2017年12月31日

一月一日

一月一日(いちげつ いちじつ)

作詞 千家 尊福(せんげ たかとみ)
作曲 上眞行(うえ・さねみち)

年の始めの 例(ためし)とて
(おはり)なき世の めでたさを
松竹(まつたけ)たてて 門ごとに
(いは)ふ今日こそ 樂しけれ

初日のひかり さしいでて
四方(よも)に輝く 今朝のそら
君がみかげに比(たぐ)へつつ
仰ぎ見るこそ 尊(たふ)とけれ
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posted by 國語問題協議會 at 21:34| Comment(0) |

2017年12月22日

和製漢語、和製英語、日本人の造語腦 原山建郎

先月、熊本で『ひと言で傳へる「ひらがな」のちから――ありがたう・おかげさま・すみません』と題する講演を行つた。
メインは「ひらがな」の効用だが、日本語の特徴である漢字かな交じり文、つまり漢語(中國製漢字熟語、日本製漢字熟語)+和語(やまとことば=ひらがな)+カタカナ語(外來語、カタカナ表記語、和製英語)のうち、漢字は〈意味や情報〉、ひらがなは〈感情や思ひ〉、カタカナは〈イメージ〉をおもに伝へる表記法で、それらの相互作用で幾通りもの文脈ができる、といふ話をした。

「峠・畑・辻」など日本で作られた国字(和製漢字)の研究者・笹原宏之さんは、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル、二〇一五年)の中で、日本人は漢字をただ使ふだけでなく、微妙なニュアンスによる使ひ分けを行ってゐると、次のやうな例を擧げてゐる。
【たとえば、「幸福」「幸せ」「ハッピー」は、辭書の上ではどれも同じ意味になります。しかし、コノテーションの違ひを日本人は注意深く嗅ぎ取ります。(中略)また、若い人がしばしば使ふ「チョー(超)」といふ言葉を重ねたい場合、「チョーハッピー」はいい感じなのでせうが、「チョー幸せ」はちよつと微妙で、「チョー幸福」とは、多分言はないことでせう。コノテーションの違ひが語彙や表現に多様性を生んでゐるのです。】
(同書一二二ページ)
たとへば、ひらがなの「たまご」を漢字で用ゐるとき、火が入る前には「卵かけご飯・半熟卵」だが、いつたん火が通ると「玉子焼き・玉子丼」となるやうに、微妙なニュアンス、つまり周辺的な言外の意味を、言語学ではコノテーション(connotation)といふ。

日本が近代西洋文明と出会ふのは、幕末から明治初期にかけて、いはゆる文明開化のころである。西洋の概念である歐米語を音譯したボットル=壜、ウォッテ=水などのカタカナ語とともに、歐米語をわかりやすい漢語に飜譯するために、新しく漢字を組み合はせた二字熟語(科學・哲學・野球・郵便・談話など)や、中國由来の漢語に全く新しい意味を付與した和譯漢語(革命・自由・權利・觀念など)が造られた。

やがて、發音重視のカタカナ語は、ボットル→ボトル、ウォッテ→ウォッチ、ケットル→ケトルへと変化し、さらに英語をカタカナ化する過程で、和製英語が造られる。河口鴻三さんは、『和製英語が役に立つ』(文春新書、二〇〇四年)で、英語が日本語化していく五つのパターンを紹介している。
@ 短縮系〔長い單語の短縮化〕アパート(アパートメントハウス)/ホテルのフロント(フロントデスク)など。
A 部分活用系〔複数の意味から一つだけ選擇〕スケジュール(豫定表、明細書)/バランス(均整、天秤、差引殘高)など。
B 誤解系〔似たやうな單語の身代はり〕クリーニング(洗濯屋=ランドリーと入れ違った)/パネラー(發言者=パネリストの誤用)など。
C 混同系〔似た發音や意味の混同〕クレームをつける(本來の主張、斷言を苦情と混同)/スチール写真(盗む=スチールsteal・鐵鋼=スティールsteelと混同。正しくはスチルstill photo)など。
D 分離系〔同じ單語が異なる意味を表現〕アイロンをかける(電氣アイロン=ironは衣服のしわ伸ばし専用、原發音に近いアイアン=ironならゴルフのアイアンクラブ)
(同書一五〜一八ページ要約)
英語のバトンパスは、和製英語でバトンタッチ。リオ五輪男子四〇〇メートルリレーは、日本チームがアンダーハンドパスでのバトンタッチで、銀メダルを獲得した。
(武藏野大學非常勤講師『出版ニュース』コラム Book Therapy no.65(2017年5月))
posted by 國語問題協議會 at 11:39| Comment(0) | 市川浩

2017年12月13日

數學における言語(20) ジョン・ロックの知[T] 河田直樹

ジョン・ロックの知[T]
 ジョン・ロック(1632〜1704)といへば、高校の倫理・社會で習つた「tabula rasa(‘何も書かれてゐない石板’といふ意味で、この言葉はすでにトマス・アキナスが用ゐてゐる)」といふ言葉がすぐに想起されますが、要するに私たちの知識・観念は生得的なものではなく、これらはすべて「感覺的經驗」を通して獲得されていくのだ、といふ考へ方です。したがつて、ロックは「經驗」から「一般論」を導くといふ「歸納法(induction)」を重視しますが、その一方でこの方法による「一般論」はときにまちがつてゐる場合もあるので、常にそれを考慮しておかなければならない、とも指摘してゐます。つまり彼は、いはゆる「科學的知識」に數學と同じやうな絶對の確實性があるとは考へませんでした。
まことに穏當な考へ方で、ロックの哲學は言つてみれば「非プラトン的、非デカルト的」なのです。「非プラトン的」であることは、プラトンの對話編『メノン』や『パイドン』における「想起(=アナムネーシス)」を思ひ浮かべれば納得できるでせうし、「非デカルト的」であることは「演繹(deduction)」を重視して座標幾何學を創始したデカルトの「cogito ergo sum」といふ言葉を心に浮かべればよいでせう。村上一郎も指摘してゐるやうに、ロックは「デカルトのいふ意味の『知』をみとめつつ、これを批判して」もゐるのです。
小學から高校まで「數學」を「理系科目」として教育されてゐる私たち日本人は、「科學的知識」と「數學的知識」とを混同しがちですが、そもそもこの二つは異なるもので、その目指すところはロックが考へたように根本的に違つてゐます。ここでひと言付け加へておくと、「科學」は「サイエンス(sciene)」の譯訳語ですが、これはラテン語の「スキエンティア(scientia)」に由來し、元來「知ること、知識、學問」を意味します。とかく日本人は「科學」といふ言葉に弱く、世間ではこれが一種の‘魔語’として流通してゐるやうに思はれます。「科學的に檢證された」といふだけで、その結論を絶對的に正しいと勘違ひしてそれこそ「非科學的」にそれを絶對的な言説として信じてしまふのはよく見られることです。誤解を恐れずに少々皮肉を言へば、「數學的に檢證された」のではなく、「科學的に檢證された」にすぎない知見は、むしろロックに倣つて「そこに誤りがあるかもしれない」と考へるのが、正しい態度といふべきでせう。さらに、付け加へると「この世界についての知識が絶對ではない」といふ‘大人’の經驗をすると、「この世には絶對確実なんてないものはない」と斜に構へて嘆いてみせるのも私たち日本人の通弊ですが、はつきり言はせてもらふと、やはりこの世には「絶對」といふものがあるのです。「數學的知識」とは、正にそれを目指してゐる學問の一種(おそらく唯一の)とも言へます。
そもそも「數學的知識あるいは數學的言語とは何なのか」といふ問題は、いづれこの連載で論じてみたいと思つてゐますが、ロックの系譜に連なるジョージ・バークリ(1685〜1753)は『人知原理論』の「119」で「私たちはおそらく、このやうに思惟を高く天翔らせて抽象を事とすること(數學のことと考へておいてよい)を價値低く思ふであらうし、數に關する探究が實用に役立つて人生の福利を促進するものでないかぎり、さうした探究をもつてそれだけの小難しい遊びごとと見做すであらう」と、いかにも「經驗主義者」らしいことを書き記してゐます。また1734年に出版した『Analyst』といふ本(この本は、ニュートンの友人にして不信心な數學者エドモンド・ハレー(1656〜1743)に對して書かれた)では「微分(ニュートンの流率)」に關連して次のやうなことを述べてゐます―「流率とは何か?消滅する増分の速度である。そしてこれらの同じ消滅する増分とは何か?それらは有限な量でもなく、無限に小さな量でもなく、無でもない。それらは死んだ量の亡霊と呼んではいけないだろうか?」。「死んだ量の亡霊」とはなかなかうまいことを言つたものですが、バークリのこうした數學的知見への誤解は、むしろ愛すべきものかもしれません。  (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 18:16| Comment(0) | 河田直樹