2017年04月05日

歴史的假名遣事始め (二十八) 市川 浩

クイズで遊ぶ歴史的假名遣(二十八)

先月のクイズ解答
問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

歴史的仮名遣と現代人
歴史的仮名遣を守ったひとたちは、大きく二のタイプに分けられる。一つは、染み付いてしまった習慣をいまさら変えられないというひとたちである。(中略)
もう一つは、現代仮名遣よりも歴史的仮名遣のほうが優れていると確信しているひとたち、あるいはなんとなくそう思っているひとたちである。(中略)かれらの確信の最大の根拠は何かといえば、それは学問的合理性である。(以下略)
学問的合理性は規範の必要条件か
「歴史的仮名遣には学問的合理性があった」と言うのは、わたしではない。歴史的仮名遣のほうが現代仮名遣より優れていると信しているひとたちが、そう言うのである。
はたして、そうだろうか。
(「かなづかい入門」10〜11頁)

この主張に對する反論の一例を擧げます。

「かなづかい入門」の著者は文部科學省主任教科書調査官であり、同省の基本的考へ方を示すものとして暫く之を題材に考察したいと思ひます。
議論には論理的に整合性が必要なことは言ふまでもありませんが、そこで扱ふ「概念」に就いて正確な定義を共有することが先づ大切です。茲で問題になるのは最初に「歴史的假名遣を守つた人」と日本人を歴史的假名遣を支持する人(以下正かな派)と現代假名遣を支持する人(以下新かな派)とに分類してゐることです。分類の基本となる定義も判然としない儘正かな派を二種の分類に進んでゐますが、その一つは「染み付いてしまった習慣をいまさら変えられないというひとたち」と新かな派にも當嵌まる定義で、「絶滅寸前」と斬り捨て、もう一つの類は「歴史的仮名遣には学問的合理性あったと言つてゐる」と最初から結論ありきの定義で論を出發させてゐます。「學問的合理性」に就いては次囘に敍べたいと思ひますが、事實として例へば、福田恆存先生の「私の國語教室」を讀んで正かな派となつたと言ふ方を私は多く知つてゐます。現代假名遣を主張するなら、先づ同書のいふ正かな論への批判から出發すべきなのに、本書では參考文獻にもその書名は見當りません。
私たちの新かな批判に於ても、「新かな派」などの最初の概念定義には十分注意しなければなりません。

練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

歴史的仮名遣が学問の成果に拠っていることは(中略)認めるにやぶさかではない。だが歴的仮名遣いじたいが学問的合理的であるか(中略)は別問題であろう。換言すれば、現代仮名遣いにも学問的合理性を認める余地があるということである。
それになにより、仮名遣いを議論するときに、その優劣の判定に学問的合理性が必要なのか(中略)。誤解をおそれずにいえば、わたしは仮字遣に限らず、「規範」というものに学問的合理性や正確性は必ずしも必要とは考えない。(「かなづかい入門」11頁)
posted by 國語問題協議會 at 20:43| Comment(0) | 市川浩
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