2018年11月05日

希臘數學における無限(T)(36)

 前回の最後に、古代希臘人たちは、「無限を有限以上に價値のあるもの」とは理解しなかつた、と述べておきましたが、今回から希臘數學における「無限」について少し考へてみたいと思ひます。
 結論を先に言つてしまへば、希臘數學は現在の私たちが學校數學を通して學んだ「極限」や「無限」を注意深く、意識的に忌避してゐる、あるいはまだそれらを發見(發明?)してゐない、といふことです。これはこれまで述べてきた古代希臘の無限思想の當然の歸結と言ふうべきですが、私たちは、このことを十分自覺しておく必要があります。なぜなら、さうでなければ、29回目で述べたやうに、ほとんど徒勞かつ無意味とも思はれる中世の神學論争が、「極限」やカントルの「超限順序數」といった“到達不可能な存在”の純化と實体化を可能にしてきた、といふ歴史的經緯とその必然性が理解できないからです。私が、時代錯誤的な神學論争を無意味とは考へてゐないゆゑんで、獨斷的に言へば私はここに「劇的なる人間精神」を見るのです。
 下村寅太郎は『無限論の形成と構造』の中で次のやうに語つてゐます。
  近世は無限を有限以上のものとして理解する。實際に近世のわれわれは、實在的にも價値的にも無限を有限以上のものと解することに慣れてゐる。むしろこれを自明としてゐる。しかしこれは近世的な一つの理解であつて、現に古代においては、ギリシャ人は逆に無限を有限以下のものとして理解した。彼らにおいては無限はάπειρονとして、限定されてゐないもの、限界のないものであり、したがつて、形態のないもの、「形相」すなわち本質のないものである。
 さらに彼は、希臘語においてάπειρονは、初めも終わりもないものやある部分を他の部分から區別する境界や端点を有しないものを表し、文獻學者コーンフォードを援用しながら、「無限な圓、無限な球」(ホメロス)、「無限な指輪(=繼目のない丸い指輪)」(アリストファネス)、「無限な仲間(=祭壇の周りに丸く並んだ婦人たち)」(アイスキュロス)、「無限な生地(=縫目のない下着)」(エウリピデス)といふ言い方を紹介してゐます。いずれにせよ、これまで述べてきた「古代希臘の無限思想」を想起すれば、下村の言説は容易に納得できるかと思はれますが、それにしても私にとつて眞の問題は、「では、なぜ近世が無限を有限以上に理解するようになったのか」といふ問ひです。いづれこの連載で、この問ひを考へていきたいと思ひますが、先を急ぐのはやめませう。
 先ほど、希臘數學は注意深く「無限」を避けてゐる、と述べましたが、その最も典型的な例が、ユークリッド(前330年頃〜前275年頃)の『原論(ΣΤΟΙΧΙΑ)』の中に見られる有名な「平行線の公理(第5公理)」です。中學の幾何では、普通2本の平行な2直線は無限に延長しても交點(てん)を持たない
といふ風に教はりますが、實はユークリッドはこのやうな言ひ方をしてゐません。彼は、1直線が2直線に交わり同じ側の内角の和を2直角より小さくするならば、この2直
 線は限りなく延長されると、2直角より小さい角のある側において交わる
と述べてゐます。
20181105.jpg
すなわち、上図で「a+b<180°ならば、左側において2直線は交わる」と要請してゐるのです。「交点を持たない」ではなく有限な地点で「交点持つ」といふ表現で平行概念を述べてゐる點が注目すべきところです。さらに、「限りなく延長される」といふ言ひ方は、近世的な「無限延長」を意味してゐるのではなく、「限定されることなくどんどんと伸ばしていく」といふ意味であり、さうすると「限界付けられた有限な地点」において「交点をもつ」とユークリッドは主張してゐるのです。現代人の私たちからすると、かなり回りくどい表現ですが、むしろここに希臘數學の無限思想を讀みとることができるのです。
(河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 21:11| Comment(0) | 河田直樹
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