2019年07月07日

數學における言語(49)遠近法の精神的構造

 Ivinsが『Art & Geometry』で提起してゐるのは「數學的論理と無限遠點(神)への信仰」といふ問題でもあると私は考へてゐますが、これを分かりやすく圖式化すると、

  [ユークリッド幾何]:[遠近法]=[論理]:[無限遠點]

といふ比例式になります。現代人にとつてはほとんど無意味と感じられる中世の神學論爭も、私にとつては“[論理]:[無限遠點]”の問題であり、それは單に「キリスト教」の問題ではなく、時代を超えた普遍的な問題だと思はれます。

 私は、あのゴルゴダの丘で十字架にかけられたイエスが「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになつたのですか)」といふ問ひを問ふことから原始キリスト教が始まつたと考へてゐますが、ユダヤ教から出發したキリスト教にはさまざまな異端が生まれてゐます。その最大の一派が「グノーシス(希臘語で知識)派」で、キリスト教の教義を希臘哲學によつて確立しようとした人々(パシレイデスやヴァレンティノス)でした。私がこの派に興味を持つのは、彼らが「神の子キリストが受肉したことを否定」し、イエス(肉体)とキリスト(精神)とを明確に區別してゐるといふ點です。私はここに希臘哲學と結びついたグノーシス派の深い宗教的な智慧を感じるのです。

 「異端」ではありませんが、原始キリスト教に立ちはだかつた者としてネオ・プラト二ストのプロティノスにも大いに關心をそそられます。彼はプラトンの教説をさらに神秘化しましたが、プロティノスの哲學は、“[論理]:[無限遠點]”の問題を實に切實な形で提示してゐるやうに思はれます。彼が“太陽”に譬へた「一者」は超越界に君臨する無限遠點(神)であり、そこから絶えず發せられる光が「萬物」を生み出すといふ圖式は、思考の遠近法に他なりません。Ivinsがプロティノスに言及する所以ですが、プロティノスについては次回から少し論じてみたいと思つてゐます。

 東京藝大教授の辻茂氏は『遠近法の發見』(現代企畫室)といふ本の「あとがき」で、「遠近法は、頭を突つ込めば突つ込むほどに問題は擴大してゆく」とお書きになり、次のやうに記されてゐます。

無限の空間を、限られた一枚の紙の上に表さうといふ、深い奥行と丸い廣がりのある世界を平面に移さうといふ、おそらく永遠に解決をみない、つまり不可能なことを行はうとするのですから、これはおいそれと結論が出ることではありません。(中略)畫家はその制作を通して、そして數學者は、數學を通して、それぞれにのめり込んだまま、眞に美術的であると同時に理論的な解答は、先送りになつたままであり續けたといふことなのでせう。(太字河田)


 小學1、2年生の頃、「遠近法」によつて描かれた上級生の繪を見て、ひどく感動した記憶があります。“無限の空間”が平面に見事に移されてゐるのは、幼い私には驚きでした。また、ルネッサンス期の西洋の画家たちの「遠近法」で描かれた繪のほとんどが、キリストにまつはるものであることも、中學生の私には不思議でした。あの有名なダビンチの『最後の晩餐』のみならず、辻氏の『遠近法の發見』で紹介されてゐる28作品はすべてキリスト教にまつはるものです。たとへば、マザッチョの『三位一體』、ピエロ・デラ・フランチェスカの『キリストの笞打ち』、ロレンツォ・ディ・ニッコロの『聖母子と聖者たち』といつた具合です。

 ルネッサンス期の繪畫に宗教的テーマが多いのは、その時代背景を考へれば一應納得できますが、では、なぜそれを「遠近法」で描かなければならなかつたのか?それは、宗教とは獨立に遠近法がすでに確立されてゐたからではなく、むしろ遠近法は神を觀ようとする眼が生み出したと言ふべきかもしれません。それは、vanishing point(無限遠點=神)を觀ようといふ不可能を渇仰する神學の賜物だと私には感じられます。誤解を恐れずに言へば、グノシス派やプロティノスの哲學こそが「遠近法」や「射影幾何學」を創出したのです。(河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 19:30| Comment(0) | 河田直樹
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