2017年06月07日

數學における言語(その13) 線分の3等分点をめぐつて

前回は、私の數學への關心が、その有用性にではなく、例の圖式の右列に掲げた「人間、精神、身體」との関係にある、と申し上げました。
「人間」を「精神」と「身體」に分けて考へるといふ、いはゆる「心身二元論」は、デカルトをもつて嚆矢とすると言はれてゐますが、「余は思考す、故に余は存在す」といふ「精神が身體を發見する物語」は、名無しの猫ちやんによると「三つ子でも分る樣な眞理」といふことですが、私もこれからその「三つ子でも分る樣な眞理(?)」に則つて話を進めていきたいと思ひます。ただ、ここで注意しておきたいことは、「精神」や「身體」やの定義についてですが、取りあへずは精神=理知、悟性、思考(形而上世界、手で觸れ得ないもの)身體=肉體、運動、具體的個物(形而下世界、手で觸れ得るもの) といふ風に理解しておいて貰つてよいかと思ひます。理知と悟性とはどこが、どのやうに違ふのか、といつた疑問はここではひとまづ措いておきます。

このエッセイのはじめにも申し上げましたが、私は長年「數學」を生業にしてきましたが、小學高學年の頃から、數學ができる友人たちの數學好きと、自分のそれとは少し、いやかう言つてよければ決定的に意味が違ふのではないか、と感じてゐました。これは、實は私が數學教師になつてからも同僚の數學教師たちを見てゐてづつと感じ續けてゐたことでした。それはどういふことか、端的に申し上げると私は、「數學そのものよりも、それを支へてゐる人間精神、あるいは身體と不可分な心の在り方の方に強い関心と興味があつた」といふことです。ここは大切なところで、なかなか理解してもらへないので少し詳しく説明します。

小學5年生のとき、下圖のやうな「長さ1の線分の3等分点を作圖する」といふ問題を宿題として出されたことがあります。これは、圖のように平行線を利用すれば、すぐにその作圖をすることができます。20170607zu.jpg

實際、算數のきる同級生の一人はすらすらとこのやうに答へ、與へられた線分の3等分点を作圖し、先生も「よくできました」と、少しばかりの補足説明をしてそれで終はりでした。しかし、小學生の私は、どうしても納得できなかつたのです。1/3を小數に展開して1/3=0.33333……  ・・・(*)となることは知つてゐましたので、もし、數直線上を、0.3、0.33、0.333、・・・のやうに辿つて、3等分点を定めようとすると、この方法では永久に3等分点に到達できないのではないか、さうであれば等式(*)は何かをかしい、あるいは等式(*)の等号{=}を保證してゐるのは、一體何なのだらう、といふことでした。

これは明らかに「數學」から逸脱した問題ですが、實は同じやうな荒唐無稽な‘妄想’はすでに小學1年生の頃からありました。たとへば午後2時を告げる、居間の柱に掛けてあつた時計の「ボーン、ボーン」といふ音が聞こえる。それを聞いて私は「2時の次は何時だらう」と自問して、それは「2時1分でもなく、2時1秒でもなく、・・・」と考へ、結局、2時のすぐ次の時刻はないのだ、と想ひ至つたときの衝撃は、今でも忘れ難いものです。そして、「2時から2時1分」までの間には、ほとんど氣の遠くなるやうな時刻が詰まつてゐて、突如、「2時1分」には、自分が生きてゐる間には到達できないのではないか、それは遠い未来の彼方なのではないか、と感じられ、どうしてだか分かりませんが、輕い焦り、奇妙な焦燥感のやうなものを覺えたものでした。
 いづれにせよ、等式(*)の等號「=」を、「論理的に正しい」とし、それを保證してゐるのは、何なのか。實は、これは、後年私にとつては大問題になつていくテーマでした。
(河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 20:37| Comment(0) | 河田直樹

2017年05月10日

數學における言語(その12) 數學と自然・社會

 前回は、數學とそれを取り巻く世界との關係の概觀圖を提示して、私自身は「數學」と「自然科學、社会科學、工學、醫學」などとの關はり方にはさほど興味はない、と申し上げました。しかし、これはもちろん少々言い過ぎで、數學言語が自然現象の解明に多大の寄與をしてきたことは、科學史を繙けば直ちに了解できることで、「古典力學、相對論、量子力學、熱力學、宇宙論」や「生命化學、遺傳子工學」など、極大世界から極小世界まで、その至るところに顔を出す「數學」は、まことに心躍らせるものがあります。
 たとえば、「フーリエ級数」の創始者フーリエ(1772〜1837)は、彼の有名な『熱の解析的理論』の序文で「熱は、重力と同様に、宇宙の全物質を貫く。その放射は空間のあらゆる部分を占める。われわれの著作の目的は、この熱といふ元が從ふ數學法則を明らかにすることである。この理論は、今後、一般物理學のもつとも重要な一分野となるであらう」(吉川敦著『フーリエ現代を担保するもの』)と述べてゐますが、熱現象を數學的に解明せんとする、フーリエの滿々たる野心の傳つてくる文章です。「フーリエ級数」によつて、私たちは様々な直線や曲線を「無限個の三角関数の和」で表現することが可能になりましたが、フーリエ解析は現代の「通信理論」にはもちろんのこと、私たちが日常的に利用してゐるCDの音楽やDVDの映像などにも不可欠のものとなつてゐます。
 のみならず、「數學的思考法」は法學にも顔を覗かせ、「國際法の祖」と言われるフーゴ・グロティウス(1583〜1645)は、『戦争および平和の法』の「諸論第58節」で次のように語つてゐます。

  あたかも數學者たちが、彼らの數學を具體的な實態から抽象されたものとして取り扱ふやうに、私は法を取り扱ふ場合に私の心をいかなる個別的な事實からも引き離してきてゐるといふことを、わたくしは、いささかも嘘僞ることもなく、確言する。

 まことに天晴なmanifestoですが、グロティウスは第39節では次のやうにも述べてゐます。―「わたくしが關心事としてきたのは、自然法にかかはる事物の證明を、疑問の餘地のないやうなある種の基本的な概念に向かつて求めるといふことである。さうすれば、誰も自分自身に背反することなしにはそれらの證明を否認することができなくなるからである」と。私は、その昔この箇所を讀んだとき、グロティウスとほぼ同時代人のデカルト(1596〜1650)の『方法序説』第2部の「數學の問題から得ようと期待したのは、私の精神がいつも真理を糧とし、僞りの推論には甘んじないといふ習慣を得るため」といふ言葉を直ちに想起しましたが、「法」と「數學」とのアナロジカルな思考法は、こんなところにも發見することができるのです。
 數學と自然科學、社會科學、人文科學との關係について考へゆくとそれこそ議論百出の様相を呈しますが、政治、經濟分野と數學に關しても、たとへばウィリアム・ぺティ(1622〜1687)の『政治算術』のやうな著作が思ひ浮かびます。これはオランダやフランスと自國イギリスとの國力比較のために書かれたもので、この本には「土地の大きさと價値、人民、建築物、農業、製造業、商業、漁業、工匠、海員、兵士、公収入、利子、租税、餘剩金利、登記制度、銀行、人間の評價、海員および民兵の増加、港、位置、船舶、海上權力などに關する論説」といふ、實に長い副題がつけられてゐます。かうした多くのテーマがすべて數學と關はつてゐるわけで、數學の射程の廣大さが思ひ遣られます。
 話が脱線しましたが、當日の講演では、私は上で少し述べてきたやうな問題には、一切觸れませんでした。なぜなら、私の子供時代からの數學への嘘僞りのない切實な關心は、前回の圖式の右列に掲げた「人間、精神、身體」との關はりにあつたからです。
                   (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 19:37| Comment(0) | 河田直樹

2017年04月09日

數學における言語(その11) 數學を取り巻く外觀圖 河田直樹

 昨年(2016年)11月に、「日本ライプニッツ協會第8回大會」が東大の本郷キャンパスで行はれ、實は私も「ライプニッツの普遍數學と私の數學觀−言葉・無限・連續」といふう演題で講演を行ひました。
2010年に私は少年時代から強い關心を持つてゐたライプニッツについて『ライプニッツ普遍數學の旅』(現代數學社)といふ本を上梓しました。そのお陰で、私はライプニッツ協会の名ばかりの会員になつてしまひ、「數學の話ならば何でもよい」といふことで、これまで講演を幾度か依頼されてゐたのですが、今回は逃げ果すことができなくて、およそアカデミズムの缺片もない與太話(本人にとつては結構深刻なテーマなのですが)を、哲學の専門家を前に披瀝することになつた次第なのです。
 それはともかく、これから數回に亘つて、そのときの滑稽な與太話にお付き合ひ願ひたいと思ひますが、結論を先に申し上げれば「私にとつて、數學を學ぶのは數學それ自體のためではなく、人間精神研究のため」であり、そして「もし人間の精神(?)が絶對的、超越的『無限』を認めなければ、全解析學(微分積分方面の數學)は崩壊し、すべて失はてしまう」といふものです。結論は實に簡單なことですが、この私の主張の眞意を理解してもらふためには、やはり少し準備が必要です。
おそらく、世の中のほとんどの人の數學への關心は「役に立つ」といふ一點にあり、多くの數學教師や數學者も含めて、「數學?そりゃ、この高度に進んだ科學技術の時代だもの、いろんなところで日々役に立つてゐるに決まつてゐるさ」といつた認識をお持ちではないかと思ひます。もちろん、中には「數學至上主義者」と言はれる人もゐて、純粹數學をそれ自身のために研究し、その中に「美とか詩とか」と言はれる、そんな藝術的側面を発見して、密やかな悦びを見出してゐる數學者もゐます。
私もこのやうな考へを認めるのに吝かではありませんが、私自身の數學への関心は「實用」でもなければ「藝術」でもありません。このあたりの事情に薄々氣付いてゆくのは、高校生の頃ですが、話を急ぐのはやめて、まず下の図式を眺めて下さい。

mateshi0409.jpg
 
上図は、「數學あるいは普遍數學(これについての解説は今は措く)」と私たちの世界の樣々な事物との關はりを示した概觀圖で、左上に「自然」と書かれてゐますが、その内容は言ふまでもなく「自然科學」と言はてゐる「物理學、化學、生物學、地學、天文學、・・・」などを包括する學問群を指し、一方その下に書かれてゐる「社會」は「法學、政治學、經濟學、歴史學、・・・」などの「社會科學」を指してゐます。また、「自然・社會・人間」と書かれてあるところには、「統計、工學、人工知能、宗教、倫理學、醫學、文學、言語學、藝術、建築・・・」など、自然・社会と人間とが鬩ぎ合ふところに生まれた學問領域を指してゐます。
 ともあれ、私は上の圖式を提示して、開口一番話したことは「私は、實は數學と自然科學、社会科學、あるいは工學や人工知能との關はりにはほとんど興味がない」といふことでした。では、なぜ數學を學ぶのか?それは「人間精神を研究するため」と、來聽者のほとんどの人たちを裏切る、中世の‘非科學的’な神學者のやうなことを口にしたものだから、實はそれで大いに笑ひを取ることができました。おまけに、私は數學の核心は「非合理だ」などとも言つてしまひました。
                   (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 11:34| Comment(0) | 河田直樹