2016年08月01日

歴史的假名遣事始め (二十) 市川 浩

先月のクイズ解答
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

嘗てソ連崩壊で独立を回復したモンゴルでは、それまでのキリル文字を改めて、古来の国字モンゴル文字を復活させたが、結局民衆はそれを読めず、旧へ戻つた。正字・正かなを復活出来たとしても、一般民衆はもはや読み書き出来ない。

この主張に對する反論の一例を擧げます。

モンゴルでのことは殘念ですが、學校でモンゴル語での授業を受けた世代に望みを托したいと思ひます。
さて日本の正字・正かな教育をどのやうに進めるかですが、一つの例を御話しませう。私は特定非營利活動法人文語の苑での活動として、文語の讀み書きを御案内してをりまするが、文語作文の場合、受講者は御高齡の方が多いと言ひましても、既に現代假名遣で教育を受けた世代です。當然最初は歴史的假名遣が十分に遣へませんが、その都度説明添削することで、暫くすると殆ど間違はなくなります。
國語學の泰斗故大野晉博士最晩年の述懷に生徒に作文を書かせ、家に持ち歸つて誤字を訂正し、批評を加へる。さういふ先生を増やすことに、僕はもつと時間とエネルギーを使ふべきであつた。さうしておけば、日本もこんなひどい國にならなくてすんだかもしれない。(川村二郎「孤高」)
とあります。正字・正かなの教科書を音讀させ、作文を添削する、この正統國語教育の復活こそが「日本を取り戻す」鍵なのです。

練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

現代仮名遣いは「主として現代文のうち口語体のものに適用する」とあり、「主として」だから「現代文のうち口語体のもの」以外にも適用可能であり、既に和歌では普通のことであり、古典を含め文語文の現代仮名遣い表記も文部科学省主任教科書調査官の著書で容認している
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2016年07月04日

歴史的假名遣事始め (十九) 市川 浩

クイズで遊ぶ歴史的假名遣(十九)(平成二十八年七月一日)

先月のクイズ解答
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

契冲が、仮名遣いの基本を過去の文献に依拠するとして、特に古事記、日本書紀、そして
万葉集の表記を参考としたというが、これ等三書に共通する上代特殊仮名遣が無視されているのはおかしいではないか。

この主張に對する反論の一例を擧げます。

上代特殊仮名遣として記・紀萬葉の奈良時代に清音十三(古事記十四)、濁音七に二種の書き分けがあつたことは事實であり、「(古事記の)十四の假名まで假名遣として區別すべきだといふ論理も、當然成立するのであり、これを徹底させなかつたのは、(古代の假名遣に復するといふ)理念に忠實でなかつたといふことになるかも知れない」(築島裕『歴史的假名遣い』括弧内市川)など歴史的假名遣の存立基盤を覆すやうに見えなくもありません。ただ、漢字傳來により書き言葉が誕生し、その初期の完全表音的「萬葉假名」から、音韻差を整理した謂はゆるいろは四十七文字の「假名」への進化の過程で、上代特殊仮名遣が恰度臍の緒のやうに自然消滅したと考ふべきでありませう。重要なのはこの「進化」が決して人爲的なものではなく、日本語そのものの攝理であつたことです。かくて契冲は和字正濫鈔の序に於て

「我埜山準竺墳字母有四十七言裁以呂波歌。世人溥學至今則之以有限字述無窮心可謂千古絶妙百世依憑實我國字母也」
(我が埜山竺墳に字母四十七言有るに準じ以呂波歌を裁(した)つ。世人溥く學びて今に至る。則ち之限り有る字を以て窮り無き心を述ぶ。千古の絶妙百世の依憑、實に我國の字母也と謂ふ可し。)
(注)「我が埜(=野)山」は契冲が修行した高野山の開祖弘法大師空海、いろは歌の作者と長く信ぜらる。「竺墳」は天竺(インド)の墳墓に殘る文字、即ちサンスクリット、入唐した空海は長安で般若三藏に學び我が國最初の習得者となる。

と明確に四十七字母に立脚して假名遣を定義するに至つてゐるのです。これが今日の歴史的假名遣の根本義であることは言ふまでもありません。

練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

嘗てソ連崩壊で独立を回復したモンゴルでは、それまでのキリル文字を改めて、古来の国字モンゴル文字を復活させたが、結局民衆はそれを読めず、旧へ戻つた。正字・正かなを復活出来たとしても、一般民衆はもはや読み書き出来ない。
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2016年06月30日

數學における言葉 河田直樹

 長年「數學ヘ師」を‘なりはひ’にしてきた者です。これまで「現代數學社」という出版社から出てゐる數學專門の月刊誌に何度か連載したことがありますが、しかしかういふ月刊誌では‘數學’から大きく逸脱した記事はなかなか書けないもので、こちらの無知蒙昧も手傳つてどうしてもある種の遠慮が働いてしまひます。しかし、この度、せつかくこのやうな場を與へられたのですから、さうした遠慮を思ひ切り取つ拂ひ、夜郎自大的になるかもしれませんが、獨斷と偏見を恐れずに當方の考へてゐること、感じてゐることを自由氣儘にゆつくりと綴つてみようかと考へてゐます。
「數學」を受驗生にヘへてゐて最も氣になるのは、「數學における言葉の問題」です。この言葉にはひと言では言い盡せない筆者のさまざまな思ひが込められてゐます。
たとへば、數學における最も基本的な“コトバ”である「數」とは何か?「點」や「線」といつた言葉は何を意味してゐるのか?「無限」とか「連續」といった言葉が登場する數學といふ言語體系とは一體いかなるものか?また、數學言語による事物認識とは何なのか?またその對象は何なのか?さらに言語で‘數學’を考へる人間の最奥にある最も根源的な衝動あるいは欲求とは何なのか?等々、かうして擧げていけば切りがありません。
 いま、「點」や「線」といふ言葉は一體何を意味してゐるのか、といふことを申し上げましたが、これに關聯してすぐに想起されるは、森鷗外の「かのやうに」という哲學的短編小説で、國史の研究を畢生のテーマとしてゐる秀麿が、學習院の同級生の綾小路に語る次の言葉です。
 
 そこで人間のあらゆる智識、あらゆる學問の根本を調べて見るのだね。一番正確だとしてある數學方面で、點だの線だのと云ふものがある。どんなに細かくぽつんと打つたつて點にはならない。どんなに細くすうつと引いたつて線にはならない。どんなに好く削つた板の縁も線にはなつてゐない。角も點にはなつてゐない。點と線は存在しない。例の意識した嘘だ。併し點と線があるかのやうに考へなくては。幾何學は成り立たない。あるかのやうにだね。コム・シイだね。

 このあと秀麿は「自然科學」方面のことにも言及し、「物質と云ふものでからが存在はしない。(中略)元子も存在はしない」と、いまの私たちから見るとちよつと疑問に思はれることも語るのですが、それはともかく、「數學」については、鷗外の「かのやうに」の哲學は確かに納得できることです。ここには。プラトンの「イデア論」に通底するものがあり、また近世數學が點を實數の組 で認識する以前の問題があります。これについてはいまは深入りせず、いずれ深く考へてみたいと思つてゐますが、このやうなことは數學專門の月刊誌ではなかなか書けないものです。
ところで、私は受驗生の數學に對する心構へとして、唐突な感じがしますが、これまた鷗外の散文詩のような美しい短編「杯」の第八の娘の「MON.VERRE.N’EST.PAS.GRAND.MAIS.JE.BOIS.DANS.MON.VERRE.(わたくしの杯は大きくはございません。それでもわたくしはわたくしの杯で戴きます)」といふ言葉を、しばしば取り上げます。實はこの娘の心意氣こそは、數學という學問と付き合ふ第一歩だと私は考へてゐるのですが、これについては次回、『現代數學への道』の著者中野茂男氏の言葉を取り上げて、お話ししてみたいと思ひます。
                    (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 12:16| Comment(0) | 市川浩