2018年08月24日

つたへる・つたはる(30) 書き・話しながら考へ、考へながら書く・話す技術。 原山 建郎

書き・話しながら考へ、考へながら書く・話す技術。
私たちが文章を「書く」ときは〈書きことば〉の腦で考へ、〈書きことば〉で考へながら文字を書く。文章を「読む」ときも、「書く」ときもやはり〈書きことば〉のパターンで考へる。一般的に、ビジネス文書で用ゐる〈書きことば〉では、意味(情報)の傳達を容易にする漢字熟語(漢語)を重視する傾向がある。
一方、だれかと「話す」ときは〈話しことば〉の腦で考へ、〈話しことば〉で話しながら考へてゐる。だれかの話を「聞く」ときも、やはり〈話しことば〉の腦で「聞く」。正確な情報の共有が求められる交渉や契約などでは、もつぱら〈書きことば〉ふうの〈話しことば〉、つまり漢語の多い會話にならざるを得ない。それでも、交渉が終はつたあとのくつろいだ酒席では、ざつくばらんな〈話しことば〉のやりとりになる。

大學の授業(文章表現)で、「書くよりは、話すはうが得意です」、あるいは「話すのが苦手なので、書く方が樂です」と惱みを訴へる學生に對して、まづ「話す方が得意な人はまづ、話すやうに文章を書いてみる。そのあとで、書きことばを意識して文章を調へる」、「書く方が樂な人はまづ、話したい内容を文章にしてみる。そのあとで、コンパクトな話しことばに變換する」とアドバイスをしたあと、「文字の〈書きことば〉と、會話の〈話しことば〉では、腦の思考回路に微妙なちがひがある」ことを追加した。

たとへば、私が文章を書く場合には、その直前に書いた文章を記憶の片隅に入れながら、そのとき頭に浮かんだ文章(1センテンス=40〜80字程度)を文字に記すのだが、ほとんど同時に、次に書かうとする文章(1センテンス=80〜120字程度)を頭に思ひ浮かべる。つまり、近過去(すでに)・現在(いま)・近未來(これから)といふ、三本の思考回路を同時に並行させながら、私たちは文章を書いてゐる。
このとき、いま(現在)書きつつある、あるいはこれから(近未來)書かうとする〈書きことば〉が、すでに(近過去)書かれた〈書きことば〉の文脈(文章の論理的なつながりぐあひ)と合はなければ、前後の文脈に沿つた〈書きことば〉に書き直す修正作業は、その文章を提出する前であれば何度でも可能である。

ところが、私がだれかと會話する場合には、相手の表情を見ながら頭に浮かんだメッセージ(文字数にして40〜80字程度)を瞬時に變換した〈話しことば〉を口にしながら、ほとんど同時に、次に話さうとするメッセージ(80〜120字程度)を構想しながら、次の〈話しことば〉を口に送り込まうとしてゐる。
ここで、〈書きことば〉の制作プロセスの場合と異なるのは、その直前に口をついて出た〈話しことば〉が相手に届く先から、次々に腦の「記憶」エリアから消えていくことである。
ところが、かつて大學での授業中に面白話で脱線したまではよかつたが、いざ脱線前に戻らうとしてもその「記憶」が飛んでしまひ、「どこまで話したつけ」と學生に尋ねたら、「脱線したままでお願ひします」と言はれてしまつたときの「記憶」だけは、いまも残つてゐる。

さて、〈話しことば〉とは口語(口頭言語)、〈書きことば〉とは文語(文字言語)のことである。文末が「です。」「ます。」「でした。」「ました。」で終はる「です・ます」調の文體は、讀む人がやはらかな丁寧さを感じる。文末が「である。」「だ。」になる「である」調は、堅苦しく改まつた感じを受ける。
また、日本語の文體は、大きく普通體(常體)および丁寧體(敬體)の二種類に分かれる。日本語を母語として育つた私たち日本語話者は、日常生活の中で無意識に、この二つの文體をうまく使ひ分けてゐる。「文體」の意味を廣辞苑で調べると、「文章のスタイル。語彙・語法・修辭など、いかにもその作者らしい文章表現上の特色」とある。「文體」を理解するポイントは、何よりも書き手の「らしさ」にある。

さて、〈話しことば〉と〈書きことば〉とでは、どちらがより書き手(語り手)の「らしさ」が傳はつてくるだらうか。同じ著者による〈話しことば〉と〈書きことば〉を味はいながら、話し手(書き手)から聞き手(読み手)に傳はるものを比較してみよう。
◎演出家・竹内敏晴さんの話しことばも書きことばも、ともに長めのセンテンスだが、とくにお茶の水女子大學教授・宮原修さんとの對談は、語り手の息繼ぎを意識した(句讀點による)息づかひのリズム感が傳はつてくる。
☆話しことば(對談=ですます調)←『教師のためのからだとことば考』(竹内敏晴著、ちくま学芸文庫、一九九九年)
わたしにとつてのことばつていふのは、さういうふうにまず第一に、ほんとうに人が人に働きかけられるかといふ、一つの、なんて言ふのかな、証しであつて、かういふ話をしてしまへば、結論つていうか、はつきりするわけだけれども、わたしにとつては、ことばつていふのは文章ではなくて、まず第一に話しことばなわけです。 
(同書190ページ)
★書きことば(である調)←『「からだ」と「ことば」のレッスン』(竹内敏晴著、講談社学術文庫、一九九〇年)
からだが動かうとしても、これでは「動くな!」と後ろに引つぱられてゐるみたいだと言ふ人がある。意思としては話しかけよう、目當ての人とつながらう、としてゐるのだらうが、からだは行かないで、とひきとめてゐる。これでは聲は前へ行けないな。まづ手を解き放ち、相手の方へ「手を出し」「足を出し」て、からだ全體が動き始めなくては、声が届くはずがない。      
(同書32〜33ページ)
◎西岡常一さんは、祖父も父もそしてご本人も三代續いた法隆寺棟梁(宮大工)。「法隆寺の棟梁がずつと受け繼いできたもんです。文字にして傳へるんではなく、口傳です。文字に書かしませんのや。百人の大工の中から、この人こそ棟梁になれる人、腕前といひ、人柄といひ、この人こそが棟梁の資格があるといふ人にだけ、口を持つて傳へます」といふ「話しことば(聞き書き)」をそのまま起こした「獨特の語り口」と、それを「ですます調」にまとめ直した「標準語(東京辯)」とでは、こんなにも違ふものかと、われとわが目を疑つてしまふ。
☆話しことば(聞き書き、獨特の語り口尊重)←『木のいのち 木のこころ』(西岡常一・小川三夫・塩野米松著、新潮文庫、一九九三年)
昔はおぢいさんが家を建てたらそのとき木を植ゑましたな。この家は二百年は持つやろ、いま木を植えておいたら二百年後に家を建てるときに、ちょうどいいやろといいましてな。二百年、三百年という時間の感覚がありましたのや。今の人にそんな時間の感覚がありますかいな。 
 (同書23ページ)
★書きことば(聞き書き、ですます調まとめ)←『法隆寺を支えた木』(西岡常一・小原二郎著、NHKブつクス、一九七八年)
法隆寺の建物は、ほとんどヒノキ材で、主要なところは、すべて樹齢一千年以上のヒノキが使はれてゐます。そのヒノキが、もう千三百年を生きてビクともしません。建物の柱など、表面は長い間の風化によつて灰色になり、いくらか朽ちて腐蝕したように見えますが、その表面をカンナで二〜三ミリも削つてみると、驚くではありませんか、まだヒノキ特有の芳香がただよつてきます。       (同書53ページ)

◎神戸女子学院大学名誉教授、合気道六段・居合道三段・杖道三段という武道家の顔も持つ、硬派の論客・内田樹さんには、ブログ「内田樹の研究室」に書かれた文章をテーマ別に「切り貼り」したコンピレーション(compilation)本が多い。ブログでは「である調」だつた文體が、『街場のメディア論』(光文社新書)では「ですます調」になつてゐる。
★書きことば(である調)←『内田樹の研究室』(二〇一二年六月一八日發信のブログ)
自然災害であれ、人間が發する邪惡な思念であれ、それが私たちの生物としての存在を脅かすものであれば、私たちはそれを無意識のうちに感知し、無意識のうちに回避する。
たしかにそのやうな力は私たち全員のうちに、萌芽的なかたちで存在する。だが、それを計測機器を用ゐて計量し、外形的・數値的に「エビデンス」として示すことはできない。                    
 (「直感と医療について」)
☆書きことば(ですます調)←『街場のメディア論』(内田樹著、光文社新書、二〇一〇年)
マスメディアの凋落の最大の原因は、僕はインターネつトよりもむしろマスメディア自身の、マスメディアにかかはつてゐる人たちの、端的に言へばジャーナリストの力が落ちたことにあるんぢやないかと思つてゐます。 
 (同書38ページ)
〈話しことば〉には和語(やまとことば)が息づき、〈書きことば〉では漢語(漢字熟語)が呼吸する。
(『ゴム報知新聞』電子版 (2017年4月11日))

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2018年08月18日

一口話(一)   雁井理香

1.戦前の日本海軍の「連合艦隊」を「聯合艦隊」と書いてあるのをごらんになつた記憶のある方もいらつしやるでせう。たいていの方は「連」が新漢字(略字)で、「聯」が舊漢字(正字)だと思つていらつしやるやうですが、さうではないのです。
 實は、「連」と「聯」は別字です。「連」は「もしくは縦に、まつすぐ一本につながつてゐる」(一次元的)様子を表し、「聯」は「四方八方とのつながりがある」(二次元的)様子を表してゐます。戦前はちやんと使ひ分けてゐたのに、敗戰後當用漢字を定めた際に、區別をやめて、いはば「聯」を「連」に吸収させてしまつたのです。
 「連続」は「連」、「聯合」は「聯」です。「連續」は「一本につながつている」、「聯合」は「四方八方から呼び寄せて一緒になる」といふニュアンスがお分かりになるでせう。因みに、戰前の「國際レン盟」は當時は「國際聯盟」と書いてゐました。「國際レン合」は一九四五年に結成されたときには、「國際聯合」と書いたのに、その後當用漢字で漢字の使用が制限されたために「国際連合」になりました。
 「国際連合」のことを英語ではthe United Nationsと言ひますが、これは戰時中の「連合國(聯合國)」のことです。連合國がそのまま國際連合になつたので、歐米人の意識としては、「連合國」と「國際連合」は同じものなのです。だからこそ、「敵國條項」といふのがあつて、戰時中に連合國に敵對した日本などは、いまだに差別待遇を受けてゐます。
 中國語では、「連合國」も「國際連合」も「聯合國」と呼ぶのが面白い所です。台湾ではこの漢字(正漢字)のままですが、大陸では簡体字を使ひます。
 ただ、「連」も「聯」も發音は同じ(lianリェン)で、聲調(四聲・アクセント)まで同じですから、もともとは同じ單語だつたのかも知れません。
posted by 國語問題協議會 at 14:41| Comment(0) | 雁井理香

2018年08月13日

日本語ウォッチング(4) 會議を持つ 織田多宇人

會議を持つ
「會議を持つ」といふ言ひ方は英語の直譯から來た表現であらう。國語では、會議は「開く」ものである。言葉と言ふものは時代によつて動いて行くものだし、古くは漢文の訓讀によつて特殊な言ひ囘しなども固定した例があるから英語の翻譯によつて變つた表現が作られ、それが新鮮に感じられたりして次第に用ゐられるやうになるのだ、と言へばそれまでのことである。
しかし、素晴らしい翻譯文に會ふと嬉しくなる。米原万里氏の『不実な美女か貞淑な醜女か』にこんな文章があつた。「來年度の日本のGNP成長率は四%前後になります」と言ふ發言に對して、「Oh, it’s too optimistic!」と言ふ反應があつた場合、田中さんは決してこれを「それは、餘りに樂觀的過ぎます」なんてこなれない日本語に置き換へたりせずに、「讀みが甘過ぎませんか」と譯してくれるのだから、舌を卷く。
posted by 國語問題協議會 at 10:01| Comment(0) | 織田多宇人