2019年10月11日

數學における言語(51)プロティノス(U)

 プロティノスが彼の哲學を「かのもの,太陽,光」と言ふ言葉で繰り返し語つてゐることは前囘少し觸れましたが、たとへば彼は「かのものは、不動のまま(άκίνητον)であつて、氣持ちを動かすことも意志することも、一般に動かされることが全くないのに、その何かが存立するやうになつた」と語ります。勿論「その何か」とは恰も“不動點”のやうな「かのもの」に他なりませんが、さらに彼はその「かのもの」は、「環状放射(περίλαμψις)」を發してゐて、たとへば横溢する「燦然たる」を發する「太陽」がその例であると語ります。また、「かのもの自身は存在ではなく、むしろ存在の産出者なのである」とも指摘し、「かのもの(一者)からいはば流れ出てきた活動を、あたかも太陽から發するかのやうに考へたら、理に適ふことであらう。われわれは、知性的本性(νοητή ψύσις)すべてをも一種のと見ることになる」と述べます。
 プロティノスは、すでに述べたやうに「身體の中で生きてゐることを恥ぢてゐた人(私にはこれは大變重要な點ではないかと思はれる)」で、それゆゑ彼は現實世界を超越した「かのもの(一者)」を渇仰し、その一者から流出した光がまず「知性(ヌース)」を、さらに「靈魂(プシュケー)」を生み出し、その流出の末端には”惡”の分量が最も多い「質料(あるいは身體)」がある、と結論してゐたやうです。そして靈魂と質料の融合物である私たち人間の究極目的は、自己を見失つて「自己の外」に逃げ出すのではなく、人間精神の眞の故郷とも言ふべき「かのもの」への歸郷であると考へてゐました。
 われわれは、かのものの方へ傾くことによつて、それだけ存在の度合ひを高めることになり、われわれのよさ・・(幸福)もまたそこに横たはるのであるが、だが、かのものから遠去かつてゐることは、存在の度合ひを低めることになるのである。(『後期ギリシア哲學者資料集』131頁。)

 ここには「存在の度合ひ」と言ふ奇妙な飜譯語が顏を出してきて、今の私たちはその意味をすんなり了解することが困難ですが、要するにプロティノスは、人間は「環状放射光」の中心(かのもの=一者=太陽)との脱我的合一を希求して生きるべきだ、そしてそれが「幸福(存在?)の度合ひ」の高める生き方だ、と説いてゐるわけです。プロティノスもまた伊東靜雄同樣「太陽が幸福にする\未知の野の彼方を信ぜしめよ」(「冷たい場所で」)と切實に願つてゐたのです。 
 現代人にとつてかうした比喩的言説(あるいはお説教)は、いはゆる”科學的”根據のない繪空事と感じられるかもしれませんが、私如き空想的數學屋には空間における重力・電氣力の分布、氣流速度の分布などを表す「ベクトル場」が想像され、同時に靜雄の「あゝわれら自ら孤(こ)寂(せき)なる發光體なり!\白き外部世界なり」(「八月の石にすがりて」)と言ふ詩句や『反響』の「中心に燃える」と言ふ詩を聯想させてくれます。 
 かうしたプロティノスの「太陽と光」の神祕主義的な發想は、直ちに多くの讀者にプラトンの『國家』第6卷の「太陽の比喩」や第7卷の「洞窟の比喩」などを想起せしめるかもしれません。實際、プロティノスはプラトンから多大の影響を受けた人で、彼が新プラトン主義者(Neo-Platonist)と言はれる所以ですが、プロティノス自身も「自分の思想は皆プラトンの考へであつて何も新しいものはない」と語つてゐたさうです。鹿野治助(1901~1991)は「專門家も彼のプラトンの引用は頗る堂に入つたもので餘程熟讀した者でなければなし得ないとさへ云つてゐる」(筑摩書房『哲學講坐V哲學の歴史』)と記してゐます。しかし、プロティノスの思想はプラトンよりも詩的かつ宗教的で、その純度も高く紫水晶のやうな神祕的な光彩を放つてゐます。彼の思想がキリスト教神學を用意し、17世紀になつてもその影響は衰へずH・モアに代表されるケンブリッジ・プラトン學派を生み出したのも不思議ではありません。ともあれ、私にはプロティノスの「太陽」と伊東靜雄の觀てゐた「太陽」とがほとんど同一のものに思へてくるのです。(河田直樹・かはたなほき)
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2019年09月12日

數學における言語(50)プロティノス(T)

 プロティノス(204年頃〜270年頃)は、ナイル河の中流にあるリュコスといふ町で生まれ、28歳のときアレクサンドレイアの哲學者アンモニウス・サッカスの許で11年間學び、40歳のときローマに赴いて哲學學校を開き多くの弟子たちを育てたと言はれてゐます。弟子の中には女性の弟子たちもゐたやうですが、プロティノスの最期を看取つたのはエウストキオスといふ弟子で、彼は醫者でもありました。
 享年66歳、と言はれてゐますが、彼は「身體の中で生きてゐることを恥ぢてゐた」ので自分の誕生日も氏素性についてもほとんど語ることがなく、また著作も全く殘してはゐません。彼の言葉は弟子たちが殘した『エンネアデス(Enneades)』を通してのみ知ることができます。
 こんにち私たち日本人は、プロティノスの言説を『後期ギリシア哲學者資料集』(山本光雄/戸塚七郎譯編・岩波書店)によつて知ることができます。私はIyinsに從つて、プロティノスの哲學が「遠近法」を生み出したと述べましたが、實際上記の資料集を讀み返すとIvansの炯眼に脱帽したくなります。しかし、私自身は1988年に出た3刷の資料集を初めて讀んだとき、プロティノスと「遠近法」の連關などには思ひも及ばず、實はすぐに聯想したのは十代の頃から愛誦してゐた伊東靜雄の「太陽は美しく輝き/あるいは 太陽の美しく輝くことを希ひ」といふ詩句であり、そして青年の虚榮心から讀み齧つてゐたハイデガー哲學の「現存在(Dasein)」といふ言葉でした。私には、プロティノスが「新プラトン學派である」などといつた彼の哲學史的な位置づけや意味にはほとんど關心はありません。私の興味はプロティノスの言説に繰り返し出てくる言葉、すなはち「かのもの、太陽、光」や「自分の外に逃げるのではなく、自分の内にある光を直視せよ」といふ言葉にあります。言ふまでもなく、前者の言葉からは伊東の詩を、また後者の言葉からはハイデガーの未完の哲學「存在と時間」を聯想するわけですが、「Dasein」の「Da」には「明るみ」といふ意味が込められてゐたのはよく知られてゐます。
 少し脱線します(私の話はいつも脱線しますね)が、伊東靜雄の詩についていましばらく語るのをお許しください。と言ふのも、それがプロティノス哲學を瑞々しい形で把握するのには最適ではないか、また私自身がプロティノスをどのやうに理解してゐるかを讀者の方々にお傳へするには手つ取り早いのではないかと愚考するからです。
 今となつては「若氣の至り」といふほかはありませんが、私は二十歳すぎのとき『夏至の趾』といふ貧しい詩集を自費出版し、その詩集の最後に「伊東靜雄私論」といふ拙論も收めました。「反時代」に固執してゐた當時の私はすべて「歴史的假名遣ひ」で文章を書いてゐましたが、この詩集を、『詩人伊東靜雄』、『蓮田善明とその死』の御著者である小高根二郎氏に獻呈したところ、御丁寧なお返事を頂きました。もはや差し支へないと思はれますので、その一部を紹介します。
 「伊東靜雄私論」を拜讀。「春の雪」に觸れられてをりますが、私は丁度「風土と詩人」といふ主題のもとで、「春の雪」のところを執筆してゐたところだつたので、思はず、はつ!としました。お盆の日だつたので、伊東の導きだつたのかと思ひました。

 ちなみに、『蓮田善明とその死』には「死ぬことが文化だ」と記した三島由紀夫の「序」が付されてゐて、「小高根氏が蓮田氏の愛と死について語る筆致は、清澄高雅で、豪も死者の靈を傷つけず、生き殘つた者の不遜を免かれ、(中略)實證主義の卑賤に陷らず、無禮な分析を避けて」とあります。伊東の詩には「太陽、光」といふ言葉が多く登場します。「が幸福にする」(「冷たい場所で」)、「切に願はれたをして」(「わがひとに與ふる哀歌」)、「あゝわれら自ら孤(こ)寂(せき)なる發なり」(「八月の石にすがりて」)、「六月の夜と晝のあはひに/萬象のこれは自らる明るさのとき」(「水中花」)、「われ秋のに謝す」(「百千の」)といつた具合です。プロティノスにとつても伊東にとつても「太陽、光」は大切なテーマでしたが次囘もこれについて考へます。(河田直樹・かはたなほき)
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2019年07月26日

數學における言語(48)非希臘的數學者たち

 Ivinsの『Art & Geometry』「第4章 古代希臘から15世紀まで」には次のやうな主旨の記述があります。すなはち「古代希臘の幾何學の基本的な要請は“tactile-muscular”に基づいてゐたために、限界を突き拔けた無限を想定することができなかつたが、實用的な觀點からアルキメデス(前287〜前212)やアポロニウス(前262〜前200?)はさうしたものを考へるやうになり、さらに、哲學や藝術においてもアリストテレスからプロティノスの時代に同樣なことが起こつてきた」と。
 言葉の眞に意味における「知の巨人」アルキメデスには實にさまざまなエピソードが殘されてゐますが、彼は「取盡くし法(methodus exaustionibus)」によつて抛物線と直線とで圍まれた圖形の面積を求めた最初の人でした。誤解を恐れずに言へばこの面積計算には「極限概念(無限概念)」が利用されてゐますが、「取盡くし法」といふ言ひ方は近世以降のもので、實はこの方法はプラトンの友人であつたエウドクソス(前408?〜前355?)によつて發見されたものでした。それは本質的には第34囘で紹介した「アルキメデスの公理」と同値なものです。
 また、アポロニウスはパスカルに先立つて「圓錐曲線」を研究した人で、直圓錐を平面で切つた場合、その切り口に現れる曲線は、その平面と底面となす角θの大きさによつて、楕圓、抛物線、雙曲線になることも發見しました。すなはち、母線と底面のなす角をaとすると、

20190726.png

 θ<a[θがaに不足する(ellipsis)]⇒楕圓(ellipse)
 θ=a[θがaと一致する(parabole)]⇒抛物線(parabola)
 θ>a[θがaを超過する(hyperbole)]⇒雙曲線(hyperpola)
といふことになります。ここで注意しておきたいのは、このやうな議論の前提として、アポロニウスは上下に“無限”に廣がつた直圓錐面を考へてゐたことで、彼は確實に非限定の世界を視野に入れてゐました。
 アルキメデスやアポロニウスの他に、「反tactile-muscular」的發想で幾何學の問題を考へた人に、「月形による圓の方形化」を試みたキオスのヒッポクラテス(前470?〜前400)(醫聖ヒッポクラテスとは別人)や「圓の方形化問題」を考へたアンティポン(前450?〜前400?)などがゐます。ここでは深入りすることはできませんが、アリストテレスは『詭辯論駁論』のみならず『自然學』や『エウデモス倫理學』でもヒッポクラテスに言及し、またアンティポンの仕事は『自然學』第1巻第2章で批判してゐます。しかし、このアンティポンの方法は、20世紀に入り『ギリシア數學史』で名高いThomas Little Heath(1861〜1940)によつて「積分法」の萌芽として高く再評価されることになります。
 いづれにせよ「反tactile-muscular」的發想が幾何學に持ち込まれる大きな契機になつたのが、よく知られてゐる「三大難問」です。これは、
 (1)與へられた角を3等分すること
 (2)與へられた立方體の體積の2倍の體積の立方體を作ること
 (3)與へられた圓の面積と等しい正方形を作ること
といふ3つで、“定規とコンパス”だけで解決せよ、といふものです。(1)、(2)は1837年にWantzelによつて、(3)は1882年にLindemannによつてその不可能性が証明されましたが、現在では、これらの問題は「ガロア理論」のオマケのやうな練習問題になつてしまひました。
 冒頭で述べたやうに、Ivinsはアルキメデスやアポロニウスの「幾何學」に見てゐた「反tactile-muscular」的發想を、アリストテレス以後の新プラトン學派やグノーシス派の哲學者の中にも見てゐますが、私はこれを卓見だと考へてゐます。といふのも、グノーシス派以降のスコラ哲學が、單にキリストヘのヘ義をめぐる問題から生まれたものではなく、そこに「數學的論理と無限遠點(~)への信仰」といふ非キリスト者にとつても大變重要で普遍的問題が孕まれてゐるからです。これについては次囘以降に考察してみたいと思ひます。 (河田直樹・かはたなほき)


※先日、(48)を拔かして(49)を先に公開してゐました。お詫び致します。
posted by 國語問題協議會 at 06:08| Comment(0) | 河田直樹