恆存はこの論文で、シドニー・フックとラッセルの論爭を取り上げ、フックの反論の、次󠄁のやうな最後の言葉を紹介してゐます。
「死せるライオンより生ける山犬の方がましだ」と言ふ。それは山犬にはましかもしれぬが、人間にとつてはましではない。人間として生き、もし必要󠄁とあれば人間として死ぬ用意󠄁のある者は、自由な人間として生殘り、山犬やライオンの兩方の運󠄁命を避󠄁けられる見透󠄁しをもつてゐる。
これに對して恆存は、二人の對立を「自由より平󠄁和を(死よりは赤を)」(ラッセル)と「平󠄁和より自由を(赤よりは死を)」(フック)と標語化󠄁してみせ、しかしこの問題をさう簡單に割󠄀り切つていいものかと疑問を呈󠄁しながらも、フックの標語は「覺悟の表現」であるのに對して、ラッセルのそれは「飽󠄁くまでも現實に卽した論理的󠄁歸結であつて、現實を變へようとする覺悟に關はるものではない」と述󠄁べてゐます。私はこの的󠄁確な指摘を、“理”の原理原則を重視した「朱子學(林羅山、山崎闇齋)」に對する、實踐を重んじた「古學(伊藤󠄁仁齋、荻生徂徠)」からの批判󠄁のやうにも感じられます。よく知られてゐるやうに、尊󠄁王攘夷思想に基づく御一新の原動力になつたのは、水戶學に代表される「古學」でした。
恆存はラッセルの“朱子學(合理主󠄁義)”を、「嫉妬や憎惡や利己心などの小惡魔󠄁が顏負けするやうな大惡魔󠄁」と皮肉り、その大惡魔󠄁は「常に~との支配權を爭ひ、~に屈從してゐた小惡魔󠄁を片端から自己の從屬化󠄁に繰入れようとして荒󠄁れ狂ふ」と述󠄁べてゐます。そして「その方法論が科學的󠄁リアリズム、『なしくづしの論理化󠄁』にほかならない」と指摘します。まつたくその通󠄁りで、ラッセルの「合理主󠄁義」には、朱子學の堅固な「理」に裏打ちされた「本然の性」への樂天的󠄁な(私流に言へば“非論理的󠄁”な)過󠄁信が根底にあり、したがつて、ラッセルの自由は單に平󠄁板な「實現する自由」であつて、「欲する自由」ではありません。何のことはない、私が言ひたいのは、人間にはそもそも自由など無く、その自覺に逹󠄁した時のみ自由を獲得する、といふことです。ラッセルは1934年にアリバイ作りのやうに「なぜ私は共產主󠄁義者でないか」といふ論文を發表してゐますが、「自由より平󠄁和を(死よりは赤を)」は、實は彼の無自覺な全󠄁體主󠄁義への陷穽と言ふべきでせう。恆存は書いてゐます。
全󠄁體主󠄁義の原理はかうである。自由の現物化󠄁を實現するためには、可能性だけの自由は否定されねばならない。(中略)何が本當の自由であるかどうかは政府だけが知つてゐる。政治的󠄁正義、政治的󠄁眞理を知つてゐるのは政府だけである。そればかりではない。國民や人類の未來について、何が眞で何が善であるかを知つてゐるのも共產主󠄁義政府だけである。
ラッセルは、第一次󠄁大戰中の反戰氣分󠄁から自由人D・H・ロレンスに近󠄁づいたさうですが、彼等の交友は一年餘りしか續かなかつたやうです。また、かつては師弟關係にあつたあのヴィトゲンシュタインとも第二次󠄁世界大戰後に決定的󠄁に袂を分かちます。さもありなむ、ヴィトゲンシュタインは生涯、眞に自由な立場から「人間の救ひのなさ」を直視し續けた言語哲學者でした。この二人のラッセルからの離反は、一體何を意󠄁味してゐるのでせうか。それは「物の原理に拐~を委ねた」ラッセルへの手嚴しい批判󠄁のやうにも思はれます。 (河田直樹・かはたなほき)