2019年03月02日

日本語ウォッチング(13)  織田多宇人


嫌悪感を感じた
「嫌惡感を感じた」、「好感を感じた」、「連帶感を感じた」、「親近感を感じた」と言ふやうな表現に接すると、氣になつて仕方がない。日本語では同じ言葉の繰返しを避けるのが一般的だ。先程の例であれば、「嫌惡感を覺えた」、「好感を抱いた」、「連帶感を覺えた」、「親近感を覺えた」あるいは「親近感が湧いた」と表現して貰ひたい。
翻譯もので「ポールはまたもや孤獨感を感じた」と言ふのがあつたが、「孤獨感に襲はれた」とでも言ふべきだらう。譯者はかう書く事で何か特別な效果を出せると思つたのか、それとも單なる日本語の表現力の問題か。

posted by 國語問題協議會 at 10:43| Comment(0) | 織田多宇人

2019年03月01日

春のやよひ 慈鎮和尚

春のやよひ 慈鎮和尚
一 春のやよひのあけぼのに  四方の山べを見わたせば
花盛りかもしら雲の かからぬ峰こそなかりけれ

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2019年02月23日

ほとけ心 (その四)  原山建郎

6.「他人の過失をみるなかれ、自分の
したこと、しなかつたことだけをみよ」
日本佛教學の泰斗、中村元(なかむらはじめ)さんの著書『佛教のことば 生きる智慧』(主婦の友社、1995年)から、初期に成立した佛典「ダマパンダ(法句経)」の一節と解説を紹介します。
中村さんは、初期佛教の経典を記したインドの古代語(サンスクリつト語=文語、パーリ語=俗語)に精通してをり、多くの佛典などの解説や翻譯に力を盡くされ、譯書にできるだけ分かりやすい表現を用ゐることでも知られてゐます。

たとへば、サンスクリつト語のニルヴァーナ、同じ意味をあらはすパーリ語のニつバーナを、佛教専門用語の「涅槃(ねはん)」と譯さずに、「安らぎ」と譯したことがあげられます。中村さんはその譯注に「ここでいふニルヴァーナは後代の教義學者たちの言ふやうなうるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によつて得られる樂しい境地といふほどの意味であらう。」と書いてゐます。

さて、「他人の過失をみるな」と題する一文です。
【他人の過失を見るなかれ。
他人のしたこと、しなかつたことをみるな。
ただ、自分のしたこと、しなかつたことだけをみよ。
出典:ダマパンダ五〇

わたしたちは、他人の過失にはよく氣がつく。隣人や友人がどんなことをいつたか。どんなことをして自分に迷惑をかけたか。いかに約束を守らなかつたか……。さういふことには常に敏感で、しばしば陰口や不平をいふものである。これにたいして、自分がしたことを正確にみることを、わたしたちは苦手とする。
わたしたちはまた、ものごとが自分の思ひどほりにならなかつた場合に、責任を他に転嫁しがちでもある。
たとへば、「わたしが遲刻したのはバスが遲れたせいです」などと、しばしばいひわけする。しかし、交通澁滯の多い時間帯では、バスが遲れるのはむしろあたりまへで、約束の時間に着くためにもつと早いバスに乘るか、地下鐵などの他の交通手段を利用するかすべきなのである。
自分がそれらのすべきことをしなかつた、といふ反省はつらく、苦しいもので、わたしたちは往々にしてしなかつたことをみることを避けてしまふ。それをブッダはしつかりとみるやうにと嚴しく説くのである。
その反面、このことばは限りない勇気を與へつづけてくれることばのやうに思はれる。
ブッダは、自分がしたこととしなかつたことだけをみるやうに言つてゐる。これはすなはち、行爲を問題にしていることばである。
原始佛教時代の佛教徒にとつていちばん大切なのは、人がどのような行爲をしたかといふことだつた。人は、自分の人間としての正しさを、生まれや家柄によつてではなく、みづから行ふ行爲によつて證明しなければならなかつたのである。何をどれだけもつているかなどは問題にならない。自分がしたことだけが問はれたといふことは、何とさはやかなことだらう。他人を批判することのみ多い現代の日本人が、いまだに學歴にこだはつたり、拝金主義にとらはれたりして生きている姿に深い反省を迫ることばでもあるやうだ。】
(『佛教のことば 生きる智慧』32~33ページ)
(武藏野大學非常勤講師)
posted by 國語問題協議會 at 18:03| Comment(0) | 原山建郎