2022年08月27日

數學における言語(79) 中世~學論爭と數學−前󠄁期ヘ父哲學(U)

 私が學生時代に讀んだ渡辺義雄編『西洋哲学史』(朝日出版社)には、テルトゥリアヌスについて以下のやうな記述󠄁があります。
 彼(=テルトゥリアヌス)は信仰の立場から「神の子は十字架に架けられた。これは恥ずべきことであるから、恥ずかしいことではない。神の子は死んだ。これは愚かなことであるから、すっかり信じなければならない。彼は葬られてよみがえった。これは不可能なことであるから、信じなければならない」と言った。

 ナンセンス・ギャグとも言ふべきこの箇所󠄁をはじめて讀んだとき、若輩の私は呵呵大笑したものですが、しかし時が經つにつれ、上に引用した言葉は私を不安にし、あらためて“信じる”とは何かといふ問ひを私に投げかけてきたのです。といふのも、“非合理ゆゑに我信ず”といふ言葉は、若い頃から私自身の深刻な“數學的󠄁テーマ”であつたからです。
 話は脫線しますが、テルトゥリアヌスの言つたといふ“ナンセンス・ギャグ”に關聯して、もう少し私自身のことを語らせて戴きたいと思ひます。今から20年以上前󠄁に出した拙著『世界を解く数学』(河出書房新社)第1部の第4章で私は次󠄁のやうに書いてゐます。
 「際限のない繰り返し」を肯定できる「主体」自体が、その「際限のない繰り返し」をあからさまに否定される者であったという、このギャップ(矛盾)は一体何を意味するのだろうか。

 「際限のない繰り返󠄁し」によつて、私たちは自然數「1、2、3、……」が無限に續くことを知ることが出來ますが、このことについて、佛蘭西の數學者アンリ・ポアンカレ(1854〜1912)は、その著『科學と假說』で“自然數のおしまひが私たちの前󠄁に出現しない”理由を「1つの作用が1度可能だと認󠄁められさへすれば、その作用を際限なく繰り返󠄁して(・・・・・・・・・)考へることができると信ずる理知の能力を私たちが肯定するところにある」と述󠄁べてゐます。「際限のない繰り返󠄁し」を“信ずる”ことが可能な理知を持つた主󠄁體(個體)が、なぜ個體としてはその「際限のない繰り返󠄁し」を絶對的󠄁に拒󠄁絶される(=死)存在であつたのでせうか? この點こそ、數學屋の私にとつては深刻な問題だつたのです。しかし、こんな數學を逸脫した問ひを發するやうでは、もはや數學屋としては完全󠄁に失格です。ガウスが述󠄁べたやうに「數學は學問の女王」に違󠄂ひありませんが、この學問に對する私の關心は、この學問の奧深くに祕められた、私の「有限性」に眞向から對立矛盾する「無限性」そのものにありました。合理性の極致であると思はれる言語體系は、なぜ堪へ難い非合理の光線を放射し續けるのだらう、その理由は一體どこにあるのだらう、私には「無限」こそ、數學といふ學問體系が「有限」な生身の人間に容赦なく繰り返󠄁し投げかけてくる苛烈な「問ひ」に感じられたのです。同じく『世界を解く数学』の第5部の3章で、私は次󠄁のやうに書いてゐます。
 数学というものは「人間理性のつくる最も合理的な言語体系」だと思われているかもしれないが、数学的思考を学びながら、私がいつも突き当たったのは、非合理の堅い岩盤であった。自然数系列が終らないこと、「0.33333…=1/3」という等式、無理数の存在、カントールの超限基数、ライプニッツのdx、非ユークリッド幾何学、至るところ微分不可能な連続関数、これらはいずれも私にとって「死すべき有限な人間がなぜ無限を考えられるのか」という問題と同義であった。「身には限りあるも想は果て涯なし」とはいえ、なぜ命に「限りある」人が「限りない数の果て」を、想うことができるのか。

 そして、さらに私は「無限という非合理なものを視るのであれば、たとえその非合理な苛烈な光線で「理知の目」が灼かれそうになったとしても、それは徹頭徹尾「理知の目」によってでなければならない。そして、もしそうした言語世界の水平線の彼方に、「非合理」がその怪異な姿を現したとすれば、私は聖アウグスティヌスとともに『非合理ゆえに我信ず』と宣言するだろう。」とも書いてゐます。ともあれ、テルトゥリアヌスに脫帽するほかありません。    (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 12:30| Comment(0) | 河田直樹