2016年08月12日

法・法華経---鳥の鳴き聲に文法 中谷信男

動物行動學者の岡ノ谷一夫氏は、動物の鳴き聲を研究してゐるうちに、そこに文法のあることに氣づき、言語の發生のメカニズムが歌からであることに想到しました。異論や反論もありますが、一方で異をとなへる人にもかなり魅力的な觀察結果なやうです。十姉妹を調べてゐるうちに、雄は求愛の歌を囀るが、自分獨自の複雜な歌をうたへる雄ほど雌を惹きつけることがわかつてきました。そのやうな雄になる雛は、親も含め複數の雄の歌を聞いてそれを手本とし、そこにあるチャンク(肉などの塊、ここでは「音の塊」)を聞き分け、それを「切り貼り」して自分の歌にすることが證據だてられました。その切り貼りに文法があるといふのです。
ことばに關係する他の多くの動物實驗例は岡ノ谷先生の本を讀まれればよいと思ひますが、話はこのあたりから人間に及び、人の祖先は活溌に歌をうたふ靈長類だつたのではないかと類推されます。赤ん坊は泣き聲をつかつて親を操り、その反應の場面と聲とから共通部分が切出され、つまりチャンク化され、そこに意味がつき、單語が生れた。何百世代もかけてこの過程が繰返され、そして私たちの「ことば」が生れたとの推論です。
この説の當否は別とし、筆者が特に興味を惹かれたのがこのチャンク、一種の文節の聞き分け、とらへ方であり、そこに文法が發生するとする意見です。
「文節」といふことばは、國語學者の橋本進吉博士が昭和になつて使ひ出した(『國語法研究』)單位で、瑞西の言語學者ソシュールの影響を受けながらも獨自の考へから導入し、日本化した用語だと思はれます。そしてこの文節とは、「意味や發音の上で不自然な言ひ方にならないやうに、出來るだけ小さく切つた一區切の言葉」(大野晉)のことです。「不自然にならないやうに切る」つまり「自然に切れる」とするやうな定義は、論理とはなりえません。このやうな形式主義的な區切りを基本に据ゑた文法が今に至るまで學校で教へる國文法となつてゐることはまことに不幸なことです。
「文章」を成り立たせる「文」には構造があつて、それが文節・チャンクを必要としてゐます。そのチャンクをどうとらへるのか。既に金田一春彦氏が『日本語』の中で次のやうに言つてゐます。
單語の切り方が學者によつてずいぶんまちまちだ。たとへば「行かせたから」といふ語句をとると、
松下大三郎博士の文法では全體を長い一語とする。山田孝雄博士の文法では、行カセタ+カラと切り二
語とする。時枝誠記博士の文法では、行カセ+タ+カラと切り、文部省文法では、――これは大槻(文
彦)文法であるが、ここでは、行カセ+タ+カラと切る。
誰もが文法は大切だと主張しながら、博士によつて國文法の基礎に据ゑられるべき文節がこれほどに違ふのです。このことは言語學者である町田健氏も前々から具體的に指摘してゐますが、さうではあつても、橋本文法を越える新規の國文法體系が學校で使はれてゐるとは聞いてゐません。
筆者とてとても體系化はできないとわかつてゐますが、基本的な考へ方は次の通りです。
「文は、体(體)相用の語の塊から構成される」
(語の塊はチャンクのことで、「〜句」にあたります)
とするものです。この「体相用」といふのは、古代印度人の思辨から出てきたことで、佛教用語になつてゐますが、古代ギリシャでもカテゴリーとしてこのやうな存在を分類してゐます。
《体》は本体・實體・質量、
《相》は形・状態・形相、
《用》は作用・目的
と譯せるもので、思ひ返せば今の文法で品詞名に「体言」とか「用言」と命名したのはこの考へから來てゐることは間違ひありません。「文型」もここから生れます。
更に反芻すれば、江戸時代中期の國學者富士谷成章がかなり近代的な文法を發想をしてゐます。個人の記憶による言語と、その個人の社會に共通な單語や文法があるとするあたり、ソシュールの提案した概念、パロールとラングの先驅とさへ言へさうです。萬葉集、古今集などを通時的に觀察し、共時的分析もあつて、「天地(あめつち)の言靈は理(ことわり)を持ちて靜かに立てり」といふあたり、前代の僧契沖と似た基本姿勢です。本居宣長や上田秋成と同時代人で、その著書『あゆひ抄』のある版では與謝蕪村が序文を書いてゐるさうです。
冒頭の「大旨 上」に「名をもて物をことわり、裝をもて事を定め、插頭・脚結をもて言葉を助く」とあります。
《名》は名詞・名稱のことであり、
《裝》(よそひ)は用言、
《插頭》(かざし)は、「代名詞・副詞・接續詞・感動詞・接頭語」に當り、
《脚結》(あゆひ)は、「助動詞・助詞・接尾語」にあたるとされてゐます。
和歌のための文法を目指してゐましたので、脚結が獨立してをり、その中で和歌では省かれやすい[に][を][は]を付けて理解しろとあります。チャンクとして必要であることを意識はしてゐたやうで、この脚結を除けば、「体・相・用」のチャンクとなつてゐます。
何より用語の命名が和語そのものであることがみごとです。「裝」は整つた衣裳、「插頭」は髮や冠に插した飾り、「脚結」は袴の上から膝下に紐で結んだ飾りで、論理的な概念に、情緒的なイメイジ語をあててゐるのです。
我々人間は、鳥の鳴き聲に人間竝の意味をみつけようとします。杜鵑(ほととぎす)の何か訴へるやうな甲高い聲を昔の人は「てつぺんかけたか」と聞き取り、現代では口眞似で「東京特許許可局」と表現します。人間なりに意識的にチャンクを見つけ、意味を付與するのです。その好例が鶯ではないでせうか。「法・法華經」の最初の「法」は息を吸ひながらの音ださうで、後の「法華經」で息を吐きます。いづれにせよ、鳥は鳥で鳴き聲のチャンクを意識的に見つけ、意味を付與して自分のものにします。自然に切れ目がわかるわけではない所が言語の言語たる所以です。

posted by 國語問題協議會 at 15:51| Comment(0) | 中谷信男
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