2018年01月26日

「つたへること・つたはるもの」(その1)漢語で傳へる「名文」より、ひらがなで傳はる「達意の文」を 原山建郎

かつて雜誌『主婦の友』の取材記者だつた私の文章スタイルは、いまでも『主婦の友社の用字用語』(入社時に貸與され、退社時には返却する、文章作成の手引書)が基本である。
@ 漢字の讀み方が2種類あるときは、原則として「開く」、つまり「ひらがな」表記にする。=○〜するとき(時)、○〜とい(言)ふ、○〜すること(事)、○子ども(供)は、いずれも時(じ)・言(げん)・事(じ)、供(きょう)と読まれるおそれがある。したがつて、讀み違いしやすい漢字表記ではなく、讀み方がひと目でわかる「ひらがな」表記に替へたほうがよい。
A 同じ言葉でも、時と場所と使用目的によつて、漢字、ひらがな、カタカナをうまく使ひ分ける。●桜の花。さくら貝。あいつはサクラだ。●子ども。子供。こどもの日(五月五日)。コドモまんが。/●薔薇の花。バラ科サクラ属。ちりぢりばらばら。●大人料金。おとな(大人)しい。オトナの女性。
B  常用漢字表にある漢字であつても、「ひらがな」表記にした方が讀みやすい。=☆出來る→できる、☆續く→つづく、☆〜餘り→あまり、☆〜程→ほど、☆予め→あらかじめ
C  接頭語的にあるいは、補助動詞として使はれるときは、「ひらがな」表記が妥当である。=◆とり(取り)壊す、とり(取り)亂す、◆ご(御)親切に、◆繪本を讀んでみる(見る)、◆來てほしい(欲しい)、◆買つてくる(來る)、◆Kといふ(云ふ)人、

大學時代、所謂(いはゆる)名文を書くためには、日ごろから教養を磨くだけでなく、就中(なかんづく)難解な漢語を用ゐる心がけが肝要(かんえう)で、それが即ち(すなはち)一流の書き手だと思つてゐた私が配屬された『主婦の友』では、「ひらがな」だらけの文章を書かされた。そんなとき、先輩記者から誘はれる酒場(入社後1年間はタダ)での飲みニケーションは、貴重な實踐的文章教室となつた。
★所謂→よくいはれる、★就中→なかでもとくに、★肝要→たいせつ、★即ち→つまり
なるほど、どれも當たり前の「ひらがな」語ばかり。これではまるで小學校時代の國語の時間に逆戻りである、などと少し酔ひのまはつた頭で考へてゐると、先輩から痛棒の一撃を食らつた。「難しいことを難しく書くのは、誰でもできる。難しいことをわかりやすく書くのが、雑誌記者の腕だ」
後年、『わたしの健康』(現在は『健康』)の編集長を務めるやうになつてから、たとへば醫學・健康分野の記事を書くときに重要なことは、その分野の専門的知識を得るための勉強ではなく、取材先の醫師や榮養士に「わかりやすく言ふと〜ですか?」「たとへば〜のやうなことでせうか?」と粘り強く質問して、一般讀者に傳はるレベルまでトコトン發み碎く「達意の文」だと気づかされた。『主婦の友社の用字用語』に書かれてゐる「料理記事で注意を要する点」は、そのまま「達意の文」の基礎編となつてゐる。
▲料理記事は、材料と作り方、盛り方、食べ方、(調理の)コつ、応用、献立などから成つている。材料に出てゐて、作り方でふれてゐないなどといふことのないやうに。調味料などで、材料の中に書き入れないことはあるが。▲調理過程の説明に不用意はないか。煮る、燒く、もどすなどといふ必要作業の叙述が抜けてはゐないか。▲値段、所要時間およびその表記についての吟味。
難しい専門用語(漢語)で傳へる「名文」よりも、内容を發み碎いたひらがなで傳はる「達意の文」を心がけたい。
(武藏野大學非常勤講師『ゴム報知新聞』電子版コラム (2016年10月11日)

posted by 國語問題協議會 at 11:00| Comment(0) | 原山建郎

2017年11月26日

おもて〈面〉⇔うら〈心〉の應答               原山建郎

二〇一三年、遺傳子檢査を受けた女優のアンジェリーナ・ジョリーに、乳ガンと卵巣ガンの遺傳的リスクが各々八十七パーセント、五十パーセントであることが判明した。彼女の母親は四十九歳で卵巣ガンと診斷され、五九歳のとき乳ガンで亡くなつた。祖母は乳ガン、叔母も卵巣ガンで亡くなつてゐる。
そこで、彼女は豫防的乳房切除(乳房再建)手術を選擇し、二年後には卵巣と卵管も摘出した。この決斷を「勇気ある選擇だ」と賞讚の聲がある一方で、「乳ガンの遺傳子があつても、必ずガンになるとは限らない」といふ意見も多く寄せられた。
なるほど、遺傳的な要因が強く關與して發症する乳ガンや卵巣ガンは、全體の五〜十パーセント程度、殘り九十パーセントは、遺傳子とは関係なく發症しているといふデータもある。それでも、「ガンの遺傳的リスクが八十七パーセント」と告げられれば、誰でも豫防手術の選擇をめぐつて心がゆらぐ。
多くの醫療機關が、遺傳子檢査などの情報を元に、患者個々人に最適化したオーダーメイド醫療を喧傳(けんでん)した。しかし、人間のからだは、機械のリコール(缺陷部品の交換・修理)と同じに考へられるのだらうか。

昨年末、東方醫療振興財團主催の市民公開講座『鍼1本が医療崩壊を救う!』で、「パソコンを見(み)る醫學、つながりを診(み)る醫療」について講演した。パンフレットに、私はかう記した。
〈患者のからだに觸れることもなく、パソコン画面に映る檢査値の變化を重視する醫師がふえてゐる。からだを部分に分けて見る現代醫學は、すぐ隣とのつながりを見落としやすい。かつて、鍼麻酔で無痛抜齒を體驗した私は、部分と全體のつながりを診る鍼灸治療のアドバンテージを、醫療再生への第一歩に生かすべきだと考へる。〉
メインテーマは、「からだのおもて〈面〉⇔うら〈心〉の應答」である。〈面〉の訓は「おもて(外)」だが、〈心〉の古訓に「うら(内)」がある。そして、からだの外(おもて)と内(うら)の接點は、體表を覆ふ皮膚である。鍼灸(東洋醫學)の診察・治療は、すべて掌(たなごころ)、た(手)+な(の)+こころ(心=うら)でふれる皮膚を介して行はれる。まづ脈診や腹診でうら(内)の様子を窺い、おもて(外)の經(つ)穴(ぼ)(交流ポイント)から鍼や灸の刺戟によつて、うら(内)に語りかける。治療後に感じる心地よさは、うら(内)からの應答だ。近年、皮膚への適切な〈快〉刺激が、腦の疲れをとるオキシトシン(癒しのホルモン)の分泌を促すことが明らかになつた。

統合醫療の創始者、アンドルー・ワイルが、『癒す心、治す力』(上野圭一譯、角川書店、一九九五年)で、【治療と治癒とは同じものではない。治療は外からほどこされ、治癒は内から起こつてくる。】といふやうに、皮膚はからだの物理バリアであり、外部をモニターするセンサーなのだ。
また、『思考のすごい力』(ブルース・リプトン著、西尾香苗譯、PHP研究所、二〇〇九年)の中で、革新的な生物學であるエピジェネティクス(遺傳子を超えたコントロール)に着目したリプトンは、遺傳子檢査やオーダーメイド醫療の「遺傳子がすべてを支配する」といふ遺傳子決定主義の考へ方は、すでに時代遲れ遅れだと指摘してゐる。
【エピジェネティクスがこの十年間に解明したところによれば、遺傳子として受け渡されるDNAの設計圖は、誕生のときにはまだ確定してゐないらしい。遺傳子は運命の女神ではないのだ!環境による影響、たとえば榮養分やストレスなどの感情が、基本的な設計に手を加へることはないにしても、遺傳子を變化させることがある。】
(同書一〇九ページ)
〈面(おもて)〉と〈心(うら)〉の應答が拓く、鍼灸の未來。
(武藏野大學非常勤講師『出版ニュース』コラム Book Therapy 2013年))

posted by 國語問題協議會 at 11:05| Comment(0) | 原山建郎

2017年10月23日

ひらがな絵本の音、ことばを語る絵。 原山建郎

来年一月、下里しおん保育園(早川寿美子園長)の子育て講座『「日本昔話」はこんなに面白い』では、日本昔話に日本人の心の在り方(母權的意識)をさぐつた河合隼雄さんの〈見るなの座敷〉〈鬼が笑う〉〈家出願望〉〈子どもと秘密〉など、日本昔話の背景をまじへて話すつもりだが、その準備のために河合さんの著書を讀むうちに、『絵本の力』(河合隼雄・松(まつ)居(い)直(ただし)・柳田邦男著、岩波書店、二〇〇一年)にめぐりあつた。
同書は、二〇〇〇年に小樽市で開催された文化セミナー「絵本の可能性」の講演+討論録だが、河合さんの講演「絵本の中の音と歌」の中で紹介した『よるのようちえん』(谷川俊太郎文、中辻悦子絵・写真、福音館書店、一九九八年)には、不思議な「音」たちが登場する。
物音も聞こえない、何もない夜の幼稚園に、だれかいる!
【そつとさんが かおをだしました そっとさんは きょろきょろりん】のほかに、すっとさん、さっとさん、じっとさん、ぜっとさん、もっとさん、ぱっとさん、ぽっとさん、ぬっとさん、おっとさんも出てきて、みんなで、がやがややつている。
そして、【そらがあかるくなってしまいました あれれ みんなどつかへきえちゃった】あとには、【そっとさんのこえがきこえました さよよんならららーん】のこえを残して……。
(同書三二ページ)
河合さんはこの講演を、繪本の讀み聞かせにも通じる、次のやうなことばで閉ぢてゐます。
【音と歌というのは、心をすましていたら聞こえてくる魂のひびきといっていいのではないかと思います。私の話から皆さんの心の中に音と歌が残つたら、私は終わりといわずに終わろうと思います。】
(同書四三ページ)
同書にブック・イン・ブックの別冊で綴ぢ込まれた「物語絵本の発見」では、米國の作家でイラストレーターのワンダ・ガアグが一九二八年に著した兒童繪本『Millions of Cats』に強く惹かれ、『100まんびきのねこ』(ワンダ・ガアグ著、石井桃子訳、福音館書店、一九六一年)出版に漕ぎつけた松居直さんが、ガアグのみごとな挿絵で飾られた英語版原著と日本語版のページを比較しながら、とても素敵な解説を書いてゐる。
【(ガアグは)目に見えるように口で語られる物語を、耳で聴く歓びを知り尽くしていたのです。だからこそ子どもが讀む本ではなく、子どもに讀んでやる絵本をイメージし、讀んでもらいながら見るさし絵を描いたのでしょう。】
【絵本のさし絵が物語を語るのは、色彩ではなく線と形と構図であること、そして場面の連続性と変化の組み合わせであることに気づきました。】
(同書・別冊二、五ページ)
岡の斜面を埋め盡くす百萬匹の猫たちが喧嘩を始める場面では、ガアグの繪から猫たちの混亂と喧騒、動きと音と鳴き声、驚きと怖れ、猫たちのことばが聞こえる。

ところで、日本昔話の「桃太郎」では、桃の實が〈どんぶらこ、どんぶらこ〉と流れてくる「音(擬態語)」が定番だが、『ももたろう』(松居直文、赤羽末吉繪、福音館書店、一九六五年)では、川上から〈つんぶく、かんぶく〉と流れてくる。
この『ももたろう』は、青森県南部(五戸(ごのへ))地方の桃太郎傳説をもとに、松居さんが「宝物を取り返すのではなく、鬼にさらわれたお姫様を助け出す」物語に再話したものだが、〈つんぶく、かんぶく〉の響きは、南部ことばの「つんぶら、つんぶら」からきてゐるらしい。
なるほど、桃太郎傳説は全國各地にあるが、〈どんぶらこ、どんぶらこ〉だけでなく、〈つんぶく、かんぶく〉や〈つんぶら、つんぶら〉もまた、心地よく響いてゐる。
(武藏野大學非常勤講師『出版ニュース』コラム Book Therapy no.60(2016年12月))



posted by 國語問題協議會 at 21:46| Comment(0) | 原山建郎