2022年05月18日

數學における言語(77) 中世~學論爭と數學−~學と科學

 「~學(theology)」といふ言葉を“広辞苑”で調󠄁べると、「宗教、特にキリスト教で、啓示に基づき教義や歴史や信仰生活の倫理などを組織的に研究する学問」とあります。では,「宗ヘ(religion)」とは何か? 同じく“広辞苑”には、「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事。また、それらの連関的体系」とあります。
 要󠄁するに、「~學」とは“超越的󠄁絶對者である~についての體系的󠄁學問”といふことができるかと思ひますが、敢へて誤󠄁解を恐󠄁れずに言へば、私自身は20代の頃から「西歐人にとつての“~學”とはその初めから“科學”と地續きであつた」といふ思ひを拭ひ去ることができないでゐました。實際さう考へなければ、たとへば、あのニュートンが『プリンキピア(自然哲學の數學的󠄁ゥ原理)』(1687年)で、「~は永遠󠄁にして無限、全󠄁能にして全󠄁知である。すなはち、永劫より永劫にわたつて持續し、無窮より無窮にわたつて存在する。萬物を統治し、ありとあらゆるもの、あるいはなされ得るすべての事柄󠄁を知つてゐる」などと記すはずはありませんでした。ニュートンをこんにち的󠄁意󠄁味で、“無~論的󠄁な冷嚴な科學者”と看做すのは誤󠄁りなのです。
 歐羅巴の學問(scientia:“scientia”は“science科學”の語源となつたラテン語)の理念を「~の計畫の理解」と規定される科學史家村上陽一郎氏は、「コペルニクスの『太陽中心説』は、彼の『神学的哲学』の中に埋め込まれた理論です。そこから引き剥がしてきて『地球が自転し、公転している』というところだけをもってコペルニクス説ということはできないのではないでしょうか」と語られ、さらに「ニュートンの場合でも同じです。いや、そうした全体的な『哲学』体系とは無縁の、単なる天文学の、またその一部の太陽系理論だけを独立して論じることができる、という立場は、19世紀後半に現れた『科学』のものであって」と述󠄁べられてゐます。私もこの村上氏の指摘はまつたくその通󠄁りだと思つてゐますが、逆󠄁に中世の~學論爭は、西洋人の科學(學問)論爭に他ならなかつたと考へるべきで、たとへば、ガリレオの宗ヘ裁判󠄁は、宗ヘと科學の對立ではなく、“舊科學と新科學の對立”なのです。
 唐󠄁突ですが、私は若い頃からヘーゲル(1770〜1831)の歷史哲學になぜか嫌󠄁惡感を抱󠄁き、その影響下で“辨證法的󠄁唯物論”を展開したマルクス(1818〜1883)やエンゲルス(1820〜1895)の“唯物史觀”に強い反撥心を持つてゐました。しかしその一方で、彼等の主󠄁張は“科學としての社會~學”に他ならず、その“無邪󠄂氣な理性信仰”の當然の行き着く先に“共產主󠄁義”が生まれてくるだらうといふことも、苦々しい思ひで納󠄁得してゐました。共產主󠄁義もまた~學論爭の延長線上にあるのです。
 『西洋の自死』(町田敦夫譯・東洋経済新報社)の著者ダグラス・マレーは、この本の第13章で、英國の~學者ドン・キューピッドの「現代の西洋の世俗的な世界は、それ自体がキリスト教の創造物」といふ言葉を紹介し、さらに「戦後の文化となった人権思想は、まるで信仰のように自らを主張し、あるいは信奉者によって語られる。人権思想はそれ自体がキリスト教的良心の世界版を根付かせようとする試みなのだ」と述󠄁べてゐます。ニーチェの侮蔑的󠄁高笑ひが聞こえてきさうです。
 私は、何が言ひたいのか? ここで私が述󠄁べたいのは、基督ヘ~學が“自然界”に向けられたときにいはゆる“科學”が生まれ、さらに“科學化󠄁された~學”が“人間社會”に向かふとき、共產主󠄁義や奇妙な人權思想が“宗ヘ”になつた、といふことです。
 心理學者河合隼雄氏は「西洋近代の文明というとき、日本人がよく誤解するのは、その科学をあまりにもキリスト教と対立的に捉えてしまう点である」と警鐘を鳴らしていらつしやいますが、西洋人にとつて、~學と科學とは同じ兩親から生まれた雙生兒であり、私たちは、このことを十分に自覺した上で、中世の~學論爭やその歷史を槪觀していく必要󠄁があるのです。(河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 12:30| Comment(0) | 河田直樹

2022年04月10日

數學における言語(76) 中世~學論爭と數學への序曲−言葉の問題(V)

 日本では“~學論爭”と言へば、「單なる~學論爭に過󠄁ぎない」といつたやうに惡い意󠄁味で使はれ、それは“無意󠄁味な論戰、水掛け論”とほぼ同義語といふことになつてゐます。しかし、滑稽なことに~學そのものに無知である私は、その“~學(theology)”なるものに、若い頃から強い興味關心を抱󠄁いてゐました。といふのも、それは生きてゐる人間の苛烈な“世界解釋衝動”から生まれた莊嚴な言語體系であり、死すべき有限な人間が、その時點でこの世界の未決の問題すべてを見通󠄁し終󠄁はらせるための論理的󠄁言葉の集積點に思はれたからです。なぜ、このやうな言葉を欣求するのか? これについては拙著『數學における言語』(文字文化󠄁協會)の第2章や第9章を參照して頂ければ幸甚ですが、そこでも少し言及󠄁したやうに、私自身はその根源には“エロティシズム”の問題が深く關與してゐると感じてゐて、いづれこのブログで論じる積りです。
 “莊嚴な言語體系”としてすぐに思ひ浮󠄁かぶのは、トマス・アキナスの『~學大全󠄁(Summa Theologicae)』ですが、そもそも日本語にはこのやうな“言語システム”が可能なのか、といふ疑問が私には若い頃からありました。前󠄁2囘と今囘で“言葉の問題”を考へてゐるのもそのためですが、一般に多くの日本人は、なぜ理窟(あるいは屁理窟)を蔑み、言葉の駄洒落や語呂合はせを好むのでせうか? それが惡いと言ふのではありませんが、空疎で“生眞面目な道󠄁コ的󠄁”スローガンを受󠄁け入れるのに吝かではないのに、なぜ正確な言葉を一つ一つ積み重ねていく重厚でニュートラルな數式的󠄁言論を野暮だとして避󠄁けたがるのでせうか?『日本人とユダヤ人』の14章には次󠄁のやうな記述󠄁もあります。
 逆説的な言い方をすれば、まず、日本語が(日本語として)余りに完璧だからである。実に完璧なので、数式的・意識的訓練もうけずに、別の訓練で自由自在に駆使できるからである。一体どうして日本語は、こんなに軽々と(ある意味では無責任に)駆使できるのか。

 筆者によると、「日本語が完璧」である理由は「單語が實に豐富多彩󠄁であり、かつその單語の示す意󠄁味の範圍が非常に狹い」といふことで、I speak the truth to youといふ例をあげて、これは「われ汝にその眞理を吿ぐ」とも「ホントのことをお話しします」とも譯せますが、「眞理」と「ホント」が同一の單語(the truth)であることは日本語ではあり得ない、と指摘されてゐます。さらに、筆者は續けて「言葉を使うということは、『重い戦棍(せんこん)を持ち上げて振りまわすほど』大変なことのはずなのに、日本人は、まるで箸を使うように、何の苦もなく自由自在に使い、かつ使い捨ててしまう。(中略)日本人ほど安直に言葉を使い捨ててしまう民族は、おそらくは他にないであろう」とも語られてゐます。なるほど、戰後日本人が“正字正假名遣󠄁ひ”を何の苦もなく捨󠄁てて、“新かな遣󠄁ひ”をやすやすと受󠄁容したことも頷けます。
 おそらく、多くの日本人には、言葉を使󠄁ふことが、すなはち“重い戰棍を持ち上げて振りまはす”ことだといふ自覺はないと思はれます。そして忘󠄁れてはならないことは、“~學論爭”はすぐに使ひ捨󠄁てられる類の言葉では行はれなかつた、といふことで、これは數學における言葉についても事情󠄁は同じです。
 ソロバン型思考とは、言つてみれば“アナログ的󠄁思考”であり、數式型思考とは“デジタル的󠄁思考”と言つてもいいかもしれませんが、私自身は、さらにマイケル・ポランニーの“暗󠄁默知”のやうなものを考へて、一方が他方を補完する關係にあると感じてゐます。なほ、“アナログとデジタル”については拙著『数学的思考の本質』(PHP研究所)の第2章を、また“暗󠄁默知と數學理論”については『暗黙知の次元』(ちくま学芸文庫)の第T章を參照していただければ幸甚です。
 ともあれ「聖󠄁書とアリストテレスの論理學で一千數百年訓練された西洋人の思考の型が數式的󠄁なら、日本人の思考の型は正にソロバン型」であり、私たちはこのことを十分自覺した上で、歐羅巴中世の“~學論爭”を考へていくべきなのです。      (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 16:15| Comment(0) | 河田直樹

2022年02月12日

數學における言語(75) 中世~學論爭と數學への序曲−言葉の問題(U)

 『日本人とユダヤ人』の14番目の章「プールサイダー―ソロバンの民と数式の民」も大變興味深く讀んだ記憶があります。“プールサイダー”とは“プールサイドにいて、人の泳ぎ方を巧みに批評する人々”のことで、これは“山本書店主の造語”ださうです。それはともかく、要󠄁するに“ソロバンの民”とは日本人、“数式の民”とはユダヤ人(ヨーロッパ人)のことで、この章では日本人とヨーロッパ人の“言語思考”の違󠄂ひが論じられてゐるのです。たとへばこんな記述󠄁が見られます。
 数の訓練といえば、日本人はすぐにピンと来るが、言葉の訓練と言っても、さっぱりピンとこないのである。特に会話の訓練を、ソロバンのように的確に徹底的に習熟させる伝統は日本には全くない。従って、正面切った会話を主体とした文学作品は日本にはない。このことは三島由紀夫氏も指摘しているが、プラトンの対話篇のような作品は日本にはなかったし、今後も出ないであろう。

 私自身「日常會話に習󠄁熟する訓練」を受󠄁けた經驗はありませんし、現在「發言力やディベート力」の必要󠄁性が喧傳強調󠄁されてはゐますが、1970年から50年以上經つたこんにちでも、日本人の思考樣式はほとんど變はつてゐないやうに感じられます。日本では“プラトンの對話篇”のやうな作品は、さほど好まれてはゐないやうに思はれますし、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』やトーマス・マンの『魔の山』のやうな“會話を主󠄁體”とした有名な文學作品もすぐには思ひ浮󠄁かびません。『魔の山』は年ハンス・カストルプをめぐる一種の“ヘ養小說”ですが、第6章の“セテニブリーニ氏とナフタ氏との論争”は壯絶を極めたもので、この二人の“言語バトル”の妙味は日本の小說からは決して味はへないものです。さらに、次󠄁のやうな指摘にも、“言葉に對して不器用”だつた數學少年の私は强い共感をもつたものです。
 ラテン語を学んでいたあるお嬢さんが、「ラテン語ってまるで数式のような言葉ですね」と私に言ったことがある。ヨーロッパ人にとって、言葉とは本来そういうものであり、文章とはある意味では言葉の数式だから、これは当然のことであるが、このお嬢さんにとっては、驚異だったのであろう。

 「文章とは言葉の數式」とは言ひ得て妙で、すでに昭和45年には水谷静夫著『言語と数学』(森北出版)のやうな本も出てをり、“言葉と數式”の關係について注󠄁目され始めてゐました。實は、私自身水谷氏の著作に學生時代接していろいろと啓󠄁發されましたが、特に「第3章 短い間奏曲」の以下の記述󠄁は印象に殘つてゐます―「言語を言語行為にほかならないと主張して理論を打ち出した人に時枝(もと)()(1900〜1967)があります。時枝の言語過程説は江戸国学の現代版とも見られますが、それに時枝自身は言語の数理的研究に余り興味を示しませんでしたが、この流れの研究はいろいろな点で現代の数学的な扱い方に載りやすいのです」。言語はエルゴン(作り出されたもの)ではなくエネルゲア(作り出す働き)だと主󠄁張したのは言語學者W.フンボルトですが、“時枝の言語過󠄁程󠄁說”とはこれに他なりません。時枝博士が“言語の數理的󠄁硏究”に餘り興味を示されなかつたことは殘念ですが、近󠄁年では『言語の科学』(岩波講座全11巻)、『新・自然科学としての言語学』、(福井直樹・ちくま学芸文庫)、『新・脳科学基礎論としての生物言語学』(有川康二・三恵社)などのやうな“言語と數學”について論じた本が多數出版されてゐます。福井氏の本には黒田(しげ)(ゆき)氏(1934〜2009)の「数学と生成文法」といふ附錄があり、「構造としての数学とコトバの構造との間に何らかの掛かり合いがあるのであれば、ヒトの進化の上で数学的知識の獲得とコトバの発生のあいだにも何らかの関係があったのかもしれない」とあります。
 かうした專門家の硏究にも關はらず、しかし俳句・短歌あるいは落語・漫談を愛好する多くの日本人が、言葉を數式として扱󠄁つてゐるとは到底考へられません。良し惡しはともかく、現代日本人もやはり“ソロバンの民”と言ふべきなのでせう。  (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 15:30| Comment(0) | 河田直樹