2017年10月23日

ひらがな絵本の音、ことばを語る絵。 原山建郎

来年一月、下里しおん保育園(早川寿美子園長)の子育て講座『「日本昔話」はこんなに面白い』では、日本昔話に日本人の心の在り方(母權的意識)をさぐつた河合隼雄さんの〈見るなの座敷〉〈鬼が笑う〉〈家出願望〉〈子どもと秘密〉など、日本昔話の背景をまじへて話すつもりだが、その準備のために河合さんの著書を讀むうちに、『絵本の力』(河合隼雄・松(まつ)居(い)直(ただし)・柳田邦男著、岩波書店、二〇〇一年)にめぐりあつた。
同書は、二〇〇〇年に小樽市で開催された文化セミナー「絵本の可能性」の講演+討論録だが、河合さんの講演「絵本の中の音と歌」の中で紹介した『よるのようちえん』(谷川俊太郎文、中辻悦子絵・写真、福音館書店、一九九八年)には、不思議な「音」たちが登場する。
物音も聞こえない、何もない夜の幼稚園に、だれかいる!
【そつとさんが かおをだしました そっとさんは きょろきょろりん】のほかに、すっとさん、さっとさん、じっとさん、ぜっとさん、もっとさん、ぱっとさん、ぽっとさん、ぬっとさん、おっとさんも出てきて、みんなで、がやがややつている。
そして、【そらがあかるくなってしまいました あれれ みんなどつかへきえちゃった】あとには、【そっとさんのこえがきこえました さよよんならららーん】のこえを残して……。
(同書三二ページ)
河合さんはこの講演を、繪本の讀み聞かせにも通じる、次のやうなことばで閉ぢてゐます。
【音と歌というのは、心をすましていたら聞こえてくる魂のひびきといっていいのではないかと思います。私の話から皆さんの心の中に音と歌が残つたら、私は終わりといわずに終わろうと思います。】
(同書四三ページ)
同書にブック・イン・ブックの別冊で綴ぢ込まれた「物語絵本の発見」では、米國の作家でイラストレーターのワンダ・ガアグが一九二八年に著した兒童繪本『Millions of Cats』に強く惹かれ、『100まんびきのねこ』(ワンダ・ガアグ著、石井桃子訳、福音館書店、一九六一年)出版に漕ぎつけた松居直さんが、ガアグのみごとな挿絵で飾られた英語版原著と日本語版のページを比較しながら、とても素敵な解説を書いてゐる。
【(ガアグは)目に見えるように口で語られる物語を、耳で聴く歓びを知り尽くしていたのです。だからこそ子どもが讀む本ではなく、子どもに讀んでやる絵本をイメージし、讀んでもらいながら見るさし絵を描いたのでしょう。】
【絵本のさし絵が物語を語るのは、色彩ではなく線と形と構図であること、そして場面の連続性と変化の組み合わせであることに気づきました。】
(同書・別冊二、五ページ)
岡の斜面を埋め盡くす百萬匹の猫たちが喧嘩を始める場面では、ガアグの繪から猫たちの混亂と喧騒、動きと音と鳴き声、驚きと怖れ、猫たちのことばが聞こえる。

ところで、日本昔話の「桃太郎」では、桃の實が〈どんぶらこ、どんぶらこ〉と流れてくる「音(擬態語)」が定番だが、『ももたろう』(松居直文、赤羽末吉繪、福音館書店、一九六五年)では、川上から〈つんぶく、かんぶく〉と流れてくる。
この『ももたろう』は、青森県南部(五戸(ごのへ))地方の桃太郎傳説をもとに、松居さんが「宝物を取り返すのではなく、鬼にさらわれたお姫様を助け出す」物語に再話したものだが、〈つんぶく、かんぶく〉の響きは、南部ことばの「つんぶら、つんぶら」からきてゐるらしい。
なるほど、桃太郎傳説は全國各地にあるが、〈どんぶらこ、どんぶらこ〉だけでなく、〈つんぶく、かんぶく〉や〈つんぶら、つんぶら〉もまた、心地よく響いてゐる。
(武藏野大學非常勤講師『出版ニュース』コラム Book Therapy no.60(2016年12月))



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2017年09月22日

ブックセラピー(その16) いのち愛(め)づる姫君、二人の桂子(けいこ)さん。 原山建郎


「桂子」といふ名前の生命科學者が二人。一人は遺傳學者でJT生命誌研究館館長の中村桂子さん、もう一人は発生學者で歌人の柳澤桂子さんである。
生命科學とは、「生命現象の不思議」をさぐる學問だが、中村桂子さんは『生命科學者ノート』(岩波現代文庫、二〇〇〇年)に、ライフ(サイエンス)といふ言葉で説明してゐる。
【ライフは、日本にはどうしても譯せない意味を持つてゐる。日本語で表現せざるを得ない時には、生命科學といふが、生命ではライフといふ言葉のもつ内容すべてを含むことはできない。(中略)ライフといふ短い言葉のなかには、生命が誕生し、さまざまな生活を營み、その一生を終へるといふ一つのドラマが含まれてゐるのだ。】
(同書二二ページ)
同じ中村さんが編集した『愛づるの話。』(JT生命誌研究館、二〇〇四年)では、哲學者の今道(いまみち)友(とも)信(のぶ)さんとの対談で、大和言葉の「愛でる」ではなく、「愛づる」にこだわつてゐる。
【中村 「蟲愛づる姫君(『堤中納言物語』)の「愛づる」ですが、日本人の生きものへの気持ちをとてもよく表現した言葉だと思ふのです。「愛でる」ではなく「愛づる」。(中略)
今道 「蟲愛づる姫」は虫ゆゑに可愛がるのではなく、虫自身の中に潜んでゐる不思議な力。それを與へた佛様か、自然か、神様か、さういふものに對する賛嘆のやうなものがどこかに潜んでゐるのでせう。】
(同書一七、一八ページ)
いづれも、「めづ(感・愛・賞)」の下二段活用だが、「めづる」には強く心を動かされる自他一體感があり、「めでる」にはそのすぐれたさま(他)を讃嘆する主體(自)がある。
中村さんはその對談で、人間(の生命科學)が人間中心になるのは当然だとしても、その一方では、生きもの全般に對して「本質を客観的に見ることによつて生まれてくる愛」があるのだと思ふ、と述べてゐる。

一九六〇年代、分子生物學の勃興期に立ち會ひ、三菱化成生命科學研究所主任研究員として活躍した柳澤桂子さんは、三十歳代に原因不明の病に襲はれ、一度は死を覺悟した病床から、たくさんの短歌や科學エッセイを發信してゐる。四十歳代半ばの神秘體験を經て、柳澤さんの生命科學は、宇宙と人體の成り立ち、始まりも終はりもない「生死(しょうじ)一如(いちにょ)」へと向かふ。

『いのちと放射能』(ちくま文庫、二〇〇七年)には、「お星さまのかけら」が登場する。
【このやうな星が爆發すると、水素や炭素やヘリウムが星間(せいかん)物質(ぶつしつ)として宇宙に飛び散り、やがてできてくる新しい星の芽となります。(中略)地球上にある、水素、酸素、炭素、窒素などに稻妻や紫外線が働いて、くつついたり、離れたりしてゐるうちに、いのちのもとになる分子が偶然にできあがつたと考へられてゐます。
私たちはお星さまのかけらでできてゐるのです。】
(同書一六ページ)
『生きて死ぬ智慧』(小學館、二〇〇四年)は、柳澤さんによる般若心經の「心譯」である。
【ひとはなぜ苦しむのでせう……/ほんたうは/野の花のやうに/わたしたちも生きられるのです
もし あなたが/目も見えず/耳も聞こえず/味はうこともできず/觸覺もなかつたら/あなたは 自分の存在を/どのやうに感じるでせうか。
これが「空」の感覚です】
(同書一ページ)
『いのちの日記』(柳澤桂子著、小學館、二〇〇五年)の一首に、「生死一如」を觀る。
【生まれかはり死にかはりつつわが内に積む星屑(ほしくず)にいのち華(はな)やぐ】
(武藏野大學非常勤講師『出版ニュース』コラム Book Therapy no.59)


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2017年08月20日

ブックセラピー(その15)「ひらがな(和語)」でとらへる佛教。 原山建郎

☆紀元前六世紀にインドで生れた佛教は、西域、中國、朝鮮半島を經由して、六世紀の日本に傳來した。佛教の經文はすべて漢文(漢民族の文字)で書かれてをり、その讀み方はいまでも呉音(ごおん)(佛教語に多く用ゐられる南方系の漢字音)で行はれてゐる。
☆上古代の日本には固有の文字はなく、四〜五世紀に傳來した漢字の音や意味を借りて萬葉假名が作られた。その後、漢字の草体(そうたい)である變體假名(江戸假名)をへて、明治三十三年に一音一字、現在の「ひらがな」が制定された。
☆平安時代中期から鎌倉時代にかけて、中國語で書かれた經文を、和語(日本の固有語)でわかりやすく説いた「和讃(わさん)(佛の功徳や佛法をたたへ、祖師(そし)・高僧の行跡(ぎょうせき)を述べた叙事歌謡)」が、さかんに作られるやうになつた。
☆萬葉假名の流れを汲む「ひらがな」は、上古代の口承(こうしょう)文化(文字によらない、身振り語を交へた話し言葉)の精髄を二十一世紀の現代に傳へる「からだ言葉(身體表現)」と考へることができる。

そこで、佛教のキーワード(漢字=頭腦知)を經文からとり出し、それに近接する「ひらがな」の意味(和語の成り立ち)を『字訓』(白川静著、平凡社、二〇〇七年)から、「ひらがな」の身體感覚(和語=身體知)を『野口体操 おもさに貞(き)く』(野口三千三著、柏樹社、一九七九年)から、抽(ひ)き出した。
さらに、@「と(解)く/と(融)ける・自力(じりき)作善(さぜん)/本願(ほんがん)他力(たりき)」、A「ゆる(赦)す/ゆる(弛)む:自然法(じねんほう)爾(に)」、B「たす(助)く/すく(掬)ふ:攝取不捨(せつしゅふしや)」、C「つつ(包)む/さら(晒)す:回心(えしん)懺悔(さんげ)」、D「うれ(歡)し/たの(樂)し:不體失(ふたいしつ)往生(おうじょう)」のテーマで、さまざまな角度から光をあてた。

講座資料には『歎異抄(たんにしょう)』『末燈鈔(まつとうしょう)』『淨土和讃(じょうどわさん)』のほかに、「死の受容五段階説」で知られる精神科醫、エリザベス・キューブラー=ロスの『ライフ・レッスン』(上野圭一訳、中公文庫、一九七一年)が登場する。
同書「許しのレッスン」で、もしあなたが變はるのなら(私を傷つけた行爲を心から謝罪するのなら)、私も變はらう(許してやつてもいい)と考へる人に、ロスはかう語りかける。
【許せないといふ氣もちは人を固着させる。(中略)人間關係を修復するよりは相手を責めたはうが樂になる。相手の過ちだけをみてゐるあいだは、自分自身の内面を見つめる必要がないからだ。相手を許したとき、はじめて人生に力がよみがへり、傷を乗りこえて花ひらくことができるやうになる。】
(同書三二二ページ)
人生はいつも不幸なことばかり、幸せな人生をお與へくださいと祈る人には、「その答へはあなた自身にある」といふ。
【たいがいの人は幸福といふものを、あるできごとにたいする反應としてかんがへてゐるが、じつさいの幸福とはこころの状態であり、周圍でおこることとはほとんど關係がない。(中略)自分を幸福にするために必要なものはすべてあたへられてゐる。わたしたちはただ、自分にあたへられてゐるものの使ひかたを知らないだけなのだ。(中略)
幸福になるかどうかは、周圍でおこつてゐることがきめるのではなく、あなたがきめることなのだ。】
(同書三三六〜三三八ページ)
佛教にかぎらず、あらゆる宗教の目標は、「すでに救はれてゐる(幸福な)自分」に気づくことにある。
(武藏野大學非常勤講師 『出版ニュース』コラム Book Therapy 2016年1月)

posted by 國語問題協議會 at 12:09| Comment(0) | 原山建郎