2018年11月10日

日本語ウォッチング(7) 一姫二太郎 織田多宇人 一姫二太郎

「一姫二太郎」は、「子供を持つなら、最初が女の子で二番目が男の子と言ふ順番だと育て易いと」言ふ意味だが、最近の若い人は、「子供を持つなら、女の子一人と男の子二人が良い(子供の合計は三人)」と思つてゐる人が多い。太郎(長男)は一人しかいないのだが。
若い世代の言語感覺の違ひは「住めば都」と言ふ言葉にも現はれてゐる。もともと「どんな所でも住み慣れてしまへば、そこが最も住みよい土地になる」と言ふ意味だが、若い世代の過半數が、「住むのなら都會が良い」と思つてゐる。「住めば都」を文語文と捉へると「住む」の已然形で、「住んでみたところ」と言ふ意味になるが、口語文と捉へると「住む」の未然形で「もし住むらば」と言ふ意味になつてしまふので、誤解するのもうなづける。
「噴飯もの」の意味は@腹立たしくて仕方がない、Aおかしくてたまらない、のどちらか?と言ふ文化廳の調査で、@と誤答した人が49.0%、Aと正答出來た人が19.7%、「分からない」と答へた人が27.4%だつた。これなども若い人の影響が大きいのだらう。「噴飯」の「噴」は「噴火」や「噴射」と言ふ言葉があるやうに、「パーッと出す」と言ふ意味だが、@と答へた人は、「憤慨する」の「憤」だと勘違ひしたのだらうか。

posted by 國語問題協議會 at 10:58| Comment(0) | 織田多宇人

2018年11月05日

希臘數學における無限(T)(36)

 前回の最後に、古代希臘人たちは、「無限を有限以上に價値のあるもの」とは理解しなかつた、と述べておきましたが、今回から希臘數學における「無限」について少し考へてみたいと思ひます。
 結論を先に言つてしまへば、希臘數學は現在の私たちが學校數學を通して學んだ「極限」や「無限」を注意深く、意識的に忌避してゐる、あるいはまだそれらを發見(發明?)してゐない、といふことです。これはこれまで述べてきた古代希臘の無限思想の當然の歸結と言ふうべきですが、私たちは、このことを十分自覺しておく必要があります。なぜなら、さうでなければ、29回目で述べたやうに、ほとんど徒勞かつ無意味とも思はれる中世の神學論争が、「極限」やカントルの「超限順序數」といった“到達不可能な存在”の純化と實体化を可能にしてきた、といふ歴史的經緯とその必然性が理解できないからです。私が、時代錯誤的な神學論争を無意味とは考へてゐないゆゑんで、獨斷的に言へば私はここに「劇的なる人間精神」を見るのです。
 下村寅太郎は『無限論の形成と構造』の中で次のやうに語つてゐます。
  近世は無限を有限以上のものとして理解する。實際に近世のわれわれは、實在的にも價値的にも無限を有限以上のものと解することに慣れてゐる。むしろこれを自明としてゐる。しかしこれは近世的な一つの理解であつて、現に古代においては、ギリシャ人は逆に無限を有限以下のものとして理解した。彼らにおいては無限はάπειρονとして、限定されてゐないもの、限界のないものであり、したがつて、形態のないもの、「形相」すなわち本質のないものである。
 さらに彼は、希臘語においてάπειρονは、初めも終わりもないものやある部分を他の部分から區別する境界や端点を有しないものを表し、文獻學者コーンフォードを援用しながら、「無限な圓、無限な球」(ホメロス)、「無限な指輪(=繼目のない丸い指輪)」(アリストファネス)、「無限な仲間(=祭壇の周りに丸く並んだ婦人たち)」(アイスキュロス)、「無限な生地(=縫目のない下着)」(エウリピデス)といふ言い方を紹介してゐます。いずれにせよ、これまで述べてきた「古代希臘の無限思想」を想起すれば、下村の言説は容易に納得できるかと思はれますが、それにしても私にとつて眞の問題は、「では、なぜ近世が無限を有限以上に理解するようになったのか」といふ問ひです。いづれこの連載で、この問ひを考へていきたいと思ひますが、先を急ぐのはやめませう。
 先ほど、希臘數學は注意深く「無限」を避けてゐる、と述べましたが、その最も典型的な例が、ユークリッド(前330年頃〜前275年頃)の『原論(ΣΤΟΙΧΙΑ)』の中に見られる有名な「平行線の公理(第5公理)」です。中學の幾何では、普通2本の平行な2直線は無限に延長しても交點(てん)を持たない
といふ風に教はりますが、實はユークリッドはこのやうな言ひ方をしてゐません。彼は、1直線が2直線に交わり同じ側の内角の和を2直角より小さくするならば、この2直
 線は限りなく延長されると、2直角より小さい角のある側において交わる
と述べてゐます。
20181105.jpg
すなわち、上図で「a+b<180°ならば、左側において2直線は交わる」と要請してゐるのです。「交点を持たない」ではなく有限な地点で「交点持つ」といふ表現で平行概念を述べてゐる點が注目すべきところです。さらに、「限りなく延長される」といふ言ひ方は、近世的な「無限延長」を意味してゐるのではなく、「限定されることなくどんどんと伸ばしていく」といふ意味であり、さうすると「限界付けられた有限な地点」において「交点をもつ」とユークリッドは主張してゐるのです。現代人の私たちからすると、かなり回りくどい表現ですが、むしろここに希臘數學の無限思想を讀みとることができるのです。
(河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 21:11| Comment(0) | 河田直樹

數學における言語(35)  古代希臘の無限思想(Y)

 古代希臘の無限思想を考へる場合、どうしても避けて通ることができないのが総総括までもなくアリストテレス(前384〜前322)です。彼は謂はば、古代希臘の無限思想の總括者であり、その具體的な言説は主に『自然學』によって知ることができますが、ソクラテス以前の哲學者からプラトンに至るまでの無限思想、哲學用語の定義、またアリストテレス自身の數學観なども述べた『形而上學』も參考になります。
 よく知られてゐるやようにアリストテレスは「無限」を「可能的無限」と「現實的無限」の2つに分類してゐますが、これは彼の「デュナミス(可能的存在)」と「エネルゲイア(現實的存在)」といふ哲學上の基本概念が反映されたものといふことができます。これらの言葉については『形而上學』第5巻第12章、第9巻第1章、第6章などで觸れられてゐます。「デュナミス」は「能力、可能性、可能態」といふ意味であり、「エネルゲイア」は「エンテレケイア(完全現實態)」に關聯した語で「現實活動、現實性、現實態」といふ意味で遣はれる、と述べてゐます。
 アリストテレスの“無限論”は『自然學』第3巻の第4章から第8章までに展開されてゐますが、彼は第4章の冒頭で「自然についての學は、大きさ〔空間的な広がり〕、運動、および時〔時間〕についての認識」であり、「これらの各々は無限なものであるか限られたものであるかのいづれか」であり、さらに自然の研究をする者の仕事は「無限なもの(アペイロン)について、果たしてそれが存在するか否か、また、それが存在するとすればその何であるか」を研究することだと記してゐます。そして、以下、ピュタゴラス、アナクシマンドロス、アナクサゴラス、デモクリトス、プラトン等の無限に關する言説をチェックし、さらに彼自身の無限論を展開して、第5章の最後に「現實態においては無限な物體は存在しない」と述べてゐます。ここで「無限な物體」といふ言葉が出てきますが、アリストテレスはこの言葉で「無限に大きな物體(限界を持たない物體)」を考へてゐたのでせうか。近代數學のフィルターを通した「無限」しか聯想できない私たちには、なかなか難しいところですが、ともかく「現實的無限は存在しない」と結論してゐます。
 第6章以降は、「可能的無限、潛在的無限」について考察されてゐて、結論を言へば、こちらの方の存在は認めてゐます。普通アリストテレスの場合、「可能的に存在する」とは、たとへば大理石を彫つてソクラテス像を造形した際、「大理石といふ質料(hyle)の中にソクラテス像といふ形相(eidos)が可能的に存在する」と考へますが、アリストテレス自身そのような考へ方をそのまま“無限論”に持ち込んではならない、と注意を促してゐます。實際、彼は第6章で以下のやうに記してゐます。
  無限なものが可能態においてある〔存在する〕といふのは、
そのやうにそれがやがて現實的に存在するにいたるであらうとの意味を含むものではない。(中略)けだし、一般に無限なるものは、その或る一つに繼いで他の一つがと絶えず相繼いでとられてゆく仕方で、ただし、とられてゆくその一つ一つは常に限られてゐるが、しかもその一つは常に他と異なつてゐるといふやうな仕方で、存在する。
 上の引用の“中略”以下の部分は、すでに30回目の連載でも紹介しましたが、要するに、空間や時間あるいは數は常に限界付けられた有限な大きさをもつ一定の形でしか存在せず、しかし、それを常に超え得るより大きなものが存在する、といふ意味でそれらは“無限”だ、とアリストテレスは主張してゐるのです。それが彼のいふ「可能的無限」ですが、端的に言へば、前回紹介した「アルキメデスの公理」のやうなものを思ひ描いていただければ、と思ひます。
 下村寅太郎氏は名著『無限論の形成と構造』で、近代人は「無限を有限以上に価値のあるもの」と理解するが、古代希臘人たちはさうではなかつた、と指摘されてゐます。希臘の無限思想を考へる場合、私たちは「無限、有限」といふ言葉自體をもう一度反省し、吟味してみる必要があつたのです。
posted by 國語問題協議會 at 18:56| Comment(0) | 河田直樹