2022年08月22日

國語のこゝろ(18)「『現代語の發音󠄁から古語の發音󠄁に戾す』のではない」/押井コ馬

【今回の要󠄁約󠄁】
@假名遣󠄁とは「同じ音󠄁を表す複數の假名を、語によつて使ひ分ける決まり」の事です
A歷史的󠄁かなづかひは「語源主󠄁義」、現代仮名遣いは「表音󠄁主󠄁義」を原則とする表記です
B古典の表記を觀察しながら理想の表記に近󠄁附くのが「歷史的󠄁かなづかひ」の決め方です

【主󠄁な漢字の新舊對應表】
國(国) 發(発) 假(仮) 數(数) 觀(観) 舊(旧) 對(対) 應(応) 檢(検) 單(単) 嚴(厳) 狹(狭) 濱(浜) 讀(読) 樣(様) 實(実) 從(従) 澤(沢) 聲(声) 寫(写) 爲(為) 殘(残) 來(来) 擧(挙) 關(関) 學(学) 變(変) 會(会) 卽(即) 區(区) 亂(乱) 據(拠) 獨(独) 覺(覚) 眞(真) 廣(広) 萬(万) 當(当) 圖(図) 屬(属) 辨(弁) 繼(継) 斷(断) 獻(献) 繪(絵) 續(続) 戰(戦) 專(専) 惱(悩) 將(将) 點(点)

■同音󠄁の假名を語によつて使ひ分ける
 「仮名遣い」といふ言葉をインターネットで檢索してみると、興味深い事がわかります。近󠄁年は單に「ひらがなやカタカナの書き方の決まり」、下手すると「假名」と附いてゐるのすら忘󠄁れて「漢字を含めた國語の書き方の決まり」を意󠄁味すると思つてゐる人が多いやうです。
 しかし、嚴密には「假名遣󠄁」とはもつと狹い意󠄁味の言葉です。「同じ音󠄁を表す複數の假名を、語によつて使ひ分ける決まり」の事です。

 たとへば「濱」といふ地名をひらがなで書くとしたら「よこはま」以外の綴りはあり得ません。しかし「沼津」はどうでせうか。「沼津」の「津」は「ズ」と讀みますが、「ず」「づ」の二種類のひらがなの候補があります。「鈴鹿」の「ズ」は「ず」「づ」のどちらでせうか。
 そして、「大きい」「王樣」は、ひらがなではそれぞれどう書きますか。「私【ワ】友達󠄁【オ】連れて山【エ】行く。」の【】內は、實際にはどのひらがなで書きますか。
 「現代仮名遣い」は「話すやうに書くもの」だと思はれがちですが、先程󠄁の例のやうに、複數の假名の候補の中から、語に合つた適󠄁切なものを選󠄁んで書く例外もあります。それは何故かと聞かれても、「古語の發音󠄁に從つて書くから」と答へる人は、まづゐないでせう。「さう書く決まりになつてゐるから」とか「助詞の時の特別な決まりだから」と答へるのではないでせうか。
 「歷史的󠄁かなづかひ」とは、この「ず・づ」や「わ・は」「え・へ」「お・を」の書き分けと同じやうなものが、更に澤山の言葉にも適󠄁用されたもの、と思つていただければ、話が早いです。「古語の發音󠄁」云々は一旦忘󠄁れませう。「言葉によつて、書き方の特別な決まりがある」のです。
 そしてこれは、英語の綴り(スペリング)にも似た考へです。たとへば「イー」の音󠄁を表す綴りにはe, ee, ea, ie, ey, y(even, meet, meat, chief, monkey, party等)と複數あり、語によつて使ひ分けます。

■語源主󠄁義と表音󠄁主󠄁義
 世間では「表音󠄁文字は、音󠄁聲言語の發音󠄁を忠實に書き寫す爲の文字だ」と思はれがちですが、實は「表音󠄁文字を表語的󠄁に書く」事もあります。
 先の「沼津」の例では、「歷史的󠄁かなづかひ」も「現代仮名遣い」も、「ぬま」+「つ」が濁つた「づ」で「ぬまづ」と書きます。發音󠄁は「ズ」なのですが、「つ(津)」の意󠄁味を殘して「づ」と書くのです。このやうに、發音󠄁より語源を優先した書き方の方針を「語源主󠄁義」と呼びます。一方、「ぬまず」と書くのは、語源より發音󠄁を優先した書き方なので「表音󠄁主󠄁義」と呼びます。
 「歷史的󠄁かなづかひ」は、「語源主󠄁義」を出來るだけ殘した國語表記です。一方、「現代仮名遣い」は、先に擧げたやうな一部の例外を除いて「語源主󠄁義」を排除し、出來るだけ「表音󠄁主󠄁義」寄りにした表記です。
 語源主󠄁義と表音󠄁主󠄁義にはそれぞれ長所󠄁があります。

【語源主󠄁義の長所󠄁】
・言葉を「文字」で憶える人に適󠄁してゐる
・音󠄁聲言語と少し距󠄁離を置いた「目で見て理解する文字言語」として書き記すのに適󠄁してゐる
・語と綴りの對應の習󠄁得には時間は掛かるが、語の構󠄁造󠄁を頭の中で整理して憶えやすく、他の語との關係も學びながら厖大な言葉を憶えやすい
・時代や方言により發音󠄁が變化󠄁しても表記は變らないので、古今の表記や他の地方の表記との互換性を保ちやすく、方言を「直して」共通󠄁語の發音󠄁を憶える必要󠄁性も減る

【表音󠄁主󠄁義の長所󠄁】
・言葉を「音󠄁聲」で憶える人に適󠄁してゐる?
・音󠄁聲言語をとりあへず速󠄁記的󠄁に(速󠄁記ではないが)書き寫すのに適󠄁してゐる
・まるで海外旅行者向けのカタカナ表記の會話集のやうに、現代語に限定した少ない語彙を卽席に丸暗󠄁記する用途󠄁には向いてゐる?
・語源主󠄁義では語源がわからないと正しい表記が決めづらいが、表音󠄁主󠄁義なら語源がわからない言葉でも發音󠄁さへ正確にわかれば書ける

■假名遣󠄁はどのやうに決めるのか
 歷史的󠄁かなづかひの大元となった決まりを最初に文章にまとめたのが、(小倉百人一首の選󠄁者としても有名な)藤󠄁原定家(ふじはらのさだいへ/ていか)です。

 定家がなぜこの文章をまとめる必要󠄁があったかといふと、皆さんが古文の授󠄁業で學んだ通󠄁りで、平󠄁安時代半󠄁ばの十世紀から鎌󠄁倉時代終󠄁り頃の十三世紀にかけて、日本語の發音󠄁が變化󠄁したからです(その時代の後にも變化󠄁は續きました)。「を・お」「え・へ・ゑ」「ひ・ゐ・い」の發音󠄁が同じものになって、何かの手掛かりがないと區別が附きづらくなったのです(參考:定家仮名遣 - Wikipediaハ行転呼 - ニコニコ大百科)。

 定家は自ら文章を書いたり、寫本といって本を手書きで寫したりしてゐましたが、「鎌󠄁倉時代の發音󠄁に合はせて假名の方を變へる、たとへば一律『お』『え』『い』に統合する」事はしませんでした。「書き方は原則として以前󠄁のまま」書きました。そして、琥、については特に決まりを定めてゐません。發音󠄁ではなく、飽󠄁くまでも「書き方の決まり」だったからです。
 とはいへ、先に擧げた發音󠄁の變化󠄁の影響で、世の中の書物では、どちらの假名で書けばいいのか混亂が生まれ始めてゐました。現代の日本でも似た現象があります。たとへば「茨󠄁城」を「いばらき」「いばらぎ」のどちらで書くべきか迷󠄁ふ人がゐます。共通󠄁語の發音󠄁では「イバラキ」なのですが、茨󠄁城の方言では「イバラギ」に近󠄁い發音󠄁になるからです。「シ」と「ヒ」の發音󠄁の區別が曖昧な江戶っ子は、學校できちんと國語のヘ育を受󠄁けないと「潮󠄀干狩り」を「しおしがり」「ひおしがり」と書くかも知れません。
 閑話休題。それでは定家はどう書く事にしたのか。定家の書いた「下官集」の「嫌󠄁文字事(文字を嫌󠄁ふ事)」といふ章を見ると、「を・お」「え・へ・ゑ」「ひ・ゐ・い」で書く語の例が載せられてゐます。つまり「語によってどちらの假名を使ふかを決める」事にしたのです。

 定家がこれを決めた根據として、「嫌󠄁文字事」の最後に「右事は非師說 只發自愚意󠄁 見舊草子了見之(右の事は師說に非ず。只愚意󠄁より發す。舊き草子を見て、これを了見す。)」とあります。つまり、師匠に學んだのではなく、古い本をいろいろ見ながら、この語はこちらの假名で書くのが正解なのでは、と獨自に調󠄁べたやうでした。

 定家はこれを「自分自身が書く時の覺え書き」としてまとめたのですが、後に他の人々も文章を書く時に眞似するやうになり、この用例集も他の人による補作を繰り返󠄁しながら廣まっていきました。これを「定家(ていか)かなづかひ」と呼びます。
 とはいへ、これは完璧なものとは言へず、後に、江戶時代の僧である契沖(けいちゅう)による『萬葉集』『日本書紀』『古事記』『源氏物語』等の古典の硏究により、假名遣󠄁が一部訂正されました。これを「契沖かなづかひ」と呼びます。特に「を・お」の區別は、當時の京言葉のアクセントの高低によって「高」は「を」、「低」は「お」と書き分けるのではないか、と定家は思ったやうですが、それはどうやら誤󠄁りらしい事がわかってきました。
 また同じ江戶時代には、國學者の本居宣長もかなづかひを硏究し、特に漢字の音󠄁讀みのかなづかひ(字音󠄁かなづかひ)をまとめた事で(そして、これまで五十音󠄁圖で「あいうえを」「わゐうゑお」だと思はれてゐたのを「あいうえお」「わゐうゑを」と、「お・を」の位置を訂正した事でも)知られてゐます(參考:『字音假名字用格(字音かなづかひ)』, 本居宣長 - 国会図書館デジタルコレクション それぞれの漢字に對應するかなづかひの他、「おを所󠄁屬辨」で「お・を」の位置を入れ替へた根據を說明)。
 江戶時代にも發音󠄁は變化󠄁してきたのですが、それでも「當時の現代語の發音󠄁に合はせて書く」國語改革は行はれませんでした。「語によってどの假名を使ふかを決める」「昔の本を根據にする」といふ基本原則は定家のものを引き繼いだまま、古典の更なる硏究成󠄁果を反映させて、かなづかひの細かな部分が改訂されていきました。
 一往󠄁斷っておきますが、江戶時代はどの書物も必ずしも定家・契沖・宣長らのまとめたかなづかひ通󠄁りに書かれたとは限りません。私が實際に江戶時代の崩󠄁し字で書かれた文獻を讀んでわかった事ですが、確かに決まり通󠄁りのかなづかひにほぼ從ってゐる書物も決して少なくありません。一方、浮󠄁世繪など庶民的󠄁な文章では非標準的󠄁な綴りで書かれたものも多くあります。それでも、「決まり通󠄁りのかなづかひで書かれやすい語」と「それから外れやすい語」の傾向はありました(參考:東海道中膝栗毛 江戸時代の仮名遣い(4))。
 明治時代になると近󠄁代的󠄁な學校ヘ育が始まりましたが、國が決めた統一カリキュラムでヘへるとなると、ヘ科書の國語表記をどう統一するかが問題となりました。しかし、「當時の現代語の發音󠄁に合はせて書く」方式は採󠄁り入れられなかったのです。結局、江戶時代の契沖や本居宣長の方式に倣った書き方でヘ科書が書かれました(これは後に「歷史的󠄁かなづかひ」と呼ばれるやうになりました)。
 現代も「歷史的󠄁かなづかひ」の硏究は續いてゐます。たとへば「或いは」の假名遣󠄁ひは「あるひは」が正しいとされてゐたのが、戰後「あるいは」が正しいのではとされるやうになりました。また、「古典でほとんど使はれず、他の言葉からかなづかひを類推するのも難しい言葉」のかなづかひをどう書くべきかは、專門家でさへ頭を惱ませる難問で、「疑問かなづかひ」と呼ばれます(參考:令和疑問かなづかひ)。しかし、「百パーセント完璧でないのだから、歷史的󠄁かなづかひを使ふのを諦める」代りに、「將來解明されるまでの間は、暫定的󠄁なかなづかひを決めて取り敢へずそれで書く」事をお勸めします。
 「お上が決めたのだから正しい」といふ基準で最初から百パーセント整備された決まりを準備するのが「現代仮名遣い」の決め方ですが、それとは逆󠄁に、「百パーセント整備されてゐるわけではなく、極一部に未完成󠄁の部分(かなづかひが不明の語)もあるが、學者が古典で使はれてゐる表記を觀察しながら、目指すべき『理想の表記』に近󠄁附いていく」のが「歷史的󠄁かなづかひ」の決め方です。

■「を」の發音󠄁は「ウォ」と決まったわけではない
 蛇足ながら、「『を』は『wo(ウォ)』と發音󠄁するのが正しい」といふ說が時々話題になりますが、これには根據がありません。
 まづ、「現代かなづかい」「現代仮名遣い」では、「お」を「ウォ」と發音󠄁するといふ決まりはありません。むしろ逆󠄁で、歷史的󠄁かなづかひで「を」と書く語(「現代かなづかい」「現代仮名遣い」でも助詞の「を」だけ殘る)の發音󠄁・音󠄁韻(明記はされてゐないが勿論現代の共通󠄁語の發音󠄁・音󠄁韻のこと)は「オ」である、と明確に記してゐます(參考:現代仮名遣い 歴史的仮名遣い対照表(イ〜ワ))。

 次󠄁に、歷史的󠄁かなづかひでは、助詞の「を」に限らず、「をはり(終󠄁はり・尾張)」「をとこ」「をんな」「をとめ」「をぢさん」「をばさん」「をどり」「下駄のはなを(鼻氏j」等の言葉も「を」で書きましたが、現代人がこれらの言葉を「ウォ」で發音󠄁する樣子を見るのは非常に稀です。堰X、ひらがな一文字の「を」と助詞の「〜を」を「ウォ」と發音󠄁する程󠄁度ではないでせうか。さうなると、「を」を「ウォ」と發音󠄁する習󠄁慣は「現代かなづかい」以後に生まれた習󠄁慣である可能性が高さうです。
 歷史的󠄁に見ても、平󠄁安時代の終󠄁り頃の時點で、「お・を」の發音󠄁上の區別が失はれてゐて、藤󠄁原定家でさへ正しい區別の方法を知らない程󠄁でしたし、「お・を」がそれぞれア行とワ行のどちらに入るのかすら逆󠄁だと思はれてゐた程󠄁、「お・を」の區別は謎に包󠄁まれてゐました。表記ですら復古が難しかったのに、(表記復古の強力な手掛かりになりさうな)發音󠄁の區別が殘ったといふのは考へづらいものです。
 勿論、實態としてはひらがな一文字の「を」と助詞の「〜を」を「ウォ」と發音󠄁する人が少なからずゐるのは事實です。たとへば財津和夫は『切手のないおくりもの』といふ歌の「〜を」を「ウォ」と發音󠄁して歌ってゐます。ひらがな一文字の「お」と「を」を敢へて區別する爲に、「を」の方を「ウォ」と發音󠄁する人も多いものです。これらを決して否定するわけではありませんが、現代の共通󠄁語としては、「オ」の發音󠄁が原則です。歷史的󠄁かなづかひは「發音󠄁の決まり」ではありませんし、「現代仮名遣い」では「オ」の音󠄁韻であるとはっきり書いてゐます。
posted by 國語問題協議會 at 12:15| Comment(0) | 押井コ馬
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