2018年02月10日

數學における言語(22) ロックとライプニッツ[T] 河田直樹

 ライプニッツ(1646〜1716)の『人間知性論』批判である『人間知性新論』の草稿が完成するのは1705年ですが、この書はプロシア王妃ゾフィー・シャルロッテ(彼女の母親もまたライプニッツの擁護者)が、ライプニッツに「ロックの『人間知性論』をどう思ふか」と質問したのが一つの契機になってゐると言はれてゐます。
 『人間知性新論』はライプニッツ最大の著作ですが、實はこの書は遂に出版されることはありませんでした。といふのも、印刷を待つばかりであつた翌1706年、ライプニッツはロックの訃報に接し、「論争相手がすでに亡き者になつてしまつたからには、自分の批判に對するロック自身の再反論が不可能になつた」と考へ、それゆゑ彼はこれを公刊することを潔しとしなかつたからです。
 『人間知性新論』の日本語譯は、『ライプニッツ著作集』(工作舎)の4巻と5巻に収められてゐて、「第1部 生得的観念について、第2部 観念について、第3部 言葉について 第4部 認識について」の4部構成であり、「序文」を除き全編プラトンの對話篇を彷彿とさせる「フィラレートとテオフイル」の長大な對話(プラトンのそれに比べ、緊迫感やドラマ性に欠けるが)から成り立つてゐます。言ふまでもなく、「フィラレート(真理を愛する者=ロックの分身))」とは「phil(愛)」に由來し、また「テオフゐる(神を愛する者)(=ライプニッツの分身)」は「theo(神)」に由来する命名だと考へてよいでせう。ちなみに、數学には「theorem(定理)」といふ言葉がありますが、これは「(神の命題を)観想する」といふ意味に由來してゐると私は考へてゐます。
 さて、前置きが長くなりましたが、ライプニッツはロックの何のどこを批判したのでせうか。簡單に言つてしまへば、それは「プラトンによるアリストテレス批判」と言つてもよいかと思ひます。ライプニッツ自身、序文で次のやうに述べてゐます。
  「じつに『知性論』の著者は、私の稱贊するみごとな事柄を述べてゐるけれども、われわれ二人の樂説は大きく異なる。彼(ロック)の説はアリストテレスに近く、私の説はプラトンに近い。私たちはいづれも、この二人の古代人の説とは多くの點で隔たつてはゐるけれど。彼は私よりも通俗的に語るが、私は時としてもう少し秘教的かつ抽象的にならざるをえない。これは、ことに現代言語で書く場合、私にとっては有利ではない。だが二人の人物に對話させることによつて、つまり一方がこの著者の『知性論』から出た見解を述べ、他方が私の見方をそれに組み合はせていくことで、兩者の比較對照が、無味乾燥は注釋よりも讀者の意にかなふだらうと思ふ」。
 これで、『知性新論』の意圖ははつきりしたと思ひますが、さらにライプニッツは、次のやうに語ります。ここは、非常に大切と思はれますので、敢へてさらに引用を續けます。
  「われわれ二人の見解の相違は、かなり重要な諸テーマについてである。それは次の問題に關はる。魂それ自體は、アリストテレスや『知性論』の著者のいふやうな、まだ何も書かれてゐない書字板(tabula rasa)のやうに、まつたく空白なのか。そして魂に記されてゐる一切のものは感覺と經驗のみに由來するのか。それとも、魂はもともと多くの概念や知識の諸原理を有し、外界の對象が機會に應じてのみ、それらを呼び起こすのか。私は後者の立場をとる。プラトンやスコラ派さへさうであり、「神の掟は人の心に書き記されてゐる」(ローマの信徒への手紙2・15)、といふ聖パウロの一節をこの意味に解してゐるすべての人々がさうである。ストアの哲学者たちはこれらの原理をプロレープシスと呼んだ。すなわち根本的假定、豫め前提されてゐる事柄である・數學者たちはそれらを「共通概念」(Notions communes)と呼ぶ」。
 數學屋の私は、もちろんライプニッツの立場にたちますが、數學者たちの「共通概念」とは、ユークリッド幾何の「公準」や「公理」にほかなりません。             (河田直樹・かはたなほき)
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2017年12月13日

數學における言語(20) ジョン・ロックの知[T] 河田直樹

ジョン・ロックの知[T]
 ジョン・ロック(1632〜1704)といへば、高校の倫理・社會で習つた「tabula rasa(‘何も書かれてゐない石板’といふ意味で、この言葉はすでにトマス・アキナスが用ゐてゐる)」といふ言葉がすぐに想起されますが、要するに私たちの知識・観念は生得的なものではなく、これらはすべて「感覺的經驗」を通して獲得されていくのだ、といふ考へ方です。したがつて、ロックは「經驗」から「一般論」を導くといふ「歸納法(induction)」を重視しますが、その一方でこの方法による「一般論」はときにまちがつてゐる場合もあるので、常にそれを考慮しておかなければならない、とも指摘してゐます。つまり彼は、いはゆる「科學的知識」に數學と同じやうな絶對の確實性があるとは考へませんでした。
まことに穏當な考へ方で、ロックの哲學は言つてみれば「非プラトン的、非デカルト的」なのです。「非プラトン的」であることは、プラトンの對話編『メノン』や『パイドン』における「想起(=アナムネーシス)」を思ひ浮かべれば納得できるでせうし、「非デカルト的」であることは「演繹(deduction)」を重視して座標幾何學を創始したデカルトの「cogito ergo sum」といふ言葉を心に浮かべればよいでせう。村上一郎も指摘してゐるやうに、ロックは「デカルトのいふ意味の『知』をみとめつつ、これを批判して」もゐるのです。
小學から高校まで「數學」を「理系科目」として教育されてゐる私たち日本人は、「科學的知識」と「數學的知識」とを混同しがちですが、そもそもこの二つは異なるもので、その目指すところはロックが考へたように根本的に違つてゐます。ここでひと言付け加へておくと、「科學」は「サイエンス(sciene)」の譯訳語ですが、これはラテン語の「スキエンティア(scientia)」に由來し、元來「知ること、知識、學問」を意味します。とかく日本人は「科學」といふ言葉に弱く、世間ではこれが一種の‘魔語’として流通してゐるやうに思はれます。「科學的に檢證された」といふだけで、その結論を絶對的に正しいと勘違ひしてそれこそ「非科學的」にそれを絶對的な言説として信じてしまふのはよく見られることです。誤解を恐れずに少々皮肉を言へば、「數學的に檢證された」のではなく、「科學的に檢證された」にすぎない知見は、むしろロックに倣つて「そこに誤りがあるかもしれない」と考へるのが、正しい態度といふべきでせう。さらに、付け加へると「この世界についての知識が絶對ではない」といふ‘大人’の經驗をすると、「この世には絶對確実なんてないものはない」と斜に構へて嘆いてみせるのも私たち日本人の通弊ですが、はつきり言はせてもらふと、やはりこの世には「絶對」といふものがあるのです。「數學的知識」とは、正にそれを目指してゐる學問の一種(おそらく唯一の)とも言へます。
そもそも「數學的知識あるいは數學的言語とは何なのか」といふ問題は、いづれこの連載で論じてみたいと思つてゐますが、ロックの系譜に連なるジョージ・バークリ(1685〜1753)は『人知原理論』の「119」で「私たちはおそらく、このやうに思惟を高く天翔らせて抽象を事とすること(數學のことと考へておいてよい)を價値低く思ふであらうし、數に關する探究が實用に役立つて人生の福利を促進するものでないかぎり、さうした探究をもつてそれだけの小難しい遊びごとと見做すであらう」と、いかにも「經驗主義者」らしいことを書き記してゐます。また1734年に出版した『Analyst』といふ本(この本は、ニュートンの友人にして不信心な數學者エドモンド・ハレー(1656〜1743)に對して書かれた)では「微分(ニュートンの流率)」に關連して次のやうなことを述べてゐます―「流率とは何か?消滅する増分の速度である。そしてこれらの同じ消滅する増分とは何か?それらは有限な量でもなく、無限に小さな量でもなく、無でもない。それらは死んだ量の亡霊と呼んではいけないだろうか?」。「死んだ量の亡霊」とはなかなかうまいことを言つたものですが、バークリのこうした數學的知見への誤解は、むしろ愛すべきものかもしれません。  (河田直樹・かはたなほき)
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2017年11月10日

數學における言語(18) 西欧精神について[V] 河田直樹

 トマス・アキナスと言へば「スコラ哲學の王」と呼ばれ、「存在それ自體の本質」を體系的に思索し續けた大神學者、彼以後の歐羅巴を決定的に方向付けた大知識人として誰もが知つてゐます。スコラ哲學は、キリスト教が希臘哲學と對抗するために、自らも思辨的、哲學的にならざるをえなかつた宿命から生まれてきてゐますが、その瞠目すべき特徴は、ユークリッド『原論(ストイケイア)』に見るやうな「徹頭徹尾の理性的論證」にあります。
 實際、たとへば「神は存在するか」といふ問ひに對して、トマスは『神學大全』第一部の第2問第3項で「神が存在することは5つの道によつて證明されうる」と述べ、その第2の道の「作出因の根據」にもとづく‘證明’を以下のやうに展開してゐます。前回紹介した『徒然草』の兼好の「言葉」とトマスの「言葉」とを比較していただきたいと思ひます。

 (1)この可感的世界のうちにわれわれは作出因の秩序の存在することを見出す。
 (2)しかしながら何かが自分自身の作出因であることは見出されないし、またそういふことはありえない。なぜなら、その場合には、そのものはそのもの自身よりも先に存在することになるが、それは不可能だからである。
 (3)ところで作出因の系列を追つて無限に進むことはできない。なぜならすべての秩序づけられた作出因のうち、第一のものは中間のものの原因であり、中間のものは最後の原因である。中間のものが複數あるにせよただ一つであるにせよ。しかるに原因が取り去られれば結果も取り去られる。ゆゑに、もし作出因のうち第一のものがないとすれば、最後のものもないであろう。しかるにもし作出因の系列を追つて無限にすすむとすれば、第一の作出因は存在せず、したがつてまた最後に作り出されるもの(結果)も中間の作出因も存在しないことになるであらう。これはあきらかに僞である。
 (4)それゆゑぜひとも何らかの第一作出因が在るとしなければならない。これをすべての人々は神と名づける。
       (世界の名著、『トマス・アキナス』山田晶訳による)

「可感的世界」とは「いろいろなモノやコトを五感によつて觸知できる世界」であり、また「作出因」とは「結果を生ぜしめる原因として、結果との關係において捉へられたもの」といふことで、要するにこの世界のモノやコトを作り出す原因と考へておけばいいのではないかと思はれます。そして、トマスは、作出因を無限の遡及することができない故に、神は存在しなければならない、と主張してゐるのでせう。
 兼好が單なる「ザイン(=ある姿)」を語つてゐるのに對して、トマスは、その裏に形而上的な「戰ひの血のり」の付いた論證によつて「ゾルレン(=あるべき姿)」を語つてゐるやうに思はれます。兼好は「第一の佛はいかなるものか」といふ問ひに對して「空から降つてきたのだらうか、土から沸いたのであらうか」と言つて笑つた「父」の姿を書き留めてゐます。彼の關心は端的に言へば問ひそのものではなく、むしろ彼の父の方にあると言つてもいいのです。變てこなことを問ひ詰める自分の息子のことをいろいろな人に話して打ち興じてゐる父の姿(=ザイン)こそ、實は最終段のテーマです。
 一方、トマスの視線は同じ父でも「他から何ものをも受け取ることのない神性をもつ父」に向けられます。この「父」は決して笑ひません。すなはちそれは「神」です。「第一作出因が在るとしなければならない」といふ當爲の文體は、取りも直さず彼の關心が超越者としての「神」、言葉の眞の意味における「理想」にあることを示してゐます。トマスが「ゾルレン」を語るゆゑんですが、この違ひは決定的です。
                   (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 15:35| Comment(0) | 河田直樹