2018年04月06日

數學における言語(24) ライプニッツとは 河田直樹

 ここまで數回に亘つてロックの言説をライプニッツのそれと比較しながら考へてきましたが、私の意圖は、私たちが混同しがちである「科學の言葉」と「數學の言葉」との相違、あるいはその志向性の決定的相違を分かつてもらふためです。もうお分かりだと思ひますが
  自然科學、社會科學の言葉=ロックの『人間知性論』の言説
  數學の言葉=ライプニッツの『人間知性論』の言説
といふ構圖が、私の頭の中にはありました。もちろん、私とて數學が自然科學や社会科學から多くの養分を得てきたことは承知してゐますが、數學の命題(定理)には必ず「證明(proof)」があり、この言葉は法律用語でもあって「證據、立證、反論に堪へる」といふ意味もあります。
 論理學者のゴットローブ・フレーゲ(1848〜1925)は、「算術の基礎」という論文の結びで「數法則といふのは、本來、外的な物には適用不可能である。それは自然法則ではない」と述べ、とは言へ、「數法則は外界の物について成立する判斷には適用可能である。つまり、それは自然法則の法則である。數法則が主張するのは自然現象間の結びつきではなく、判斷間の結びつきであり、そして判斷の中には自然法則も含まれるのである」と、誠に的確なことを述べてゐます。「數學」が「自然科學」ではないゆゑんです。數學の定理にはカール・ポッパーが考へた「反證可能性」の餘地は全くありません。實際、ユークリッド幾何の公理を「共通了解事項」として認めてしまへば、「ピュタゴラスの定理」は「絶對」であり、この命題は知性の「關係に關する判斷」なのです。これはまた、『エチカ』のスピノザの立場でもありました。
 ところで、『シンボル形式の哲學』の著者エルンスト・カッシーラー(1874〜1945)によれば、「ライプニッツは、フィレンツェの神秘主義者たちによつて形成されたプラトニスムから解放されてプラトンそのものを自らの眼で見た最初のヨーロッパの思想家」(谷川多佳子「最小表象の示唆」)であり、「フィッチーノやプロティノスのフィルターを通さずにプラトンの對話篇を讀むべきだ」と主張していたさうですが、「ローゼンタールの森」を逍遙してゐたニコライ學院時代の少年ライプニッツは「機械論的自然觀」に立脚した、どちらかといへば非プラトン的唯物論哲學に共鳴していたやうです。歳を重ねるともにライプニッツは「スコラ哲學」に親近感を抱くやうになり、やがて「無限と連続」の問題から「モナド(單子)」といふものを考へるようになります。そのあたりのいきさつをオルテガ・イ・ガセット(1833〜1955)は『ライプニッツ哲學序説』で次のやうに記してゐます―「ライプニッツの合理的情熱、存在の理解可能性、論理性への信頼は、數とか大きさといった純粋理論にきわめて近い領域で不合理の深淵を發見して、甚大な外傷的障害を蒙つたにちがひない。一再ならず、連續した構成要素の困難な迷宮(labyrinthus difficultatum de compositione continui)と呼ぶところについて不平をもらすのが聞かれる」と。
 この指摘はきはめて重要だと思はれます。ライプニッツは、一般に理性と合理の萬能の天才であり、「豫定調和」を説いた啓蒙の人だと思はれてゐるかもしれません。實際、ヴォルテールは小説『カンディード』でライプニッツその人と思はれるパングロス教授の樂天主義を陽気に茶化し、またスウィフトは『ガリバー旅行記』第3編の「ラガード學士院」の數學言語の製作者であるライプニッツとおぼしき學者に痛烈な皮肉を浴びせてゐます。しかし、「スコラ學」に親近感を抱き、あの不可解な「單子論」を書いたライプニッツは私にとつて啓蒙家ではなく、はじめから「一種の神秘主義者、非合理な魂の理解者」と受け止められてゐました。その意味では、「反省による主題化」によつて生まれたロックのあの餘りにも穩健な社會思想も私には奇妙であり、そのすぐ裏側にはいま私たちにはほとんど徒勞とも思はれる「無限や絶對」を媒介にした‘神學’論爭があつたはずです。私たちはさらに、中世から近世にいたる「無限思想の旅」に出てみる必要がありさうです。 (河田直樹・かはたなほき)
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2018年03月05日

數學における言語(23) ロックとライプニッツ[U]

 前回は『知性新論』の成り立ちについて略述し、「生得観念」をめぐるロックとライプニッツの主張の違ひについても、ライプニッツの言葉を通して簡單にスケッチしてみました。
 ライプニッツの専門家たちによると、ライプニッツは英語がさほど堪能ではなく、ロックの『人間知性論』にはピエール・コスト(1668〜1747)の仏蘭西語譯を通して接したために、「フィラレート」の発言の大部分はコスト譯の拔萃であり、はじめはロックの言説そのものだつたものが、著作が進むにつれてフィラレートの發言は、ロックその人の發言から微妙にずれていくと言はれてゐます。實際、『知性新論』では、「數學とスコラ哲學」の議論が登場しますが、實はロック自身はかうしたテーマを扱つてゐません。「數學」にさほど大きな關心を持つてゐなかつたロックを思へば、さもありなんと頷けます。また、テオフィルの發言量に比して、フィラレートのそれは少なく、フィラレートはライプニッツの教へを受け入れる人物として描かれてゐますが、「いはばライプニッツのための狂言回しの役割を託されてゐる」といふ解釋もあるやうです。
 ロックが「觀念(idea)」といふ言葉を偏愛したことはよく知られてゐますが、彼は人間が直接經驗することから生まれる意識の内容全體(イメージ、思考、感情、記憶)を「觀念」と呼びました。岡部英夫氏によると、『人間知性論』で使はれる「觀念およびその類義語」は、「conception」が28回、「notion」が187回、そして「idea」という言葉は3400回以上といふことで、それに呼應するかのやうにライプニッツは『知性新論』で「觀念」の問題を執拗に論じてゐます。すでに前回、4部構成のそれぞれのタイトルを紹介しましたが、1部、2部のタイトルには「觀念」という言葉が用ゐられてゐますし、3部、4部も「言葉、認識」の問題を扱つてゐて、「觀念の學問」である數學に携はる私には、それ自體大變興味深いテーマです。
 「生得觀念」に対するロックとライプニッツの違ひはすでに述べましたが、さらに大きな違ひは、「觀念操作」すなわち「思考」に對する違ひにも見ることができます。一言で言へば、ロックのそれは「直觀的(あるいは直感的)」であつて、觀念對象それ自體が漠然としてゐて曖昧なやうに思はれます。それゆゑ彼は「歸納法」を重んじ「反證不可能な議論」といふものを注意深く避けました。
一方ライプニッツのそれは、「論理機械的」であり、「人間の思考は單なる直觀ではなく、推論であり、記號の代數的計算(=アルゴリズム)」と考へてゐました。かうした發想は彼の「普遍數學」を生み、さらにこんにちの「人工知能(AI)」の淵源にもなつてゐます。なほ、ライプニッツの普遍數學に興味をお持ちの方は、拙著『ライプニッツ普遍數學への旅』(現代数學社)を參考にしていただけたらと思ひます。
 もとより、ロックの『知性論』とライプニッツの『知性新論』とを詳細に比較檢討してみることは、私のやうな者の任に堪える仕事ではありませんが、以下、私が特に興味のある第2部16章「數について」と17章「無限について」の對話を簡單に紹介しておきます。
 「數について」では、フィラレートは「數」を「整數」のみに限定して議論を進めますが、テオフィルはそれを「有理數、無理數、超越數(πのような數)」まで考慮して、「連續量と離散量」とを明確に認識した上で論を進めます。「微分積分」創始者のライプニッツならではの視点です。
また「無限について」では、フィラレートは「無限を有限の持續の様態化」と考へ「無限な持續ないし永遠について實定的觀念、廣大無辺性の觀念をもっていいない、無限數の現實的觀念の不合理性ほど明らかなものはない」と述べます。それに對してテオフィルは「眞の無限は様態化(=有限の延長)ではなく絶對的なものです」と語ります。この見解の相違については、「數學における有限と無限とは決して連續するものではない」という16回目の私の言葉を想起していただけたらと思ひます。 勿論私は、テオフィルの側の住人です。 (河田直樹・かはたなほき)
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2018年02月10日

數學における言語(22) ロックとライプニッツ[T] 河田直樹

 ライプニッツ(1646〜1716)の『人間知性論』批判である『人間知性新論』の草稿が完成するのは1705年ですが、この書はプロシア王妃ゾフィー・シャルロッテ(彼女の母親もまたライプニッツの擁護者)が、ライプニッツに「ロックの『人間知性論』をどう思ふか」と質問したのが一つの契機になってゐると言はれてゐます。
 『人間知性新論』はライプニッツ最大の著作ですが、實はこの書は遂に出版されることはありませんでした。といふのも、印刷を待つばかりであつた翌1706年、ライプニッツはロックの訃報に接し、「論争相手がすでに亡き者になつてしまつたからには、自分の批判に對するロック自身の再反論が不可能になつた」と考へ、それゆゑ彼はこれを公刊することを潔しとしなかつたからです。
 『人間知性新論』の日本語譯は、『ライプニッツ著作集』(工作舎)の4巻と5巻に収められてゐて、「第1部 生得的観念について、第2部 観念について、第3部 言葉について 第4部 認識について」の4部構成であり、「序文」を除き全編プラトンの對話篇を彷彿とさせる「フィラレートとテオフイル」の長大な對話(プラトンのそれに比べ、緊迫感やドラマ性に欠けるが)から成り立つてゐます。言ふまでもなく、「フィラレート(真理を愛する者=ロックの分身))」とは「phil(愛)」に由來し、また「テオフゐる(神を愛する者)(=ライプニッツの分身)」は「theo(神)」に由来する命名だと考へてよいでせう。ちなみに、數学には「theorem(定理)」といふ言葉がありますが、これは「(神の命題を)観想する」といふ意味に由來してゐると私は考へてゐます。
 さて、前置きが長くなりましたが、ライプニッツはロックの何のどこを批判したのでせうか。簡單に言つてしまへば、それは「プラトンによるアリストテレス批判」と言つてもよいかと思ひます。ライプニッツ自身、序文で次のやうに述べてゐます。
  「じつに『知性論』の著者は、私の稱贊するみごとな事柄を述べてゐるけれども、われわれ二人の樂説は大きく異なる。彼(ロック)の説はアリストテレスに近く、私の説はプラトンに近い。私たちはいづれも、この二人の古代人の説とは多くの點で隔たつてはゐるけれど。彼は私よりも通俗的に語るが、私は時としてもう少し秘教的かつ抽象的にならざるをえない。これは、ことに現代言語で書く場合、私にとっては有利ではない。だが二人の人物に對話させることによつて、つまり一方がこの著者の『知性論』から出た見解を述べ、他方が私の見方をそれに組み合はせていくことで、兩者の比較對照が、無味乾燥は注釋よりも讀者の意にかなふだらうと思ふ」。
 これで、『知性新論』の意圖ははつきりしたと思ひますが、さらにライプニッツは、次のやうに語ります。ここは、非常に大切と思はれますので、敢へてさらに引用を續けます。
  「われわれ二人の見解の相違は、かなり重要な諸テーマについてである。それは次の問題に關はる。魂それ自體は、アリストテレスや『知性論』の著者のいふやうな、まだ何も書かれてゐない書字板(tabula rasa)のやうに、まつたく空白なのか。そして魂に記されてゐる一切のものは感覺と經驗のみに由來するのか。それとも、魂はもともと多くの概念や知識の諸原理を有し、外界の對象が機會に應じてのみ、それらを呼び起こすのか。私は後者の立場をとる。プラトンやスコラ派さへさうであり、「神の掟は人の心に書き記されてゐる」(ローマの信徒への手紙2・15)、といふ聖パウロの一節をこの意味に解してゐるすべての人々がさうである。ストアの哲学者たちはこれらの原理をプロレープシスと呼んだ。すなわち根本的假定、豫め前提されてゐる事柄である・數學者たちはそれらを「共通概念」(Notions communes)と呼ぶ」。
 數學屋の私は、もちろんライプニッツの立場にたちますが、數學者たちの「共通概念」とは、ユークリッド幾何の「公準」や「公理」にほかなりません。             (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 10:43| Comment(0) | 河田直樹