷󠄁から下賜された姓。「任」を「トー」と讀むのは訓「たへる」のウ音󠄁便。「藤󠄁原公任(きんたふ)」や「松󠄁任谷(まつたふや)由實」など姓名にある。前󠄁者は百人一首の「大納󠄁言公任」と言った方がわかりやすいかもしれない。iェ縣大任(おほたふ)町には「今任原(いまたふばる)」(〒824-0511)の地名も見られる。

 地名や人名には習󠄁慣として獨特の讀み方があり、そのため「名乘り字典」など多く編󠄁輯されるが、時になぜさうなのかわかりにくい場合がある。「一夫」「和子」など果して「かず」でよいのか、時に不安にかられる。
posted by 國語問題協議會 at 21:20| Comment(0) | 高崎一郎

2022年04月10日

數學における言語(76) 中世~學論爭と數學への序曲−言葉の問題(V)

 日本では“~學論爭”と言へば、「單なる~學論爭に過󠄁ぎない」といつたやうに惡い意󠄁味で使はれ、それは“無意󠄁味な論戰、水掛け論”とほぼ同義語といふことになつてゐます。しかし、滑稽なことに~學そのものに無知である私は、その“~學(theology)”なるものに、若い頃から強い興味關心を抱󠄁いてゐました。といふのも、それは生きてゐる人間の苛烈な“世界解釋衝動”から生まれた莊嚴な言語體系であり、死すべき有限な人間が、その時點でこの世界の未決の問題すべてを見通󠄁し終󠄁はらせるための論理的󠄁言葉の集積點に思はれたからです。なぜ、このやうな言葉を欣求するのか? これについては拙著『數學における言語』(文字文化󠄁協會)の第2章や第9章を參照して頂ければ幸甚ですが、そこでも少し言及󠄁したやうに、私自身はその根源には“エロティシズム”の問題が深く關與してゐると感じてゐて、いづれこのブログで論じる積りです。
 “莊嚴な言語體系”としてすぐに思ひ浮󠄁かぶのは、トマス・アキナスの『~學大全󠄁(Summa Theologicae)』ですが、そもそも日本語にはこのやうな“言語システム”が可能なのか、といふ疑問が私には若い頃からありました。前󠄁2囘と今囘で“言葉の問題”を考へてゐるのもそのためですが、一般に多くの日本人は、なぜ理窟(あるいは屁理窟)を蔑み、言葉の駄洒落や語呂合はせを好むのでせうか? それが惡いと言ふのではありませんが、空疎で“生眞面目な道󠄁コ的󠄁”スローガンを受󠄁け入れるのに吝かではないのに、なぜ正確な言葉を一つ一つ積み重ねていく重厚でニュートラルな數式的󠄁言論を野暮だとして避󠄁けたがるのでせうか?『日本人とユダヤ人』の14章には次󠄁のやうな記述󠄁もあります。
 逆説的な言い方をすれば、まず、日本語が(日本語として)余りに完璧だからである。実に完璧なので、数式的・意識的訓練もうけずに、別の訓練で自由自在に駆使できるからである。一体どうして日本語は、こんなに軽々と(ある意味では無責任に)駆使できるのか。

 筆者によると、「日本語が完璧」である理由は「單語が實に豐富多彩󠄁であり、かつその單語の示す意󠄁味の範圍が非常に狹い」といふことで、I speak the truth to youといふ例をあげて、これは「われ汝にその眞理を吿ぐ」とも「ホントのことをお話しします」とも譯せますが、「眞理」と「ホント」が同一の單語(the truth)であることは日本語ではあり得ない、と指摘されてゐます。さらに、筆者は續けて「言葉を使うということは、『重い戦棍(せんこん)を持ち上げて振りまわすほど』大変なことのはずなのに、日本人は、まるで箸を使うように、何の苦もなく自由自在に使い、かつ使い捨ててしまう。(中略)日本人ほど安直に言葉を使い捨ててしまう民族は、おそらくは他にないであろう」とも語られてゐます。なるほど、戰後日本人が“正字正假名遣󠄁ひ”を何の苦もなく捨󠄁てて、“新かな遣󠄁ひ”をやすやすと受󠄁容したことも頷けます。
 おそらく、多くの日本人には、言葉を使󠄁ふことが、すなはち“重い戰棍を持ち上げて振りまはす”ことだといふ自覺はないと思はれます。そして忘󠄁れてはならないことは、“~學論爭”はすぐに使ひ捨󠄁てられる類の言葉では行はれなかつた、といふことで、これは數學における言葉についても事情󠄁は同じです。
 ソロバン型思考とは、言つてみれば“アナログ的󠄁思考”であり、數式型思考とは“デジタル的󠄁思考”と言つてもいいかもしれませんが、私自身は、さらにマイケル・ポランニーの“暗󠄁默知”のやうなものを考へて、一方が他方を補完する關係にあると感じてゐます。なほ、“アナログとデジタル”については拙著『数学的思考の本質』(PHP研究所)の第2章を、また“暗󠄁默知と數學理論”については『暗黙知の次元』(ちくま学芸文庫)の第T章を參照していただければ幸甚です。
 ともあれ「聖󠄁書とアリストテレスの論理學で一千數百年訓練された西洋人の思考の型が數式的󠄁なら、日本人の思考の型は正にソロバン型」であり、私たちはこのことを十分自覺した上で、歐羅巴中世の“~學論爭”を考へていくべきなのです。      (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 16:15| Comment(0) | 河田直樹