先月のクイズ解答
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。
現代仮名遣いは「主として現代文のうち口語体のものに適用する」とあり、「主として」だから「現代文のうち口語体のもの」以外にも適用可能であり、既に和歌では普通のことであり、古典を含め文語文の現代仮名遣い表記も文部科学省主任教科書調査官の著書で容認している。
この主張に對する反論の一例を擧げます。
昭和六十一年内閣告示の「現代仮名遣い」の前書き第四項に
この假名遣いは主として現代文のうち口語体のものに適用する
とあります。この文と全く同じ構造の
死刑判決は主として殺人罪のうち殘忍、惡質のものに適用する
を考へれば、「主として」だから殺人罪以外の罪にも死刑が適用できるとしても、それは餘程の例外的な場合に限ること明らかです。從つて「主として」だから「現代文のうち口語体のもの」以外に何でも自由に適用可能とはなりません。
この問題に就いては、國語國字第百九十三號(平成二十二年)に拙論を掲載してをります。
練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。
SNSやインターネットのホームページ等で正字・正かな表記をすると、「読めない」という苦情が殺到して結局新字・新かな表記にせざるを得なくなつた事例をよく耳にする。既に70年の歴史を経て、今や歴史的仮名遣いが読めない世代が圧倒的多数を占める現在、主張は読んでもらって何ぼなのだから、先ず相手の懐に入る為にも新字・新かなに妥協はやむを得ない。
2016年09月04日
クイズで遊ぶ歴史的假名遣(二十一)(平成二十八年九月一日) 市川 浩
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| 市川浩
2016年08月01日
歴史的假名遣事始め (二十) 市川 浩
先月のクイズ解答
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。
嘗てソ連崩壊で独立を回復したモンゴルでは、それまでのキリル文字を改めて、古来の国字モンゴル文字を復活させたが、結局民衆はそれを読めず、旧へ戻つた。正字・正かなを復活出来たとしても、一般民衆はもはや読み書き出来ない。
この主張に對する反論の一例を擧げます。
モンゴルでのことは殘念ですが、學校でモンゴル語での授業を受けた世代に望みを托したいと思ひます。
さて日本の正字・正かな教育をどのやうに進めるかですが、一つの例を御話しませう。私は特定非營利活動法人文語の苑での活動として、文語の讀み書きを御案内してをりまするが、文語作文の場合、受講者は御高齡の方が多いと言ひましても、既に現代假名遣で教育を受けた世代です。當然最初は歴史的假名遣が十分に遣へませんが、その都度説明添削することで、暫くすると殆ど間違はなくなります。
國語學の泰斗故大野晉博士最晩年の述懷に生徒に作文を書かせ、家に持ち歸つて誤字を訂正し、批評を加へる。さういふ先生を増やすことに、僕はもつと時間とエネルギーを使ふべきであつた。さうしておけば、日本もこんなひどい國にならなくてすんだかもしれない。(川村二郎「孤高」)
とあります。正字・正かなの教科書を音讀させ、作文を添削する、この正統國語教育の復活こそが「日本を取り戻す」鍵なのです。
練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。
現代仮名遣いは「主として現代文のうち口語体のものに適用する」とあり、「主として」だから「現代文のうち口語体のもの」以外にも適用可能であり、既に和歌では普通のことであり、古典を含め文語文の現代仮名遣い表記も文部科学省主任教科書調査官の著書で容認している
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。
嘗てソ連崩壊で独立を回復したモンゴルでは、それまでのキリル文字を改めて、古来の国字モンゴル文字を復活させたが、結局民衆はそれを読めず、旧へ戻つた。正字・正かなを復活出来たとしても、一般民衆はもはや読み書き出来ない。
この主張に對する反論の一例を擧げます。
モンゴルでのことは殘念ですが、學校でモンゴル語での授業を受けた世代に望みを托したいと思ひます。
さて日本の正字・正かな教育をどのやうに進めるかですが、一つの例を御話しませう。私は特定非營利活動法人文語の苑での活動として、文語の讀み書きを御案内してをりまするが、文語作文の場合、受講者は御高齡の方が多いと言ひましても、既に現代假名遣で教育を受けた世代です。當然最初は歴史的假名遣が十分に遣へませんが、その都度説明添削することで、暫くすると殆ど間違はなくなります。
國語學の泰斗故大野晉博士最晩年の述懷に生徒に作文を書かせ、家に持ち歸つて誤字を訂正し、批評を加へる。さういふ先生を増やすことに、僕はもつと時間とエネルギーを使ふべきであつた。さうしておけば、日本もこんなひどい國にならなくてすんだかもしれない。(川村二郎「孤高」)
とあります。正字・正かなの教科書を音讀させ、作文を添削する、この正統國語教育の復活こそが「日本を取り戻す」鍵なのです。
練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。
現代仮名遣いは「主として現代文のうち口語体のものに適用する」とあり、「主として」だから「現代文のうち口語体のもの」以外にも適用可能であり、既に和歌では普通のことであり、古典を含め文語文の現代仮名遣い表記も文部科学省主任教科書調査官の著書で容認している
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| 市川浩
2016年07月04日
歴史的假名遣事始め (十九) 市川 浩
クイズで遊ぶ歴史的假名遣(十九)(平成二十八年七月一日)
先月のクイズ解答
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。
契冲が、仮名遣いの基本を過去の文献に依拠するとして、特に古事記、日本書紀、そして
万葉集の表記を参考としたというが、これ等三書に共通する上代特殊仮名遣が無視されているのはおかしいではないか。
この主張に對する反論の一例を擧げます。
上代特殊仮名遣として記・紀萬葉の奈良時代に清音十三(古事記十四)、濁音七に二種の書き分けがあつたことは事實であり、「(古事記の)十四の假名まで假名遣として區別すべきだといふ論理も、當然成立するのであり、これを徹底させなかつたのは、(古代の假名遣に復するといふ)理念に忠實でなかつたといふことになるかも知れない」(築島裕『歴史的假名遣い』括弧内市川)など歴史的假名遣の存立基盤を覆すやうに見えなくもありません。ただ、漢字傳來により書き言葉が誕生し、その初期の完全表音的「萬葉假名」から、音韻差を整理した謂はゆるいろは四十七文字の「假名」への進化の過程で、上代特殊仮名遣が恰度臍の緒のやうに自然消滅したと考ふべきでありませう。重要なのはこの「進化」が決して人爲的なものではなく、日本語そのものの攝理であつたことです。かくて契冲は和字正濫鈔の序に於て
「我埜山準竺墳字母有四十七言裁以呂波歌。世人溥學至今則之以有限字述無窮心可謂千古絶妙百世依憑實我國字母也」
(我が埜山竺墳に字母四十七言有るに準じ以呂波歌を裁(した)つ。世人溥く學びて今に至る。則ち之限り有る字を以て窮り無き心を述ぶ。千古の絶妙百世の依憑、實に我國の字母也と謂ふ可し。)
(注)「我が埜(=野)山」は契冲が修行した高野山の開祖弘法大師空海、いろは歌の作者と長く信ぜらる。「竺墳」は天竺(インド)の墳墓に殘る文字、即ちサンスクリット、入唐した空海は長安で般若三藏に學び我が國最初の習得者となる。
と明確に四十七字母に立脚して假名遣を定義するに至つてゐるのです。これが今日の歴史的假名遣の根本義であることは言ふまでもありません。
練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。
嘗てソ連崩壊で独立を回復したモンゴルでは、それまでのキリル文字を改めて、古来の国字モンゴル文字を復活させたが、結局民衆はそれを読めず、旧へ戻つた。正字・正かなを復活出来たとしても、一般民衆はもはや読み書き出来ない。
先月のクイズ解答
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。
契冲が、仮名遣いの基本を過去の文献に依拠するとして、特に古事記、日本書紀、そして
万葉集の表記を参考としたというが、これ等三書に共通する上代特殊仮名遣が無視されているのはおかしいではないか。
この主張に對する反論の一例を擧げます。
上代特殊仮名遣として記・紀萬葉の奈良時代に清音十三(古事記十四)、濁音七に二種の書き分けがあつたことは事實であり、「(古事記の)十四の假名まで假名遣として區別すべきだといふ論理も、當然成立するのであり、これを徹底させなかつたのは、(古代の假名遣に復するといふ)理念に忠實でなかつたといふことになるかも知れない」(築島裕『歴史的假名遣い』括弧内市川)など歴史的假名遣の存立基盤を覆すやうに見えなくもありません。ただ、漢字傳來により書き言葉が誕生し、その初期の完全表音的「萬葉假名」から、音韻差を整理した謂はゆるいろは四十七文字の「假名」への進化の過程で、上代特殊仮名遣が恰度臍の緒のやうに自然消滅したと考ふべきでありませう。重要なのはこの「進化」が決して人爲的なものではなく、日本語そのものの攝理であつたことです。かくて契冲は和字正濫鈔の序に於て
「我埜山準竺墳字母有四十七言裁以呂波歌。世人溥學至今則之以有限字述無窮心可謂千古絶妙百世依憑實我國字母也」
(我が埜山竺墳に字母四十七言有るに準じ以呂波歌を裁(した)つ。世人溥く學びて今に至る。則ち之限り有る字を以て窮り無き心を述ぶ。千古の絶妙百世の依憑、實に我國の字母也と謂ふ可し。)
(注)「我が埜(=野)山」は契冲が修行した高野山の開祖弘法大師空海、いろは歌の作者と長く信ぜらる。「竺墳」は天竺(インド)の墳墓に殘る文字、即ちサンスクリット、入唐した空海は長安で般若三藏に學び我が國最初の習得者となる。
と明確に四十七字母に立脚して假名遣を定義するに至つてゐるのです。これが今日の歴史的假名遣の根本義であることは言ふまでもありません。
練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。
嘗てソ連崩壊で独立を回復したモンゴルでは、それまでのキリル文字を改めて、古来の国字モンゴル文字を復活させたが、結局民衆はそれを読めず、旧へ戻つた。正字・正かなを復活出来たとしても、一般民衆はもはや読み書き出来ない。
posted by 國語問題協議會 at 10:06| Comment(0)
| 市川浩