2017年07月01日

歴史的假名遣事始め (三十一) 市川 浩

クイズで遊ぶ歴史的假名遣
先月のクイズ解答
問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

契冲仮名遣ははるかいにしえの人間との対話の道具であることに意味があるのであって、そもそも現実のコミュニケーションのためのものではなかつたのだ。
だが、歴史的仮名遣は、そんな現実生活と遊離した仮名遣の原理を受け継いで、現実生活の規範にさせられた。そこに無理があるのは言うまでもない。契冲仮名遣には古学という動機づけがあったが、日本人全員に課せられた歴史的仮名遣にはそれがない。にもかかわらず、契冲仮名遣とおなじ負担を強いられる。いや、それ以上の負担であった。(「かなづかい入門」111頁)

この主張に對する反論の一例を擧げます。

今囘も二つの問題點があります。第一に「契冲仮名遣ははるかいにしえの人間との対話の道具であることに意味があるのであって、」と契冲假名遣の道具としての性格を一方的に局限してしまつてゐる事です。「古の人との對話」が文化の傳承に如何に大切であるかに言及しなければ、「何だそんな道具なら要らない」と思はせてしまひます。第二には「契冲假名遣には古學といふ動機づけがあつたが、日本人全員に課せられた歴史的假名遣にはそれがない」と言ふのですが、さうでせうか。日本人が遙か古の文章に接することで祖先との一體感を培ふことは大きな意義があり、それを可能にしてゐるのが時代を超えて一貫してゐる表記、歴史的假名遣であり、我々がこれをを平生の表記として主張する理由も亦茲にあります。たゞ「契冲假名遣以上の負擔を強ひられる」ですが、實は之が歴史的假名遣批判の最大ポイントであり、これにこそ適切な對應が必要であります。詳細は別に讓るとして、茲で言ふ「契冲假名遣以上の負擔」とは宣長がその著「玉勝間」で弟子達が契冲の假名遣を正しく使用してゐないことを慨いてゐることを取上げ、その習得の困難性を主張してゐますが、文化として歴史的假名遣と言ふ時、社會全體による傳承が前提となり、その前提に立てば習得は容易であること、戰前、殆ど假名遣を系統的に學ぶことがない中で、獨りでに習得してゐた私自身の經驗があります。今思ふにそれは鐵道の驛名の假名表示(とうきやう、いうらくちやう、しながはなど)や書物のルビなどが效果的であつたことを思ひ出します。宣長の時代は未だ契冲假名遣初期のことでこのやうな「文化」としての道具立てが整つてゐなかつたと言へます。
練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

歴史的仮名遣のなかで生活していた時代のひとたちにとつて、この字音仮名遣ほど厄介なものはなかつた。国語仮名遣のほうは、もちろん紛らわしいものもおおいが、慣れてくれば感覚的に身につくところがある。ところが字音仮名遣はそうはいかない。日本人にとつて漢字は無数にある。その無数の漢字一字につき固有の漢字音があつて、固有の漢字音はさらに呉音・漢音・唐宋音・慣用音と数種類。これらの歴史的仮名遣の仮名のつかい分けをそらで覚えることなど、普通の日本人には不可能である。パターンがあつてパターンさえわかれば簡単というかもしれないが、パターンがわかるまで勉強すれば、とっくに漢字学者になっている。普通の人はそんなに暇人ではない。(「かなづかい入門」113頁)
posted by 國語問題協議會 at 20:54| Comment(0) | 市川浩
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