2021年02月20日

數學における言語(65) 戰後と私の心象風景(X)

 前󠄁囘の最後に『小說家の休暇』の三島由紀夫の言葉を紹介しましたが、彼は、『作家論』の「森鷗外」で、「いつの時代にも、英雄的󠄁な花󠄁々しい積極的󠄁な行動拐~と見えるもののうちに、時代に對して臆病な卑怯者の心が隱れてゐることがあり、鷗外は少くとも、さういふ卑怯者ではなかつた」と記してゐます。これは昭和40年頃書かれたものですが、「英雄的󠄁な花󠄁々しい積極的󠄁な行動」によつて自決した三島は、殘念ながら「鷗外」ではありませんでした。しかし、同じ昭和40年頃のエッセイ「『われら』からの遁走」には、彼の晩年の行動を豫感させる次󠄁のやうな記述󠄁も見られます。すなはち、「『釣󠄁狐』といふ哀切な狂言は、分別ある老狐が穽と知りつつ、穽の好餌の誘惑と全󠄁力的󠄁に戰つてつひに負ける怖ろしい物語だが、これが若い狐の話だつたら、お話は實につまらなくなるだらう。(中略)知識が事物の誘惑力を減殺するどころかむしろそれを強め、結果の無效と敗北の認󠄁識が、行爲の誘惑をますます甘いものにするといふことを知つてゐた」。割󠄀腹した三島は、「結果の無效と敗北の認󠄁識」によつて、陷穽にはまる「老狐」になつていつたのかもしれません、良し惡しは措くとして、彼の行爲は、私にはさまざまな意󠄁味で、いかにも“日本的󠄁なあはれ”を呼び覺ますものにも感じられます。
 「斷乎として相對主󠄁義に踏み止まらねばならぬ」と書いた30歲の三島が、45歲で「幸bネ狂信」とも受󠄁け取られかねない「英雄的󠄁な花󠄁々しい」舉に出たのは、どうしてなのか、sc恆存は三島自決後「分からない、わからない、私には永遠󠄁に分からない」と語つてゐますが、私もその「行爲」をどのやうに理解していいのか分かりません。
 これに關して、私には、三島31歲のときの作品『金閣寺』の主󠄁人公とあの(ない)(ほん)(そく)の柏木との「認󠄁識と行爲」にまつはる議論が、ずつと心に引つかかつてゐました。「世界を變貌させるものは、認󠄁識か行爲か?」といふ問題です。第八章のこの箇所󠄁を讀んだとき、何よりも「認󠄁識の學」である數學が好きだつた高校󠄁生の私は、「認󠄁識こそ世界を變貌させる」と柏木に軍配を上げ、第十章の「してみると私の永い周󠄀到な準備は、ひとへに、行爲をしなくてもよい(・・・・・・・・・・)といふ最後の認󠄁識のためではなかつたか」と語る主󠄁人公が、なぜ金閣に放火(=行爲)したのか、を訝しく思つたものです。また、私は「變貌」といふ言葉にも拘つてゐました。「變貌」とはいかにも三島的󠄁な言葉遣󠄁ひですが、「貌」には「外觀、表面、うわべ」といふ意󠄁味もあり、數學においては「認󠄁識」こそ、たとへば「點」といふものの「貌象」すなはち「樣相」を變へることを、解析幾何學を通󠄁して、高校生の私は實感してゐたからです。數學では、「無限も絶對」も間違󠄂ひなく「認󠄁識」の結果だと、私は考へてゐました。
 しかし、三島のあの最期を考へると、彼は「認󠄁識」によつて「永遠󠄁無窮の絶對」に到逹󠄁することは不可能であり、「世界(あるいは自分?)を變貌させる」のは「行爲」だと確信してゐたに違󠄂ひありません。三島は、金閣寺の主󠄁人公に「今や行爲は私にとつては一種の剩餘物に過󠄁ぎぬ。(中略)その行爲と私とは、まるで緣もゆかりもないかのやうだ。ここまでが私であつて、それから先は私ではないのだ。…何故私は敢て私でなくならうとするのか。(太字河田)」と語らせてゐます。
 引用の最後の部分に關聯して思ひ出されるのが、三島が晩年親炙したと言はれるあの大鹽平󠄁八カの「歸大虛」といふ言葉です。私には「大虛」について語る資󠄁格はありませんが、それは「無私や善でさへも志向しない、內も外もない空の空」とも言ふべきものかもしれません。
 山口大學ヘ授󠄁の豐澤一氏は「大塩中斎の『帰大虚』をめぐって」といふ論文で、「中斎は、自らの決起の不利であること、成算のないことを十分知っていたはずである。また、大虚に帰したという確証もなかったのではなかろうか。にもかかわらず、それだからこそ起たざるを得なかったのだ、というのが本項筆者の推測である」と記されてゐますが、三島の決起󠄁は、松陰の顰に倣つた、成󠄁算のない彼の止むにやまれぬ「大和魂の狂狷」だつたのかもしれません。   (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 06:00| Comment(0) | 河田直樹
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