2016年11月21日

横書きで書き、縦組みで讀む。  原山建郎(はらやま たつらう)


久しぶりに手紙を書かうと便箋を開き、筆を下ろす。ところが、「拜啓 初秋の候……」から先に、縱書きの筆が進まない。横書きの下書きはスラスラ書けたのに、縱書きでは漢字ひと文字書くのもぎこちない。
ふだんオートマチック車のドライバーが、久しぶりのマニュアル車運轉では、半クラッチをつなぐタイミングがつかめず、最初はエンジンを吹かしすぎる、そんな感じの違和感。

かつて、雜誌記者時代には二〇〇字詰めの原稿用紙、モンブランの萬年筆、ブルーブラックのインク、もちろん縱書き、締め切り時間との競爭だつた。毎夕の提出が義務だつたA5判の業務日誌では、罫線の餘白にも數行、縱書きで書いてゐた。
ただひとつの横書きは、取材用ノート。これは學生時代の講義ノートと同じ、心覺えのメモにすぎない。オフィシャルは、どこまでも縱書きの原稿用紙。

縱書き一筋の私が、電子文字(當時はOASYSのワープロ)と出會つたのは、デジタル入稿が始まつた一九八七年だつた。それまで、萬年筆の縱書き原稿は、まず約一〇〇字のひとまとまりを考へて書き、筆を走らせる頭の中で、次の一〇〇字を同時にイメージしながら書いた。
しかし、慣れないワープロの横書きは、單語やフレーズごとの變換となるので、表示された電子文字に目を奪はれ、次の二〇字を考へるだけで精一杯。
そこで、私は原稿用紙に書いた文章をワープロで清書といふ擧に出た。ある先輩記者は、畫面に縱書き原稿用紙の罫線を引き、紙の原稿と同じ感覺で書くといふ苦肉の策を講じた。
いま考へると、見當違ひもいいところだが、縱書きで原稿を書いてゐた世代には、大きなストレスになつてゐたのだ。
今夏、龍谷大學の集中授業では、「縱書きで書くか、横書きで書くか」をとりあげた。

まづ、縱書きの得意技から。
●縱書き(縱組み)思考では、「熟考力」が磨かれる。
@視線(思考)は、右上から斜め左下へ動く。/A一段落(一〇〇字程度)づつ書きながら、同時に次の一段落を考へる。四〇〇字詰め縱書き原稿用紙なら、一〇〇字=二〇字×五行が「ひと思考」の範圍だ。/B日本語(漢字・ひらがな・カタカナ)は、多くの場合、ストロークが左上から右下ないし眞下に抜けていく。これは日本語が縱向きに書かれてゐたころの名殘。/C縱組み(右開き)の册子體では、見開き二ページが同時に視野に入る。人間の目は横位置に二つ竝んでをり、水平方向が得意。/D斜め(飛ばし)讀み(右上から斜め左下へ、文字列のパターン認識)が可能。

横書きの得意技は、かうだ。
●横書き(横組み)思考は、「發信力」が身につく。
@視線(思考)は、左上から斜め右下へ動く。/A一センテンスが短く(四〇字程度)なる。とくにワード文書ではその傾向が強くなる。横書きの場合は、四〇字(一行)が、標準的なひと思考の單位となる。/B日本で横書きが始まつたのは、明治初期、本木昌造が正方形の活字を作るまでは、基本的に日本語は横向きに書かれることはなかつた。日本人は、「日本語が横にも書ける」といふことを、つい最近「發見」したことになる。/C横組み(左開き)の册子體では、まづ右ページ、次いで左ページと、一ページづつが視野に入る。一段落(ひとまとまり)ごとに集中して讀むことができる。

デジタル入稿から二十五年、いまでは、本コラムも縱書きでは書かない。原稿はもつぱら横書きだ。そのせゐか、縱書きの手紙がえらく億劫になつた。
ワード文書作成は「横書き」で書き、印刷された本誌は「縱組み」で讀む。
(武蔵野大学非常勤講師 『出版ニュース』誌のコラム Book Therapy no.7
posted by 國語問題協議會 at 21:12| Comment(0) | 原山建郎

2016年10月18日

変体仮名を読む、和本リテラシー。 原山建郎(はらやま たつらう)

「六十の手習い」を英語でいうと、“Never too old to learn.”(学ぶのに年を取り過ぎているということはない)となる。老年期にもなお学ぶ意欲を失わぬ「晩学」を奨励するものだが、還暦を六つ過ぎて始めた「変体仮名」の手習いはそんな殊勝な動機からではない。

六十歳で非常勤講師となった私は、学生たちに一所懸命、日本語の危機を訴えてきた。
「旧字体(旧漢字)、旧仮名遣いが理解できないと、日本の古典は読めなくなります。『枕草子』の原文に書かれた〈をかし(面白い、美しい)〉や〈あはれ(しみじみとした情趣のある)〉を、現代語の〈おかし(可笑しい)〉や〈あわれ(可哀そう)〉に置き換えて読むような知的劣化≠ェおこったら、日本の古典はその時点で外国語≠ノなってしまいます」
しかし、『武蔵野大学司書課程・司書教諭たより』十五号(平成24年4月30日発行)に載っていた「江戸かな(変体仮名)」研究家・吉田豊さんの論考「江戸の草子を楽しむ」のなかに、この私自身が見落としていた日本語の「ほんとうの」危機が潜んでいたのである。

【英語は読めるが、百年前まで使われていた和本は読めない、これが日本の現実の姿です。恐ろしいことに、国文学者も国史学者も活字化された資料によって活動している状況を、江戸文学者で文化功労者の中野三敏氏は次のように嘆いています。
(変体仮名や草書体漢字)の文字を、少なくとも江戸の一般人と同様のスピードを以て読む能力を備えた読書人というものが、今や絶滅危惧種化している。(中略)「和本のすすめ(岩波新書)」】
(「江戸の草子を楽しむ」)

これまで、私が読んできた教科書(抄録)や単行本の『枕草子』は、旧かな遣い(漢字は新漢字)と現代文の対訳つきで、当然のことながら「旧かな」は活字化された紙の本の印刷文字のみである。さも偉そうに「日本語の危機」を説いていた私には、日本の古典文学を原文で自在に読みこなす能力、和本リテラシーが欠落していた。
もちろん、変体仮名が漢字のくずし字であることは知っていた。そのルーツは、中国から伝来した漢字の音や意味を、それまで文字を用いなかった和語の音節に利用(仮借)した万葉仮名だということも知っていた。しかし、それは私が「知っていた」だけにすぎない。
吉田さんが「江戸かな」と呼ぶ江戸時代の変体仮名は、十八世紀半ばに約八割という識字率を可能にした寺子屋教育で庶民の「読み・書き」能力を高めた最大最高の功労者である。

善は急げ。吉田さんの「江戸かな」入門書を数冊、市川市中央図書館から借りてくる。
「小倉百人一首」の絵札を、巻末の「主要江戸かな一覧」と引き比べながら読む。最初はたどたどしく、やがて少しわかるようになる。
明治33年の「一音一字の平仮名字体」で統一される以前の書物には、「江戸かな」が使われていた。吉田さんの『寺子屋式古文書手習い』(柏書房)には、まだ「江戸かな」で書かれた『學問のすゝめ』の初版本(明治5年)の誌面が載っている。

【天ハ人の上◎人を造ら▲゛人の下◎人を造ら▲゛と以へりさ■バ天より人を生する◎ハ萬人ハ萬人皆同じ位◎して生■ながら貴賤上下の差別なく萬物の靈た▽身と心との働を以て……】
(『學問のすゝめ』)

◎=に(尓)、▲=す(春)、■=れ(連)、▽=る(累)が江戸かな。和文リテラシーは、「江戸かな」に親しむ心の中で呼吸している。
武蔵野大学非常勤講師 原山建郎
『出版ニュース』コラム Book Therapy no.9
posted by 國語問題協議會 at 16:43| Comment(0) | 原山建郎

2016年09月26日

書きことば、話しことば、息づかひ  原山建郎(はらやま たつらう)

コミュニケーション論で配布する文献資料のいくつかは、著者の「伝へたい」思ひ、つまり「文の息づかひ」が「伝はる」やうに、その「さはり」を原文のまま引き写す(著作権の教育的利用)。である調・ですます調の「書きことば」、対談・聞き書きの「話しことば」たち、読み手をぐいぐい引き込む力が「伝はつて」くる。
野の花診療所所長の徳永進さんは、岩下看護婦さんと「カルテ」、無言のせりふ「……」で、それぞれの「想ひ」を語る。

☆「書きことば」(せりふ入り)
【「先生、あれはね、昭和二十八年頃でした。そう、確かにそう。……」
岩下看護婦さんは、机の上に並んでゐるカルテを手に取つた。
「すみちゃんていう小学五年生の可愛い子が入院してたんです。……」
岩下看護婦さんは、カルテを抱き締めるやうにして話し続けた。
「あれは、そう、真つ青な空が広がる三月でした。……」
岩下看護婦さんはカルテを強く抱きしめた。
「それからお昼になつて、みんなが部屋に戻つたんです。帰つたそのとき、……。」
カルテを抱いたまま、岩下看護婦さんは、動かなかつた。(『カルテの向こうに』257ぺーじ)

★「書きことば」(せりふ入り)
【「頭、痛い?」「……」「熱、出た?」「……」「けいれんですか?」「ハイ」
抗けいれん薬を打つとすぐにおさまつた、てな具合。
別の日、ナースが「様子が変」と駆けつけた。「寒いですか?」「……」「けいれんですか?」「……」「便ですか?」「ハイ」。摘便でドつサリ、てな具合。】
(『野の花ホスピスだより』27ページ)

硬派の「文明・文化論」で知られる内田樹さんの著書は、ブログを編集したものが多い。「である調」で書かれたブログが、著書の書きことばでは「ですます調」になつている。
☆書きことば(ですます調)
【マスメディアの凋落の最大の原因は、僕はインターネつトよりもむしろマスメディア自身の、マスメディアにかかわつている人たちの、端的に言えばジャーナリストの力が落ちたことにあるんじゃないかと思つています。】(『街場のメディア論』38ページ)

★書きことば(である調)
【自然災害であれ、人間が発する邪悪な思念であれ、それが私たちの生物としての存在を脅かすものであれば、私たちはそれを無意識のうちに感知し、無意識のうちに回避する。】
(「内田樹の研究室」二〇一二/六/一八)

また、「からだとことば」の関係性を平明に説く、演出家の竹内敏晴さんの話しことば(対談)、書きことばは、ともに長めのセンテンスだが、句読点の息づかひ、独特のリズム感が伝はつてくる。

☆話しことば(対談)
【わたしにとつてのことばつていうのは、そういうふうにまず第一に、ほんとうに人が人に働きかけられるかという、一つの、なんて言うのかな、証しであつて、こういう話をしてしまえば、結論っていうか、はっきりするわけだけれども、わたしにとっては、ことばっていうのは文章ではなくて、まず第一に話しことばなわけです。】
(『教師のためのからだとことば考』、190ページ)

★書きことば(である調)
【意思としては話しかけよう、目当ての人とつながろう、としているのだろうが、からだは行かないで、とひきとめている。これでは声は前へ行けないな。まず手を解き放ち、相手の方へ「手を出し」「足を出し」て、からだ全体が動き始めなくては、声が届くはずがない。】
(『「からだ」と「ことば」のレつスン』33ページ)
(武蔵野大学非常勤講師 『出版ニュース』誌のコラム Book Therapy no.7

posted by 國語問題協議會 at 13:52| Comment(0) | 原山建郎