2020年01月16日

聲に出して讀みたい『萬葉集』、琉歌で詠まれた『歌聲の響き』。 原山建郎

4月1日に新元號「令和」が發表された以降、『萬葉集』關聯書籍の賣れ行きが良好であるといふ。口語譯附きロングセラー『声に出して読みたい日本語』(斎藤孝著、草思社、2001年)に載つてゐる萬葉集秀歌(短歌)から、「石ばしる…(卷八・1418)」と「うらうらに…(卷十九・4292)」を見てみよう。
(いは)ばしる(たる)()の上のさ(わらび)の萌え出づる春になりにけるかも
石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成來鴨(※←萬葉假名)  (志貴皇子)
口語要約:瀧の上の蕨が萌え出る春になつた。
☆うらうらに照れる(はる)()雲雀(ひばり)あがり(こころ)(かな)しも、(ひと)りし思へば
宇良宇良尓 照流春日尓 比婆理安我里 情悲毛 比登里志於母倍婆(※←萬葉假名)(大伴家持)
口語要約:のんびりした春の日、一人で物を思ふと何か悲しい。

高校時代、私が樂しみにしてゐた古文の授業に、『萬葉集』の諳誦があつた。日本固有の詩歌である和歌(やまとうた)には、短歌(5・7・5・7・7)、長歌(5・7・5・7……7・7)、旋頭歌(5・7・7・5・7・7)などがある。本來、前出の短歌2首には、「石ばしる…」に「()(きの)()()(よろこびの)()(うた)一首」といふ【題詞】(前書き、説明文)がついてゐる。同じやうに「うらうらに…」の【題詞】には「廿五日(天平勝寶5年2月25日)(つくれる)(うた)一首」と書かれてゐる。短歌(長歌)の歌意を考へる上で、その背景や作者の思ひを知るための【題詞】は重要な役目を擔つてゐる。
古文の授業では、【題詞】を含む長歌の諳誦をさせられた。たとへば、『萬葉集』卷一(ひとまきにあたるまき)(くさぐさの)(うた)の第2歌は、「國見の歌」だが、これを丸ごと全部、諳誦するのである。

【題詞】高市崗本宮御宇天皇代[息長足日廣額天皇]/天皇登香具山望國之時御製歌 (たけ)()(をか)(もとの)(みや)天皇(あめのしたしらしめししすめらみこと)(みよ)(おき)(なが)(たらし)()(ひろ)(ぬかの)天皇(すめらみこと)天皇(すめらみこと)()()(やま)(のぼり)まして望國(くにみ)したまへる時 みよませる(おほ)()(うた)
山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎爲者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜國曾 蜻嶋 八間跡能國者
大和(やまと)には (むら)(やま)あれど とりよろふ (あめ)()()(やま) 登り立ち 國見をすれば 國原は (けぶり)立ち立つ 海原は (かまめ)立ち立つ (うま)し國ぞ 蜻蛉島(あきつしま) 大和(やまと)の國は

長歌は5音と7音の句を3囘以上繰り返す形式の和歌で、しだいに5・7音の最後に7音加へて結ぶ形式になつていつた。日本人が大好きな「5・7調」のリズムで、諳誦する樂しみが倍加する。「聲を出して讀む萬葉集」は、勿論「舊假名遣(歴史的假名遣)」による諳誦、または詠唱である。
萬葉集が編まれた時代の大和言葉(やまとことば)の發音と今の時代の發音は異なつてゐる。たとへば、「私は」の「は」を、私たちはwa(ワ)と發音するが、奈良時代にはpa(パ)とfa(ファ)の間だつたのが、江戸時代に成つてwa(ワ)と發音するやうに成つたさうだから、「とりよろふ」を「とりよろう」と發音しても、奈良時代の發音を知らないからできない現代人にとつては、いたし方のない事である。
私が大學で學生たちに、「舊漢字や舊假名遣ひを使つて、文章が書けなくてもよいが、舊漢字舊かな遣ひで書かれた日本の古典(文字や文章)を讀める能力だけは養つてほしい」と訴へたのは此のことで、舊漢字からは文字の成立ちを、舊かな遣ひからは上古代日本人のエートス(心性)を感じとつてほしいものだ。ちなみに、【題詞】にある[(おき)(なが)(たらし)()(ひろ)(ぬかの)天皇(すめらみこと)]は、和風の()(がう)(崩御後のおくり名)で、所謂漢風の()(がう)は「舒明天皇」である。

歴史的假名遣ひといへば、沖繩(琉球)には、「琉歌(琉球方言による定型詩)」がある。『縄文語の発見』(小泉保著、青土社、1998年)によれば、原初の日本語(原繩文語)は、前期九州繩文語を起點に、一つのルートは九州全域に廣まると後期繩文語→九州方言に、もう一つのルートは南下して琉球繩文語→琉球諸方言(沖繩・奄美諸島)になつたと考へられてゐる。
ウチナーグチ(沖繩口)と呼ばれる沖繩方言で詠はれる「琉歌」は、漢字の音韻を借りた萬葉假名(やまとことば)による和歌から表現を借りながらも、沖繩方言の語彙を用ゐ、沖繩の音韻(リズム、抑揚)を生かして、獨特の詩歌として發展してきた。

1975年、今上天皇がまだ皇太子の時代、初めて沖繩のハンセン病療養所「沖繩愛樂園」を訪れたとき、その歸り際に入所者から、船出を祝ふ沖繩民謠「だんじよかれよし」の合唱が起きた。皇太子ご夫妻は眞夏の炎天下に立たれた儘、その歌聲をぢつと聞いてをられた。
そのときの光景を、皇太子殿下は沖繩學の(ほか)()(しゆ)(ぜん)さんに學んだ古謠集で琉歌作りを覺えた二首の琉歌(8・8・8・6の30音の琉球の定型詩)による()(うた)に詠まれ、さらに妃殿下(美智子皇后)は其の琉歌にふさはしい曲を附けた『歌聲の響き』(作詞・天皇陛下、作曲・皇后陛下)は、ことし2月24日、天皇在位30年の式典において、歌手の三浦大知さんの獨唱によつて披露された。

だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔目にど残る(私たちの旅の安全を願ふだんじよかれよしの歌聲が響き、見送つてくれた人々の笑顏が、いつまでも私の目に殘つてゐます)/だんじよかれよし(ダンジュカリユシ)()歌声(ウタグイ)()(フィビチ)見送る(ミウクル)笑顔(ワレガウ)()()(ドゥ)残る(ヌクル)
だんじよかれよしの 歌や湧上がたん ゆうな咲きゆる島 肝に残て(私たちが立ち去らうとすると だんじよかれよしの歌聲が湧き上がりました。ゆうなの花が、美しく咲いてゐる島の人々のことがいつまでも心に殘つてゐます)/だんじよかれよし(ダンジュカリユシ)()歌や(ウタヤ)湧上がたん(ワチャガタン)ゆうな(ユウナ)咲きゆる(サチュル)(シマ)(チム)()残て(ヌクティ)

この「琉歌」もまた、萬葉假名(歴史的かな遣ひ)で詠まれた『萬葉集』の和歌(やまとうた)と同じやうに、ウチナーグチ(沖繩口)と云ふ歴史的假名遣ひで詠まれたすばらしい詩歌である。
やはり今上天皇が皇太子時代、初の沖繩訪問後に詠はれた2首の「琉歌」と、天皇即位後に歌會始で發表された2首の「御製」を、どちらも聲に出して詠唱してみよう。あと9日で「平成」31年は終はり、「令和」元年がくる。(※1)

ふさかいゆる 木草めぐる戦跡 繰り返し返し 思ひかけて(生ひ茂つてゐる木草の間を巡つたことよ 戰ひの跡にくりかへし思ひを馳せながら)/フサケユル キクサミグルイクサアトゥ クリカイシガイシ ウムイカキテイ
花よおしやげゆん 人知らぬ魂 戦ないらぬ世よ 肝に願て(花を捧げます 人知れず亡くなつていつた魂に對して 戰ひのない世を心から願つて)/ハナユウシヤギユン フィトゥシラヌタマシイ イクサネラヌユユ チムニニガティ
(いくさ)なき世を歩みきて思ひ出づかの(かた)き日を生きし人々
 (平成17年、歌會始、お題は「歩み」)
(まん)()(まう)に昔をしのび巡り行けば()(がた)(おん)()岳さやに立ちたり
 (平成25年、歌會始、お題は「立」)

(※1)本記事の初出:平成31年4月23日 ゴム報知NEXT 連載コラム「つたえること・つたわるもの」(64)
posted by 國語問題協議會 at 00:03| Comment(0) | 原山建郎

2019年12月18日

『萬葉集』卷五序(題詞)←『文選』卷十五(歸田賦)。漢字の言靈(ことだま)。 原山建郎

『萬葉集』卷五序(題詞)←『文選』卷十五(歸田賦)。漢字の言靈(ことだま)。 原山建郎

 新元號「令和」が發表された4月1日、安倍晉三首相は午後の記者會見で、「歴史上初めて國書を典據とする元號を決定した」と滿面の笑顏で大見得を切つた。
 首相談話のポイント部分を再録してみよう。

 『令和』と云ふのは、いままで中國の漢籍を典據としたものと違つてですね、自然のひとつの情景が目に浮かびますね。嚴しい寒さを越えて花を咲かせた梅の花の状況。其れがいままでと違ふ。そして、その花がそれぞれ咲き誇つていくと云ふ印象を受けまして、私としては大變、新鮮で何か明るい時代につながるやうなさういふ印象を受けました。


 その出典とされた『萬葉集』卷五にある題詞(前書き)「梅花歌卅二首并序」は、れつきとした漢文(中國語=漢語)である。
 此れを書き下し文(邦文)にすると「梅花の歌三十二首并(あは)せて序」となる。新元號の典據とされた引用文(漢文)、書き下し文(舊漢字・舊假名遣による邦文)は次の通りである。

于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 初春(しよしゆん)の月(れいげつ)にして 氣(き)淑(よ)く風(かぜ)(※やはら)ぎ 梅(うめ)は鏡前(※きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き 蘭(らん)は珮後(はいご)の香(※かう)を薫(※くゆ)らす


 ところが、首相官邸のホームページに掲載された書き下し文は、【和(やわら→やはら)ぎ、鏡前(きょうぜん→きやうぜん)、香(こう→かう)】など、舊假名遣ひではない「現代假名遣い」で書かれてゐる。原文の「氣(舊漢字)」を「気(常用漢字)」と表記している。
 また、「香(かう)を薫(かお)らす」と訓讀してゐるが、香(かをり)は「薫(くゆ)らす」のはうが似つかはしい。
 國書(漢籍・佛典・洋書などに對して、日本で著述された書物。和書)を典據とするといふならば、もつと萬葉集へのリスペクトがあつて然るべきではないか。これはすなはち、高校時代の「古文」の授業で習つた「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎ〜」といふ『枕草子』の冒頭を、「春はあけぼの。ようよう白くなりゆく山ぎ〜」と書くやうなものである。

 萬葉集は七世紀から八世紀にかけて編まれた日本最古の歌集だが、五世紀ごろ朝鮮半島(百濟)を經由して傳へられた「漢字」の音韻(發音)を借り(假借)て、日本語(やまとことば、和語)の語順に「漢字」の音韻をあてた萬葉假名で書かれた、四千五百四首あまりの和歌(短歌、長歌、旋頭歌)が收められてゐる。
 やまとことば(和語)で書かれた和歌の前書き(序)は「詞書(ことばがき)」といふが、漢文で書かれた萬葉集の和歌の前書きは「題詞(だいし)」といふ。狹義の意味で「國書」をとらへるなら、漢文で書かれた題詞は「漢籍(中國人によつて書かれた漢文形態の書物)」、和語(やまとことば)で詠はれた和歌が國書(國文)といふことになる。然し、萬葉集の題詞は「日本人によつて書かれた漢文形態の文章」である事に注目すれば、廣義の意味で漢文である題詞も「國書」と呼べるものだといへるだらう。

 參考までに、「梅花の歌三十二首」から、代表的な和歌二首(上段・萬葉假名、下段・漢字交じりの「やまとことば」)を紹介しよう。萬葉假名の漢字は、やまとことばを表記するための當て字(假借)なので、新元號となる「漢字」二文字を萬葉假名(やまとことば、和語)から選ぶことはできない。


武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曾 烏梅乎乎<岐>都々 多努之岐乎倍米 [大貳紀卿]
正月(むつき)立ち 春の來(きた)らば かくしこそ 梅を招(を)きつつ 樂しき終へめ [だいにきのまへつきみ=紀朝臣男人(きのあそみおひと)]
烏梅能波奈 伊麻佐家留期等 知利須義受 和我霸能曾能尓 阿利己世奴加毛 [少貳小野大夫]
梅の花 今咲けるごと 散り過ぎず 我が家(へ)の園に ありこせぬかも [せうにをののだいふ=小野朝臣老(おののあそみおゆ)、※大宰少貳として、小野老の大宰府着任を祝ふ饗宴で、老(おゆ)自らが詠んだ和歌]


 さて、新元號が發表された、ちやうど同じ日、岩波文庫編輯部が次のやうに(括弧内は一部省略)ツイートした。

 新元號「令和」の出典、萬葉集「初春の令月、氣淑しく風和らぐ」ですが、『文選』の句を踏まえてゐる事が、新日本古典文學大系『萬葉集(一)』(岩波書店、1999年)の語注に指摘されてゐます。「「令月」は「仲春令月、時和し氣清ら可也」(張衡「歸田賦・文選卷十五)」とある。」


 『文選(もんぜん)』は六世紀前半に成立した中國古代文學の詩文撰集。日本にも天平(710〜794年)以前に傳へられ、奈良時代から平安時代にかけて廣く讀まれた。「卷十五」に收められた『歸田賦(きでんふ)』は、後漢代の文人、張衡が順帝永和三年(138年)に作つた賦(漢詩)で、その中に「令」と「和」の二字がある。

 於是仲春令月 時和氣C 原隰鬱茂 百草滋榮 おりしも今は 春も半ばのめでたい月よ。時節はなごやか大氣は澄んで、岡も濕地も鬱(うつ)さうと 百草(ひやくさう)は繁り花さく。


 このツイートが引き金になつて、新元號「令和」の由來をたどれば(中國)後漢代の『歸田賦』だから、「歴史上初めての國書典據」ではなく、これまで通り漢籍を典據としたものだといふ聲が上がつた。其の一方で、たとへ漢文であつても、日本人が書いた漢文だから「國書」だといふ反論もあつたが、安倍首相が「歴史上初めて國書を典據とする元號を決定した」と切つた大見得に、暗雲が立ち込めたかに見える。

 しかし、ここで萬葉集が編纂された當時の文人たちが、和歌(やまとうた)の歌人であつただけでなく、『文選』など漢文(漢語)で書かれた漢籍にも通じてゐたことに注目しなければならない。つまり、「令」と「和」の二文字が『歸田賦』にあることを知つてをり、その幅廣い素養をもとに、和歌でいふ本歌取り(古歌から句の一部を借用し、新たな歌を作る技法)を援用して、「仲春令月 時和氣清」を「初春令月 氣淑風和」と、「和風漢文」に詠み替へたに違ひない。ちなみに、萬葉集の「初春」は舊暦一月、歸田賦の「仲春」は舊暦二月をいふ。仲春には「百草」だが、初春は「梅花」が似合つてゐる。

 萬葉集を編んだ時代の日本人は、中國から朝鮮半島經由で傳はつた中國語の漢字といふ種子(コード、記號)を、日本の土壤に蒔いて育てるといふ「和魂漢才」の技(わざ)によつて、漢字かな交じり文といふ日本語(モード、樣式)に變換した。そして、現代の私たち、日本人はいまもなほ、中國語である「漢文」を、高校時代の「漢文」の授業で習つた「書き下し文」と云ふ日本語で讀むことができる。

 紀元前十四〜十一世紀ごろに榮えた古代中國・殷王朝時代に創られた甲骨文字にルーツを持つ漢字(漢民族の文字)は、現代支那では1950年に制定された簡體字(簡略字體)の使用によつて、漢字本來の成立ち(會意・象形・形聲・指示文字)がわからなくなりつつある。
 かつて漢字を日本に傳へた(元漢字文化圈の)朝鮮半島でも、十五世紀半ばに創られたハングル(朝鮮語を表記するための表音文字)を用ゐて、現在では漢字を用ゐず、漢字の發音で表す、감사(カムサ)=感謝、안녕(アンニョン)=安寧など、全てハングル表記である。したがつて、ハングル表記の「漢字熟語」では、大意はわかるが、本來の字義をたどる事は難しい。

 令(レイ)を「よい・みことのり」、和(ワ)を「やはらぐ・なごむ」、音讀(漢語讀み)も訓讀(和語讀み)もできる日本語だからこそ、新元號の「令和」といふ漢字の言魂(ことだま)を味はふことができるのだらう。
(ゴム報知NEXT 連載コラム「つたへること・つたはるもの」63 2019年4月9日)
posted by 國語問題協議會 at 07:03| Comment(0) | 原山建郎

2019年02月23日

ほとけ心 (その四)  原山建郎

6.「他人の過失をみるなかれ、自分の
したこと、しなかつたことだけをみよ」
日本佛教學の泰斗、中村元(なかむらはじめ)さんの著書『佛教のことば 生きる智慧』(主婦の友社、1995年)から、初期に成立した佛典「ダマパンダ(法句経)」の一節と解説を紹介します。
中村さんは、初期佛教の経典を記したインドの古代語(サンスクリつト語=文語、パーリ語=俗語)に精通してをり、多くの佛典などの解説や翻譯に力を盡くされ、譯書にできるだけ分かりやすい表現を用ゐることでも知られてゐます。

たとへば、サンスクリつト語のニルヴァーナ、同じ意味をあらはすパーリ語のニつバーナを、佛教専門用語の「涅槃(ねはん)」と譯さずに、「安らぎ」と譯したことがあげられます。中村さんはその譯注に「ここでいふニルヴァーナは後代の教義學者たちの言ふやうなうるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によつて得られる樂しい境地といふほどの意味であらう。」と書いてゐます。

さて、「他人の過失をみるな」と題する一文です。
【他人の過失を見るなかれ。
他人のしたこと、しなかつたことをみるな。
ただ、自分のしたこと、しなかつたことだけをみよ。
出典:ダマパンダ五〇

わたしたちは、他人の過失にはよく氣がつく。隣人や友人がどんなことをいつたか。どんなことをして自分に迷惑をかけたか。いかに約束を守らなかつたか……。さういふことには常に敏感で、しばしば陰口や不平をいふものである。これにたいして、自分がしたことを正確にみることを、わたしたちは苦手とする。
わたしたちはまた、ものごとが自分の思ひどほりにならなかつた場合に、責任を他に転嫁しがちでもある。
たとへば、「わたしが遲刻したのはバスが遲れたせいです」などと、しばしばいひわけする。しかし、交通澁滯の多い時間帯では、バスが遲れるのはむしろあたりまへで、約束の時間に着くためにもつと早いバスに乘るか、地下鐵などの他の交通手段を利用するかすべきなのである。
自分がそれらのすべきことをしなかつた、といふ反省はつらく、苦しいもので、わたしたちは往々にしてしなかつたことをみることを避けてしまふ。それをブッダはしつかりとみるやうにと嚴しく説くのである。
その反面、このことばは限りない勇気を與へつづけてくれることばのやうに思はれる。
ブッダは、自分がしたこととしなかつたことだけをみるやうに言つてゐる。これはすなはち、行爲を問題にしていることばである。
原始佛教時代の佛教徒にとつていちばん大切なのは、人がどのような行爲をしたかといふことだつた。人は、自分の人間としての正しさを、生まれや家柄によつてではなく、みづから行ふ行爲によつて證明しなければならなかつたのである。何をどれだけもつているかなどは問題にならない。自分がしたことだけが問はれたといふことは、何とさはやかなことだらう。他人を批判することのみ多い現代の日本人が、いまだに學歴にこだはつたり、拝金主義にとらはれたりして生きている姿に深い反省を迫ることばでもあるやうだ。】
(『佛教のことば 生きる智慧』32~33ページ)
(武藏野大學非常勤講師)
posted by 國語問題協議會 at 18:03| Comment(0) | 原山建郎