2019年12月25日

數學における言語(52)プロティノス(V)

 「太陽といふ言葉は、なにか特殊な限定をつける形容詞をほとんど伴つてゐない」−これは『わがひとに與ふる哀歌』の「太陽」について、菅野昭正氏が伊東静雄論「曠野の歌」で述べられてゐる言葉です。私はこの論文を1979年に出た「現代詩讀本10伊東静雄」(思潮社)ではじめて讀みましたが、この評論は實は1964年、菅野氏33歳のときに「現代詩手帖」に書かれたものです。ちなみに、「讀本」には大岡信、桶谷秀昭、饗庭孝男、粟津則雄、江藤淳、保田與重郎、桑原武夫、小高根二郎、萩原朔太郎、佐藤春夫、三好達治、三島由紀夫といつた人たちの静雄論が掲載されてゐますが、私に最も勁い印象を與へたのは菅野氏の論文でした。理由は簡單です。菅野氏以外の伊東論は日本浪漫派やドイツ・ロマン主義に關聯させたもの(伊東がリルケやヘルダーリンなどに傾倒してゐたのでこれは當り前のことだが)で、菅野氏ただ一人が「古代ギリシア」の宇宙觀に言及してゐたからです。自費出版詩集『夏至の趾』の伊東論で、私は次のやうに書いてゐます。
     如かない 人氣ない山に上り
     切に希はれた太陽をして
     殆ど死した湖の一面に遍照さするのに
            「わがひとに與ふる哀歌」
  私はこの詩句の「烈しい美しさ」にひどく打たれた。「遍照さ」れた「殆ど死した湖の一面」に十八歳の私は、何ものをも反射させ夢想することができた。「未知の天體の風景」とも、「劫初の烈しい寂寥」とも、「地球最後の正午」とも、或は「無神論者の狂氣に似た祈り」とも。この死にも近い完璧な晴れやかさは、私がずうつと昔に、私の幼年時代以前に確かに置き忘れてきたものに相違ない。伊東静雄のこの詩句は、「私も過去のある日、あの殆ど死した湖を見たことがある」と錯覺せしめたほどである。
 ここには、少年時代から心酔してきた「古代ギリシアの數理哲學」を通して觀ようとしてゐた「世界のプロトタイプ」への私自身の露骨な憧憬が反映されてゐます。伊東と古代ギリシアが直結するのは、私にとつては自然な成り行きであり、静雄の「太陽」とは、私にとつてはまたプロティノスの「太陽」なのです。
 その昔貪るように讀んだ菅野氏の論文には、その至るところに傍線が引いてありますが、この論文はまた、プロティノスの「太陽」論とも讀むことができます。おそらく以下の少々長い引用を讀んで頂ければ、それを納得して頂けるのではないかと思ひます。
 ・詩集『わがひとに與ふる哀歌』の太陽が、詩語として稀有の質量を獲得することが可能になつたのは、おそらく、それがつねに宇宙の根源として捉へられてゐたからである。たしかに、この太陽はいつも同じ位置を保つてゐる。それはある特殊的、偶発的な形態において見つめられることもなければ、一回限りのつかのまに消えてゆく形相を示すものとして眺められることもなく、たえず唯一の源泉に歸つていく同一的な回歸性のなかを循環してゐるのである。
 ・伊東静雄が歌つてゐるのは、ある日ある時に彼が眺めた太陽ではなく、太陽といふものの純粹形態なのだと言つても差しつかへないはずである。
 ・古代ギリシャ人の信じた宇宙の構成要素が貧しいのと同じやうに伊東静雄のそれもすこぶる貧しい。しかし、各々の言葉が貧しさのなかに豊かさを同居させてゐるのと同じやうに、この構成要素の貧しさのなかにも、それと密接に溶けあつた形で、じつに濃密な豊かさが息づいてゐる。
 「伊東静雄」を「プロティノス」に、『わがひとに與ふる哀歌』を『エンネアデス』に置き換へて讀んでゐただきたい。鮮やかなプロティノス像が浮かび上がつてくるはずです。次回も、菅野氏の論文を觸媒にして、伊東とプロティノスを考へてみます。 (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 19:30| Comment(0) | 河田直樹
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: