前󠄁囘、アウグスティヌスの『吿白』の“時間論”を紹介しましたが、私の貧しい讀書體驗を思ひ出しても、“時間”について論じた書物ではほとんど例外なく、このアウグスティヌスの言葉に觸れられてゐました。唯一例外として思ひ出すのは、吉田健一氏の『時間』(新潮󠄀社)で、そこではいかにも吉田氏一流の“時間−人間論”が開陳されてゐて、「時間は拐~と一體をなすものであるから寧ろ拐~世界に屬するものかも知れないが同時に物質の世界も支配してゐる」といつた“常識人の認󠄁識”がさらりと語られてゐます。そして「我々は變人、奇人であつてはならない」と戒める吉田氏は述󠄁べ、第4章の最後を「我々も時間」と洵に意󠄁味深長な言葉で締め括つてゐます。
こんにちでは“變人、奇人”を持て囃す風潮󠄀があるやうですが、勿論私たちは“變人、奇人”として“時間”に對峙すべきではありません。
しかしにも拘はらず、“時間”なるものを“對象化󠄁(自分の外部に在るもの、外在化󠄁)”して考へようとすると、アウグスティヌス的󠄁問ひから逃󠄂れることができません。そして“實數とは何か”を探究しようとする私如き數學屋は、再びあの“連續體のアポリア”に直面するのです。
閑話休題、話を元に戾しませう。哲學者の三宅剛一(1895〜1982)の『時間』(岩波書店)は、1976年に出た僅か150頁ばかりの本で、「過󠄁去の哲學における時間の考へ方の基本的󠄁な型」を槪觀したものです。そこでは“ギリシア哲學の時間、近󠄁世の時間、身體的󠄁時間と意󠄁識の時間、歷史的󠄁時間、永遠󠄁について、佛ヘにおける時間”などが取り扱󠄁はれてゐますが、第2章の“ギリシア哲學における時間論”には附錄として“アウグスティヌスの時間論”が簡單に敍せられ、「アウグスティヌスの『告白』の中での時間論は、キリスト教的(ヘブライ的)なものと、ギリシア的(主として新プラトン派)なものが入り混っている」とあります。
私にとつてこの本の最も興味深い箇所󠄁は、第6章の“永遠󠄁について”であり、數學的󠄁論理思考を重視したスピノザと絡めた西田哲學の「永遠󠄁の今の自己限定」についての言及󠄁です。西田の“數論(有理數と無理數論)”とスピノザの規正しい“論理思考”には深い繫がりがありました。
理論物理學者渡辺慧(1910〜1993)の『時間の歴史』も大變興味深い本で、その「はしがき」には「聖アウグスティヌスの有名な言葉を引くまでもなく、時間とはわれわれに最も身近なものであり、しかもそれを取り出してみようとすると、われわれにこれほど捕捉し難いものはありません」と述󠄁べられてゐます。そして、この本で取り扱󠄁はれてゐるテーマは“物理的󠄁時間”ではあるが「しかし物理的時間だからといって,他の諸科学や哲学の扱う時間と無縁なものではありません」と付言されてゐます。“物理的󠄁時間”が“言語認󠄁識(數學的󠄁言語)”の結果だとすると、物理的󠄁時間が哲學の扱󠄁ふ時間と無緣であらうはずはありません。ともあれ渡辺氏のこの本は「物理學的󠄁時間の成󠄁立」から「量子論における時間」までを、簡單な數式も交へながら解說したもので、ある意󠄁味で“科學的󠄁~祕の書”ともなつてゐます。なぜなら、かのアウグスティヌスの問ひは“科學的󠄁”には一向に解き明󠄁かされず、結局例のアポリアに私たちを再び導󠄁いていくからです。
哲學者滝浦静雄(1922〜2011)の『時間』(岩波新書)も大變印象に殘つてゐる書物です。序章の冒󠄁頭ではやはり例のアウグスティヌスの言葉が紹介されてゐて、續く第1章は“時間のパラドックス”で、以下“時間の形、時間の言葉、時間と自我、意味としての時間と身体”と續きます。この本は極めて“科學哲學的󠄁”なもので、アリストテレスをはじめ、フッサール(1859〜1938)、ベルグソン(1859〜1941)、マクタガート(1866〜1925)、ヴィトゲンシュタイン(1889〜1951)、ハイデガー(1889〜1976)、ライヘンバッハ(1891〜1953)などの哲學者の言說が紹介され、さながら20世紀の時間論の總集篇とも言ふべき趣きを呈󠄁してゐます。しかしながら、この本も遂󠄂にあのアウグスティヌスのアポリアから私たちを救ひ出してはくれません。 (河田直樹・かはたほき)
2023年03月01日
數學における言語(84) 中世~學論爭と數學−後期󠄁ヘ父哲學(V)
posted by 國語問題協議會 at 12:40| Comment(0)
| 河田直樹
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