2020年02月20日

數學における言語(54) プロティノス(W)

 菅野氏は、佛蘭西の女流批評家クローディヌ・ショネ夫人の「ランボーいらいのフランス詩の光榮は、詩が形而上的世界の認識の手段であることを、高らかに宣言したことにある」といふ言葉を取り上げて、「サンボリスムの果たした役割」をこれほどみごとに捉へた適評を他に知らないとお書きになつてゐます。もつとも氏は「ランボーいらい」ではなく「ボードレールいらい」と言ふべきであつたと指摘されてゐますが、いづれにせよ「詩が形而上的世界の認識手段」といふ發想は、生意氣なことを言へば私自身比較的早くから抱いてゐた考へで、その結果として43囘目で紹介した例の下手糞な詩を書いたといふわけです。

・サンボリスムの詩人たちが詩作品のなかになにを捕捉したいと願つてゐたかを彼女は正確に見ぬいてゐた。日常的な生の中核に位置してゐる、しかもそれと連續しつつ同時にまた非連續でもある世界―眼に見えぬものであり、たえずわれわれの認識の網の目を逃れていく世界―内部と外部がひとつに溶けあふ存在の奧底にある世界―(中略)サンボリスムの詩人たちはかうした世界を捕捉することにいつさいの努力を傾注してゐた。

 伊東靜雄の詩もまた、そのやうな世界の補足を目論んで始められた「孤獨な彷徨者の歌」であり、「眼に見えぬ不在の實在、到達不可能な地點にのみ實在する虚點」なのです。『わがひとに與ふる哀歌』が「異樣な屈折の調べを孕まざるを得ない」のも當然なのかもしれません。

太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
(「わがひとに與ふる哀歌」)


とは、一體どういふことか?プロティノスは面白いこと言つてゐます。「自分自身より先なるものの方を注視することによつて、魂は思惟し、自分に視線を向けることによつて、自分自身を保全する」と。伊東もまた、自分の外界にある彼方の太陽を注視することで「太陽は美しく輝き」と詠ひ、しかしその同じ視線を自身の内部に反轉させることで、「あるひは」以下の「希ひ」が生まれたと言ふべきでせう。そして彼はさうすることによつてわづかに自身の精神の均衡を保ち得たのであり、なればこそ、「手をかたくくみあはせ\しづかに私たちは歩いて行」き、靜雄は「私たちの内の\誘はるる清らかさ」を信じ得たのです。そのやうな者、つまり太陽(一者)との脱我的合一を果たした者たちにとつて、日光の中に忍びこんでゐる空虚を歴然と見分ける目の發明」は、もはや無意味なのです。プロティノスも、「一者は思惟しない」(『資料』157頁)と、いささかまはりくどい口調で述べてゐます。
20200220.jpg ここまで、私は伊東靜雄の詩を援用しながら、實はプロティノスの哲學について語つてきました。本意ではありませんが、ここでプロティノスの世界解釋を單純に圖式化してみると、右圖のやうになります。言ふまでもなく、善惡の位階を考へると、上位に位置するものほど善であり、下降するにつれて惡の量が増加していきます。すでに述べたやうに、プロティノスは、人間は「かのもの=一者」を志向して生きるべきだ、と語るわけですが、「わがひとに與ふる哀歌」に代表される伊東靜雄の前期の作品も、最高善である「かのもの=太陽」を渇仰する一種のプラトニスムに裏打ちされた形而上詩でした。ただ、詩人である靜雄は、プロティノスのやうにある高みから「生きるべきだ」などとは語りません。むしろ、その詩は伊東自身が語つたやうに「意識の暗K部との必死の格鬪」から生まれたもので、それはいはば、プロティノスが「惡」の分有量の最も多いと考へた魂と身體から發せられた言葉でした。 (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 07:00| Comment(0) | 河田直樹
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