2020年08月10日

數學における言語(60) 伊東靜雄と戰後(V)

 「何の異變もおこらないのが信ぜられない」といふ伊東靜雄の言葉に對して、同じ長崎縣生まれで、『日本浪漫派批判序説』の著者橋川文三は、「それは一つの信仰の孤独な絶対さとその挫折の絶対さを同時に表した言葉であろう。その時、すでに詩人は蘇る途を絶たれ、自ら悠遠な記念碑と化する運命に引き渡された」(昭和36年4月「日本読書新聞」)と書いてゐますが、これはひとり詩人伊東靜雄だけの問題ではなく、當時の日本國民の多くが「8月15日」といふ“一瞬”において共有した心情ではなかつたのか、と私は推測します。
 しかし、少々皮肉を言へば「異變」は、“自然”にではなく“社會”において次々と起こり(或いは起こされ)、これについては前囘述べた通りで、政界や財界に異變が起きたのは致し方がないとしても、私が「信ぜられない」のは、「日本語の傳統的な文字づかひの廢止」です。誰とは申しませんが、國語を佛蘭西語にせよとか、すべてローマ字表記にせよとか宣うた小説家や文化人たちには、ただただ呆れるばかりです。
 ここで深入りはしませんが、この「國語問題」は言ふまでもなく、本「國語問題協議會」の核心的テーマであり、福田恆存氏が『私の國語教室』を書かざるをえなかつた根本的理由でした。「國語改良論」者たちとの論爭は、『福田恆存全集第三卷』「U」によつて知ることができますが、福田氏が金田一(京助)、桑原(武夫)兩氏の立論を完全に「論破」されてゐるにもかかはらず、今なほ「新かなづかい」が生き延びてゐるのは、一體どういふ“茶番”によるのでせうか。ちなみに、數學においては、その定理の誤りが指摘され「論破」されれば、その定理は“死ぬ”ほかはありません。數學においては「言葉」は“生きてゐる”のです。
 戰後の伊東靜雄は、「大東亞戰爭敗北」と「昭和24年發病の肺結核」とを拔きに考へることはできませんが、伊東は戰後の「國語改惡」をどのやうに受け止めてゐたのでせうか、これについての直接的な言及は全く見られません。しかし、「大東亞戰爭」については、次のやうなエピソードが殘されてゐます。
 伊東は昭和21年8月に「心友蓮田善明が彼の上官を射殺した後自決した」ことを知り衝撃を受けます。小高根二郎著『蓮田善明とその死』によると、伊東は富士正晴に「ひとりで死にやいいのに」と語つたといひます。さらに、靜雄は富士正晴に「戰鬪帽や軍服をはなはだ不愉快に思つてゐること、戰爭がすんでほつとしたこと」などを話し、富士が「戰爭中ウルタラ右翼だつた連中が忽ち左傾化してゐる」ことを非難すると、伊東は「人民は、世の中が左傾化すれば左傾化し、右傾化すれば右傾化するのが當然で、それで良いのですよ」と応じたといひます。
 私は、伊東のこの言葉のうちに「絶對の信仰とその絶對の挫折を體驗した精神」の、諦念と悲哀とを見る思ひがして、最後の詩集『反響』の「夏の終り」といふ詩を思ひ出します。
太陽の燃えかがやく野の景觀に\それがおほきく落す靜かな翳は\…さよなら…さやうなら…\…さよなら…さやうなら…\
(中略)ずつとこの會釋をつづけながら\やがて優しくわが視野から遠ざかる

 小高根二郎氏は「飛び去るはぐれ雲はまさしく善明の霊魂だ」と述べられてゐますが、靜雄研究家の田中俊廣氏は「この詩の主体の視点は野や街道や水田を見下ろす高い所にある。俯瞰法と言ったらいいのか、パースペクティブな高見から風景と自己の精神の<消失点>(中核)を静観している」(『痛き夢の行方伊東静雄論』)と巧みな解説をされてゐます。
 『反響』における伊東の視線は、猥雜な陋巷の「露骨な生活の間」に向けられてはゐますが、彼の視線が低くなればなるほどその詩は澄明度を増し、プロティノス的な實存的深みに漸近していきます。それゆゑ伊東の心は無限遠點の「かのもの」に收斂し、現世に「さよなら」と最期の挨拶をするのです。そこには、現世を超越した平明なプロティノス的宗教的悟りがあつたやうにも思はれます。 (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 20:47| Comment(0) | 河田直樹

2020年06月20日

數學における言語(59) 伊東靜雄と戰後(U)

 「けふ迄での生活の全部をぶちまけてみたい」といふことで書かれた太宰治の『十五年間』は、戰前戰後の人心や文化の變容を如實に傳へてくれる面白いエッセイです。これは、昭和21年4月に「文化展望」に發表されたもので、戰前から終戰に至るまでの「惡夢に似た十五年間の追憶手記」で、この手記は『パンドラの匣』の一節からの、次の引用で締め括られます。

 眞の勇氣ある自由思想家なら、いまこそ何を措いても叫ばねばならぬことがある。天皇陛下萬歳!この叫びだ。(中略)昨日までは古かつた。古いどころか詐欺だつた。しかし、今日においては最も新しい自由思想だ。(中略)それはもはや神祕主義ではない。人間の本然の愛だ。アメリカは自由の國だと聞いてゐる。必ずや、日本のこの眞の自由の叫びを認めてくれるに違ひない。


 米國の「眞の惡意」が「日本のこの眞の自由の叫び」を認めてくれるか否かは、怪しいと私は考へてゐますが、それ以前にそもそも日本人自身がこの“自由の叫び”を上げるかどうか、戰後の日本人にとつて「天皇陛下萬歳」はむしろ“不自由”の象徴であつたやうな氣もします。
 また、太宰は「私はやはり『文化』といふものを全然知らない頭の惡い津輕の百姓でしかないのかもしれない」と彼一流の僞惡的な照れを裝ひながら、次のやうなことも書いてゐます。

 西洋の思想は、すべてキリストの精神を基底にして、或いはそれを敷衍し、或いはそれを卑近にし、或いはそれを懐疑し、人さまざまの諸説があつても、結局聖書一卷にむすびついてゐると思ふ。科學でさへ、それと無關係ではないのだ。


 そして、彼は引き續き「科學の基礎をなすものは、物理界に於いても化學界に於いても、すべて假説だ。この假説を信仰するところから科學が發生するのだ。日本人は、西洋の哲學、科學を研究するよりさきに、聖書一卷の研究をしなければならぬ筈だつたのだ」と述べてゐます。
 聖書研究がそのまま哲學や科學に直結するかどうかは疑問ですが、「信仰と科學」の關係は太宰の指摘する通りで、この連載でもすでに述べてきたやうに、「科學は科學ゆゑに、それは絶對ではない」のです。ここで、私が殘念に思ふのは、「物理」や「化學」に言及してゐるにもかかはらず、太宰が「數學」については全く觸れてゐないところです。今も多くの日本人は「數學は理系科目で、それは科學だ」と考へてゐるのかもしれませんが、「數學」は斷じて「言ふところの科學」ではありません。
 ともあれ、『十五年間』は敗戰によつて齎された日本文化の核心的問題を見事に剔抉したエッセイであり、太宰自身の本然の資質を餘すところなく語つてゐる作品です。
 ところで、新潮文庫版「伊東靜雄詩集」が初めて出たのは昭和32年、すでに伊東亡き後ですので「戰爭詩」を割愛する必要はなかつたのでは、と思ひますが、當時はまだ(今でも?)GHQの「War Guilt information Program(WGIP)」が日本中を覆つてゐた時代でした。人のいい私たちはそのWGIPにしてやられたのか、それとも積極的に靡いていつたのかは知りませんが、歴史の授業でも教はつたやうに極東國際軍事裁判がはじまり、天皇の人間宣言があり、新憲法の制定があり、といつたことが次々と實行されていきます。おまけにGHQは「正字・正假名遣ひ」にまで口を出してくる有樣で、それに賛同する“國語改良論者”たちの御蔭もあつて、「ゐ」や「ゑ」も小學校の授業から消されてしまひました。
 當時の日本人がさうした“改革”に唯唯諾諾と從つたのか、あるいは不承不承それに從はざるを得なかつたのかは知りませんが、要するに「(ひやく)(せい)(おほ)()(たから)」とする「天皇陛下萬歳」に象徴される日本文化の華は斷罪され、戰後においてはタブーになり、國體も政體も變容していき、あまつさへ滑稽なことに、日本文化の最後の砦である日本語の傳統的な文字づかひも廢止されたのでした。正に私たちはGHQの言葉を鵜呑みにして戰前を深く「恥ぢた」のです。  (河田直樹・かはたなほき)

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2020年05月09日

數學における言語(58) 伊東靜雄と戰後(T)

 「8月15日のあのシーンとした靜まり返つた一瞬」については、私自身ここでどうしても書いておきたい思ひ出があります。私は昭和28年生まれですので、勿論あの一瞬を直接體驗したわけではありません。しかし、玉音放送のあつたあの暑い夏の盛りの思ひ出話を母から聞いて、小學3年だつた私は母に「その年、冬は來たの?」と訊ねたのです。その答は言ふまでもありません。あの年にも當然寒い師走は訪れたのですが、私にはそれが「あり得ないこと」のやうに感じられたのです。
 8月15日の「思ひ出」とはこれだけのことです。しかし、小學生の私には、その年、冬が到來したことがどうしても信じられず、それは誠に奇妙なことに感じられたのです。母の話によつて私の心に廣がつたあの「8月15日」は、一體何だつたのか?母の言葉によつて喚起されたあの日の心象風景によつて、緩やかなサインカーブを描いて進む季節は突然斷罪され、「8月15日」といふ“1點”における接線ベクトルの極太の矢は、永遠に眞夏の太陽を射拔き、私の心の時間を停止させてしまつたのです。しかし、それにもかかはらず、自然の時間はさうした私の時間とは全く無關係に、たんたんと時を刻んでいつたのです。
 私は自分の思ひ出を決して誇張して語つてゐるのではありません。「冬が來たの?」といふ無邪氣な“言葉”は、その言葉が無知な子供のものゆゑに、かへつて「8月15日正午」の少年の私の心を正確に“證明”してゐるやうに思はれてなりません。おそらく「冬が來たの?」といふ“言葉”によつて、戰後生まれの私も日本人として「あのシーンとした靜まり返つた一瞬」、日本民族の未曾有のあの體驗を共有したのです。そして、あの一瞬、私の内部でも何かが起きたのです。
それにしても、なぜ詩人伊東靜雄は「戰爭詩」を恥ぢたのでせうか?時代がそれを彼に強ひたと言へばそれまでですが、しかしなぜ詩人はそれをやすやすと受容したのでせうか?實は、「時局に便乘」して後悔してみせたのは、伊東ではなく「日本文化」ではなかつたのか?「漢口突入の光景」、「雲の上の空中戰」、「アッッ島玉碎」のやうな「戰爭畫」を描いた愛國者藤田嗣治が戰後日本畫壇から追放されたのはなぜか?藤田は「戰爭畫」を描いたことを「日本人として祖國を思ふ日本人がしただけの事です。した事は後悔もしてゐません」と語つてゐますが、「戰爭は絶對惡」といつた程度の認識しかない者にとつては、「戰爭詩や戰爭畫」も惡そのものだつたのでせう。伊東も藤田のやうに斷固として「恥ぢてゐない」と語ればよかつたのです。しかしさうするには伊東は生涯餘りにも時代に寄り添ひ過ぎてゐたのかもしれません。
 唐突ですが、私は「異邦人」ムルソーが獄中で司祭に語つた次の言葉を思ひ出します。「少なくとも、この真理が私を捉えていると同じだけ、私はこの真理をしっかり捉えている。私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ」(窪田啓作譯)。さうです、眞の詩人の存在は「両手は空っぽのよう」でもあつても、常に正しくなければならないのです。しかし、昭和25年楠正成の千早城近くの國立病院に入院してゐた伊東は、彼を見舞つた同僚に次のやうに語つたといひます。
いやになってしまいました。五十年ただ感傷ばかりで生きて来たと思いつまらんとね。徹した悟性を持ちたいと思ってね。考え方をかえて落ち着いたところですよ。強盗でもした方がよい。私など感傷の連続だったのですよ。(小高根二郎著『詩人伊東静雄』)

 「額に鳴る太陽のシンバル」のせゐで殺人者となつたムルソーは、處刑される前に「世界の優しい無關心」に心を開き、「自分を幸福だ」と感じ、最後の最後まで後悔することはありませんでしたが、しかし伊東は「強盜でもした方がよい」と放言してみせ、「詩とか、酒とか、感傷だけにかかづらはつた生涯を後悔」してゐるのです。
「新古今集以來もつともきらびやかな日本語」の詩を體現した伊東靜雄に反省を強ひたのは、一體何だつたのでせうか?これこそは、日本文化の核心的問題のやうに思はれるのです。(河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 15:58| Comment(0) | 河田直樹