2017年06月24日

ブックセラピー(その11) 根に還る、寢に歸る。よみがへる。 原山建郎


先だつて、知人から苦情とも相談ともつかぬ話を聞いた。
「ある本に、アメリカの生物學者が行つた實驗で、三十數センチ四方、深さ五十センチの木箱で育てた一本のライ麦の根の長さが、總延長で一萬一千二百キロメートルに達した、これはシベリア鐵道の一・五倍ぐらゐになると書かれてゐた。
にはかには信じがたい數字なので、インターネットで調べたが、一つもヒットしない」
そこで、私も知人と同じキーワードで檢索してみたが、やはり引用元の文献は出てこない。

ところが、別のキーワード(ライムギ、根毛の長さ)で檢索をかけると、九州大學・和田信一郎教授がHPに公開中の教科書『土壤學』に、「いくつかの作物の根、根毛の長さ」の表=ディットマー(PDFの三六ページ)がヒットした。
この表は、面積一平方メートル、深さ一五センチメートルの表土あたりの量に換算した數字で、ライムギの根毛の長さは三四七〇キロメートル、同じくエンバクは一七〇〇キロメートル、ケンタッキーブルーグラス(芝草)は一一一〇〇キロメートルといふ数字が出てゐた。
先の實驗とは異なる計測法なので、單純に比較するわけにはいかないが、これらの作物の根毛の長さは驚嘆に値する。
そもそも、この本の著者は、いのちの實感をとりもどす手がかりとして、一本の苗のいのちを支へる根の長さを論じたわけなので、それがライムギであれ、芝草であれ、見えない根によつて生かされてゐるいのちの營みは尊く、そして重い。

「樹高千丈落葉歸根(じゅこうせんじょうらくようきこん)」といふ中國のことわざがある。「どんなに遠く離れてゐても、人は故郷を戀しがる(いつか故郷に歸りたい)」の意で、直譯は「どんな高い木々の葉も、いつか落葉して根に歸る」となる。
つまり、春に生まれたはつぱのフレディが、秋に落葉し、冬に土(永遠のいのち)に還つていく「生と死」の物語を描いた『はつぱのフレディ――いのちの旅』(レオ・バスカーリア著、みらいなな譯、童話屋、一九九八年)の世界だが、そこには翌春、再び芽を吹く「再生」のシナリオが用意されてゐる。

グラフィつクデザイナーの松浦康平さんは、近著『文字の靈力』(工作舎、二〇一四年)の中で、「木」といふ文字の成り立ちにふれてゐる。
【木の字画には、幹があり、枝がある。そのためにこの字形は、枝のある木の姿を描くものだと説かれてゐる。
だが多くの人が指摘してゐるやうに、木の字をじつと見つめると、下の部分には、「根」の形が現れてゐることに氣づかされる。(中略)
古代の中國の人びとは、見えない根を引き出して文字の字画を組み立てた。】
(同書一三一〜一三二ページ)

同書には、また【樹木や植物が見せる死と再生の變容は、人びとに「神話的な時間」の存在を告げるものとなつた】とも、【時間といふものが、閉ぢた一つの輪、無限のくり返しをもつ輪になる】とも書かれてゐる。つまり、落葉は根に歸るのではなく、生命循環のシナリオに從つて根に還る。

夕暮どき、人々は「寢に歸る」ために家路をたどる。母なる大地に身をゆだね、目を閉ぢて眠る暗闇の世界は、「根に還る」ひととき、根の國への回路が開かれる、異次元の時刻である。
根の國とは、冥界(光のない闇の世界)、あるいは黄泉(やみ→よみ)の國である。また、死んだと思つた人が生き返ることを「よみがへる(黄泉の國から生還した)」といふ。
毎晩、根の國に還つて、冥界の「死」を體驗し、毎朝、目を覺まし、よみがへりの「生」を確かめる。毎日が、「死と再生」のドラマ。
(武藏野大學非常勤講師『出版ニュース』コラム Book Therapy no.42 )
posted by 國語問題協議會 at 12:26| Comment(0) | 市川浩

2017年06月02日

歴史的假名遣事始め (三十) 市川 浩

クイズで遊ぶ歴史的假名遣(三十)

先月のクイズ解答
問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

文字は元来保守的であるということ、仮名は発音の拘束を比較的こうむらないということ、此の二の属性が旧来(注:發音變化前)の表記を維持させるのである。
だが仮名というものは、純粋な音節文字として発明された。それが仮名の最大の特性でもある。したがって、発音変化の影響を受けるのは避けられない。そして、発音の拘束から自由であるということが、逆接的に作用すれば、(中略)当然そういう(注:「かは」(川)→「かわ」など)表記を可能にする。(中略)一つのことばは一通りの発音であるが、表記は二通り、ということである。(「かなづかい入門」23〜24頁)

この主張に對する反論の一例を擧げます。

この文章の問題點は「仮名というものは、純粋な音節文字として発明された」といきなり根據も示さず斷定してゐることです。議論の始めにこのやうな斷定を放置すると、相手の術中に嵌つてしまひます。まるで平安時代の中期に今の「國語分科會」のやうなものがあつて、「純粹な音節文字」の開發を推進したと言はんばかりですが、歴史的にそんな事實は確認できてゐません。百歩讓つて、當初こそ仮名が純粋な音節文字であつたとしても、漢字が使用する「地域」で發音が異つても、字形が同じである故に、あの廣大な大陸に一つの帝國が存在し得たやうに、假名が「時代」で發音が異つても、字形が同じである故に、長い年月の間一つの文化の存在を擔保したことを思ふべきではないでせうか。この連載では既に第十四囘(平成二十八年二月一日)に「生まれと育ち」として論じました。序でに申上げると、假名を「音節文字」と誤認させられて、ルビは表音式で振るのが正しいといつた説が横行して、最近文語文にさへそんなルビ振りが罷り通つてゐるのは許せない暴擧です。

練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

契冲仮名遣ははるかいにしえの人間との対話の道具であることに意味があるのであって、そもそも現実のコミュニケーションのためのものではなかつたのだ。
だが、歴史的仮名遣は、そんな現実生活と遊離した仮名遣の原理を受け継いで、現実生活の規範にさせられた。そこに無理があるのは言うまでもない。契冲仮名遣には古学という動機づけがあったが、日本人全員に課せられた歴史的仮名遣にはそれがない。にもかかわらず、契冲仮名遣とおなじ負担を強いられる。いや、それ以上の負担であった。(「かなづかい入門」111頁)
posted by 國語問題協議會 at 10:22| Comment(0) | 市川浩

2017年05月05日

歴史的假名遣事始め (二十九) 市川 浩


クイズで遊ぶ歴史的假名遣(二十九) 平成二十九年五月一日

先月のクイズ解答
問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

歴史的仮名遣が学問の成果に拠っていることは(中略)認めるにやぶさかではない。だが歴的仮名遣いじたいが学問的合理的であるか(中略)は別問題であろう。換言すれば、現代仮名遣いにも学問的合理性を認める余地があるということである。
それになにより、仮名遣いを議論するときに、その優劣の判定に学問的合理性が必要なのか(中略)。誤解をおそれずにいえば、わたしは仮名遣に限らず、「規範」というものに学問的合理性や正確性は必ずしも必要とは考えない。(「かなづかい入門」11頁)

この主張に對する反論の一例を擧げます。

茲には二つの論點があります。一つは「現代仮名遣い」にも學問的合理性があり、歴史的假名遣を凌駕するのか、もう一つは假名遣を「規範」と見る時學問的合理性が必要なのかといふ問題です。
先づ現代假名遣に學問的合理性が十分あるかといふことですが、告示から十年ほどは、現代假名遣が合理的であり、それに反して歴史的假名遣が如何に不合理なものであるか熾んに喧傳されました。しかし其の根據は「話し言葉の記録用に表音文字を中心とした書き言葉」といふ概念に基く西洋言語學にあり、其れは其れで一つの「學問的合理性」があると言へますが、日本語に無條件では適用できないものがあり、逆に現代假名遣の不合理性が徹底的に暴かれたのです。特に決定打となつたのは言ふまでもなく福田恆存先生の「私の國語教室」ですが、本書では全く觸れず、「參考文獻」にすら載つてゐません。
次に假名遣は法律とは異る「規範」であるといふ概念には、それが「文化」の所産であるといふ限り、私も贊成です。何故なら文化的規範は法律とは異り、文化として形作られ、長い年月の世代を經て傳承して來たものだからです。歴史的假名遣は當に漢字傳來以來、日本語の書き言葉として長い歴史と共に發展して來たもので、全ての時代に於ける書き言葉の表現を可能としてゐます。しかし現代假名遣は西洋言語學を表面的に日本語に應用したものに過ぎず、發音が變化する毎に改訂しなければならない、つまり「現代」にしか通用しないのです。恰度世相に併せて改正が必要な「法律」に同じで、「規範」ではないのです。

練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

文字は元来保守的であるということ、仮名は発音の拘束を比較的こうむらないということ、此の二の属性が旧来((注)發音變化前)の表記を維持させるのである。
だが仮名というものは、純粋な音節文字として発明された。それが仮名の最大の特性でもある。したがって、発音変化の影響を受けるのは避けられない。そして、発音の拘束から自由であるということが、逆接的に作用すれば、(中略)当然そういう((注)「かは」(川)→「かわ」など)表記を可能にする。(中略)一つのことばは一通りの発音であるが、表記は二通り、ということである。(「かなづかい入門」23〜24頁)

posted by 國語問題協議會 at 10:33| Comment(0) | 市川浩