2016年04月25日

撞着ことば 中谷信男


對義結合の單語はオクシモロンと呼ばれますが、これが句になつてゐることばも多いものです。

醫者の不養生
醫者は人間の健康にかかはる知識を豐富に持つてゐるので、他人には養生を獎めるが、自分のこととなるとそれが實行できないでゐることが多いものです。良くいへば、患者のことにかかりきりで、自分に割く時間がない、そのため名醫であるといふこともあります。
しかしそれだけ實質の勤務時間が長いため、無理を強ひられます。
齒醫者で氣になるのは、自分の齒の病氣は誰に直してもらふのかです。同業者には頼みにくいことが察せられます。また同樣に、醫者の病氣は同業者の間では守祕義務が守られにくいさうです。
この撞着ことばは、「りっぱなことを口では言ふが、實行を伴はないではないか」といふ意味にも使はれますが、醫者のばあひには、それなりの、不養生ならざるをえない、まつたうな意味もあることになります。

坊主の不信心
この句も醫者の不養生と共に、すでに江戸中期の奇人平賀源内が言ひだしたことださうです。源内の友人だつた「解體新書」の筆者杉田玄白が源内を悼んで碑文を書いてゐます。「嗟(ああ)非常の人、非常の事を好み、行ひ是れ非常、何ぞ死せるや非常に 」 非常の人なればこそ、坊主の不信心がよく見えたのでせう。
なぜか江戸時代から醫者と坊主が一對として登場し、「醫者の若死に出家の地獄」といふ諺もあります。出家、すなはち僧侶は墮落しがちで、地獄に落ちるものが多いといふおぞましい意味合ひです。佛教の法事では戒名とか御布施などかなり高額な金額を要求されることが多いための、腹いせのことわざとも思へます。しかし最近は、宅配同樣の「御坊さん便」なる方式ができたりして、頼むはうからすれば、どの宗派の御坊さんでも、安い金額で御經を讀んでもらへることになつてきてゐます。一方、貧乏をしてゐる御寺では助かつてゐるとか。
今度は逆にこの方式が一部の寺院では「地獄で佛」といふことにもなります。

易者身の上知らず
易者とは人間の將來や運命を或る筋立てで豫想する人のことを言ひ、いはゆる「うらなひ」を職業とする者のことです。誰でも自分の未來のありやうは知りたいもので、それを教へてくれれば有難い氣持になります。かなり確率高く當てる者もゐますが、易者本人は他人の身の上は占へても、自分の身の上はわからないもので、そのことをあざけつて言つてゐる言葉です。
占ひの「うら」はでもあつて、のやうに陸地から凹んだ形、姿といつたイメイジをもつてゐます。それを人間にあてはめると「心のうち」の、意識しなくても自然に外にはあらはれない、隱れた心となります。「なふ」は接續語で、心の奧を「現はす」ことが「うらなふ」となります。他人の心の内は隱れてゐるやうでも、樣々なきざし、氣配から讀み取れることは、フロイトやユンクの業績からも伺へますし、古代印度人の見つけた末那識、阿頼耶識の認識からもわかります。自分の心は自分にはわからない。そこで易者とは、わからないのではない、自分の將來を占つてはならない職業なのです。
posted by 國語問題協議會 at 19:13| Comment(0) | 中谷信男
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