2022年11月12日

數學における言語(81) 中世~學論爭と數學−前󠄁期ヘ父哲學(W)

 基督ヘが、その傳道󠄁の初期にはローマ帝󠄁國によつて迫󠄁害󠄂されたことはよく知られてゐますが、そのヘへがローマ世界に廣まるにつれ、その“眞理性”を異邦人にも納󠄁得させ、また異端の發生を押さへるためにも、そのヘ義を確立する必要󠄁があつたことは想像に難くありません。そして、そのやうな時代の要󠄁請󠄁から“ヘ父”と言はれる人々も生まれてきますが、“広辞苑”によれば“教父”とは「初期基督教会の神学的著作家・精神的指導者」と定義されてゐます。それはともかく、私が面白いと思ふのは、ヘ父たちがソクラテスやプラトン、アリストテレスなどの古代希臘の“論證哲學”から多大の影響を受󠄁けてゐるといふ點です。ここで第3回目のブログで紹介した、ブライアン・マギーの“古代希臘哲學”についての次󠄁の言葉を思ひ出して頂きたいと思ひます。
 最初に登場した哲學者たちは、ふたつの點で過󠄁去と訣別しました。まづひとつは、宗ヘや權威や傳統とは關係のない、自らの論理で現實を理解しようとしたこと、これは人類の拐~史においては劃期的󠄁な試みでした。そしてもう一つは、他の人々にも自分の力で考へるやうに說いたことです。たとへ弟子の立場にあつても、師のヘへをそのまま受󠄁け入れる必要󠄁はないといふのです。

 考へてみればこれ自體、洵に恐󠄁るべきヘへで、これが希臘哲學の蛾窒セとすると、この拐~に貫かれた“~學”とは、一體如何なるものになるのでせうか。一般に宗ヘには、偉大な師(ヘ祖)のヘへを絶對として、弟子(信徒)たちはそのヘへを無條件に受󠄁け入れていく、といふ惡く言へば“鵜呑みすべきヘへ”といふイメージがありますが、では希臘哲學の洗禮を受󠄁けてゐたヘ父たちのヘ義はどのやうなものになるのか? これは私の獨斷と偏󠄁見ですが、この點が“基督ヘ~學”と“他の宗ヘヘ義”とを決定的󠄁に分つ點であり、したがつて、“基督ヘ~學”には、その當初から今で言ふ所󠄁謂“眞理性を探究する科學”が胚胎し內包󠄁されてゐたと思はれます。でなければ、すでに述󠄁べたやうに、あのガリレオ・ガリレイの宗ヘ裁判󠄁など理解できません。この裁判󠄁は、單に基督ヘヘ義の暗󠄁愚が、近󠄁代知の開明を斷罪したものではないのです。
 前󠄁期ヘ父哲學の「アレクサンドリア派」で忘󠄁れてはならないのは、オリゲネス(185?〜254?)でせう。彼は新プラトン派やグノーシス派の思想を取り込󠄁みながらヘ義を體系化󠄁していつたやうで、「基督ヘ~學の創設者」と目されてゐます。後に彼の~學體系は、東方ヘ會に大きな影響を與へ、そのヘ義をめぐつては數世紀にわたつて論爭が繰り廣げられたやうです。その論爭とは、ひと言で言へば「キリストの“~性”と“人性”」についてのもので、元來基督ヘ信仰は、「~の子が肉體をとつて人になつた(受󠄁肉:Incarnation)」といふところに端を發してゐますので、これが問題にされるのはある意󠄁味當然のことなのかもしれません。因みに、「受󠄁肉」とは「三位一體である~の子(ロゴス・ことば)が人間イエス(肉)として生まれたこと」で。“三位一體(the Trinity)”の”三位”とは、「世界の創造󠄁主󠄁としての父、贖罪者キリストとしてこの世に現れた子イエス、そして信仰で顯現される聖󠄁靈」を指すのは周󠄀知の通󠄁りです。しかし實のところ、私自身はかういふ議論自體には餘り興味はありません。私の關心は、このやうに“理論化󠄁(科學化󠄁)されたキリストヘ”的󠄁良心(僞裝化󠄁されてはゐますが)が生み出した、尋󠄁常からは逸脫した社會理論や人權思想の行き着く先の方にあります。アレクサンドリア派のヘ父として擧げられる人には、オリゲネスの他にクレメンス(150?〜254?)やアタナシウス(295〜373)といつた人たちもゐますが、私は彼等の個々の言說にもさほど興味はありません。
 繰り返󠄁しになりますが、私のもつぱらの興味關心は、“古代希臘哲學との(こう)()(きん)(アマルガム)としての~學”なのであつて、その~學論爭こそが、ニコラス・クザーヌスやスピノザ、あるいはボルツァノなどを生み出し、その一方で奇怪な共產主󠄁義や奇天烈な人權槪念を創出してきた、といふ歷史的󠄁事實にあるのです。  (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 20:30| Comment(0) | 河田直樹

2022年09月25日

數學における言語(80) 中世~學論爭と數學−前󠄁󠄁期ヘ父哲學(V)

 テルトゥリアヌスの「非合理ゆゑに我信ず」といふことに關聯して、いま少し述󠄁べておきたいと思ひます。哲學の根本動機が「哀しみ」である語つた西田幾多カは、終󠄁生「數學」にも關心を持續し續けた哲學者でしたが、彼は昭和7年(1932)に出版した後期󠄁の代表的󠄁著作の一つである『無の自覺的󠄁限定』で次󠄁のやうに述󠄁べてゐます。
 實在と考へられるものは、その根柢に何處までも非合理的󠄁と考へられるものがなければならない。單に合理的󠄁なるものは實在ではない。(中略)倂(ただ)し、非合理なるものが縱(たとひ)、非合理的󠄁としても、考へられると云ふ以上、如何にして考へられるかが明󠄁にせられなければならぬ。非合理なるものが考へられると云ふには、我々の論理的󠄁思惟の構󠄁造󠄁そのものに、その可能なる所󠄁以のものがなければならぬ。

 “絶對矛盾の自己同一”の哲學者らしい言葉ですが、實はこの文言は拙著『無限と連續−哲學的󠄁實數論』(現代數學社)で引用したものです。私はこの引用の後に「『無限や連続』がたとい非合理であったとしても、それが考えられる以上、私たち自身のその思考を、あらゆる角度から徹底的に検討してみるべきではないでしょうか」と續けてゐます。
 さらに脫線してしまひますが、“連續體”といふものの不思議について、『連続体の数理哲学』(東海大学出版会)の著者澤口昭聿氏(1927〜)の次󠄁の言葉を紹介しておきませう。
 われわれが連続体に接するとき、その不思議な性格に深い驚異を感ぜずにはいられないだろう。連続体は直観的には自明である。われわれがそれをもっとも素朴に表象するならば、描かれた直線を以ってするする外ないであろう。従って連続体は感性的認識の一番根底にある。しかるに連続体は数学の基礎概念として高度な理性的認識の対象であろう。ここではその直観的自明性は突如消滅して複雑な論理的構築物へと変貌する。

 このやうに語られた後、澤口氏は「したがって、連奥体の問題は哲学の方からは、感性と理性の関係という古代の大問題と同一の問題となるが、感性と理性は調和できず、むしろ両者は相互に否定的であり、ここに連続問題の真の難点がある」と述󠄁べられてゐます。この指摘は、實際に數學屋として“實數”を數學的󠄁、論理的󠄁に認󠄁識しようとすると、痛いほど實感できることで、これは謂はば”アナログ認󠄁識“と”デジタル認󠄁識“の齟齬とも言ひ得られます。いづれにせよ連續體とそれに對峙する人間とのはざまに生じるこの“非合理”には、ただただ驚くばかりです。
 ところで、このやうな“非合理”を西田幾多カはどのやうに考へてゐたのでせうか? 今囘はそれを最後に紹介しておきませう。
 彼は、『意󠄁志の問題』といふ論文で「近󠄁代に至るまで數學者は連續について明󠄁晰なる槪念を有しなかつた」と指摘して、「有理數(整數比で表される數)」と「無理數(整數比では表せない數)」との違󠄂ひを、「有理數は考へられたもの」であり、無理數は考へる作用そのもの」と述󠄁べて、この違󠄂ひを「思惟」と「意󠄁志」との違󠄂ひに還󠄁元して次󠄁のやうに述󠄁べます。
 分離的󠄁discreteなるものを意󠄁識する作用は單なる思惟である。class-conceptを構󠄁成󠄁する論理的󠄁思惟の作用である。この如き分離的󠄁要󠄁素が無限と考へられたとき我々はすでにそのアプリオリの性質、作用の性質を變ずるのである。(中略)余はこの推移において、思惟から意󠄁志への推移があるといふのである。

 西田が主󠄁張してゐるのは、「有理數」と「無理數」とへの私たちの關はり方の違󠄂ひですが、彼は「無限なる進󠄁行過󠄁程󠄁は思惟であり、作用そのものは意󠄁志であり、可能なるものがその極限において實在的󠄁となる。SubtanzbegriffからAkutualitätsbegriffへの轉化󠄁があり、物質界から拐~界への推移があるのである」と結論してゐます。この西田の結論をどのやうに受󠄁け取るかは人それぞれでせうが、「無限や連續」の問題を考へようとすると、私たちはどうしての「拐~や意󠄁識」の問題に行きつかざるをえないやうな氣がするのです。 (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 12:15| Comment(0) | 河田直樹

2022年08月27日

數學における言語(79) 中世~學論爭と數學−前󠄁期ヘ父哲學(U)

 私が學生時代に讀んだ渡辺義雄編『西洋哲学史』(朝日出版社)には、テルトゥリアヌスについて以下のやうな記述󠄁があります。
 彼(=テルトゥリアヌス)は信仰の立場から「神の子は十字架に架けられた。これは恥ずべきことであるから、恥ずかしいことではない。神の子は死んだ。これは愚かなことであるから、すっかり信じなければならない。彼は葬られてよみがえった。これは不可能なことであるから、信じなければならない」と言った。

 ナンセンス・ギャグとも言ふべきこの箇所󠄁をはじめて讀んだとき、若輩の私は呵呵大笑したものですが、しかし時が經つにつれ、上に引用した言葉は私を不安にし、あらためて“信じる”とは何かといふ問ひを私に投げかけてきたのです。といふのも、“非合理ゆゑに我信ず”といふ言葉は、若い頃から私自身の深刻な“數學的󠄁テーマ”であつたからです。
 話は脫線しますが、テルトゥリアヌスの言つたといふ“ナンセンス・ギャグ”に關聯して、もう少し私自身のことを語らせて戴きたいと思ひます。今から20年以上前󠄁に出した拙著『世界を解く数学』(河出書房新社)第1部の第4章で私は次󠄁のやうに書いてゐます。
 「際限のない繰り返し」を肯定できる「主体」自体が、その「際限のない繰り返し」をあからさまに否定される者であったという、このギャップ(矛盾)は一体何を意味するのだろうか。

 「際限のない繰り返󠄁し」によつて、私たちは自然數「1、2、3、……」が無限に續くことを知ることが出來ますが、このことについて、佛蘭西の數學者アンリ・ポアンカレ(1854〜1912)は、その著『科學と假說』で“自然數のおしまひが私たちの前󠄁に出現しない”理由を「1つの作用が1度可能だと認󠄁められさへすれば、その作用を際限なく繰り返󠄁して(・・・・・・・・・)考へることができると信ずる理知の能力を私たちが肯定するところにある」と述󠄁べてゐます。「際限のない繰り返󠄁し」を“信ずる”ことが可能な理知を持つた主󠄁體(個體)が、なぜ個體としてはその「際限のない繰り返󠄁し」を絶對的󠄁に拒󠄁絶される(=死)存在であつたのでせうか? この點こそ、數學屋の私にとつては深刻な問題だつたのです。しかし、こんな數學を逸脫した問ひを發するやうでは、もはや數學屋としては完全󠄁に失格です。ガウスが述󠄁べたやうに「數學は學問の女王」に違󠄂ひありませんが、この學問に對する私の關心は、この學問の奧深くに祕められた、私の「有限性」に眞向から對立矛盾する「無限性」そのものにありました。合理性の極致であると思はれる言語體系は、なぜ堪へ難い非合理の光線を放射し續けるのだらう、その理由は一體どこにあるのだらう、私には「無限」こそ、數學といふ學問體系が「有限」な生身の人間に容赦なく繰り返󠄁し投げかけてくる苛烈な「問ひ」に感じられたのです。同じく『世界を解く数学』の第5部の3章で、私は次󠄁のやうに書いてゐます。
 数学というものは「人間理性のつくる最も合理的な言語体系」だと思われているかもしれないが、数学的思考を学びながら、私がいつも突き当たったのは、非合理の堅い岩盤であった。自然数系列が終らないこと、「0.33333…=1/3」という等式、無理数の存在、カントールの超限基数、ライプニッツのdx、非ユークリッド幾何学、至るところ微分不可能な連続関数、これらはいずれも私にとって「死すべき有限な人間がなぜ無限を考えられるのか」という問題と同義であった。「身には限りあるも想は果て涯なし」とはいえ、なぜ命に「限りある」人が「限りない数の果て」を、想うことができるのか。

 そして、さらに私は「無限という非合理なものを視るのであれば、たとえその非合理な苛烈な光線で「理知の目」が灼かれそうになったとしても、それは徹頭徹尾「理知の目」によってでなければならない。そして、もしそうした言語世界の水平線の彼方に、「非合理」がその怪異な姿を現したとすれば、私は聖アウグスティヌスとともに『非合理ゆえに我信ず』と宣言するだろう。」とも書いてゐます。ともあれ、テルトゥリアヌスに脫帽するほかありません。    (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 12:30| Comment(0) | 河田直樹