2020年03月20日

數學における言語(56) 伊東靜雄(U)

 第三詩集『春のいいそぎ』には、「春の雪」のみならず、若い私が愛誦した詩がいくつも入つてゐます。
・去年(こぞ)の朽葉は春の水ふくるる川に浮びて\いまかろき黄金(きん)のごとからむ(「なかぞらのいづこより」)
・おれは書かれたものをまへにして\不意にそれとはまるで異樣な   \一種前生のおもひと\かすかな暈ひをともなふ吐氣とで\蝉をきいてゐた(「庭の蝉」)
・哀しみの\熟れゆくさまは\酸き木の實\甘くかもされて 照るに似たらん\われ秋の太陽に謝す(「百千の」)
・名をいへと汝はせがめど\いかにせむ\ちちは知らざり\すべなしや\わが子よ さなりこは\しろ花 黄い花とぞいふ\そをききて點頭(うなづ)ける\をさなきものの\あはれなるこころ足らひは(「春淺き」)
・そんなことはみなどうでもよいのだつた\ただある壯大なものが徐(しづ)かに傾いてゐるのであつた\そしてときどき吹きつける砂が脚に痛かつた(「夏の終」)
  
 前囘述べたやうに私は、菅野氏の言ふ「轉身後の痛ましい、日常の現實的、個別的なもののなか」に頽落(Verfallen)してゆく中期以降の靜雄詩を「無慘」だなどと感じたことは一度たりともありません。實際、「伊東靜雄私論」で、「少なくとも二十二歳の私にとつては、伊東靜雄は何か重大な意味を持つてゐる」と述べ、さらに「この詩人の詩語は、確實に、無類の美しさと氣品と重みとをちやんと備へてゐるのである。それがよし、平凡な家庭的な詩を書くのに遣はれたにせよ、『春淺き』の如き何とも傷ましい、温かい愛情がその極限に至つて透明な紫水晶に變ずるかのやうな詩になつてゐるのである」と書いてゐます。若い私は、その典雅な詩語に完全にイカレてゐたのです。
 ところで、『定本伊東靜雄全集 全一卷』(人文書院)では、『春のいそぎ』の「自序」を讀むことができて、詩集のタイトルが、伴林光平といふ人の「たが宿の春のいそぎかすみ賣の重荷に添へし梅の一枝」といふ一首に觸發されたことが語られてゐます。さらに「この小集の出版は、桑原武夫・下村寅太郎兩氏の懇な斡旋があつて出來たのである」とあります。唐突ですが、私は思はぬところに「下村寅太郎」の名前を發見して嬉しくなつた記憶があります。彼の『無限論の形成と構造』を讀んで以來、下村氏は私が最も親近感を抱いた數理哲學者であつたからです。
ともあれ、伊東の詩的關心は後期になれば確かに、下降志向が見られます。それは菅野氏の指摘される通りで、昭和二十二年、伊東41歳の最後の詩集『反響』には、「都會の慰め」といふ詩があり、次のやうな詩句がその證左になるかもしれません。「誰にも邪魔されずに暗い映畫館の椅子\じつと畫面に見入つてゐる女學生や受驗生たち(中略)いぢらしい横顏 後姿\からだを資本(もとで)の女達もまたはいつてくる」。
「からだを資本の女達」も登場するこの詩は、戰後の日本の一風景を描冩したもので、伊東の視線は「息苦しい稀薄な曠野」から「映畫館の微温的暗闇」へ移つてゐます。それは、抽象(一般)から具象(個別)への關心の變化ですが、實はこの頃から伊東は體調に異變を覺えるやうになります。それは、彼の身體自體の稀薄化であり、それに伴つて彼の視線は表面的にはより強く現實の具體的個物へ向けられていきます。ちやうどこの頃、清水文雄に書き送つた手紙には「これからは『觀る』生活をつづけようと思ひます。そして詩は譬喩だと思ふやうになりました」(小高根二郎『詩人伊東靜雄』)とありますが、「觀る(theoria)」も「譬喩(analogy)」もプラトンやプロティノスの重要な「哲學的方法」でもありました。伊東もまた病を得て自身の「詩作の方法」を明確に自覺したのであり、私には『反響』の「夕映」は、その結實であるやうに思はれます。さうであれば、詩的對象自體の下降志向をもつて詩精神の下降と斷定するわけにはいかないのです。   (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 18:20| Comment(0) | 河田直樹
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