2018年12月07日

數學における言語(37)希臘数学における無限( U ) 河田直樹 數學における言語(38)非ユークリッド幾何と日本ブンガク(T)

(37)希臘數學における無限(U)
 2本の平行線l、mに對して右圖のやうに第3の直線nが交はってゐるとき、同位角a,bについてa=bが成り立つことはよくご存じかと思ひます。
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大方の讀者の方は、そんなこと“見れば自明”、矢印のやうに“平行移動”すればlとmをぴったりと重ねることができるから、a=bは明らか、と思はれるかもしれませんが、中學生の私はこの“命題”を「平行線の定義(兩端に無限に延長しても交はらない)」だけに基づいて何とか證明しようと、1ヶ月も考へ續けたことがあります。結局、そのときは諦めることになるのですが私は「平行線を移動すれば重ねることができる論據はどこにあるのか」とか、「“直線”といふ場合の“真っ直ぐさ”とはいったいどう言ふことか」とか、「lがmに右圖のように近づいても、双曲線とその漸近線のやうにlとmとが“無限の彼方”で交はるとは限らないのではないか」とか、そんなことをさんざん考へあぐねて、その擧句疲れ果ててしまった經驗があります。
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「平行線の公理」は謂はば“無限”を視覺化した世界で、「公理」(『原論』では、“公準”と譯されてゐる)とは、要するに萬人が証明なしで認める共通了解命題、あるいは議論を始めるにあたっての基本的な要請と言ふことができるのですが、後年、前回紹介した『原論』の「第5公理」の文言を知るに及んで、a=bが証明できると分かり、同時にユークリッドがなぜあのやうに表現せざるを得なかったのかも、うすうす納得しました。それにしても、「第5公理」は“公理”ではなく、もっと單純な要請から導き出される“定理”ではないのか、實はこのやうな疑念は古代のユークリッド幾何學の解説者たちの腦裡にも浮かんでゐたことでした。近藤洋逸(1911〜1979)の『新幾何學思想史』(この本の初版は大東亜戰爭末期の昭和19年に三一書房から出された)には、次のやうにあります。
  プロクロス(Proclos410〜485)の傳へるところによれば、ポセイドニオス(Poseidonios前135〜50)は平行線の定義を改變する。すなはち、平面上の二直線が等距離をたもてば、これらは平行であると呼び、そしてこの定義を用ゐて平行線の公準を「證明」する。こうした企圖は後世何回も繰り返し登場し、またそれに対して鋭い批判が加へられたのである。
 まことに興味のそそられる話ですが、すでに第10回目の「西洋への憧れと誤解」でも述べたやうに、以後二千年近くに亘って、西洋の数學者や思想家たちは、この“無限”と言ふ劇薬の混入していた“平行線の公理”と惡戰苦闘することになります。恐るべき格闘と言ふほかはありませんが、『新幾何學思想史』はこの知的格闘を、「平行線の公理」から説き起こし、先驅者「サッケリ、ランベルト」から「ガウス、ロバチェフスキー、ボヤイ父子」に至るまでの“非ユークリッド幾何”成立の經緯を詳細に論じてゐます。さらに、この名著は「リーマン幾何學成立の背景」や「非ユークリッド幾何學と哲學」の問題にも言及されてゐます。
現在では「三一書房」のものは絶版ですが、『近藤洋逸数學史著作集』(日本評論社)で讀むことができます。ひと言で述べれば、この書は、「現実世界の精緻この上ない正確な写し絵」であると考へられてゐた「幾何學の言葉」が實はさうではなかった、と言ふ驚くべき發見(發明?)物語です。少々大袈裟に言へば、この書で根源的に問はれるのは「言語(数學言語)とは何か」と言ふドラマチックな問いで、これは單に“數學の問題”ではありません。そして、そこにこそ非ユークリッド幾何學成立の真の意味があると私は考へてゐます。興味のある方は是非手にとって頂きたい、おそらくそこに「無限」を通して、劇的なる人間知性のドラマを垣間見ることができるはずです。

(38)非ユークリッド幾何と日本ブンガク(T)
 非ユークリッド幾何學(non-Euclidean geometry)について、その概要だけを少し説明しておきます。中學で教わる通常のユークリッド幾何學では、「平行線の第5公理」は、
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(1)直線l外の1点Aを通り、lに平行な直線がただ1本だけ存在する(圖T) 
と言ひ直すことができます。しかし、この公理を否定して
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(2)直線l外の1点Aを通り、lに平行な直線がまったく存在しないとしても、
(3)直線l外の1点Aを通り、lに平行な直線が無數に存在するとしても、實は論理的な矛盾を見出すことは不可能で、整合的な幾何學體系が得られます。普通、(2)の公理のもとに得られる幾何學を「楕円的非ユークリッド幾何學」、(3)の公理のもとに得られる幾何學を「双曲的非ユークリッド幾何學」と言ひます。なぜこのやうな無矛盾な幾何學が同時並行的に形成されるのかを理解するには、やはりある程度の専門的知識が必要ですが、興味のある方には寺坂英孝氏の『非ユークリッド幾何の世界』(講談社BLUE BACKS)を薦めておきます。非ユークリッド幾何學の背後にある根本的かつ普遍的な問題は、人間の「無限認識」のそれであり、この點さえしっかり見据ゑておけば、數學嫌ひの人にも非ユークリッド幾何が面白く付き合へて頂けると私は考へてゐます。
 ところで、これは「木に縁(よ)りて魚を求むる」の類かもしれまんが、私は、日本の小説家や文學者の文章の中に「非ユークリッド」という言葉を見つけたことはほとんどありません。もちろん、「イナガキタルホ」は例外中の例外ですが、これまで私がこの言葉を發見したのは、わづかに三島由紀夫の『小説とは何か』の十一節の次の文章です。
  「豊饒の海」を書きながら、私はその終りのはうを、不確定の未來に委ねておいた。この作品の未來はつねに浮遊してゐたし、三巻を書き了へた今でもなほ浮遊してゐる。しかしこのことは、作品世界の時間的未來が、現實世界の時間的未來と、あたかも非ユークリッド数學における平行線のやうに、その端のはうが交叉して融け合つてゐるといふことを意味しない。(ゴチック體:河田)
「交叉して融け合つてゐる」とは、いかにも三島由紀夫らしいレトリックですが、彼は「融け合つてゐることを意味しない」と述べることによって、いったい何を言ひたかったのでせうか。私のやうな數學屋からすれば、「たとへ非ユークリッド幾何であっても、交叉して融け合ふことなどあり得ないのが平行線」であり、これは形容矛盾ではないかと思はれるのですが、要するに彼は、二種の時間は融け合ふことなく、一方が他方を斷罪するほかない、と確信してゐたのでせう。
 三島由紀夫は『文章讀本』で、「日本人は奇妙なことに男性的特質、論理および理知の特質をすべて外來の思想にまつたのであります」と述べ、また「日本語獨特の抽象概念にあたるものは、いつも情緒の霧にまとひつかれ、感情の濕度に濕潤されて、決して抽象概念すら自律性、獨立性、明晰性を持つことはできませんでした」と語ってゐます。そして、「日本の根生(ねおひ)の文學は、抽象概念の欠如からはじまつた」と、日本文學に止めを刺してゐます。もって至言といふほかはありませんが、私などからすればそれこそ「端のはうが交叉して融け合つてゐる」といふ表現は、「情緒の霧にまとひつかれ」た物言ひに思はれます。
 こんにちでもよく「和魂洋才」といふ言葉を耳にしますが、「平行線の公理」を二千年以上に亘って考へ續けるなど、「才」のよくし得るところはありません。むしろ、そこには日本文化がこれまで持ち得なかった「魂」があり、精神の眞髓があります。西洋は單に皮相な「物質文明」だけを追及してきたのではなかったのです。   (河田直樹・かはたなほき)
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2018年11月05日

希臘數學における無限(T)(36)

 前回の最後に、古代希臘人たちは、「無限を有限以上に價値のあるもの」とは理解しなかつた、と述べておきましたが、今回から希臘數學における「無限」について少し考へてみたいと思ひます。
 結論を先に言つてしまへば、希臘數學は現在の私たちが學校數學を通して學んだ「極限」や「無限」を注意深く、意識的に忌避してゐる、あるいはまだそれらを發見(發明?)してゐない、といふことです。これはこれまで述べてきた古代希臘の無限思想の當然の歸結と言ふうべきですが、私たちは、このことを十分自覺しておく必要があります。なぜなら、さうでなければ、29回目で述べたやうに、ほとんど徒勞かつ無意味とも思はれる中世の神學論争が、「極限」やカントルの「超限順序數」といった“到達不可能な存在”の純化と實体化を可能にしてきた、といふ歴史的經緯とその必然性が理解できないからです。私が、時代錯誤的な神學論争を無意味とは考へてゐないゆゑんで、獨斷的に言へば私はここに「劇的なる人間精神」を見るのです。
 下村寅太郎は『無限論の形成と構造』の中で次のやうに語つてゐます。
  近世は無限を有限以上のものとして理解する。實際に近世のわれわれは、實在的にも價値的にも無限を有限以上のものと解することに慣れてゐる。むしろこれを自明としてゐる。しかしこれは近世的な一つの理解であつて、現に古代においては、ギリシャ人は逆に無限を有限以下のものとして理解した。彼らにおいては無限はάπειρονとして、限定されてゐないもの、限界のないものであり、したがつて、形態のないもの、「形相」すなわち本質のないものである。
 さらに彼は、希臘語においてάπειρονは、初めも終わりもないものやある部分を他の部分から區別する境界や端点を有しないものを表し、文獻學者コーンフォードを援用しながら、「無限な圓、無限な球」(ホメロス)、「無限な指輪(=繼目のない丸い指輪)」(アリストファネス)、「無限な仲間(=祭壇の周りに丸く並んだ婦人たち)」(アイスキュロス)、「無限な生地(=縫目のない下着)」(エウリピデス)といふ言い方を紹介してゐます。いずれにせよ、これまで述べてきた「古代希臘の無限思想」を想起すれば、下村の言説は容易に納得できるかと思はれますが、それにしても私にとつて眞の問題は、「では、なぜ近世が無限を有限以上に理解するようになったのか」といふ問ひです。いづれこの連載で、この問ひを考へていきたいと思ひますが、先を急ぐのはやめませう。
 先ほど、希臘數學は注意深く「無限」を避けてゐる、と述べましたが、その最も典型的な例が、ユークリッド(前330年頃〜前275年頃)の『原論(ΣΤΟΙΧΙΑ)』の中に見られる有名な「平行線の公理(第5公理)」です。中學の幾何では、普通2本の平行な2直線は無限に延長しても交點(てん)を持たない
といふ風に教はりますが、實はユークリッドはこのやうな言ひ方をしてゐません。彼は、1直線が2直線に交わり同じ側の内角の和を2直角より小さくするならば、この2直
 線は限りなく延長されると、2直角より小さい角のある側において交わる
と述べてゐます。
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すなわち、上図で「a+b<180°ならば、左側において2直線は交わる」と要請してゐるのです。「交点を持たない」ではなく有限な地点で「交点持つ」といふ表現で平行概念を述べてゐる點が注目すべきところです。さらに、「限りなく延長される」といふ言ひ方は、近世的な「無限延長」を意味してゐるのではなく、「限定されることなくどんどんと伸ばしていく」といふ意味であり、さうすると「限界付けられた有限な地点」において「交点をもつ」とユークリッドは主張してゐるのです。現代人の私たちからすると、かなり回りくどい表現ですが、むしろここに希臘數學の無限思想を讀みとることができるのです。
(河田直樹・かはたなほき)
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數學における言語(35)  古代希臘の無限思想(Y)

 古代希臘の無限思想を考へる場合、どうしても避けて通ることができないのが総総括までもなくアリストテレス(前384〜前322)です。彼は謂はば、古代希臘の無限思想の總括者であり、その具體的な言説は主に『自然學』によって知ることができますが、ソクラテス以前の哲學者からプラトンに至るまでの無限思想、哲學用語の定義、またアリストテレス自身の數學観なども述べた『形而上學』も參考になります。
 よく知られてゐるやようにアリストテレスは「無限」を「可能的無限」と「現實的無限」の2つに分類してゐますが、これは彼の「デュナミス(可能的存在)」と「エネルゲイア(現實的存在)」といふ哲學上の基本概念が反映されたものといふことができます。これらの言葉については『形而上學』第5巻第12章、第9巻第1章、第6章などで觸れられてゐます。「デュナミス」は「能力、可能性、可能態」といふ意味であり、「エネルゲイア」は「エンテレケイア(完全現實態)」に關聯した語で「現實活動、現實性、現實態」といふ意味で遣はれる、と述べてゐます。
 アリストテレスの“無限論”は『自然學』第3巻の第4章から第8章までに展開されてゐますが、彼は第4章の冒頭で「自然についての學は、大きさ〔空間的な広がり〕、運動、および時〔時間〕についての認識」であり、「これらの各々は無限なものであるか限られたものであるかのいづれか」であり、さらに自然の研究をする者の仕事は「無限なもの(アペイロン)について、果たしてそれが存在するか否か、また、それが存在するとすればその何であるか」を研究することだと記してゐます。そして、以下、ピュタゴラス、アナクシマンドロス、アナクサゴラス、デモクリトス、プラトン等の無限に關する言説をチェックし、さらに彼自身の無限論を展開して、第5章の最後に「現實態においては無限な物體は存在しない」と述べてゐます。ここで「無限な物體」といふ言葉が出てきますが、アリストテレスはこの言葉で「無限に大きな物體(限界を持たない物體)」を考へてゐたのでせうか。近代數學のフィルターを通した「無限」しか聯想できない私たちには、なかなか難しいところですが、ともかく「現實的無限は存在しない」と結論してゐます。
 第6章以降は、「可能的無限、潛在的無限」について考察されてゐて、結論を言へば、こちらの方の存在は認めてゐます。普通アリストテレスの場合、「可能的に存在する」とは、たとへば大理石を彫つてソクラテス像を造形した際、「大理石といふ質料(hyle)の中にソクラテス像といふ形相(eidos)が可能的に存在する」と考へますが、アリストテレス自身そのような考へ方をそのまま“無限論”に持ち込んではならない、と注意を促してゐます。實際、彼は第6章で以下のやうに記してゐます。
  無限なものが可能態においてある〔存在する〕といふのは、
そのやうにそれがやがて現實的に存在するにいたるであらうとの意味を含むものではない。(中略)けだし、一般に無限なるものは、その或る一つに繼いで他の一つがと絶えず相繼いでとられてゆく仕方で、ただし、とられてゆくその一つ一つは常に限られてゐるが、しかもその一つは常に他と異なつてゐるといふやうな仕方で、存在する。
 上の引用の“中略”以下の部分は、すでに30回目の連載でも紹介しましたが、要するに、空間や時間あるいは數は常に限界付けられた有限な大きさをもつ一定の形でしか存在せず、しかし、それを常に超え得るより大きなものが存在する、といふ意味でそれらは“無限”だ、とアリストテレスは主張してゐるのです。それが彼のいふ「可能的無限」ですが、端的に言へば、前回紹介した「アルキメデスの公理」のやうなものを思ひ描いていただければ、と思ひます。
 下村寅太郎氏は名著『無限論の形成と構造』で、近代人は「無限を有限以上に価値のあるもの」と理解するが、古代希臘人たちはさうではなかつた、と指摘されてゐます。希臘の無限思想を考へる場合、私たちは「無限、有限」といふ言葉自體をもう一度反省し、吟味してみる必要があつたのです。
posted by 國語問題協議會 at 18:56| Comment(0) | 河田直樹