2017年09月10日

歴史的假名遣事始め (三十三) 市川 浩

クイズで遊ぶ歴史的假名遣(三十三)

先月のクイズ解答
問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

若い新仮名遣世代がふるい仮名遣の文章に違和感をもつことが、そんなに不都合なことなのだろうか。違和感をもつことこそが、自分たちの文化を相対化する第一歩ではないのか。そもそも文化とは違和感をもつことができる感性の持ち主によつて創造され、そして受け継がれてきた。定家は仮名表記の乱れに違和感を覚えた。契冲も万葉集の字面を見詰めているうち、従来の認識に違和感を覚えた。いづれも鈍感な人間のおよぶところではない。これを洒落たことばになおせば、インスピレーションという。古典学を支える思想、それは「現代と古代とは違う、われわれはいにしえ人とは断絶しているのだ」という強烈な発見から始り、またそういった発見におわるものではないだろうか。(「かなづかい入門」166頁)
出題者(注)本文は同書第七章國語審議會が昭和五十八年全委員に行つたアンケートの囘答中、「現代かなづかい」の得失の内、失として「一、「現代かなづかい」世代に舊假名遣で書かれた古典や戰前の文章に大きな違和感をもつやうになつた(同書162頁)」に對する著者の反論である。

この主張に對する反論の一例を擧げます。

ここでは出題者(注)に書きましたやうに、「現代かなづかい」による「失」を主張する論と、「得」を主張する著者との「違和感」の内容がかみ合つてゐないことが問題です。「失」とする論者は、「現代かなづかい」のみで育つた世代は、馴染のない歴史的假名遣で書いてある古典がまるで外國の書物であるかのやうに感じて、到底先祖の貽した貴重な文化遺産だとは感じられない、その感じを「違和感」と表現してゐるのに對して、後段で著者のいふ「違和感」は、古典研究に通じた定家、契冲が感じたであらう、當時世上一般の文字遣はこれでよいのだらうかといふ批判的な感懷を「違和感」としてゐます。後者の「違和感」で一貫させると、若い人が歴史的假名遣に接して、通行の「現代かなづかい」に疑問を感じたことになり、著者の主張とは正反對になりますが論理的には一貫します。前者の「違和感」とすると、定家、契冲の感じたそれではなくなり、「インスピレーション」論は論理的に破綻します。著者は無意識的に「違和感」の意味を別々のものとしたのでせうか。
なほ、著者は更に進んで
「「現代と古代とは違う、われわれはいにしえ人とは断絶しているのだ」という強烈な発見」こそが必要だと述べてゐます。これは戰後の教育を規定して來た教育基本法の「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」を忠實に表現してゐるのですが、此の法文は平成十八年(2006)年の改正により、「伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育」と、文化の世界一極化から文化の多樣性尊重を前提とすることになりました。本書の初版は2008年、即ち既に改正後です。原稿執筆が恐らく改正前であつたのでせう。しかし、現役の主任教科書調査官の著書としては改正を踏へる義務がありませう。

練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

現代仮名遣いでなければ口語文でないとか、歴史的仮名遣でなければ文語文とはいわない、というようなものではない。(中略)おなじ理屈で、文語文が現代仮名遣いで書かれたとしても、どこにも不都合はない。(中略)むしろ、われわれは文語文を現代音で読んでいるのだから、現代仮名遣いで表記する方が裡に理なっているかもしれない。(中略)
そもそも万葉集の歌には,仮名で表記できない音節があつた。仮名の誕生前に消滅した音節である。奈良時代の万葉集を歴史的仮名遣で表記するということは、平安時代初期の「
現代仮名遣い」で書いていることを意味する。ならば、二〇世紀の現代仮名遣をつかって万葉集を書いて、どこが間違っているというのか。(「かなづかい入門」1182〜183頁)
posted by 國語問題協議會 at 14:35| Comment(0) | 市川浩
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: