2017年12月13日

數學における言語(20) ジョン・ロックの知[T] 河田直樹

ジョン・ロックの知[T]
 ジョン・ロック(1632〜1704)といへば、高校の倫理・社會で習つた「tabula rasa(‘何も書かれてゐない石板’といふ意味で、この言葉はすでにトマス・アキナスが用ゐてゐる)」といふ言葉がすぐに想起されますが、要するに私たちの知識・観念は生得的なものではなく、これらはすべて「感覺的經驗」を通して獲得されていくのだ、といふ考へ方です。したがつて、ロックは「經驗」から「一般論」を導くといふ「歸納法(induction)」を重視しますが、その一方でこの方法による「一般論」はときにまちがつてゐる場合もあるので、常にそれを考慮しておかなければならない、とも指摘してゐます。つまり彼は、いはゆる「科學的知識」に數學と同じやうな絶對の確實性があるとは考へませんでした。
まことに穏當な考へ方で、ロックの哲學は言つてみれば「非プラトン的、非デカルト的」なのです。「非プラトン的」であることは、プラトンの對話編『メノン』や『パイドン』における「想起(=アナムネーシス)」を思ひ浮かべれば納得できるでせうし、「非デカルト的」であることは「演繹(deduction)」を重視して座標幾何學を創始したデカルトの「cogito ergo sum」といふ言葉を心に浮かべればよいでせう。村上一郎も指摘してゐるやうに、ロックは「デカルトのいふ意味の『知』をみとめつつ、これを批判して」もゐるのです。
小學から高校まで「數學」を「理系科目」として教育されてゐる私たち日本人は、「科學的知識」と「數學的知識」とを混同しがちですが、そもそもこの二つは異なるもので、その目指すところはロックが考へたように根本的に違つてゐます。ここでひと言付け加へておくと、「科學」は「サイエンス(sciene)」の譯訳語ですが、これはラテン語の「スキエンティア(scientia)」に由來し、元來「知ること、知識、學問」を意味します。とかく日本人は「科學」といふ言葉に弱く、世間ではこれが一種の‘魔語’として流通してゐるやうに思はれます。「科學的に檢證された」といふだけで、その結論を絶對的に正しいと勘違ひしてそれこそ「非科學的」にそれを絶對的な言説として信じてしまふのはよく見られることです。誤解を恐れずに少々皮肉を言へば、「數學的に檢證された」のではなく、「科學的に檢證された」にすぎない知見は、むしろロックに倣つて「そこに誤りがあるかもしれない」と考へるのが、正しい態度といふべきでせう。さらに、付け加へると「この世界についての知識が絶對ではない」といふ‘大人’の經驗をすると、「この世には絶對確実なんてないものはない」と斜に構へて嘆いてみせるのも私たち日本人の通弊ですが、はつきり言はせてもらふと、やはりこの世には「絶對」といふものがあるのです。「數學的知識」とは、正にそれを目指してゐる學問の一種(おそらく唯一の)とも言へます。
そもそも「數學的知識あるいは數學的言語とは何なのか」といふ問題は、いづれこの連載で論じてみたいと思つてゐますが、ロックの系譜に連なるジョージ・バークリ(1685〜1753)は『人知原理論』の「119」で「私たちはおそらく、このやうに思惟を高く天翔らせて抽象を事とすること(數學のことと考へておいてよい)を價値低く思ふであらうし、數に關する探究が實用に役立つて人生の福利を促進するものでないかぎり、さうした探究をもつてそれだけの小難しい遊びごとと見做すであらう」と、いかにも「經驗主義者」らしいことを書き記してゐます。また1734年に出版した『Analyst』といふ本(この本は、ニュートンの友人にして不信心な數學者エドモンド・ハレー(1656〜1743)に對して書かれた)では「微分(ニュートンの流率)」に關連して次のやうなことを述べてゐます―「流率とは何か?消滅する増分の速度である。そしてこれらの同じ消滅する増分とは何か?それらは有限な量でもなく、無限に小さな量でもなく、無でもない。それらは死んだ量の亡霊と呼んではいけないだろうか?」。「死んだ量の亡霊」とはなかなかうまいことを言つたものですが、バークリのこうした數學的知見への誤解は、むしろ愛すべきものかもしれません。  (河田直樹・かはたなほき)
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2017年11月10日

數學における言語(18) 西欧精神について[V] 河田直樹

 トマス・アキナスと言へば「スコラ哲學の王」と呼ばれ、「存在それ自體の本質」を體系的に思索し續けた大神學者、彼以後の歐羅巴を決定的に方向付けた大知識人として誰もが知つてゐます。スコラ哲學は、キリスト教が希臘哲學と對抗するために、自らも思辨的、哲學的にならざるをえなかつた宿命から生まれてきてゐますが、その瞠目すべき特徴は、ユークリッド『原論(ストイケイア)』に見るやうな「徹頭徹尾の理性的論證」にあります。
 實際、たとへば「神は存在するか」といふ問ひに對して、トマスは『神學大全』第一部の第2問第3項で「神が存在することは5つの道によつて證明されうる」と述べ、その第2の道の「作出因の根據」にもとづく‘證明’を以下のやうに展開してゐます。前回紹介した『徒然草』の兼好の「言葉」とトマスの「言葉」とを比較していただきたいと思ひます。

 (1)この可感的世界のうちにわれわれは作出因の秩序の存在することを見出す。
 (2)しかしながら何かが自分自身の作出因であることは見出されないし、またそういふことはありえない。なぜなら、その場合には、そのものはそのもの自身よりも先に存在することになるが、それは不可能だからである。
 (3)ところで作出因の系列を追つて無限に進むことはできない。なぜならすべての秩序づけられた作出因のうち、第一のものは中間のものの原因であり、中間のものは最後の原因である。中間のものが複數あるにせよただ一つであるにせよ。しかるに原因が取り去られれば結果も取り去られる。ゆゑに、もし作出因のうち第一のものがないとすれば、最後のものもないであろう。しかるにもし作出因の系列を追つて無限にすすむとすれば、第一の作出因は存在せず、したがつてまた最後に作り出されるもの(結果)も中間の作出因も存在しないことになるであらう。これはあきらかに僞である。
 (4)それゆゑぜひとも何らかの第一作出因が在るとしなければならない。これをすべての人々は神と名づける。
       (世界の名著、『トマス・アキナス』山田晶訳による)

「可感的世界」とは「いろいろなモノやコトを五感によつて觸知できる世界」であり、また「作出因」とは「結果を生ぜしめる原因として、結果との關係において捉へられたもの」といふことで、要するにこの世界のモノやコトを作り出す原因と考へておけばいいのではないかと思はれます。そして、トマスは、作出因を無限の遡及することができない故に、神は存在しなければならない、と主張してゐるのでせう。
 兼好が單なる「ザイン(=ある姿)」を語つてゐるのに對して、トマスは、その裏に形而上的な「戰ひの血のり」の付いた論證によつて「ゾルレン(=あるべき姿)」を語つてゐるやうに思はれます。兼好は「第一の佛はいかなるものか」といふ問ひに對して「空から降つてきたのだらうか、土から沸いたのであらうか」と言つて笑つた「父」の姿を書き留めてゐます。彼の關心は端的に言へば問ひそのものではなく、むしろ彼の父の方にあると言つてもいいのです。變てこなことを問ひ詰める自分の息子のことをいろいろな人に話して打ち興じてゐる父の姿(=ザイン)こそ、實は最終段のテーマです。
 一方、トマスの視線は同じ父でも「他から何ものをも受け取ることのない神性をもつ父」に向けられます。この「父」は決して笑ひません。すなはちそれは「神」です。「第一作出因が在るとしなければならない」といふ當爲の文體は、取りも直さず彼の關心が超越者としての「神」、言葉の眞の意味における「理想」にあることを示してゐます。トマスが「ゾルレン」を語るゆゑんですが、この違ひは決定的です。
                   (河田直樹・かはたなほき)
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2017年09月14日

日本語あやとり(16) 「西欧精神」について[T] 河田直樹・かはたなほき

 私は第10回目の最後に「西洋文化の普遍的精神とその淵源を眞に了解してゐた我が国の例外的知識人は、福田恆存ただ一人ではなかつたか」と書きました。
數學ができないくせに「歐米の『數學的精神』ばかりに強い興味と關心とを抱いてゐた數學少年」の私にとつて、奇妙な話ではありますが、福田恆存は劇作家でも飜譯家でも文學者でもなく、なによりもまづ、その「數學的精神の秘密」を明快に解き明かしてくれた人として登場してきました。彼の「西歐精神について」や「絶對者の役割」を初めて讀んだのは、もう40年以上も前のことですが、その文章ははじめから何の抵抗感もなく私の心にすうつと入つてきて、私はそれまでに讀んでゐた我が国の名立たる知識人たちの文章からは決して味はへない喜びを與へられました。それ以來、「福田恆存」は私にとつて我が国の知識人の中で「例外的な存在」になりました。
 「西歐精神について」は、昭和32年に発表されたエッセイですが、第二節の「封建性といふこと」の冒頭では、「今日、大抵の社會科學者が、また大抵の『進歩的文化人』が、なにかといふと、日本の『前近代性』とか『封建性』とかいふ。かれらにとつて、なにかおもしろくない現象があると、みんな『封建性』のせゐにしてしまひます」と語られます。「進歩的文化人」といふ言葉はもはや死語に近いのでせうが、しかしその心根は今日でもしぶとく生き延びてゐて、なにかと言へば「日本は遅れてゐる、前近代的だ、封建的だ」といつた言葉をしばしば耳にします。福田恆存はそのあたりの事情を「人々は日本の近代が西歐流の近代になりそこねてゐることばかり氣をとられて、罪をすべて日本の封建時代に歸さうとしてゐる」と述べ、さらに日本と西歐の近代の違ひを中世の在り方に見て、「その中世のちがひの根底は、宗教といふことにあります」と喝破してゐます。まことに的確な指摘で、さらに恆存は第三節「絶對への要求」で次のやうに述べます。

  私たち日本人には、絶對性といふ観念がない。したがつて、絶對神など、馬鹿馬鹿しいと思ふ。神だの絶對性などといふことは、照れくさくて口にだせないのです。超自然といふのもお化け以外にはありはしない。そのお化けも、實は大いに實在的です。私たちが超自然といふときは、ひやかすときとか、うさんくさいといふときにかぎります。(中略)日本人は五感で觸知しうるもの以外の存在を認めないのです。

 上の引用の冒頭は前回の最後でも紹介した言葉ですが、福田恆存は一方で、「絶對主義」といふ言葉を悪い意味、誤つて用ゐる事例に觸れ、「天皇崇拜とか、戰爭前の國家主義とか、あるいはまたスターリン主義とか、さういふものに適用します。もちろん、惡い意味です。日本人にもともと絶對といふ觀念のないところへもつてきて、右のやうに惡い意味で絶對主義といふ言葉を用ゐるものですから、ますます『絶對』の人気が悪くなる」と述べています。この事情は現在でほとんど同じですが、さらに恆存は「超自然の『超』もろくな意味に用ゐらない」とも指摘して、「超自然にしても絶對にしても、なぜさういふ誤用が起るのか、また、誤用ではないにしても、ごく部分的な転用しかおこなはれないのか」と問ひます。恆存はその問ひに對して、「いふまでもなく、私たちに、超自然、絶対の觀念がないからです」とこたへ、「超自然といふのは、文字どほり自然を超えるものであつて、この五感で觸知しうる自然界には存在しないものです。ですから、善かれ惡しかれ『度が過ぎてゐる』といふような程度の差ではありません」と、語ります。この指摘は大變重要で、前回私が述べた「數學における無限と有限とは決して連續するものではない」といふことに繋がつていきます。「度が過ぎてゐる有限」が、すなはち「無限」ではないのです。
                   (河田直樹・かはたなほき)
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