2024年08月24日

かなづかひ名物百珍(38)「藤󠄁原宇合」/ア一カ

[藤原宇合]

 藤󠄁原不比等の三男、式家の祖。遣󠄁唐󠄁使節としての入唐󠄁を機に名を「馬養󠄁」から「宇合」に改めたといふ。なるほど「馬を養󠄁ふ」やうでは下級󠄁役人と蔑まれかねないし、しかも「馬養󠄁」は「馬が何かを養󠄁ってゐる」らしい尻切れトンボな表現である。「養󠄁馬」でなければ和臭芬々として漢文脈では意󠄁味をなさない。「盲󠄁導󠄁犬」「券賣機」などもよく考へれば滑稽な表現と解釋されてしまふ。

 「合」は漢音󠄁カフ吳音󠄁ゴフ、慣用音󠄁ガフ。つまりは「うまかひ」の宛字として「宇合」は上出來だったのだらう。從來式の吳音󠄁ではなく、唐󠄁の長安で習󠄁った「最新の漢字音󠄁」である漢音󠄁に忠實である點でも、新進󠄁の氣負ひが感じられる。
[猪甘津橋]
 大阪の「^甘津(ゐかひつの)橋」(今の鶴橋)や、岡山縣吉備中央町「宇甘(うかひ)溪」、あるいは平󠄁安宮の「偉鑒(ゐかむ)門」が上代には「^養󠄁(ゐかひ)門」であったやうに、「養󠄁(か)ふ」はさまざまな字音󠄁で代用されてゐる。「甘」や「鑒」は「かふ」とずいぶん懸け離れた發音󠄁に感じるかもしれない。しかし「甘」も「鑒」も「カン」ならぬ「カム」であり、「ふ」も「ム」も脣を合せる近󠄁い音󠄁なのである。本居宣長以來、字音󠄁の「カン」と「カム」は同一視されて久しいが、平󠄁安時代以前󠄁には區別されてゐた事がわかる。
posted by 國語問題協議會 at 08:40| Comment(0) | 高崎一郎

2024年08月17日

國語のこゝろ(28)「言葉は三世代で滅ぼせる」/押井コ馬

【今回の要󠄁約󠄁】
@話し言葉にしろ書き言葉にしろ、言葉は三世代で絕滅の危機に追󠄁ひやる事ができます
A「第二世代に日用させない」「次󠄁世代への傳達󠄁を止める」事が絕滅を早める鍵です
Bその逆󠄁を行くと共に、細かなノウハウの記錄を目指してゐます

【主󠄁な漢字の新舊對應表】
國(国) 傳(伝) 舊(旧) 對(対) 應(応) 關(関) 聽(聴) 學(学) 來(来) 兩(両) 會(会) 當(当) 圖(図) 從(従) 體(体) 惡(悪) 壓(圧) 實(実) 兒(児) 嚴(厳) 臺(台) 樣(様) 覺(覚) 氣(気) 假(仮) 遲(遅) 圍(囲) 辭(辞) 覽(覧) 讀(読) 專(専)

[表:言葉は三世代で滅ぼせる]
■「言葉は三世代で滅ぼせる」
……と言はれてゐます。特に、殖民地における現地語と、支配者の普及󠄁させる共通󠄁語の關係において言はれる事です。
 祖父󠄁母世代は現地語をスムーズに話したり、聽いて理解出來ます。
 ところがその子供の世代において、「現地語をなるべく使はず、共通󠄁語(支配者の言語)を使ふ」學校ヘ育がされたら、どうなるでせうか。學校にゐる間はその新しい言語で生活する事になります。街中でも新しい言語を使ふ事が多いでせう。親の使ふ現地語も或程󠄁度理解し、話す事も出來るかも知れませんが、現地語と共通󠄁語の兩方を使ふ必要󠄁に迫󠄁られます。
 そしてその子供の子供(孫)の世代となると、親は現地語を理解してゐても、「自分は共通󠄁語に慣れてゐるから」「社會では共通󠄁語を使ってゐるので、その妨げにならないやうに」と、親は子供に現地語をヘへる事は少くなるでせう。すると孫世代は現地語を殆ど理解出來ない、といふ事になりかねません。
 より身近󠄁な例では、日本の方言もさうでせう。祖父󠄁母はスムーズに方言を話せる、親は方言をあまり話せないまでも理解出來る、子は方言をあまり理解出來ない、といふパターンをよく見掛けるのではないでせうか。
 そして正漢字・正かなづかひ、いはゆる「舊字・舊かな」にも同じパターンが當てはまるでせう。

■絕滅を早める鍵とは
 この圖を見ると、特に「第二世代」、つまり從來の言葉をスムーズに使へる「第一世代」の、子供にあたる世代が鍵になってゐる事が分ります。第二世代は第一世代の言葉を或程󠄁度は理解しても、社會全󠄁體で「日常的󠄁に使ふ」事、特に「必要󠄁に迫󠄁られた場合以外で積極的󠄁に使ふ事」が減っていきます。そして、第三世代が「わからない」と言ってゐるのは、第二世代が「わかっても避󠄁ける」、つまり從來の言葉を理解してゐるのに、第三世代に傳承しないからです。
 とは言へ、第二世代が必ずしも惡いとは私は思ひません。何故第三世代に傳承しないのか、恐󠄁らく二つの理由があるでせう。「同調󠄁壓力」と「現實的󠄁對應」です。
 第二世代は學校ヘ育で新しい言葉をヘへられる時、從來の言葉を「身內以外には使はないもの」とか「古いので今は使はないもの」と刷り込󠄁まれます。現代の國語ヘ育でさへ、歷史的󠄁かなづかひを「古文の仮名遣い」、現代仮名遣いを「現代の仮名遣い」と呼んで、まるで現代語に歷史的󠄁かなづかひを使ってはいけないかのやうに刷り込󠄁んでゐます。現地語や方言の撲滅で極端な例としては、ヘ員が、現地語や方言を話した兒童に「私は方言を話しました」の類の札を首から提げさせて辱めるといふ仕打をした事もあるさうです。そこまでして新しい言葉を身につけた世代は、自分の子供世代にもその嚴しい基準を要󠄁求しがちですし、從來の言葉を取り戾さうといふ動きを「これまでの努力を臺無しにするもの」と白眼視しがちです。
 第一世代が從來の言葉を使ふ事については、「新しい言葉を學ぶ機會が無かったから」と社會が大目に見るでせう。しかし第二世代以降は「學校で學んだのに未だに古い言葉を使ふとはけしからん」と、「從來の言葉を學んで使ふ自由」を奪はれがちです(そしてこの樣子は第一世代には見えづらいものです)。「私は自由を奪ったつもりはない、ただ、古い言葉を使った人はそれなりの覺悟をしろと言ってるだけだ」と言ふ人もゐますが、「どんな仕打ちを誰から受󠄁ける覺悟」なのでせうか。これはヤクザの「夜道󠄁に氣を附けろ」に似てゐると思はざるを得ません。
 さうなると、社會全󠄁體がその新しい言葉に順應せざるを得なくなります。從來の言葉では仕事が出來ない、文書を受󠄁けつけてくれない、出版できない等、じわじわと使用に制約󠄁が掛かっていきます。假に從來の言葉の良さを知ってゐても、敢へてそれを守るよりも、新しい言葉に切替へた方が現實的󠄁だ、といふ計算が働きます。

■日用・傳達󠄁・記錄が絕滅を遲らせる鍵
 それでは、この「言葉の絕滅」を遲らせるにはどうすれば良いかといふと、その逆󠄁を行けば良いわけです。
 まづ、從來の言葉を無理なく可能な範圍で日常的󠄁に使ふ事。次󠄁に、次󠄁世代に何とかしてその文化󠄁を傳承する事です。この二つを何とか邪魔󠄁しようとする人がよくゐますので、理論武裝しつつ、負けずに頑張る必要󠄁があります。
 そして、第一世代やその世代から學んだ人がまだ生きてゐるうちに、まだ辭書や便覽の類に記錄されていない細かなノウハウを集めたり硏究して記錄する事。「讀取專用」の言葉ではなく「讀書き」する「生きた文化󠄁」として傳承するにはこれも必要󠄁だと私は思ひます。
 正字・正かなの世界ではたとへば「手書きでの正漢字の書き方」「『同音の漢字による書きかえ』で統一される以前󠄁の漢字の選󠄁び方」「送󠄁假名の送󠄁り方」等、まだ記錄が少なめな分野を充實させていきたいと私は考へてゐます。特に「同音の漢字による書きかえ」については@國語改革以前󠄁は書換前󠄁の表記しか存在しなかったもの、A國語改革以前󠄁は書換前󠄁後の表記があったが、漢字の意󠄁味合ひや過󠄁去の用例等からして書換前󠄁の方が相應しいかも知れないもの、B國語改革以前󠄁は書換前󠄁後の表記があったが、どちらも相應しいもの、の三種類のパターンがあり、それぞれの語がどれに當てはまるのかを硏究した人はまだゐないやうに思はれます。皆さんのご協力も得ながら、今後まとめていきたいと思ひます。
posted by 國語問題協議會 at 11:10| Comment(0) | 押井コ馬

2024年08月09日

日本語ウォッチング(69)「戰々競々」/織田多宇人

戰々競々
 「戰々競々」とか「戰々恐󠄁々」と言ふ文章を時々見かけるが、「戰々兢々」と書くべきであらう。「戰」は音󠄁が「セン」、訓が「をののく、たたかふ」であり、「競」は音󠄁が「キャウ」、訓が「きそふ」であり、「恐󠄁」は音󠄁が「キョウ」で訓が「おそれる、おそろしい」であり、「兢」は音󠄁が「キョウ」、字義が「つつしむ、わななく」である。そして「せんせんきょうきょう」とは「びくびくおそれつつしむ」ことであるから、由諮ウしい「戰々兢々」が最も適󠄁當であると言はざるを得ない。最近󠄁の辭書では「戰々恐󠄁々」も認󠄁めてゐるが首肯できない。「戰々競々」は字が似てゐるから誤󠄁記したものだらうが「おそれきそふ」意󠄁となり論外である。
posted by 國語問題協議會 at 18:45| Comment(0) | 織田多宇人