2015年05月26日

文とり(5) あふれるとあぶれる 中谷信男

あふれるとあぶれる 中谷信男

溢れる」は「あふれる」と讀み、滿ちてゐることの意味ですが、滿ちすぎると逆轉して「こぼれ」てしまふ。その時、點々がついて「あぶれる」となりますが、漢字には同じ「溢」が使はれます。「才知にあふれてゐる男」だが、「仕事にあぶれてゐる」のは悲劇ですね。このやうに漢字は一字が意味を持つてゐるのですが、その一字に反對の意味を持つてゐることがよくあります。

そのやうな、矛楯する反對の意味を持つ漢字の働きを「反訓」と言ふさうです。新しい語かと思つてゐましたら、すでに二千年以上も前の爾雅(ジガ)といふ字書の注にも出てくるさうで、「」は在ることであると同時に「死ぬ」の意味もあり、「亂・乱」はみだれるの意と同時に「をさめる」の意味でもあると書かれてゐます。
筆者もよく反訓を探してみたものです。「」はひよこ、小鳥ですが、「大鳥」の意味もあります。「」ははなれるでもあり、列なるでもあります。「」は惡い氣であると同時に、めでたい氣ともなります。規格外でここに表記できない漢字に、<@037947>登ると同時に墜ちる、<@034892>はぢない樣と、はぢる樣が一字に同居してゐる、といつたものがあります。
「矛盾語」とでも呼ぶべきでせうか。オクシモロン(賢い莫迦)は矛盾語法と譯されてゐますが、それは二語で成立つもので、一語で矛楯する反訓は漢字ならではでせう。もつともまづい料理を出した人に、「これ旨いね」と言ふこともありますが。(<@xxxxxx>は、文字鏡文字)

古代ギリシャでも「反語・アイロニー」といふ言葉の現象は論じられてゐました。ソクラテス的反語といふ言葉がありますが、その對話は反語に滿ちてゐたと言へるでせう。計算した上で、わざと反對の言葉を使ふことが反語で、嘘が嘘であるとばれるやうに語られるものと定義されてゐます。ばれなければ嘘に終はつてしまひます。

「綾の鼓」といふ三島由紀夫の作品(「近代能樂集」)に「芳紀正に七十歳」といふ科白が出てきます。ビルの事務所で小使をしてゐる老人が、鄰のビルに毎晩現はれる女性を見懸けて戀におちいり、毎日戀文を書きます。それを知つた女性の取卷きの男性が口にした詞が「芳紀正に七十歳」です。芳紀は若い女性の年齡に使ひます。それを七十歳の男性にかぶせることで皮肉・アイロニーとしてゐるものです。能樂の題名「綾の鼓」そのものも反語的です。小道具として皮ではなく綾布がはつてある鼓なので、音の出ない樂器です。
西田幾太郎といふ高名な哲學者がゐましたが、思慮を重ねた末に斷定しました、「故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである」と。むつかしい言ひまはしですが、「太初(はじめ)にことばありき」で、ことばの世界も現實の世界であり、同樣、難解、複雜なものです。飜譯をするには直譯でなくてはならない、ことばは一對一の對應をしてゐるものだと思ひ込んでゐる人がゐますが、それでは眞意はつかめないものです。コンピュータによる飜譯など、アイロニーにはどう立向ふのでせうか。
posted by 國語問題協議會 at 12:26| Comment(0) | 中谷信男

2015年04月20日

文とり(4)  失敗は成功の基

失敗は成功の基
この言葉は完全な「矛楯語法」で、試行錯誤をかさねてこそ、成功の榮冠が得られるといふお固い教訓である一方、失敗を恐れては成功も望めないといふ積極的な勵ましのことばともなつてゐます。特に科學の世界では、今までにない事象を考へつくこと、誰も思ひつかないことに手をつけることが成功となるので、失敗から成功の種を見つけやすいものです。
プラスチックは腐らないことを前提に開發されましたが、後で分解し土に還るプラスチックがあります。牛乳から作るカゼイン樹脂がその一つですが、これは或る化學者がホルマリンの容器を持ち歩いてゐたとき、誤つて犬に與へる牛乳の中にこぼしてしまひました。ところがそれがかたまつて固形になり、強靱で透明にもなり着色もできて削るのも容易といふ優れた特性をもつ樹脂になつたので、印鑑や釦に作られるやうになりました。
エジソンも失敗の連續でしたが、そこはエジソン、「私は失敗したことなどない、うまくいかなかつた一萬もの遣り方を見つけただけなのだ」といふ名言を殘してゐます。うまくいかなかつたとは、失敗だつたと言ふことではないでせうか。

負けるが勝
これは、本當は勝ちたいのに負けてしまつた側が、それこと負け惜しみに吐く科白ではなく、もつと深い道理を含んだ矛楯語法です。すなはち、相手に勝ちを讓つて、敢へて爭はないのが、大局的には有利な結果になる、といふ「戰法」なのです。負け逃げて、逃げて相手の補給線がのびきつたために勝ちをおさめた例もあります。

窮すれば通ず
追ひ詰められたり、行き詰つたりして絶體絶命の窮地に陷れば、却つて活路が開かれるといふ意味に使はれます。「窮鼠、猫を噛む」とも言はれます。
「必要は發明の母」となると、「窮すれば通ず」の論法に沿つた西洋の諺となります。「必要」とは、現在存在してゐないので不便だと感じられることです。英語の"want”が、「缺けてゐる」といふ意味から、「欲しい、必要だ」の意味になつたことと似てゐます。
大欲は無欲に似たり
「大欲」の反對語は「小欲」になるはずですが、その一段上をいつて「無欲」をもつてきてゐるこの言葉には、二つの逆の解釋が成立ちます。大望を抱くものは些細な利益にこだはらない、が第一義。欲が深か過ぎると、欲に目がくらんで損を招くことが多く、無欲と同じ状態になる、が第二義。
佛教は欲望をおさへつけようとする宗教のやうに思はれがちですが、弘法大師は大欲を持てといふ御經「般若理趣經」をとても大切なものとしてゐました。中に「大欲得清淨/大安樂富饒」といふ句があります。大欲を持つことで清淨となり、衆生をを大安樂、富饒とすることができる、といふのです。とは言へ、弘法大師空海の大欲は宇宙規模のもので、凡俗のはるか上を行くものでした。
posted by 國語問題協議會 at 13:30| Comment(0) | 中谷信男

2015年03月08日

文とり(3) 遠くて近きもの

「遠いのに近い」とは。
このやうな矛楯する單語を結びつけた表現、オクシモロンはいつたい日本では何時頃から使はれるやうになつたのだらうか、禪宗がはじめだつたに違ひないと思つてゐました。
「不立文字」といふ書跡を見たりすると、「悟りは文字からは得られない」といふ矛楯そのもののポスターを見せつけられる思ひで、目眩さへしてきます。

ところがこの「遠くて近きもの」の段が『枕草子』にあるのに氣づきました。
そこには「極樂、舟の道、男女の仲」とあります。十萬億土といはれる程遠くの極樂、何の關係もなかつた遠い男女の間柄が、意外に近いもので、極樂に生まれ變つたり、意外に結ばれやすかつたりします。
一方でその逆をいく「近くて遠きは男女の仲」といつた慣用句もあり、『蜻蛉日記』などを見ても、結婚はしてゐても互ひに遠い存在になつてゐることなど、すでにして平安時代に實感されてゐたことでせう。長いこと連れ添つてくらしてゐた夫婦が、老年になつて御互ひの間に避けられないやうな遠い距離を感じて別れることになつたといつた現實もあります。
日本人はかういつた論理を越えた現實を、矛楯語を結びつける表現によつてよく理解してきた、或いはそのやうな表現をすることで己れを納得させてきたのだといふ氣がします。

「ありがた迷惑」
有難い感謝すべきことなのに迷惑だ、とは? 全く惡氣がないどころか、相手のためを思つて善意からしてあげたことが、實際には相手に迷惑をかける結果になることを二語で表現した矛楯語法です。たとへば、本人に内證でその人の寫眞を美人コンテスト審査會に送つたところ、入選して候補者に選ばれた本人が、自分は有名になりたくないと思つてゐるお堅い女性だつたら、本人のためと思つて寫眞を送つてしまつたことが、「ありがた迷惑」になるわけです。

「贔屓の引倒し」
夏目漱石は小説の中で、三四郎は日露戦争以後こんな人間に出會ふとは思ひもよらなかつたと書きます。
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。「とらはれちやだめだ。いくら日本のためを思つたつて贔屓の引き倒しになるばかりだ」  この言葉を聞いた時、三四郎は眞實に熊本を出たやうな心持がした。
贔屓・ひいきとは、「ひき」の延音で、氣に入つた人やことに助力することを言ひますが、このヒキといふ同音を繰返したオクシモロンは、そのことが却つてその人の迷惑となるといふ意味であり、「ありがた迷惑」の一種といへます。
政治の世界では「ほめごろし・襃め殺し・譽め殺し」といふ恐ろしい言葉がはやつたことがあります。ある政治家を襃めることで、その政治家をだめにしてしまふことを指しました。贔屓の引倒しと同じと言へますが、こちらは駄目にすることを目的としてゐるわけでなく、うまく行くだらうと贔屓したことが、惡い結果をもたらすことを言ひますが、「ほめ殺し」は駄目にすることを目的として襃めるといふことから「殺し」といふおぞましい用語が使はれたのだといへませう。
posted by 國語問題協議會 at 22:16| Comment(0) | 中谷信男