2017年09月14日

日本語あやとり(16) 「西欧精神」について[T] 河田直樹・かはたなほき

 私は第10回目の最後に「西洋文化の普遍的精神とその淵源を眞に了解してゐた我が国の例外的知識人は、福田恆存ただ一人ではなかつたか」と書きました。
數學ができないくせに「歐米の『數學的精神』ばかりに強い興味と關心とを抱いてゐた數學少年」の私にとつて、奇妙な話ではありますが、福田恆存は劇作家でも飜譯家でも文學者でもなく、なによりもまづ、その「數學的精神の秘密」を明快に解き明かしてくれた人として登場してきました。彼の「西歐精神について」や「絶對者の役割」を初めて讀んだのは、もう40年以上も前のことですが、その文章ははじめから何の抵抗感もなく私の心にすうつと入つてきて、私はそれまでに讀んでゐた我が国の名立たる知識人たちの文章からは決して味はへない喜びを與へられました。それ以來、「福田恆存」は私にとつて我が国の知識人の中で「例外的な存在」になりました。
 「西歐精神について」は、昭和32年に発表されたエッセイですが、第二節の「封建性といふこと」の冒頭では、「今日、大抵の社會科學者が、また大抵の『進歩的文化人』が、なにかといふと、日本の『前近代性』とか『封建性』とかいふ。かれらにとつて、なにかおもしろくない現象があると、みんな『封建性』のせゐにしてしまひます」と語られます。「進歩的文化人」といふ言葉はもはや死語に近いのでせうが、しかしその心根は今日でもしぶとく生き延びてゐて、なにかと言へば「日本は遅れてゐる、前近代的だ、封建的だ」といつた言葉をしばしば耳にします。福田恆存はそのあたりの事情を「人々は日本の近代が西歐流の近代になりそこねてゐることばかり氣をとられて、罪をすべて日本の封建時代に歸さうとしてゐる」と述べ、さらに日本と西歐の近代の違ひを中世の在り方に見て、「その中世のちがひの根底は、宗教といふことにあります」と喝破してゐます。まことに的確な指摘で、さらに恆存は第三節「絶對への要求」で次のやうに述べます。

  私たち日本人には、絶對性といふ観念がない。したがつて、絶對神など、馬鹿馬鹿しいと思ふ。神だの絶對性などといふことは、照れくさくて口にだせないのです。超自然といふのもお化け以外にはありはしない。そのお化けも、實は大いに實在的です。私たちが超自然といふときは、ひやかすときとか、うさんくさいといふときにかぎります。(中略)日本人は五感で觸知しうるもの以外の存在を認めないのです。

 上の引用の冒頭は前回の最後でも紹介した言葉ですが、福田恆存は一方で、「絶對主義」といふ言葉を悪い意味、誤つて用ゐる事例に觸れ、「天皇崇拜とか、戰爭前の國家主義とか、あるいはまたスターリン主義とか、さういふものに適用します。もちろん、惡い意味です。日本人にもともと絶對といふ觀念のないところへもつてきて、右のやうに惡い意味で絶對主義といふ言葉を用ゐるものですから、ますます『絶對』の人気が悪くなる」と述べています。この事情は現在でほとんど同じですが、さらに恆存は「超自然の『超』もろくな意味に用ゐらない」とも指摘して、「超自然にしても絶對にしても、なぜさういふ誤用が起るのか、また、誤用ではないにしても、ごく部分的な転用しかおこなはれないのか」と問ひます。恆存はその問ひに對して、「いふまでもなく、私たちに、超自然、絶対の觀念がないからです」とこたへ、「超自然といふのは、文字どほり自然を超えるものであつて、この五感で觸知しうる自然界には存在しないものです。ですから、善かれ惡しかれ『度が過ぎてゐる』といふような程度の差ではありません」と、語ります。この指摘は大變重要で、前回私が述べた「數學における無限と有限とは決して連續するものではない」といふことに繋がつていきます。「度が過ぎてゐる有限」が、すなはち「無限」ではないのです。
                   (河田直樹・かはたなほき)
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2017年08月11日

數學における言語(その15) 無限と絶對 河田直樹(かはたなほき)

 
 長方形をいくら繰り返して2分割しても、正方形を矩形で覆ひ盡くすことは現實的には不可能なこと、そして、その一方でその操作を際限なく續けていけば、いつかは必ず覆ひ盡くすことができるのではないか、といふ‘心理’も私たちの中には存在し、それゆゑ、
          1/2+1/4+1/8+1/16+……=1 
という等式が成り立つのではないかと豫想できることも前回述べました。
ところで、多くの人は、1、2、3、・・・と數へていき、それが非常に大きくなつたもの、あるいは想像を絶するほど限りのなく大きな有限數、そんなものこそ「無限」という認識をお持ちではないか、と思ひます。つまり、「無限」とは、數を順次數へていけば、いづれはそこに到達できる世界であり、有限數の彼方においてそれは無限と曖昧に溶融し、そしてどこかで地續きになつてゐる、と思つてゐるふしがあるのです。
たとへば、平成6年(1994年)に出た井尻千男氏の『劇的なる精神福田恆存』(日本教文社)といふ本のプロローグには「戰後ヒューマニズムといふ人間についての無限肯定論はすでに始まつてゐたのである」といふ言ひ方が見られますが、これは福田恆存が苦々しく思つてゐた「戰後の無條件解放論」の井尻流の表現であり、この場合の「無限」は、「人間の形而下的欲望の際限もない」といふ意味であらうか、と推察されます。
かうした「無限」といふ言葉の遣ひ方には、先ほども述べたやうに「非常に大きな有限」といふ意味合いが込められてゐて、井尻氏の頭の中では「非常に大きな有限」と「無限」といふ言葉がどこかで繋がつてゐると言はざるを得ません。さうでなければ「形而下の有限世界における際限もない欲望肯定」に對して「無限」といふ言葉が使へるはづはありません。少々皮肉を言へば、むしろ言葉の眞の意味における「(形而上的、數学的)無限」を肯定すれば、「ヒューマニズムにおける無條件解放」は自づから停止せざるを得ない、といふのが私の持論です。なぜなら、「無限」は、「形而下世界における無際限の欲望肯定を斷念する」ことによつてはじめて得られるからです。
 すでに、雙子素數の存在について述べたやうに「際限もない形而下的知的欲望」の結果、いくら大きな雙子素數を見つけてもそれは「雙子素數が‘無限’に存在する」といふことを證明したことにはなりません。もし、それが證明されたとすれば、おそらく巨大な雙子素數の存在を具體的に調べるといふことは最早無意味となり、その形而下的探究には終止符が打たれるはづです。數学の形而上的「お終ひの雰圍気」とはそんなものであり、それが數学の絶對的「無限」なのです。
「濱の眞砂は盡きぬとも」と言ひますが、アルキメデス(前287頃〜前212)がゲロン王に捧げた「砂粒を算へるもの」で述べてゐるやうに、その數も所詮は有限に過ぎないわけで、「無限」と連續しているわけではありません。數学における「無限」と「有限」とは決して連續するものではなく、實は截然と區別されてゐるのです。ここに「絶對」の意味があり、このことは、幾ら強調しても強調し過ぎることはない、と私は思つてゐます。無限と有限とは全く別次元の物なのです。
 ここまで、私は何について語つてきたのか、實は、「數学」についてではなく、福田恆存の語る「西歐精神について」なのです。恆存は「私たち日本人には、絶對性といふ觀念がない」と語り、「西歐精神について」の中で次のやうに述べます――「絶對といふのは、その相對の世界にあらざるもの、すべてであり、永遠であるもの、つまり、この世には在りえないものであります」と。「無限」といふものは、絶對に「この世に在りありえないもの」であり、それは經驗科學がそもそも關知しえない原理です。恆存は「理想人間像について」では、また次のやうにも書いてゐます―「ぼくたちは自然的、物質的、肉體的な個體の生活原理とは異る、それと次元を異にする原理といふものを必要としないであらうか」。この「次元を異にする原理」こそ「無限」の原理に他なりません。(河田直樹・かはたなほき)
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2017年07月07日

數學における言語(14)無限等比級數

前回、以下のやうな等式
0.33333……=1/3 ・・・@
を紹介しましたが、この等式と、たとへば
3+7=10 ・・・A
といふ等式とを比較して、私が長い間考へてきたことは、この2つの等式の等號「=」は、生身の人間にとつてはその意味が根本的に異なるのではないか、といふことでした。
等式Aの等號は、言つてみれば現實的經驗世界(=身體世界=形而下世界)で確認することができます。たとへば、實際に3個のリンゴと7個のリンゴを用意し、リンゴに手で觸れながら數へていくと、右邊の「10」に到達できます。ここに人間固有の理知の力が働いてゐるとしても、等式Aは小學1年生でも了解できます。
ところが、等式@(左邊を「無限等比級數」といふ)は、前回にも申し上げましたやうに、現實的、經驗的には確認することができません。ここで、もう少し分かりやすい例を擧げてみませう。20170707zu.jpg

1辺の長さが1の正方形を考へ、右圖のやうに、これを半分に分割し、次に殘りの部分を半分に分割し、以下同じやうに、どんどん半分に分割していきます。すると、図から容易に分かるやうに、
1/2+1/4+1/8+1/16+……=1 ・・・B
といふ等式が成り立つことが豫想されます。

等式Bの左邊も、@の左邊と同様に「無限等比級數」と言はれるものですが、上に述べた操作を現實に繰り返し行つて、左邊が右邊の「1」になることが、実際に確認できるのでせうか?言ふまでもなく、自分の全人生の時間を費やしても、現實的には「1」に到達することは不可能です。にもかかはらず、數学の世界では、@やBは當然のやうに「論理的に眞」であるとして議論を進めていくのです。

では、何故論理的に眞とするのでせうか?それは、鷗外の言ふやうに、「等式Bの左邊」は「1」である「かのやうに」考へるからなのでせうか?あるいはまた、「演繹論理」ではなく「歸納論理」による法律學を確立した末弘嚴太郎(いずたらう)(1888〜1951)の言ふ「嘘の効用」として、等式Bを是認するのでせうか?斷じてそんなことはありません。「數學」においては、等式Bは「かのやうに」でもなければ、「嘘の効用」でもない、それは、「絶體的な眞」としての等式です。そうであるとすれば、これらを「眞」とする私たちの精神とは一體如何なるものなのでしせうか?

もちろん、日本で二人目のフィールズ賞受賞者である廣中平祐氏も「數學は技術を超えてはならないもの」と語られてをり、「無限級數」を數學教師として取り扱ふ時の私も、それを肝に銘じてゐます。しかし、その一方で「技術」の大前提である、「無限」自體を問ふ私といふ生身の人間がゐることも確かなのです。

フランスの數学者アンリ・ポアンカレ(1854〜1912)は、1、2、3、・・・という自然數系列にお終ひが、私たちの現前に現れない理由を「1つの操作が1度可能だと認めらさへすれば、その作用を際限なく繰り返して考へることができると信ずる理知の能力を私たちが肯定するところにある」と述べてゐます。しかし、私たちの「身體(=現實世界)」は「1つの操作を際限なく繰り返す」ことはできません。端的に言へば、私たちの身體はいづれ「死」に至り、1つの操作の“無限”の繰り返しは不可能なのです。 結局、小矩形で、1邊の長さが1の正方形を全て覆ひt盡くすことはできません。しかしその一方で「數学」が「無限」を容認し、すべて覆ひ盡くすことが可能であるとする、その精神的な淵源とは一體何なのでせうか。私が最も注目したいのは、この點なのです。         
(河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 20:56| Comment(0) | 河田直樹