2017年11月03日

歴史的假名遣事始め (三十五) 市川 浩

クイズで遊ぶ歴史的假名遣(三十五)

先月のクイズ解答
問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

歴史的仮名遣も現代仮名遣も時間の経過とともに、個々の語のレベルで規則をすこしずつ変えざるをえないという宿命を持っている。一方は学問研究の進展を因とし、一方は発音と語源意識の変化を因とする。そして、前者の変更は、タイムマシンにでも乗らないかぎり、現代語の運用者であるわれわれが、この目とこの耳で正解を確認できない。それに対し、後者は、現代語の運用者であるわれわれが身近に正解を感得できる変更である。現代人の言語生活において、どちらが合理的な(すなわち科学的な)表記法であるかは、もはや言うまでもないであろう。(「かなづかい入門」213頁)

この主張に對する反論の一例を擧げます。

「正解を確認又は感得できるか」どうかで優劣を決めるのであれば、最近の物理學など確認、感得どころか理解さへ、それこそ「タイムマシンにでも乘らない限り」困難な現象の研究にノーベル賞が贈られてゐることをどう御考へなのでせうか。
それはさて措き假名遣の「個々の語のレベルでの」變更は、歴史的假名遣の場合は、契冲以後今日まで續いてゐますが、その數は年と共に減少してゐます。これは「依據する過去の文獻の數が有限」であるといふ基本原則によるもので、理念的にはゼロに收斂する筈です。一方現代假名遣は「現代の」發音に依據するので、今後どのやうな發音變化が起るか全く豫想が不可能です。從つて「變更」は未來永劫續き、やがては過去の表記體系が忘れ去られ、民族の古典が消滅する可能性も無しとしません。
「いや歴史的假名遣はさうした發音變化との乖離が大きくなれば自滅するしかない」と言ふかも知れません。しかし表記の發音からの獨立は逆に發音の變化を抑制する錨の役割を果すとも考へられます。「はは(母)」がハ行點呼で「はわ」となつても「はは」の表記が殘つて發音も再び「はは」となつた例などでは、日常目にする「はは」の表記が「ハワ」以上の發音變化(例へば「わわ」「あわ」など)を防止、且つ復元までしたと言へませう。
練習問題
本年一月から十一囘かけて白石良夫著「かなづかい入門」の批判を行つて來ました。全體を通しての感想、批判を纏めてみて下さい。
posted by 國語問題協議會 at 11:29| Comment(0) | 市川浩

2017年10月15日

數學における言語(17) 河田直樹

「西欧精神」について[U](17)

 前回、福田恒存が「日本と西歐の近代の違ひを中世の在り方」に見て、「その中世のちがひの根底は、宗教といふことにあります」と指摘してゐることを述べましたが、これに關連して思ひ出すのが、『徒然草』の兼好法師(1283年頃〜1352年頃)とあの『神学大全』のトマス・アキナス(1225年〜1274年)です。この二人はほぼ同時代を生きたと言つてもさほど大きな誤りではありませんが、なぜこの二人なのか?結論を先に述べれば、この二人の「世界に対する第一原因の問ひ方、答へ方の違ひ」に「中世における宗教の根源的な違ひ」を見る思ひがするからです。少し長くなりますが、これについて私の拙い‘感想’を述べてみます。
 吉田兼好の『徒然草』は「古文」の入門教材として誰もが知つてゐますが、兼好の生没年は定かではなく、誕生の年は一応弘安6年の頃とされてゐます。蒙古の二度目の襲來、未曾有の「国難」ゆえに「鎌倉男子」が「正義武斷の名」を「一喝して世に示し」た「弘安4年夏の頃」から2年ばかり經つたころです。そして『徒然草』は、兼好48、9歳當時に書かれたと言はれ、その最終段(=243段)では「佛さまの第一原因」を少年兼好が父に問ひ詰める次のようなエピソードが語られます。

  八つになりし年、父に問ひて云はく、「佛は如何なるものにか候ふらん」といふ。父が云はく、「佛には人のなりたるなり」と。また問ふ、「人は何として佛には成り候ふやらん」と。父また、「佛のをしへによりてなるなり」と。またとふ、「教へ候ひける佛をば、なにがをしへ候ひける」と。また答ふ。「それもまた、さきの佛のをしへによりて成り給ひける」と。またとふ。「その教へはじめ候ひける第一の佛は、如何なる佛にか候ひける」といふ時、父、「空よりやふりけん、土よりやわきけん」といひて、笑ふ。「問ひつめられて、え答へずなり侍りつ」と、諸人にかたりて興じき。

 なるほど、これは誰もが身につまされる話で、幼い頃同じやうな質問で父母を困らせた記憶をお持ちの方も多いのでは、と思はれます。
 鷗外の子供もさうであつたらしく、鷗外は「附寒山拾得縁起」でこの243段に觸れ、「子供に物を問はれて困ることは度々ある。中にも宗教上のことは答に窮することが多い」と書いてゐます。
 それはともかく、實は若かりし頃この箇所を讀んで、私はひどくがつかりしました。14段で語られるやうに「和歌こそ、なほをかしきものなれ」や「梁塵秘抄の郢曲の言葉こそ、また、あはれなる事は多かれめ」といふ兼好の感慨に耳を傾けたくない、といふのではありません。そうではなく、この243段の問に對して、49歳の兼好自身がどう考へ、どう推論したのか、數學の公理的論証にすつかり心を奪われてゐた高校生の私は、それをこそ知りたいと思つたのです。しかし、それは『徒然草』のどこにも書いてはありませんでした。兼好自身が「空よりやふりけん、土よりやわきけん」と考へてゐたのであれば、なぜ兼好はあの古代希臘の自然哲学たちのやうに「萬物の根源は何か」と問はなかつたのでせうか、私はそれを訝り、またそれを非常に不滿に感じたのです。あの村上一郎は「日本人は知ることよりも感じること、計ることよりは想ふことを、われわれの價値としてきた」と語つてゐますが、正にこの價値観こそ、數學少年の私には承服し難いものでした。
 243段が『徒然草』のおしまひではなく、第1段に書かれてゐたなら、とそんな荒唐無稽なことを、私は無想したことがあります。もし、243段が第1段に置かれ、兼好がこの問ひに對して大眞面目に議論し、「第○○段」の代はりに「定理○○番」といつた具合に推論を重ねてゐたなら、ひよつとすれば、トマス・アキナスの『神学大全(Summa theologia)』(あるいは、スピノザの『エチカ』)に相當するやうなものが我が國にも残されてゐたかもしれません。
。                  (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 10:39| Comment(0) | 市川浩

2017年10月03日

歴史的假名遣事始め (三十四) 市川 浩

クイズで遊ぶ歴史的假名遣(三十四) 平成二十九年十月一日
先月のクイズ解答
問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

現代仮名遣いでなければ口語文でないとか、歴史的仮名遣でなければ文語文とはいわない、というようなものではない。(中略)おなじ理屈で、文語文が現代仮名遣いで書かれたとしても、どこにも不都合はない。(中略)むしろ、われわれは文語文を現代音で読んでいるのだから、現代仮名遣いで表記する方が理にかなっているかもしれない。(中略)
そもそも万葉集の歌には,仮名で表記できない音節があつた。仮名の誕生前に消滅した音節である。奈良時代の万葉集を歴史的仮名遣で表記するということは、平安時代初期の「
現代仮名遣い」で書いていることを意味する。ならば、二〇世紀の現代仮名遣をつかって万葉集を書いて、どこが間違っているというのか。(「かなづかい入門」1182〜183頁)

この主張に對する反論の一例を擧げます。

此處で明らかに讀取れるのは、將來の文語の現代假名遣い化を視野に入れてゐることです。昭和二十三年及び同六十一年の二囘の内閣告示にも共通する「この假名遣は、主として現代文のうち口語體のものに適用する(表記は地の文の統一、以下同じ)」の「主として」を根據として文語現代假名遣い化を正當化する論の非妥當性は、繰返しになりますが、上記の規定中、「この假名遣」を「死刑」に、「現代文」を「殺人罪」に、「口語體」を「兇惡性の高い」と置換へて、「死刑」が、「殺人罪以外」の犯罪に簡單に適用できるかどうかを考ふれば明らかでせう。本書ではこの章以外でも「新假名遣が口語文體のためのものであることが強調されてゐるとの印象がある。新假名遣の制定者ともあらう人たちが、自分達の作つた假名遣が文語文には適用できないと考へてゐた譯ではない」(同136頁)と記すなど、文部科學省が文語の現代假名遣い化を意圖してゐると考へざるを得ません。本書の刊行と同年直後には、自衞隊の幹部が防衞廳の方針に反する論文を發表したとして罷免されてゐます。ただ、この問題を文語現代假名遣い化贊成か反對かと二極分斷すべきではなく、肅々と「文語の表記は歴史的假名遣に決つてゐる」とするのが現實的な正解です。
練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

歴史的仮名遣も現代仮名遣も時間の経過とともに、個々の語のレベルで規則をすこしずつ変えざるをえないという宿命を持っている。一方は学問研究の進展を因とし、一方は発音と語源意識の変化を因とする。そして、前者の変更は、タイムマシンにでも乗らないかぎり、現代語の運用者であるわれわれが、この目とこの耳で正解を確認できない。それに対し、後者は、現代語の運用者であるわれわれが身近に正解を感得できる変更である。現代人の言語生活において、どちらが合理的な(すなわち科学的な)表記法であるかは、もはや言うまでもないであろう。(「かなづかい入門」213頁)
posted by 國語問題協議會 at 10:10| Comment(0) | 市川浩