2019年02月23日

ほとけ心 (その四)  原山建郎

6.「他人の過失をみるなかれ、自分の
したこと、しなかつたことだけをみよ」
日本佛教學の泰斗、中村元(なかむらはじめ)さんの著書『佛教のことば 生きる智慧』(主婦の友社、1995年)から、初期に成立した佛典「ダマパンダ(法句経)」の一節と解説を紹介します。
中村さんは、初期佛教の経典を記したインドの古代語(サンスクリつト語=文語、パーリ語=俗語)に精通してをり、多くの佛典などの解説や翻譯に力を盡くされ、譯書にできるだけ分かりやすい表現を用ゐることでも知られてゐます。

たとへば、サンスクリつト語のニルヴァーナ、同じ意味をあらはすパーリ語のニつバーナを、佛教専門用語の「涅槃(ねはん)」と譯さずに、「安らぎ」と譯したことがあげられます。中村さんはその譯注に「ここでいふニルヴァーナは後代の教義學者たちの言ふやうなうるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によつて得られる樂しい境地といふほどの意味であらう。」と書いてゐます。

さて、「他人の過失をみるな」と題する一文です。
【他人の過失を見るなかれ。
他人のしたこと、しなかつたことをみるな。
ただ、自分のしたこと、しなかつたことだけをみよ。
出典:ダマパンダ五〇

わたしたちは、他人の過失にはよく氣がつく。隣人や友人がどんなことをいつたか。どんなことをして自分に迷惑をかけたか。いかに約束を守らなかつたか……。さういふことには常に敏感で、しばしば陰口や不平をいふものである。これにたいして、自分がしたことを正確にみることを、わたしたちは苦手とする。
わたしたちはまた、ものごとが自分の思ひどほりにならなかつた場合に、責任を他に転嫁しがちでもある。
たとへば、「わたしが遲刻したのはバスが遲れたせいです」などと、しばしばいひわけする。しかし、交通澁滯の多い時間帯では、バスが遲れるのはむしろあたりまへで、約束の時間に着くためにもつと早いバスに乘るか、地下鐵などの他の交通手段を利用するかすべきなのである。
自分がそれらのすべきことをしなかつた、といふ反省はつらく、苦しいもので、わたしたちは往々にしてしなかつたことをみることを避けてしまふ。それをブッダはしつかりとみるやうにと嚴しく説くのである。
その反面、このことばは限りない勇気を與へつづけてくれることばのやうに思はれる。
ブッダは、自分がしたこととしなかつたことだけをみるやうに言つてゐる。これはすなはち、行爲を問題にしていることばである。
原始佛教時代の佛教徒にとつていちばん大切なのは、人がどのような行爲をしたかといふことだつた。人は、自分の人間としての正しさを、生まれや家柄によつてではなく、みづから行ふ行爲によつて證明しなければならなかつたのである。何をどれだけもつているかなどは問題にならない。自分がしたことだけが問はれたといふことは、何とさはやかなことだらう。他人を批判することのみ多い現代の日本人が、いまだに學歴にこだはつたり、拝金主義にとらはれたりして生きている姿に深い反省を迫ることばでもあるやうだ。】
(『佛教のことば 生きる智慧』32~33ページ)
(武藏野大學非常勤講師)
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2019年01月25日

ほとけごころ (その三)  原山建郎

5.自(おのづから)、然(しからしむ)、
法爾(しからしむる)・はからひ。
「自然法爾(じねんほふに)」は、親鸞聖人が関東各地の門弟に與へられた手紙(御消息)を、曾孫である覺如の子(つまり親鸞の玄孫)・從覺が編集した『末燈鈔(まつとうせう)』に納められてゐます。

自然法爾の事
【「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひ(※自力による思慮分別)にあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからいにあらず、如來のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如來の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆえに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法のコのゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめて(※あらためて、ことさらに)はからはざるなり。このゆゑに、義なきを義としるべしとなり。
「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。彌陀佛の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿彌陀佛とたのませたまひて迎へんと、はからせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。
 (※阿弥陀仏の)ちかひのやうは、無上佛(※このうえなくすぐれた佛。ここは、無色無形の真如そのものをいう)にならしめんと誓ひたまへるなり。無上佛と申すは、かたちもなくまします。かたちもましませぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて彌陀佛と申すとぞ、ききならひて候ふ。
 彌陀佛は自然のやうをしらせん料(※ため)なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰(※あれこれ論議し、詮索すること)すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは佛智の不思議にてあるなるべし。
  正嘉二年(一二五八年)十二月十五日
愚禿親鸞八十六歳】
(本願寺出版・『浄土真宗聖典注釈版』768ページ)

阿弥陀仏の「御ちかひ」とは、行者(信仰者)を無上佛、すなわち如來にならしめるこという願い(弥陀の本願・弘誓=どんな人も救わずにはおかないという、弘い誓い)のことです。そして、如来のすがた・かたちは私たちの肉眼には見えない存在ですが、見えない存在(はたらき・はからい)だからこそ、時間や空間の制約を越えてはたらく力を、自然法爾(※自然のやう)と呼ぶのです。
もうひとつ大切なことは、「必ず如來にならしめる」といふ阿弥陀佛の願ひ(本願)に、すでに掬ひとられてゐる私たちは、自己のはからひで生きるのではなく、如来のはたらきによつて生かされてゐる、それを自然法爾といふのです。
◆如實(※眞如、佛性、法性、無爲法身、實相)より來る。故に如來と名づく。(中略)涅槃(※煩惱を滅盡して悟りの智慧=菩提を完成した、悟りの境地。安樂の世界)を如と名づけ、知解(※智識の力で悟ること)を來と名づく。正しく涅槃を覺するが故に如來と名づく。
(『転法輪論』)
◆真如はすなはちこれ一如なり。しかれば彌陀如來は如より來生して、報・應・化、種種の身を示し現じたまふなり。
(『教行信証』「証巻」 聖典註釈版307ページ)
(武藏野大學非常勤講師)

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2018年08月24日

つたへる・つたはる(30) 書き・話しながら考へ、考へながら書く・話す技術。 原山 建郎

書き・話しながら考へ、考へながら書く・話す技術。
私たちが文章を「書く」ときは〈書きことば〉の腦で考へ、〈書きことば〉で考へながら文字を書く。文章を「読む」ときも、「書く」ときもやはり〈書きことば〉のパターンで考へる。一般的に、ビジネス文書で用ゐる〈書きことば〉では、意味(情報)の傳達を容易にする漢字熟語(漢語)を重視する傾向がある。
一方、だれかと「話す」ときは〈話しことば〉の腦で考へ、〈話しことば〉で話しながら考へてゐる。だれかの話を「聞く」ときも、やはり〈話しことば〉の腦で「聞く」。正確な情報の共有が求められる交渉や契約などでは、もつぱら〈書きことば〉ふうの〈話しことば〉、つまり漢語の多い會話にならざるを得ない。それでも、交渉が終はつたあとのくつろいだ酒席では、ざつくばらんな〈話しことば〉のやりとりになる。

大學の授業(文章表現)で、「書くよりは、話すはうが得意です」、あるいは「話すのが苦手なので、書く方が樂です」と惱みを訴へる學生に對して、まづ「話す方が得意な人はまづ、話すやうに文章を書いてみる。そのあとで、書きことばを意識して文章を調へる」、「書く方が樂な人はまづ、話したい内容を文章にしてみる。そのあとで、コンパクトな話しことばに變換する」とアドバイスをしたあと、「文字の〈書きことば〉と、會話の〈話しことば〉では、腦の思考回路に微妙なちがひがある」ことを追加した。

たとへば、私が文章を書く場合には、その直前に書いた文章を記憶の片隅に入れながら、そのとき頭に浮かんだ文章(1センテンス=40〜80字程度)を文字に記すのだが、ほとんど同時に、次に書かうとする文章(1センテンス=80〜120字程度)を頭に思ひ浮かべる。つまり、近過去(すでに)・現在(いま)・近未來(これから)といふ、三本の思考回路を同時に並行させながら、私たちは文章を書いてゐる。
このとき、いま(現在)書きつつある、あるいはこれから(近未來)書かうとする〈書きことば〉が、すでに(近過去)書かれた〈書きことば〉の文脈(文章の論理的なつながりぐあひ)と合はなければ、前後の文脈に沿つた〈書きことば〉に書き直す修正作業は、その文章を提出する前であれば何度でも可能である。

ところが、私がだれかと會話する場合には、相手の表情を見ながら頭に浮かんだメッセージ(文字数にして40〜80字程度)を瞬時に變換した〈話しことば〉を口にしながら、ほとんど同時に、次に話さうとするメッセージ(80〜120字程度)を構想しながら、次の〈話しことば〉を口に送り込まうとしてゐる。
ここで、〈書きことば〉の制作プロセスの場合と異なるのは、その直前に口をついて出た〈話しことば〉が相手に届く先から、次々に腦の「記憶」エリアから消えていくことである。
ところが、かつて大學での授業中に面白話で脱線したまではよかつたが、いざ脱線前に戻らうとしてもその「記憶」が飛んでしまひ、「どこまで話したつけ」と學生に尋ねたら、「脱線したままでお願ひします」と言はれてしまつたときの「記憶」だけは、いまも残つてゐる。

さて、〈話しことば〉とは口語(口頭言語)、〈書きことば〉とは文語(文字言語)のことである。文末が「です。」「ます。」「でした。」「ました。」で終はる「です・ます」調の文體は、讀む人がやはらかな丁寧さを感じる。文末が「である。」「だ。」になる「である」調は、堅苦しく改まつた感じを受ける。
また、日本語の文體は、大きく普通體(常體)および丁寧體(敬體)の二種類に分かれる。日本語を母語として育つた私たち日本語話者は、日常生活の中で無意識に、この二つの文體をうまく使ひ分けてゐる。「文體」の意味を廣辞苑で調べると、「文章のスタイル。語彙・語法・修辭など、いかにもその作者らしい文章表現上の特色」とある。「文體」を理解するポイントは、何よりも書き手の「らしさ」にある。

さて、〈話しことば〉と〈書きことば〉とでは、どちらがより書き手(語り手)の「らしさ」が傳はつてくるだらうか。同じ著者による〈話しことば〉と〈書きことば〉を味はいながら、話し手(書き手)から聞き手(読み手)に傳はるものを比較してみよう。
◎演出家・竹内敏晴さんの話しことばも書きことばも、ともに長めのセンテンスだが、とくにお茶の水女子大學教授・宮原修さんとの對談は、語り手の息繼ぎを意識した(句讀點による)息づかひのリズム感が傳はつてくる。
☆話しことば(對談=ですます調)←『教師のためのからだとことば考』(竹内敏晴著、ちくま学芸文庫、一九九九年)
わたしにとつてのことばつていふのは、さういうふうにまず第一に、ほんとうに人が人に働きかけられるかといふ、一つの、なんて言ふのかな、証しであつて、かういふ話をしてしまへば、結論つていうか、はつきりするわけだけれども、わたしにとつては、ことばつていふのは文章ではなくて、まず第一に話しことばなわけです。 
(同書190ページ)
★書きことば(である調)←『「からだ」と「ことば」のレッスン』(竹内敏晴著、講談社学術文庫、一九九〇年)
からだが動かうとしても、これでは「動くな!」と後ろに引つぱられてゐるみたいだと言ふ人がある。意思としては話しかけよう、目當ての人とつながらう、としてゐるのだらうが、からだは行かないで、とひきとめてゐる。これでは聲は前へ行けないな。まづ手を解き放ち、相手の方へ「手を出し」「足を出し」て、からだ全體が動き始めなくては、声が届くはずがない。      
(同書32〜33ページ)
◎西岡常一さんは、祖父も父もそしてご本人も三代續いた法隆寺棟梁(宮大工)。「法隆寺の棟梁がずつと受け繼いできたもんです。文字にして傳へるんではなく、口傳です。文字に書かしませんのや。百人の大工の中から、この人こそ棟梁になれる人、腕前といひ、人柄といひ、この人こそが棟梁の資格があるといふ人にだけ、口を持つて傳へます」といふ「話しことば(聞き書き)」をそのまま起こした「獨特の語り口」と、それを「ですます調」にまとめ直した「標準語(東京辯)」とでは、こんなにも違ふものかと、われとわが目を疑つてしまふ。
☆話しことば(聞き書き、獨特の語り口尊重)←『木のいのち 木のこころ』(西岡常一・小川三夫・塩野米松著、新潮文庫、一九九三年)
昔はおぢいさんが家を建てたらそのとき木を植ゑましたな。この家は二百年は持つやろ、いま木を植えておいたら二百年後に家を建てるときに、ちょうどいいやろといいましてな。二百年、三百年という時間の感覚がありましたのや。今の人にそんな時間の感覚がありますかいな。 
 (同書23ページ)
★書きことば(聞き書き、ですます調まとめ)←『法隆寺を支えた木』(西岡常一・小原二郎著、NHKブつクス、一九七八年)
法隆寺の建物は、ほとんどヒノキ材で、主要なところは、すべて樹齢一千年以上のヒノキが使はれてゐます。そのヒノキが、もう千三百年を生きてビクともしません。建物の柱など、表面は長い間の風化によつて灰色になり、いくらか朽ちて腐蝕したように見えますが、その表面をカンナで二〜三ミリも削つてみると、驚くではありませんか、まだヒノキ特有の芳香がただよつてきます。       (同書53ページ)

◎神戸女子学院大学名誉教授、合気道六段・居合道三段・杖道三段という武道家の顔も持つ、硬派の論客・内田樹さんには、ブログ「内田樹の研究室」に書かれた文章をテーマ別に「切り貼り」したコンピレーション(compilation)本が多い。ブログでは「である調」だつた文體が、『街場のメディア論』(光文社新書)では「ですます調」になつてゐる。
★書きことば(である調)←『内田樹の研究室』(二〇一二年六月一八日發信のブログ)
自然災害であれ、人間が發する邪惡な思念であれ、それが私たちの生物としての存在を脅かすものであれば、私たちはそれを無意識のうちに感知し、無意識のうちに回避する。
たしかにそのやうな力は私たち全員のうちに、萌芽的なかたちで存在する。だが、それを計測機器を用ゐて計量し、外形的・數値的に「エビデンス」として示すことはできない。                    
 (「直感と医療について」)
☆書きことば(ですます調)←『街場のメディア論』(内田樹著、光文社新書、二〇一〇年)
マスメディアの凋落の最大の原因は、僕はインターネつトよりもむしろマスメディア自身の、マスメディアにかかはつてゐる人たちの、端的に言へばジャーナリストの力が落ちたことにあるんぢやないかと思つてゐます。 
 (同書38ページ)
〈話しことば〉には和語(やまとことば)が息づき、〈書きことば〉では漢語(漢字熟語)が呼吸する。
(『ゴム報知新聞』電子版 (2017年4月11日))

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