2016年07月17日

數學における言葉 その2 自分の杯で

前囘の最後に、鷗外の「杯」に登場する第八の娘の言葉を取り上げましたが、これは要するに「自分の器は大きくはないが、しかしそれでも自分の器で戴くほかはない」といふ決意表明です。これは數學と付き合つていく場合にはことのほか大切なことで、『現代數學への道』(ちくま學藝文庫)の著者中野茂男氏は、序章で數學の特徴として「T抽象性、U論理的嚴密性、V結論の説得性(明證性)、W廣い適用性」の4つを擧げられ、UやVに關聯して、次のやうに述べられてゐます。

中學生や高校生が自信をもつて「先生それは違ふでせう」といへるのは、數學だけだといつてよいくらいである。地理や歴史や、いわゆる暗記科目と比べればもちろん、どの學科と比べても、「わかり方・納得のゆき方」の質が違ふことに氣がつくに相違ない。

中野茂男氏(19231998)は、京都大學數理解析研究所の教授をつとめられた方で、「代數學、代數幾何學」を專門とされた數學者です。上記の本は、中野氏が昭和四十五年頃京都大學において主に文科系の學生を對象とした講義をまとめられたものですが、「數學はどの學科と比べてもそのわかり方、納得の仕方の質が異なる」といふ指摘は、大變示唆的です。實は、この理解の仕方の質の相違にこそ、數學といふ學問のよさがある、と言つても過言ではありません。

「富士山は靜岡・山梨縣にまたがる圓錐状の火山で、その標高は3776mである」とか、「天智天皇の子である大友皇子と同天皇の實弟大海皇子の間の皇位繼承をめぐる爭ひ、すなわち壬申の亂は672年に起つた」といつたことに對しては、「先生、それは違ふでせう」と言ふことは叶ひません。すなわち、言はれた通りに鵜呑みするほかはありません。

小學校の理科でヘはる「色リトマス紙が赤に變化すれば酸性、赤色リトマス紙がに變はればアルカリ性」といつたことに對しても、「先生、それは違ふでせう」と反論することはできません。小學生の筆者は、先生に「なぜ、さうなのですか」と質問したことがあり、「とにかくさういうものなので覺えておきなさい」と言はれて、がつかりしたことを思ひ出します。悲しいことに、ともかく、自分の、ではなく「先生の言葉の器」で、その言説の水を飲むほかはないのです。

しかし「數學」においては、こんなことはほとんどありません。kahadaen.jpg
たとへば、右圖のやうな圓の直径ABと、圓周上のA、B以外の點Pに對して、點Pがどこにあっても、常に∠APB=
90°である、といふことを、先生にヘはりはしますが、この言説を鵜呑みにする必要はありません。なぜなら、この言説(定理)を、自分の言葉で明證的に確認することができるからです。言葉をかへれば、その言説の水を自分の言葉の器で、飲み、味はつてみることが確かに可能なのです。これを、數學では「證明」と言いますが、同じ先生の言説でも、その理解の仕方は決定的に違ひます。これは、驚くべきことです。

數學をヘへてゐて、一番氣になるのは、「∠APB=90°」という結論を、富士山の標高や壬申の亂の年號、あるいはリトマス試驗紙の場合のやうに、ヘ師の言つた通りに、素直に覺えてしまふ生徒が多いといふことです。數學ヘ師としては、「それは違ふです、なぜなら・・・」と反論してほしいのですが、さういふ生徒には滅多に御目にかかりません。

『知の歴史』の著者ブライアン・マギーは「みずからの論理で現實を理解しようとした最初の哲學者たち」の仕事を、「人類の艶_史における畫期的な試み」と述べてゐますが、次囘はこれについて考へてみたいと思ひます。
(河田直樹 かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 23:12| Comment(0) | 河田直樹
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