2015年09月21日

屋下に屋を架す     中谷信男               

屋下に屋を架す
この中國の家訓をなぜか日本では「屋上に屋を架す」と上下をかへて使ひ慣れ、屋根の上にさらに屋根をかさねて作るなど何と無駄なことを、と嗤つてゐる言葉にしてゐます。「無駄な」の一語ですむものを、建物といふ具體的な物のイメイジをかりてわかり易くした譬へです。
因みに日本には「鞘堂」といふ建物があつて、例へば中尊寺の金色堂全體を保護するために、屋根の上に屋根だけだけではなく、鞘が刀を包み込むやうに、建物を丸ごと掩つてしまふ御堂を指します。
これに似た「これでもか、これでもか」と疉みかけてゆく表現は隨分と多いものです。望ましい意味のことばをあげてみませう。

鬼に金棒
鬼といふと惡の權化のやうに思はれ勝ちで、角が生へ、口が裂け、牙のある怪物が大きな鐵の棍棒をもつてゐるやうで、恐ろしい存在といふイメイジが思ひ浮びます。しかし、「鬼才」といふと、人間とは思はれぬほどの才能豐かな人物をさし、それが金棒を持ては更に強力な存在になるといふことになります。

負んぶに抱つこ
人に負んぶするのは、その人に頼るわけで、それだけですでに負擔を掛けてゐるのに、その上だつこまでしてもらふのだから、してもらふ方にとつては得がたく有難いことになります。(負んぶし抱つこする身には、骨が折れて大變なのですが)

飴で餠を食ふ
餠だけでも旨いのに、それに飴をつけて食するのだから、文字通りうまいものづくめ、よいことづくめの意味になります。尤もこれは江戸時代のことばなので、今の人に通用するかどうか。

網も破らず魚も洩らさず
漁師が網で漁をし、大きな魚を大量に獲ることに成功し、その際に網が破れる被害も無かつたことを言ひます。よいことづくめの一例です。
海にかかはる重なりの表現としては「順風滿帆(じゆんぷうまんぱん)」「得手に帆を揚げる」「渡りに船」などがあります。

割れ鍋に綴ぢ蓋
修理するなら買ひ替へるといつた風潮の今どき、このやうな料理道具を持つてゐる人がゐるなどとは考へられませんが、割れてひびの入つた鍋に繕ひなほした蓋がかぶせてある、といふのは、片方が破れ鍋のやうな不細工な男でも、それに似合ふ毀れた蓋のやうな女性が必ずゐるものだといふ意味で、どんな人でも相應な配偶者がゐることのたとへです。圍爐裡にそのやうな鍋がかかつてゐて夫婦がむつまじくくらしてゐる和合の樣が目にうかぶ、好ましい成句ではないでせうか。

しかし、この「これでもか、これでもか」表現には一段と惡くなるといつた意味の語が多いものです。「泣きつ面に蜂」「一難去つてまた一難」「踏んだり蹴つたり」「弱り目に祟り目」「盜つ人に追錢」など、よく使はれることばです。
人生「苦あれば樂あり、樂あれば苦あり」と呑氣に構へられるかどうか。


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2015年08月04日

もつと光を(ゲーテ)

人の死なんとするや、その言や善し、と古代中國の人は言ひましたが、ゲーテのこの死に際の「もつと光を」もそのやうな意味で名言とされてゐます。ところがここに缺けてゐたのは、「暗いからよろい戸を開けてくれ」といふ前提の文であり、命令形のことばの一部だつたとわかつてきました。側の人に命令、といつてわるければ、頼んだことばなのです。
近年の研究では、人間のことばは、親が教へるから覺えるものではなく、幼兒の中で自然發生的にことばが發達して行くものだとわかつてきてゐます。
世界のどの民族においても幼兒が最初に發音することばは「まま」であると報告されてゐますが、それは、口を開けば上下の脣が開いて直ぐに出せる音であるためで、そのことば・單語によつて「食べ物がほしい」といふ意味を發信してゐることが定説となつてきてゐます。精神分析學者の豐永武盛氏は、日本では「まま」「まんま」とか「うまうま」がその例であると指摘してゐます。これは母とか飯とかといふ名詞ではなく、動詞なのだといふのです。ことばの發生は擬音語だとする人もゐますが、今のやうな視點からすると、「頼む」「命令する」、つまり「主體である私の要求」がことばの最初なのだと考へられます。
「私は私の體においてしか存在しえないし、私の言葉は私を離れては存在せず、私は私の言葉の外に存在しえない」とは福田恆存先生の言ですが、他人のことばでしか發言できないやうな人達へのあてこすりといへませうか。ここからも、幼兒が自分の、私の言葉を發してゐることが頷けます。

女子校の先生が生徒に「歩きながら物を食べないやうにしませうね」と言つてゐるのを聞いて笑つていまつたことがあります。男子校なら「歩きながらものを食べるな」といふところでせう。どちらも禁止の意味であり、命令の一種といへます。女子校の例は非常に遠廻しな言ひ囘しなだけです。
そこで、命令の強さの順序を考へてみませう、すると、命令には肯定と否定があることがわかります。
(一)肯定命令表現
古代からある、いはゆる命令形で、動詞の場合は「立て」「蹴よ、蹴ろ」「死ね」「植ゑよ」「來よ」「挨拶せよ」等があります。ただ、「老いよ」は形はあつても使へない命令です。形容詞では「をかしかれ」といふ形はありますが、これも無理な語法でせう。
助動詞にも命令形はありますが、特に「べし」は命令形と言ふ形は持たないのに、「知りおくべし」「節約すべし」はかなり強い命令に聞えます。

(二)禁止表現、強調否定命令表現
語りかける相手のしてゐることの中止を要求することばなので、命令の度合としては一番強いものといへます。それ以上に、文章表現の中で相手に働きかける強制度が最大だともいはれます。
「止めるべし」と肯定命令で言ふより「するべからず」の方が強力です。
「な」といふ終助詞をつけるのも強い禁止表現を作ります。「食べるな」「過ちす(る)な」「來るな」「な來そ」。
名詞でも「駄目」などは強い禁止命令になります。「寢てはだめ」「駄目なものは駄目」。

(三)緩和命令表現
人の和を大切と思ふ日本人に特に發達した表現といへませう。
ア、希望表現(〜たし、〜たい、〜まほし、〜ほしい、〜がな等多數)
話し手が自分の希望を相手に述べるとき、かなり命令に近い表現になること、次のごとしです。「すぐに拂つてもらひたい」「默つてゐていただきたい」「吸はないで欲しい」
イ、疑問質問表現
「一緒に行かない(か)?」は、否定の形だけで、あるいは疑問の形をともなつて、誘つてゐるとも、自分の意に添ふやう導いてゐるとも言へます。
「何で歸つて來たの」も、もう來るなの意思表示で一種の命令と言へませう。
「誰が知るものか」「どうしてくれる」といつた疑問文で脅しに近い效果をあげ、話し手に有利になるやうにすることもあります。
ウ、婉曲表現
「行つた方がよいでせう」「御讀みください」といつた遠廻しな言ひ方は、敬語を交へて殊に女性に多い言ひ囘しです。「芝生には入らないやうにしませう」

言葉の發生に深いかかはりのあるこの「命令表現」には、多くの段階があることを見てきました、人間關係、その場の雰圍氣により多樣に使ひ分けられる語法です。

「美しかれ、悲しかれ」といふ有名な言葉がありますが、これが命令形であることにおどろかされます。「人生は一行のボオドレエルにも若(し)かない」と言ひきつた芥川龍之介が好んだ、その佛蘭西の詩人ボオドレエルの詩の一節です。希望表現と言つてもよいのでせうが、命令された相手は女性です、となると言はれた女性の方もどぎまぎするのではないかと想像されます。「うつくし、かなし」に動詞の「あり」がついて一語の形容詞になつたもので、「あり」の命令形が「あれ」なのです。

存在詞とも呼ばれる、存在することだけを示す「あり」の命令形を使つた西行の和歌があります。
さびしさにたへたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里
出家し、一人山奧に庵をかまへて佛道修行をしてゐるときに作つた和歌とされてゐます。「あれな」の「な」は願望、もう一人そのやうな人があればよいのに、の意です。ゐない人に對する命令が、存在の嚴しさを一段と際立てゝゐます。
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2015年06月28日

腹が据ると腹が立たない

腹が据ると腹が立たない           中谷信男

たとへば「腹が据る」を英語に直すとどうなるか、"his belly is sitting"と直譯しても、英語圈の人には珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん)でせう。このやうに關係のない單語(腹と据る)を結びつけて、一つの纏まつた別の意味をあらはす語になつたものは「慣用句」と呼ばれます。ある代議士がアメリカで「マイ・ベリー・スタンド」と大聲をたてたことがあつたさうです。つまり"my belly stands"「おれは腹を立ててゐるぞ」と言ひたかつたのですが、相手に通じなかつたのは當然でせう。ただ顏を眞つ赤にして叫んでゐるので、最終的に氣持は傳はつたとか。
辭書を調べてゐて、"The belly has no ears"といふ諺をみつけました。「腹には耳がない」などと、日本人に判るはずもありません。「衣食足りて禮節を知る」の意とか。このやうに御互ひ樣、外國語を學ばうとすると直譯では意味のとれない慣用句につまづかされがちです。

「住めば都」といふ、ことわざとも慣用句とも言へることばがあります。「どんな邊鄙な山里でも、いつたん住みなれてしまへば都も同然に住み心地がよい」といふ意味で昔からつかはれてきました。ところが現代つ子のなかには、「どうせ住むなら大都會に限る」と解釋する者が多くなつてゐるさうです。
「可愛い子には旅をさせよ」といふ諺も同樣で、「自分の子供が可愛ければ、旅に出して苦勞を積ませろ」といふスパルタ式の意味であつたものが、「可愛い子にはお金を出して海外旅行でも樂しませてやれ」と、まるで逆の意味に解する若者が少くないと聞きます。どちらの場合も、定着してゐた意味が、時代と風習の變化によつてがらりとかはつてしまつた例です。言替へれば、地方の過疎化が問題になるほど人が都會に出たがる風潮が強くなり、旅にしても、空陸海ともに交通機關が便利になつた今では安樂そのものだ、といふ、現代の社會環境に照して、この二つの諺に新解釋を施す世代が出てきてゐることになります。

轉石、苔むさず A rolling stone gathers no moss. 」といふ意味の英語の諺となると、本來は「轉職ばかりしてゐる人は、いつまでたつても箔がつかない」といふ意味であつたのに、「しよつちゆう轉職してゐないと色あせて錆がでてしまふ」の意味に、まさしく逆轉してしまひました。
「苔」なる植物はいくら古びてゐても、幽玄な品格のある好ましいものだといふ印象が日英ともに、嘗ては廣く定着してゐました。「君が代は」や苔寺に象徴されるこの植物のゆかしさが、戰後までは日本だけのものではなく、少くとも英國人の心にも共通してゐたといふこと自體が文化の問題として興味深いものですが、その「苔」が今度は、なんでも衞生本位で實利的な米國の風土には合はず、到頭「さび・寂」ならぬ「錆」同然のものとして敬遠されるに至つたといふところが、わびしくはあるけれども何とも象徴的な變化なのです。

「歌は世につれ、世は歌につれ」で、流行歌は次々に現はれて消えるのが世の常ですが、その意味をすつかりとり違へてしまふ人が次々と出てきたならば、もはやそれは諺や慣用句でもないものと化してしまひます。長く廣く世に通用してこそ、それは本當に生きてゐるといへるのですから。



posted by 國語問題協議會 at 21:07| Comment(0) | 中谷信男