2022年01月08日

數學における言語(74) 中世~學論爭と數學への序曲−言葉の問題(T)

 前󠄁囘まで“ハビアン”なる人物を通󠄁して少しく“日本ヘ”なるものについて考へてきましたが、その“日本ヘ”なるものの中で無自覺に育つてきた私の如き人間が、なぜ“~學論爭”に興味を抱󠄁いてゐるか、これについては、すでに第67囘目のブログでお話しました。しかし、その“論爭”は言ふまでもなく“言葉”によつてなされるものであり、“日本語”で育つてゐる私自身、例へば“契約󠄁槪念”がどれほど理解できてゐるかは怪しいものです。したがつて、ここでいま一度“日本語”について省みておき、“言葉”に對する彼我の違󠄂ひについて考へておくことも無意󠄁味ではないと感じてゐます。
 昭和45年(1970年)5月、『日本人とユダヤ人』といふ、全󠄁部で15章からなる二百頁そこそこの本が出版されました。著者は“イザヤ・ベンダサン(實は山本七平󠄁)”といふ“ユダヤ人”で、この本はたちまちベストセラーになり、高校生の私も浮󠄁薄な知的󠄁虛榮心から讀み始めました。當時、私がその內容をどの程󠄁度理解したかは怪しいものですが、しかし強い關心を持つて讀んだところが何箇所󠄁かあります。たとへば7番目の章「日本教徒・ユダヤ教徒」には、「『はじめに言外あり、言外は言葉と共にあり、言葉は言外なりき』であり、これが日本教『ヨハネ福音書』の冒頭」とあり、その後に次󠄁のやうな記述󠄁が見られます。
 あなたの生きて来た世界がユークリッドの世界だと仮定したら、日本教の世界は非ユークリッドの世界である。ユークリッドの定理を非ユークリッドの世界にあてはめて、世にも奇妙な証明をやってみたところで、それは非ユークリッドの世界に住む人間にとっては、ただただ滑稽で無意味なだけだ……

 15歲當時(1968年)の私は、スティーブン・F・バーカー著/赤攝也・譯『数学の哲学』(培風館)を通󠄁して、“ユークリッド幾何學と非ユークリッド幾何學”の認󠄁識問題を徹底的󠄁に考へてゐたので、上の引用に對して、なるほどと感じつつも一方で山本氏の比喩は本當に適󠄁切なのか、とも思つたものです。といふのも、『数学の哲学』“3章非ユークリッド幾何学”の以下のやうな言葉が、私の頭にこびり附いてゐたからです。
 ひとびとは、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学とは互に矛盾するものであり、したがって双方がともに正しいということはあり得ないと考えている。これは誤りである。そういう考えにとらわれている人々は、幾何学の公準(公理)というものは、それらがなんらかの特殊な方法で解釈されたときにはじめて真であり得たり偽であり得たりするのだ、ということに全く気付かない;かれらは、ある一団の純粋な、解釈されていない公準は真でもなければ偽でもない、ということに全く気づかないのである。

 宗ヘは人の生き死に關はるもので、その“公準”はある意󠄁味では絶對的󠄁な“眞”ですが、數學においては上の指摘のやうにさうではありません。とは言へ、日本ヘとユダヤヘの違󠄂ひを明確に認󠄁識するには分かりやすい譬へかもしれません。
 我々の空間をどのやうに解釋するか、これはなかなか厄介な問題で、スティーブン氏は第3章の最後で、「この選択の問題は、思想史上繰り返し起こった種類の、重大な言語学的選択の問題である。(中略)それは単なる真偽についての経験的問題でもなく、単なる字義上の疑問でもない」と述󠄁べられてゐます。
 ともあれ、私は「日本ヘの根本理念を形成󠄁する『人間』なるものの定義が、すべて言葉によらず、言外でなされてゐる」といふ言葉に接して、“言葉”に對する西洋人と日本人との違󠄂ひを痛感し、日本になぜ“數理哲學”が生まれなかつたのかを納󠄁得した氣分になつたものです。「日本人は、最も大切なことは、言葉によらず、言外による」といふ山本氏の指摘は、言葉の嚴密な定義のみに依據して論理を組み立てていくことに淫して數學少年にとつて、衝擊的󠄁なことでした。そもそも日本人にとつて“言葉”とは何だつたのでせうか? (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 23:20| Comment(0) | 河田直樹
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: