2018年12月18日

日本語ウォッチング(9) 聞かないじまい 織田多宇人

文語文で慣用的に使はれてゐる言葉をわざわざ口語文に變へると妙な事になる。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(河出書房)二十二頁に「父から聞かないじまひだった」と言ふ表現が出てくる。文語の「ず」は口語の「ない」に當るので、「聞かずじまひ」は口語では、「聞かないじまひ」になる譯だが、なんとも語呂が惡い。言葉は慣用によって成立つてゐる分が大きいので、慣用を重んずべきだらう。「讀まずじまひ、書かずじまひ」を、「讀まないじまひ、書かないじまひ」などとしたら日本語らしくない。「知らず識らずのうちに・・・・・」、「親子水入らずで・・・・・・」を、まさか「知らない識らないうちに・・・・・・」、「親子水入らないで・・・・・・」などとは書かないだらう。最近出版社がもともと文語文で書かれてゐる本を口語文に改めて出版する例がある。本來口語文に改めることには反對だが、どうしてもと言ふ場合でもかう言ふ所は愼重によく考へて作業して貰ひたいものだ。
posted by 國語問題協議會 at 22:12| Comment(0) | 市川浩

2018年12月01日

日本語ウォッチング(8)  かんぱつをいれず   織田多宇人

「間髪を容れず」をテレビなどでも、「かんぱつをいれず」と言つているのを時々耳にする。正しくは「かん、はつをいれず」だ。髪の毛一筋の合間もないこと、つまり「すぐさま」とか、「すかさず」と言ひたい時に使ふ。此に關聯した「間一髮」と言ふ成句がある。時々「間一發」と誤記されるが、「かんいっぱつ」とは、一筋の髮の毛が入るほどのすきまもないこと、つまり、「非常に切迫してあやふいさま」で、「間一髮のところで敵陣から救出された」のやうに使はれる。
posted by 國語問題協議會 at 13:56| Comment(0) | 市川浩

2018年11月24日

ほとけごころ (その二)  原山建郎

ほとけごころ (その二)

4.エリザベス・キューブラー・ロス、
「許しのレッスン」がすごい。
エリザベス・キュブラー・ロス(精神科醫)は、ターミナルケア(終末期醫療)、サナトロジー(死の科學)のパイオニアです。その成果をまとめた『死ぬ瞬間』(中公文庫、一九七一年)は世界的なベストセラーになりました。
亡くなる四年前、二〇〇〇年の著作『ライフ・レッスン』(エリザベス・キューブラー・ロス、デーヴィッド・ケスラー共著、上野圭一訳、角川文庫、二〇〇五年)のはじめに、彼女はかう書いてゐます。
【わたしたちひとりひとりのなかにガンジーとヒトラーが住んでゐる。もちろん象徴的な意味でだ。ガンジーは人間のなかにある最良のもの、もっとも慈悲ぶかいものをあらはし、ヒトラーは最惡のもの、人間のなかにある否定性と卑小性をあらはしてゐる。人生のレッスンとは、みづからの卑小性にはたらきかけ、否定性をとりのぞいて、自己のなかにも他者のなかにもある最良のものをみいだす作業にかかはるものだ。人生の暴風にも似たそのレッスンは、わたしたちを本来のわたしたちに立ちかへらせてくれる。わたしたちはたがひに癒しあい、また自己を癒すために地上に生れてきた。それは身體症状の回復といふ意味での癒しではなく、はるかに深いレベルでの癒し、精神の、そしてたましひの癒しである。】
(同書「エリザベスからのメッセージ」九ページ)

『ライフ・レッスン』のなかから、本日のテーマにかかはる「許しのレッスン」を紹介します。
【一九四〇年代の後半、イギリスから獨立する準備をすすめてゐたインドの國内は宗教戰争の嵐が吹き荒れてゐた。内戰でイスラム教徒に息子を殺されたヒンドゥー教徒の男が、マハトマ・ガンジーにかういった。
「どうしたらイスラム教徒を許すことができるでせうか? ひとり息子を殺されて憎悪に燃えてゐるこのこころに、どうしたら平安がとりもどせるのでせうか?」
ガンジーはその男にいった。「イスラム教徒の戰争孤児を養子にしなさい。そして、自分の息子として育てなさい」
人生をまっとうするためには許すことを學ばなければならない。許しは苦痛や傷を癒す方法であると同時に、ふたたび他者と自己とを結びつける方法である。人はだれでも傷ついたことがある。たとへいはれのない事情によるものであっても、傷つくときは傷つく。そして、わたしたちはほぼ全員、他人を傷つけたことがあるはずだ。問題は傷つけたり傷ついたりすることよりもむしろ、その經驗が忘れられないこと、それを忘れようとしないことのほうにある。傷の痛さはそこにあるのだ。わたしたちは傷をためこみながら生きてゐるが、その傷を手放す方法はだれからも教わってゐない。許しが必要とされる理由はそこにある。
許す人生を選ぶか許さない人生を選ぶかは、その人が決める問題である。だれもがそのいずれかを選択することができる。皮肉にも、傷つけた人より傷ついた人にとって重要な問題であり、傷ついた人が癒されるといふ意味で、許しは自愛的な好意だともいへる。(中略)
許さないといふことは、むかしの傷や怒りにしがみついてゐるといふことである。恨みの感情に榮養を補給して、過去の不幸な部分を生かしつづけることである。許すことができなければ、自分自身の奴隷になるしかない。
許しからは多くのものを得ることができる。許すことによって、自分を傷つけた人に奪はれたと感じてゐた全體性の感覺をとりもどすことができる。ほんたうの自己にもどるための自由を得ることができる。人はだれでも自分自身に、そして他者との關係に、再出發するチャンスをあたへることができる。そのチャンスこそ、許しがもたらす魔法なのだ。相手を、あるいは自分を許しさへすれば、恩寵の世界に立ちかへることができる。折れた骨が治ったときに骨折以前よりつよくなるやうに、許しによって傷が癒えたときは、相手との関係が以前よりつよいものになる。(中略)
許しにはさまざまな障害がある。なかでも大きな障害は、許せば自分を傷つけた行為をみとめることになってしまふのではないかといふ感情である。しかし許しとは、相手に「わたしを傷つけてもいいのよ」といふことではない。許しとは、恨みをいだいてゐると不幸な人生を送ることになると氣づいて、自分自身のために、うけた傷を手放すことである。許せないと思ってゐる人は、自分が罰してゐる對象がほかならぬ自分自身であることをおもひだす必要がある。
許しとは相手を好き放題にさせておくことではない。それはことばの最良の意味での博愛の行爲である。自分を傷つけたときの相手はけっして満足な状態ではなかったのだといふことにおもひいたった瞬間に、許す氣もちが生まれる。相手は過ちを犯したが、それは相手の本來の状態ではなかった。人間である以上、相手も過ちを犯す。そのことで相手も自分とおなじやうに傷ついてゐる。そこに気づいたとき、許しが生まれる。けっきょくのところ、人は自分を癒すために許すのだ。相手の行爲は、ただの行爲でしかない。その行爲を許すのではない。人を許すのだ。
もうひとつ許しの障害となってゐるのは、報復してやりたいといふ欲望である。たとえ報復をとげたとしても、一時的な満足しか得られない。報復といふ低次元な行爲をした自分にたいして、あとで罪悪感をもつことになる。自分を傷つけた人に自分の苦痛をおもひ知らせるためにとった攻撃的な行爲が、けっきょくはまた自分を傷つける。傷のいひ分に耳をかたむけて傷を吟味するのはいいが、傷にしがみついてゐては自己處罰の方向にむかふだけだ。
許すことはむづかしい。傷を無視してしまふ方がまだ樂だといふときもある。何回も許したいとおもひながら、つい先のばしにしてしまふ。傷つけられたみじめさが、どうしても忘れられないのだ。その先のばしに期限がくるのは、こんな氣もちのままで生きてゐたくない、いつまでもわだかまりをひきずっていたくないといふ、自分の本心に氣づくときである。
許せないといふ気もちは人を固着させる。傷をかかえこんだままの状態と馴れあひすぎて、大決心をしなければ許すことができなくなる。人間關係を修復するよりは相手を責めたはうが樂になる。相手の過ちだけをみてゐるあひだは、自分自身の内面を見つめる必要がないからだ。相手を許したとき、はじめて人生に力がよみがへり、傷を乗りこえて花ひらくことができるやうになる。傷をかかへたまま生きることはたえず犠牲者の立場にとどまることであり、その立場から脱出するには許すといふ道しかないのだ。だれかによって自分が永久に傷ついていなければならない理由はどこにもない。その氣づきのなかに大きな力がひそんでゐる。(中略)
許しの第一ステップは、相手をふたたび人間としてみるといふことにある。弱氣になってゐる時、配慮を失ったとき、混亂してゐるとき、苦しんでゐるとき、人間である相手は過ちを犯す。傷つけた相手は缺陷があり、もろく、孤獨で、貧弱で、感情的に未成熟な人間であり、いはば、自分とおなじやうな存在である。自分もさうであるやうに、相手もまた浮沈をくりかへしながら、たましひの旅路の途中にあるのだ。
相手が人間であることをみとめさえすれば、自分の内面をみつめる余裕が生まれ、許しがはじまる。内面には怒りがたまってゐる。だからまづ、枕をなぐりつける、ひとりで大聲をあげる、友人に心境を打ちあけるなどして、そのブロックされたエネルギーを解放してやる必要がある。怒りの感情を解放すると、怒りの奥に隱れてゐた悲しみや憎しみなどが噴出してくることがある。そのときは、それぞれの感情にひたればいい。そのつぎのステップがむづかしいのだが、そこをとほりぬける必要がある。それらの感情を手放すといふステップである。許しは自分を傷つけた相手の問題ではない。相手のことは心配しなくていい。相手が何をしようと、傷ついたのは自分である。それは相手の問題ではなく自分の問題なのだ。だから、相手への否定的なおもひを手放すことのなかに自由がある。だれもが對處すべき問題をかかえてゐるが、それは自分の問題ではない。自分が問題にすべきなのは、こころの平安や幸福を手にすることなのだ。】
(同書「許しのレッスン」318〜324ページ)
(武藏野大學非常勤講師)
posted by 國語問題協議會 at 11:46| Comment(0) | 市川浩