2018年04月13日

歴史的假名遣事始め (三十九) 市川 浩

二月の半ばに家で顛倒、大腿骨を骨折して三月度の原稿が書けず、申し譯御座いませんでした。
さて「現代仮名遣い」と「當用漢字」とを併せた「國語改革」は敗戰後僅か一年四ヶ月足らずで實施されたので、其の正否を廻つては激しい論爭が展開されました。眞面目な論爭もあり、特に福田恆存先生の「私の國語教室」を中心とする假名遣論により、戰後の國語改革は完膚無きまでに論駁されました。しかし一方では互ひに「保守反動」、「國語を滅ぼす」と論難し合ふ言論も亦跡を絶ちませんでした。先月にも申しましたが、かうした論爭は兔角國民を二分して、中々意見を更へる事を困難にしてしまひます。當會も昭和三十四年設立以來四十年代にかけて、多くの一流文化人の贊同を得ましたが、御自身の表記を新かなから正かなに變更された方は殆ど皆無でありました。今更「保守反動の輩に與する事」への拒否感がなかつたとは言へますまい。事程左樣に國民を分斷するやうな論爭は divided controle「分斷支配」に利用されるだけでなく、折角の志さへも無力化してしまふのです。新かな信奉者はやがて有力な正かな論者の豫備軍である事を忘れてはなりません。但し誤解のないやうに御願ひしたいのは、我々は飽くまでも正統の表記傳承を目指してをりますので、其のありのままを正確に傳へることが重要であり、新かな信奉者の「理解を得」ようとして、勝手に譬へば、字音假名遣や畫數の多い漢字を「難しいだらう」と故意に無視するなど、度の過ぎた行動は愼むべきでありませう。
posted by 國語問題協議會 at 10:55| Comment(0) | 市川浩

2018年02月03日

歴史的假名遣事始め (三十八) 市川 浩

前囘提示しました問題、出版社の「賣れない」、SNSでの「難しい」、「讀めない」といつた感情論的攻撃への對處法を御一所に考へて見ませう。

先づこれらの攻撃が本當に事實に基いてゐるのか、考へてみるまでもなく、新かなで出版したら賣れる保障はありませんし、現在中學、高校での古文學習では歴史的假名遣の古典國文や學年別配當表以外の漢字が澤山交ざる漢文を學んでゐるといふ「事實」しかありません。第一正字・正かなの文を一瞥して「これは公用文作成の要領違反だ」などと摘發するやうな人でなければ、こんな攻撃は出來ない筈です。恐らくこの攻撃者の方は「俺は讀めるよ、だが一般の人に讀めない表記を強制する「知的エリート」ぶりに腹が立つてこのやうに發言するのだ」といふことではないでせうか。でも「これつて」ずいぶん「一般の人」の知的レベルを低く見てゐないでせうか。
これで反論は十分なのですが、放置してゐますと「賣れない」、「難しい」、「讀めない」が恰も實在の現象と誤解され、取返しのつかない結果となる恐れがあります。その一例が文語文や漢文に於ける新かなルビの跋扈です。「加へる」の語幹「加」に「くわ」と新かなでルビを振つて「くわへる」はをかしいと抗議しても、「今の人は「くはへる」では讀めません」、といふ答が返つて來ます。送り假名の「へ」に「え」とルビを振ればいいのではと言ふ人もゐる始末です。正字・正かなは「難しい」、「讀めない」が定著した結果でなくて何でありませう。
又一方で一旦かういふ「書込」があると、忽ち同調の書込が殺到、「炎上」して、正統表記を斷念せざるを得ない事例が多く語られてゐます。何だか戰時中の「敵性思想狩」みたいで嫌な豫感を抱かざるを得ません。特に此處には「新かな順應の善意の一般人」と「學識を誇示する惡意の舊かな知識人」とに國民をdivided controle「分斷支配」する戰略を感じさせるものがあります。これに就いては次囘にゆづりますが、是非皆さんも御考へ下されば幸ひです。
posted by 國語問題協議會 at 10:52| Comment(0) | 市川浩

2018年01月05日

歴史的假名遣事始め (三十七) 市川 浩

              平成三十年一月一日

新年明けましておめでたう御座います。時恰も世界を席捲した行過ぎたグローバリズムが行き詰り、文化の多樣性尊重の機運が高まつて來ました。その意味で今後の國語問題論爭に於ける基本戰略を考へてみますと我々も亦改善が必要と思はれます。
戰後の國語問題論爭は國語の「封建性」や「學習困難性」を擧げて、國語を徹底的に破壞改良しようとする人達への反論に追はれ、その非合理性を痛撃することに終始せざるを得ませんでした。しかし今や漢字の廢止やローマ字化を本氣で論ずる人は殆どゐない、そればかりか正字・正かなにあからさまな敵意や侮蔑を露にする人も寡くなり始めてゐるといふ事實と、これに危機感を抱いたか行政による締附けが強化されてゐる事實とを冷靜に直視しなければなりません。
即ち正字・正かなは、我が國文化の繼承と發展のために必要不可缺のものとしての適應性、論理性を國民的理解に訴へなければならないのです。極言すれば我々の正字・正かな論は戰後の表記改革が「惡い」からその對立軸として見るのではなく、今後の世界に於て我が國が文化の多樣性を確保するために必要であるといふ論理でなくてはなりません。これは例へば大正時代「月に吠える」や「青猫」で口語新體詩の旗手となつた萩原朔太郎が、更に新展開を志して苦鬪の末、昭和の始め遂に文語詩への囘歸に至つた經緯を想起させるものであります。
本年は明年五月の新しい御代を控へた平成締め括りの年となります。新しい意味付けでの正字・正かな論の出現を期待すると共に、私達自身もその創出者の一人にならうではありませんか。幸ひ、「現代仮名遣い」も「常用漢字」もその内閣告示に於て「個々人の表記にまで及ぼさうとするものではない」と明言してゐるし、グローバリズム其のもののやうな「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造を目指す」教育基本法も既に改正されて「傳統を繼承し、新しい文化の創造を目指」してゐる譯ですから、安心して新しい發想の下で國語表記の問題を考へることができます。ただし、憲法の改正が現實味を帶びて來てゐることから、それに便乘して、法律でも告示でもない一片の内閣通知に過ぎない「公用文作成の要領」のみを根據として、一切の議論を經ずして憲法全文の新字・新假名表記への移行が行はれる可能性を考へると、時間的には切迫してゐることに注意が必要です。

以上を踏へて前囘提示しました問題、出版社の「賣れない」、SNSでの「難しい」、「讀めない」といつた感情論的攻撃への對處法を次囘御一所に考へて見ませう。

             

posted by 國語問題協議會 at 15:11| Comment(0) | 市川浩